
(我が家の『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
NHK Eテレの『100分de名著』、4月の放送は村上春樹さんの長編小説、『ねじまき鳥クロニクル』です。
すでに、第一回、二回放送が終了してしまいましたが、個人的には外せない村上春樹作品。
遅ればせながらブログに記していきたいと思います。
(見逃した方はこちらから)
まず、第一回放送を視聴した際、番組が始まってすぐに目に飛び込んできた映像に、「おおっ!」と小さな感嘆の声を挙げてしまったのが、ブログ冒頭画像の『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の書籍。
河合隼雄先生と村上春樹さんのこの対談集が、番組で取り上げられる著者の作品を陳列するテーブルの上に並べられていたのです。
(三冊の『ねじまき鳥クロニクル』の本の後ろに。私が持っているブログ画像の文庫本ではなく、サイズの大きい単行本です)
その後届いたテキストを読んで納得。
『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の内容が引用されている箇所がありました。
(引用されていたのは第4回部分のページでしたので、もしかしたら第四回放送で、この対談集についてなにかしらの言及がされるのかもしれません)
また、河合隼雄先生の名前が出た数ページ後には、ユングの紹介もされていました。
そして、ユングが提唱した「集合的無意識」と『ねじまき鳥クロニクル』で重要なモチーフとして登場する「井戸」との関連性についても説明されていました。
村上春樹作品とユング心理学については、以前のブログでも少し触れました。
その時に書いたことは、この『ねじまき鳥クロニクル』で表現されていることそのものとも言えます。
(当時、それを念頭に置いて書きました)
テキスト内では指南役の沼野充義先生が、『ねじまき鳥クロニクル』という物語が表している「無意識」についてこのように説明されています。
『ねじまき鳥クロニクル』における井戸は、物理的には地下の闇に降りていくための、比喩的には人間の無意識の世界に降りていくための装置です。
そして村上は、人間の無意識からさらに歴史につながっていく回路を見出しています。
無意識とは、フロイト的に言えばあくまでも個人のトラウマや経験、性的欲望といったものが中心になりますが、村上の見立てではさらに深い層がある。
それは、河合隼雄にならって心理学的な言葉で言えば、ユングが提唱した「集合的無意識」だと言えるでしょう。
集合的無意識は、個人の経験を超えて、ある集団や民族、人類が普遍的に持っているとされる無意識の領域のことです。
(略)
井戸のモチーフは村上の物語論にもつながっていきます。
人間の集合的無意識に触れるようなところまで掘っていかなければ、本当の物語を書くことはできない。
村上はそうした思いで書いていると思います。
少し話がそれますが、第二回放送で、今年始めに逝去した映画監督の「デイヴィッド・リンチ」の名前が出ていました。
司会の伊集院さんが、『ねじまき鳥クロニクル』のある箇所が紹介された際、それが「デイヴィッド・リンチ的、『イレイザーヘッド』的」であるとの感想を述べられていました。
それを受けて沼野先生は、「人間の奥底に潜んでいるなにか、わけの分からないものを掴みだして引き出してしまう」という表現で説明されていました。
この「人間の奥底に潜んでいるなにか、わけの分からないもの」が「人のこころの無意識」であることは、ユング派で説明されているのみならず、ちょうど一年前の『100分de名著 夢判断』の放送で指南役として登場された立木康介先生も、このように述べられていました。
人間の無意識は本来、見るに堪えぬおぞましさの樹海のような場です。
『ねじまき鳥クロニクル』や『イレイザーヘッド』では、まさに“おぞましい”という表現がぴったりの場面が出てきますが、それこそが「無意識」を表わしているのだと捉えると腑に落ちます。
そして、『100分 de 名著 西田幾多郎』のブログ記事で取り上げた賢者が口を揃えて語った“危険性”とは、そのことを差しているのであろうと私は思います。
さらに話がそれますが、テキストを読んで興味を惹かれたのが、「ルーマニア出身の宗教学者ミルチャ・エリアーデ」。
「ヒエロファニー(聖なるものの自己開示)」という概念があるそうです。
世界は謎や奇跡に満ちているが、それは普段は隠されていて目に見えない。
ところが、何らかの特権的な時空間においては開示される。
それがヒエロファニーで、あらゆる宗教的経験はヒエロファニーを伴うものであると彼は言っています。
【沼野充義】
過去のブログ記事で取り上げた内容と通底しているものを感じました。
さらに、この度改めて目を通した『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』の中で、河合隼雄先生がこのように述べられていることを再確認しました。
一般に超常現象と呼ばれることは、すべてとは言えないが、ある種のものは存在している。ちなみに村上春樹さんは、
しかし、それは一回限りのその人にとっての真実であることが多い。
そのときに体験したことを体験者がそのまま語っても信用されなかったり無視されたりすることが多い。
その体験そのままではなく、体験によって自分の内に生じたことを、他の人たちに伝えようとすると「物語」に頼らざるを得ないのではないか。
小説では超常現象とか超現実的なことを書くのですが、現実生活ではそういうものを基本的に信じていないのです。と同書で語られています。
まったくないとも信じてないけど、あるとも信じていない。
(略)
ただ、このあいだ非常に奇妙な経験をしました。
番組内では沼野先生が「静かな啓示」と言われていましたが、“そのようなもの”なのだと思います。
ここを勘違いしてしまうと、無意識に足をすくわれる危険性が出てくるので、村上春樹さんのような姿勢が大事なのだと思われます。
おぞましさの反面、啓示をもたらしてくれる恩寵も“無意識”なのですから、そこに向き合うことになったとき、各々の自我の在り方が試されることを改めて考えさせられました。
放送はまだあと第三回、四回と続きます。
とても楽しみです。
またなにかについて書きたくなったら、続きを記そうと思います。
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