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前回記事で「放送を楽しみに待ちます」と書いたにもかかわらず、リアルタイムでは視聴できなかった『100分de名著 精神現象学』。

先日やっと録画を観ました。
既に再放送も終わってはしまいましたが、第一回放送に係る内容で私が強く関心を持った部分について、今日は書いていこうと思います。
(『新約聖書』についての続きも、まだまとめられていないのですが…)


「ヘーゲルの文章のややこしさ」についてのお話に頷きつつ、知らなかったエピソードには「へぇ」とつぶやきながら、のっけからグイッと惹きつけられる内容でスタートした第一回の放送。
その中でも、録画を何度か再生し直しながら繰り返し確認した部分がありました。
それは、後半部分でにわかに始まった〈人形劇〉とその前後の場面です。

八嶋智人さんの軽妙なナレーションと、小さな舞台で繰り広げられた〈主人と奴隷〉のやりとりが、こねくり文章『精神現象学』のカチコチイメージだった頭での固い捉え方を、動きによって解きほぐされた柔軟なものとして、感覚的に再認識させてもらえた気がしました。



私の『精神現象学』への理解は、あくまでもユング心理学を基本としていることを前提として、以下は、〈人形劇〉とその後の解説を見て考えたことです。


まず過去記事でもノアと巨人をそう解釈したように、劇中のふたりの人形を「同一の存在」だと仮定します。
その上で、放送内で引用されていた『精神現象学』の一文を置き換えてみます。

(中略)主人が真理として確信しているのは、‟じぶんだけで存在していること”ではない。
主人にとって真のありかたは むしろ非本質的意識であり、その意識の非本質的行為なのである。
自立的意識の‟真のありかた”は、したがって”奴隷の意識”である。

         ↓

<自己>が真理として確信しているのは、‟自分だけで存在していること”ではない。
<精神>にとって真のありかたは むしろ<自我>であり、その<自我>の非本質的行為なのである。
<自我>の‟真のありかた”は、したがって”奴隷の意識”である。


上記の太字の部分については「目指す(一周まわって気づく)べき状態」であり、それより以前の意識の状態は、(尋常であれば)真逆(主人)になるはずです。

そんなそれ以前の状態を、八嶋智人さんが「ストップ!!」と劇を中断させたとおり、どこかの時点で‟逆転現象”を起こすことが重要となってくる。
立場を真逆にしていかなければならない。
そうなると、先の文が次のような置き換えにできるようになると思います。

         ↓


〈自我〉が真理として確信しているのは、‟じぶんだけで存在していること”ではない。
〈自我〉にとって真のありかたは むしろ非本質的意識であり、その意識の非本質的行為なのである。
〈自我〉の‟真のありかた”は、したがって”奴隷の意識”である。



精神の現象、自我と自己については、「心の有り様」と題して、『精神現象学』の次の部分も引用して過去に記しています。

意識は自己自身に対している。
それは、区別されていないものを区別することである。
言いかえれば、自己意識である。
私は私を私自身から区別する。
そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している〔無媒介に私にとってある〕。

一つの自己意識がもう一つの自己意識に対しているのである。
こうして初めて、自己意識は事実上存在していることになる。

自己意識に対しては別の自己意識が在る。
つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。

二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめるというふうに規定されている。                 
  『精神現象学』 【ヘーゲル】




「『私は私を私自身から区別する。』ところから始まる」としても、そもそもが「同一の存在」なのですから、主従関係を説明する際にはどうしても逆説が働いてしまい、非常に‟ややこしく”なってしまう。
それは避けて通れないことであり、だからこそ『精神現象学』はあんなふうに‟こねくり回されている”のだと、ユング理論からの視点で私はそう理解していました。



また、人形劇の後の解説で出てきた言葉、「アウフヘーベン」。
それは、
「新しい自立の概念」が形成され、「全く新たな知へ移行すること」
だと、放送内では説明されていました。

そして、「アウフヘーベン」には次のような意味があるとのことです。

アウフヘーベン(止揚)の3つの意味
’亡する
∧飮する
9發持ち上げる



ここでまた、ユング心理学を基にした条件を、次のように付け加えてみようと思います。

 崋我の覇権を」 破棄する
◆嵶場が逆転した自我を(消失させることなくしっかりと)」 保持する
「自己の存在を」 高く持ち上げる

実はこれは、個性化の過程で起こる「意識の在り方の変容」について、ユングが述べていることそのものなのです。



自我=自分だと思っていた‟世界”に、自己という自我より偉大な存在(他者である自分)を認め、さらにその自己こそが自分という存在の中心であることを認める。

それまでどっかと自我が占めていた玉座を、納得したうえで自己に明け渡すのです。

そしてこの考え方は、ユングの思想のみならず、例えば、
仏教での「他力本願(他力といふは如来の本願力なり)」
キリスト教の「回心」
にもつながることなのではないかと、私はそう捉えています。





さて、明日には第三回の放送があります。


時間が十分取れず、手に入れたテキストにはまだパラパラとしか目を通せていないのですが、第三回放送部分の記述で、次のように書かれているのを見つけました。

(略)「私たち」がいかなる者で、何のために生きているのかを知るためには、自然科学だけでは不十分なのです。




もうこの一文だけでも、どんな話が聞けるのかと楽しみになってきます。




キストには、あの大ヒットコミック『進撃の巨人』の一場面を引用している箇所もありました。
「結局10巻で止まったまま」の私は、思わずため息。
ツインズが買いそろえた我が家の本棚の『進撃の巨人』の続きを眺めました。




読みたい「積読」は増える一方です…。