昨年の暮れも押し迫った12月28日。
NHKスペシャルで、個人的に非常に興味を惹かれる内容が放送されました。
タイトルにあるように “量子もつれ” に関する内容で、もちろんその知識など無きに等しいにも関わらず 「絶対に観たい」と録画予約をした理由は、以前書いたブログ記事に通ずる関心を常々持っていたからです。
今日の記事は、この『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』に添って書きます。
未視聴の方は、NHKオンデマンドで観ることが可能です。
さて、番組冒頭から次のような壮大なテーマが投げかけられます。
少し進むとこのようなテロップも表示されました。
“量子もつれ”の詳細については番組を視聴していただくこととして、その内容を引用して概要に触れると、
そして私が衝撃を受けたのは、その“量子もつれ”を研究している中心的な専門家の方々が、はっきりとこう述べられていたことでした。
長きにわたる研究者たちの苦難に満ちた取組みにより、 “量子もつれが存在する確率は、限りなく100%に近いことが実験により証明された” にもかかわらず、その現象が起こる要因については全く「分からない」のだそうです。
先述のジョン・クラウザー博士はこのようにも言っておられました。
その現象は確認できるのに、どうしてそれが「起こるのか」は分からない。
量子の世界は謎に包まれている、というのです。
続いて番組からの引用です。
そして、ボーム博士はこのような言葉を残されていました。
実験による証明が不可避な学問である物理学の世界で、非科学的な
「宇宙全体からの力」などというボーム博士の理論は、「ひどく馬鹿げている、机上の空論」だと、当時の物理学者たちからは軽蔑に満ちた批判が相次いだ
そうです。
しかし、そうとでも仮定するほかなかったのではないでしょうか。
ユングはこう言っています。
また、ボーム博士の「宇宙全体からの力」に呼応するような考え方を、ユングはこのように説明しています。
続いて、著者の渡辺学先生の説明です。
アントン・ツァイリンガー博士も、広い視野を持つ必要性を番組内で語られていました。
西田幾多郎は「(一般的な)物理学者のいう世界は実在しない」と言っています。
物や、一般的にいう世界が、はじめから「実在している」という我々の常識は絶対ではない、というのです。
上記のカントの考え、「我々が直覚の雑多を統一した時、対象を認識する」、またユングの「心即体験世界」は、前述した番組内での量子の説明(見ていない間は何が起きているかよく分からず、見られた瞬間にいる場所がはっきりと分かる)をはじめ、過去記事の「ただ一つのもの una res」でも取り上げた内容に対応していると思われます。
西田幾多郎の『種々の世界』の続きをもう少しご紹介します。
ユングの考え方と一致しています。
番組終盤には、現在は「ホログラム宇宙論」という仮説が生まれ、研究されていると紹介されていました。
上記の西田幾多郎の「主観と客観は一つの実在の両極」や、「無意識的なものはすべて投影される」というユングの論に、関連性を見出さずにはいられませんでした。
続きを、また書こうと思っています。
NHKスペシャルで、個人的に非常に興味を惹かれる内容が放送されました。
タイトルにあるように “量子もつれ” に関する内容で、もちろんその知識など無きに等しいにも関わらず 「絶対に観たい」と録画予約をした理由は、以前書いたブログ記事に通ずる関心を常々持っていたからです。
今日の記事は、この『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』に添って書きます。
未視聴の方は、NHKオンデマンドで観ることが可能です。
さて、番組冒頭から次のような壮大なテーマが投げかけられます。
宇宙はどうやってできているのか
私たちの見ている世界は、本当に実在するのか?
少し進むとこのようなテロップも表示されました。
テレポーテーションは可能なのか存在や意識はどこから来るのか
“量子もつれ”の詳細については番組を視聴していただくこととして、その内容を引用して概要に触れると、
量子は、見ていない間は何が起きているかよく分からず、見られた瞬間にいる場所がはっきりと分かる。そのような、非常に奇妙な現象だというのです。
目を離した瞬間、見ていた月はそこに存在していないかもしれない。
量子もつれがあれば、私たちが当たり前に考えてきたことが全て覆ってしまうことになる。
そして私が衝撃を受けたのは、その“量子もつれ”を研究している中心的な専門家の方々が、はっきりとこう述べられていたことでした。
私は量子もつれを全く理解できていません。
【2022年 ノーベル物理学賞受賞 ジョン・クラウザー博士】
いまだにわからないのは、量子もつれがなぜ起きるのかということだ。
なぜ宇宙はこんなにも奇妙なのか、それはまだ誰にもわからない。
【2022年 ノーベル物理学賞受賞 アントン・ツァイリンガー博士】
量子もつれは『宇宙とは何か?』という私たちの理解を揺るがすものだ。
【量子研究者 】
長きにわたる研究者たちの苦難に満ちた取組みにより、 “量子もつれが存在する確率は、限りなく100%に近いことが実験により証明された” にもかかわらず、その現象が起こる要因については全く「分からない」のだそうです。
先述のジョン・クラウザー博士はこのようにも言っておられました。
量子力学はとてもミステリアスだった。単純に理解できなかった。
なぜ理解できないのかも理解できなかった。
その現象は確認できるのに、どうしてそれが「起こるのか」は分からない。
量子の世界は謎に包まれている、というのです。
続いて番組からの引用です。
アインシュタインは、“宇宙の全ての現象には原因があって、結果があり、その過程も明確なはずだ” とし、“理由のないシンクロなんてあるはずがない” と信じていた。
しかし、非常に優秀だったイギリスの物理学者デビッド・ボームは、「宇宙全体からの力という概念」を持ち込めば、量子もつれを説明できるとした。
そして、ボーム博士はこのような言葉を残されていました。
私はこの問題には科学を超えた何かが必要だと感じ始めた。
私自身、そして多くの人たちの科学への興味は、宗教や哲学への興味の背後にあるものと切り離せない。
それこそが全宇宙やあらゆる物質、そして私たちの起源を理解するということなのだ。
【デビッド・ボーム】
実験による証明が不可避な学問である物理学の世界で、非科学的な
「宇宙全体からの力」などというボーム博士の理論は、「ひどく馬鹿げている、机上の空論」だと、当時の物理学者たちからは軽蔑に満ちた批判が相次いだ
そうです。
しかし、そうとでも仮定するほかなかったのではないでしょうか。
ユングはこう言っています。
共時性は物理学における非連続性ほどにはわけのわからぬ、ないしは神秘的なものではない。
ただ、因果律の卓越した力に対する深い信仰心によって、知的な困難が生じ、原因のない事象が存在し、また存在したということを考えられないこととしてしまうのである。
因果的な説明の欠如のために、意味のある配列として考えねばならなくなる。
しかしながら、(略)それらの「説明不可能性」は、その原因がわからないという事実によるのではなく、原因が知的な言葉では考えることすらできないことによる。
本書を読まれた方は、おそらく奇異の念を抱かれるにちがいない。
というのは、一般に、
「無意識というものは内面の問題であって、それは心の深層に〈存在〉していて、外面的な世界とは別個なもののはずで、世界とははっきりと区別されるべきであるし、心の深層を分析するのがまさしく深層心理学にほかならない」という一般常識を、本書が覆しているからである。
本書で、ユングの理論的な枠組の中では、「心即体験世界」であることを明確にした。
これはむろん、きわめて重大な視点の転回を意味する。
裏を返せば、「心とは体験世界である」という「同一心理学」における無意識論とは、体験世界を「私(自我)ならざる私(非我)」として読み解くための解釈枠であることを意味する。
広い意味での心が、地平としての心つまり体験世界にほかならないと考えること、そして、非我が私の隠された姿(無意識の心の現われ)であると認めること―
ユングは、無意識的なものはすべて投影されると述べている。
シェリングは、「精神」とは「見えない自然」であり、「自然」とは「見える精神」であると述べている。
これにならえば、ユングにとって、「心」とは「見えない体験世界」であり、「体験世界」とは「見える心」である。
何も上に天を仰いだり、下に大地や冥界を求めることはない。
異界のとば口は目の前にもあるのである。
【渡辺 学】
また、ボーム博士の「宇宙全体からの力」に呼応するような考え方を、ユングはこのように説明しています。
これらの経験〔超心理現象〕は、問題の要因〔元型〕が心の内側でも外側でも同一のものであることを示しています。
あるいは、言い換えれば、集合的心には外側はないのです。
通常の精神状態においては、われわれは時間と空間の内にあり、分離した個人的な心の枠内にあります。
しかし、元型の状態においては、われわれは集合的心の中にあり、時空のカテゴリーが相対的ないし絶対的に撤廃された世界体系の中にあります。
続いて、著者の渡辺学先生の説明です。
ユングは、「普遍的無意識」と呼ばれうるような究極的な統一体としての無意識を考えていたといえよう。
そのとき、共時性とは、「宇宙、つまり、一なる世界 unus mundusにおけるすべてに浸透している要因ないし原理」なのである。
そして、ユングにおいて、一なる世界とは、小宇宙としての人間と大宇宙としての世界の根底にある集合的無意識を意味したのであった。
このレベルにおいては、心と世界とは唯一不二なものにほかならない。
アントン・ツァイリンガー博士も、広い視野を持つ必要性を番組内で語られていました。
この(量子もつれの)問題は長い間物理ではなく、哲学の問題だと考えられてきました。
(略)
私たち人類は世界に対する見方を変えなければならない。
西田幾多郎は「(一般的な)物理学者のいう世界は実在しない」と言っています。
物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。
我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。
ただ我々をして物理其物の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。
『善の研究』
物や、一般的にいう世界が、はじめから「実在している」という我々の常識は絶対ではない、というのです。
(略)我々は普通に考えているような「物を知る」という考をも変じなければならぬ。
常識では我々の心を鏡の如きものとして、物を知るということは物が鏡に映るというようなことと考えている。
(略)これらの人の考方では、我々の知識成立の根柢に、何らかの意味において、心と物との間の因果関係というものが考えられているといわねばならぬ。
(略)因果律というのは我々の経験界を構成する思惟の範疇に過ぎない。
思惟以前に因果関係を考えるのは矛盾である。
(略)カント自身も「我々が直覚の雑多を統一した時、対象を認識する」といっている。
『種々の世界』
上記のカントの考え、「我々が直覚の雑多を統一した時、対象を認識する」、またユングの「心即体験世界」は、前述した番組内での量子の説明(見ていない間は何が起きているかよく分からず、見られた瞬間にいる場所がはっきりと分かる)をはじめ、過去記事の「ただ一つのもの una res」でも取り上げた内容に対応していると思われます。
量子力学の「二重スリット実験」において、「観察者がいる場合といない場合で、物質の性質に変化が現われるという“非科学的な”事態が生じる」ことを、「物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない『観察』という“意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっている」として、ランザ博士の「意識が物質世界よりも根源的だ」という考えを紹介しています。
西田幾多郎の『種々の世界』の続きをもう少しご紹介します。
真理認識、物自体などの考が(略)洗練せられるとともに、主観と客観との考もこれに従って変ぜられねばならぬ。普通には我々の心が主観であって、これに対して外界の物が客観と考えられる。(しかし)認識論上真の主観というべきものは、或一つの客観界を構成する統一作用の如きものと考えねばならぬ。(略)(真の)主観とは一つの世界の構成作用の中心という如きものであって、客観界とはこれに従って構成せられたものということになる。厳密にいえば、主観と客観とは一つの実在の両極ともいうべきものであって、相離すことのできないものである。
ユングの考え方と一致しています。
番組終盤には、現在は「ホログラム宇宙論」という仮説が生まれ、研究されていると紹介されていました。
上記の西田幾多郎の「主観と客観は一つの実在の両極」や、「無意識的なものはすべて投影される」というユングの論に、関連性を見出さずにはいられませんでした。
続きを、また書こうと思っています。
【引用テレビ番組】
NHKスペシャル:『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』 NHK(2024-12-28)
【引用文献】
渡辺 学『)』春秋社 (1991-04-05)
西田幾多郎『』 岩波書店(1979-10)
西田幾多郎『 』岩波書店(1987-11-16)
NHKスペシャル:『量子もつれ アインシュタイン 最後の謎』 NHK(2024-12-28)
【引用文献】
渡辺 学『)』春秋社 (1991-04-05)
西田幾多郎『』 岩波書店(1979-10)
西田幾多郎『 』岩波書店(1987-11-16)
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