今日も、1/31以降の記事の内容に続きます。


ボーム博士が量子もつれを説明するために定義した 宇宙全体からの力”
それは、「まだ発見されていない新しい力」であることを前提としていたそうです。
『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』


私はそれを、種々の宗教がいうところの“神”、仏教の“無”や“空”、ユング心理学の“Self”、西田幾多郎がいう“真の人格”や“意識の統一力”、と同義ではないかと理解しました。


しかし、そのような「分からぬ」概念を物理学の世界に持ち込もうとしたボーム博士は、
師匠のオッペンハイマーからも「子供じみた逸脱」だと非難され、勤めていたプリンストン大学も追われて、不遇の日々を過ごすこととなった。
そうです。


結果的に物理学界では何十年もかけて、後進者たちに受け継がれた研究と実験の結果、「量子もつれ」の存在を認めることとなりました。




一方、ユング心理学や西田幾多郎の哲学などは「実証不可能」な理論であるがゆえ、“オカルト” と最初から切り捨てる意見もあるようです。

しかし、ユングは「自分は経験論者である」と主張していました。


また、西田幾多郎もこのように言っています。
真の自覚は意志の体験其者でなければならぬ。即ち意志自由の自覚にあるのである。

いわゆる純粋経験論者の如く、直接の経験においては未だ主客の区別ない単に経験という如きものがあって、それらのものが後に如何に相関係するにせよ、その時においては有限なるものとも考え得るであろう。

(略)意識の背後には、これを包み、これを限定する意識がなければならぬ。
いわゆる意識の根柢には、主客合一の意識即ち直観があり、純粋活動の意識がある、いわゆる意識はこの立場の上において成立するのである。
真に与えられた直接経験とか、純粋経験とかいうべきものは、此の如き意味において無限の内容を含んだものと考えねばならぬ。
我々がこの深底に入込めば入込むほど、そこに与えられた現実があるのである。

                       『直接に与えられるもの』
「真の自覚は意志の体験其者でなければならぬ」「純粋経験論者」と言っている西田幾多郎本人が、自身がその経験を持たず、ただ思考のみで自らの哲学を作り上げたとは私にはどうしても思えません。

自分自身が「純粋経験の体得者」であるからこそ、はっきりとそのような経験について断言できたのではないでしょうか。


『善の研究』でもこのように記しています。


真の宗教的覚悟とは思惟に基づける抽象的知識でもない、また単に盲目的感情でもない、知識および意志の根柢に横われる深遠なる統一を自得するのである、即ち一種の知的直観である、深き生命の捕捉である。
故にいかなる論理の刃もこれに向うことはできず、いかなる欲求もこれを動かすことはできぬ、凡ての真理および満足の根本となるのである。

善を求め善に遷るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。
(略)この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。

意識の統一力なる者は決して意識の内容を離れて存するのではない、かえって意識内容はこの力に由って成立するものである。

(略)綜合の上に厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである
(それは)分析理解すべき者ではなく、直覚自得するべき者である。

人格はその人その人に由りて特殊の意味をもった者でなければならぬ。
真の意識統一というのは我々を知らずして自然に現われ来る純一無雑の作用であって、知情意の分別なく主客の隔離なく独立自全なる意識本来の状態である。

                       【西田幾多郎】『善の研究』




ユングは、
知りえないことについて思索を巡らすのは、あまり価値のあることではない。
したがって私は、科学の限界を超えて主張するのは控えたい。
                〔意識、無意識、および個性化プロセス〕
という態度を前提として、心的現実 について論じています。

あくまでもユング自身が、またクライエントの事例などを通して、実際に体験した事実について、それを心理学者の立場から「無意識を含めたこころの事象」として捉え、考察したのです。


〈大いなる神秘〉はただ現実に存在するだけでなく、何よりまず人間のこころに根ざすものであることがいまだ理解されていないのだ。
経験をとおしてこれを理解しない者は博学な神学者になろうとも(略)まったくの無知なのである。

私はいく百もの経験からたましいが幻どころか反対に教義が公式化しているすべてのことがらと等価なものを含んでおり、さらにそれを超えるものまで含んでいることを知っている
これこそ、光を認めるように定められた目に、たましいがなることを可能にするものなのである。
光を認めるには、かぎりのない広がりと測りがたい視野の深さが要求される

                   【C・G・ユング】「心理学と錬金術」

宗教経験が存在するということは、もはや証明を必要とはしない

宗教体験をしたものは、誰であれ皆それに〈とらえられ〉、したがって実りの少ない形而上学的、認識論的な考察に無駄な時間を割こうとする姿勢をもつことさえない
絶対的な確かさはその経験自体が証拠であり、擬人的な証明を何ら必要としないのである。
                     【C・G・ユング】 『現在と未来』



個人の「こころ」から発生する宗教的体験について、西田幾多郎は、「いかなる論理の刃もこれに向うことはできず」「分析理解すべき者ではな」く、「厳然として動かすべからざる一事実として現われる」と言っています。

ユングは、「もはや証明を必要とはしない」「絶対的な確かさはその経験自体が証拠」である、と言っています。

(そのような特殊な体験について、過去にはこちらの記事でも触れています)





過去記事『精神現象学』で引用した、夏目漱石が『三四郎』の中でヘーゲルのことを「真を体せる人」と表現したのも、これらと同等のことを指しているのではないかと私は考えています。

そして、そのように書ける夏目漱石自身も「経験者」なのだと、漱石の著作そのものが表しているようにも思います。(漱石には“自動筆記”の逸話があるそうです)






『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』 の番組内で、量子もつれ研究者が、
「基本的に私たちは奇妙な連中だと思われていました」と語っておられました。


そのような「奇妙な道」を進んだ、ボーム博士をはじめとする研究者や先人たちの軌跡について、次回は書いてみたいと思います。





【引用テレビ番組】
NHKスペシャル:『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』  NHK(2024-12-28)

【引用文献】
西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集〈1〉場所・私と汝 他六篇 (岩波文庫)』岩波書店(1987-11-16)
西田幾多郎『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』岩波書店(1979-10)
C・G・ユング『エセンシャル・ユング: ユングが語るユング心理学 創元アーカイブス』創元社(2021-09-07) 
※実際の引用書は1997年版
C・G・ユング『現在と未来 (平凡社ライブラリー)平凡社 (1996-11-13)