まだ、『100分de名著 新約聖書 福音書』についてまとめ切れていないのですが、今回は止む無く飛ばして、同じく『100分de名著』の来月放送分、ヘーゲルの『精神現象学』について書きます。


私が初めて『精神現象学』を手に入れたのは、もう10年以上前になります。

精神現象学上 (平凡社ライブラリー)
G.W.F.ヘーゲル
平凡社
1997-06-11

                   
精神現象学 下 (平凡社ライブラリー0206)
G.W.F.ヘーゲル
平凡社
2018-10-05







きっかけは、その前に読んだ西田幾多郎の『善の研究』に、大きく心を震わされたことでした。
善の研究 (岩波文庫)
西田 幾多郎
岩波書店
2015-01-22


その西田幾多郎が『読書』の中で、ヘーゲルについて次のように述べていたのです。
 しかし偉大な思想家の思想というものは、自分の考が進むに従って異なって現れて来る。そして新に教えられるのである。
例えば、古代のプラトンとか近代のヘーゲルとかいう如き人々はそうと思う。私はヘーゲルをはじめて読んだのは二十頃であろう、
しかし今日でもヘーゲルは私の座右にあるのである。
読書
西田 幾多郎
2015-01-10


実際『善の研究』の中でも、非常に重要な部分で、西田幾多郎はヘーゲルに言及しています。
 真理を知るとかこれに従うとかいうのは、自己の経験を統一する謂である、小なる統一より大なる統一にすすむのである。
而して我々の真正な自己はこの統一作用その者であるとすれば、真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の表現である(ヘーゲルのいったように、凡ての学問の目的は、精神が天地間の万物において己自身を知るにあるのである)。
 自己の最大欲求を充し自己を表現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる、即ち客観と一致するということである。


さらに、西田幾多郎に並んで私が敬慕している夏目漱石が、『三四郎』の中で、ヘーゲルの名を出している場面があることにも気づきました。

(略)いっしょに借りた書物のうち、まだあけてみなかった最後の一冊を何気なく引っぺがしてみると、本の見返しのあいた所に、乱暴にも、鉛筆でいっぱい何か書いてある。
ヘーゲルのベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。
真と人と合して醇化一致せる時、その説くところ、言うところは、講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至ってはじめて聞くべし。いたずらに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨をもって、死したる紙の上に、むなしき筆記を残すにすぎず。なんの意義かこれあらん。……余今試験のため、すなわちパンのために、恨みをのみ涙をのんでこの書を読む。岑々たる頭をおさえて未来永劫に試験制度を呪詛することを記憶せよ」
とある。署名はむろんない。
三四郎は覚えず微笑した。けれどもどこか啓発されたような気がした。哲学ばかりじゃない、文学もこのとおりだろうと考えながら、ページをはぐると、まだある。「ヘーゲルの……」
よほどヘーゲルの好きな男とみえる。
「ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無上普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発現にほかならず。(略)

三四郎 (新潮文庫)
漱石, 夏目
新潮社
1948-10-27



『三四郎』は、大昔に読んだことはありましたが、その頃は「ヘーゲル」の名など知る由もなく、同書にその名が登場していることなど気にも留めず、記憶の片隅にも残っていなかったのですが、『善の研究』後になにかのきっかけで上記の部分を再確認して、感動すら覚えました。

夏目漱石も、「よほどヘーゲルが好きな男」だったんだと。
(三四郎が見つけた‟署名のない殴り書きの言葉”は、そのまま、ヘーゲルへの夏目漱石の想いなんだと、私はそう思いました)



西田幾多郎と夏目漱石が共に称賛しているヘーゲル。
興味が湧かないわけがありません。
自分も読んでみたいという思いが強くなり、とりあえず、平凡社ライブラリーの上巻のみを購入しました。
・・・しかし。

最初にページを開いたときは、まるで魔法の書を手にした感覚でした。
文字自体は読めるけれど、その文字の羅列が意味している「内容」がほとんど入ってこない。
なんとなく、『善の研究』と同じく、ユングの思想に通じていると感じる部分もチラチラ見受けられるけれど、そもそも文体自体が非常にこねくり回されていて、同じように頭の中もこねくり回さないと全然前に進めない。
一ページ読むのにとても労力がかかり、しかもその読み方が合っているのかも全く分からない。

そんなふうにあまりに難解で、もう読むことを諦めようと思った矢先、ある一文が唐突に登場し(私はその時そう感じました)、呼応するように、数か月前に見ていたとても印象深かった「ひとつの夢」が、即座に脳内に浮かびました。

私はその頃すでに教育分析を受けていたので、夢の記録を続けていました。
「その夢」を改めて読み返しながら、鍵となった〈残り粕をなめること〉という言葉の意味をあれこれと考えているうちに、ハタとそれを理解できたような感覚を得ました。
また、その数時間後に、ある共時的な出来事が起こりました。

それらがきっかけとなり、『精神現象学』を(自分なりに)読めるようになっていきました。
上手く説明できませんが「そんな感じ」で、その時のことは、分析のセッションでも取り上げました。
ちなみに「その夢」は、記録してきた多くの夢の中でも、5本の指に入るような、強烈な印象のとても神秘的な夢でした。

だから私は今でも、『精神現象学』には「Self が繋いでくれた」と思っています。

そしてこのような出来事は、古今東西、強弱の差はあれ、どんな人にでも起こり得ることを、ユングも西田幾多郎もそれぞれ、心理学者と哲学者の立場から説明しています。
なにより、『精神現象学』でヘーゲルがとうとうと述べている事のひとつでもあるのだと思います。
(ユング派の心理療法の場面でも、‟そんな事例”は少なからず見られるようです)



「そんな出来事」が ‟説明しきれないことである” 件に関しては、過去に、ヘーゲルの『精神現象学』の言葉も引用して記しています。




 こちらも『精神現象学』を引用した記事です。








さて、そんなヘーゲルがついに、『100分de名著』に登場です。
指南役の斎藤幸平さんのつぶやきでそのことを知ったのは、3月初旬の頃でした。   




テキストはまだ手に入れてないのですが、放送と合わせて必ず読みます。




『精神現象学』の捉え方への自己点検や反省、新しい認識への拡がりに期待して、来週の放送を待ちます。

西田幾多郎と夏目漱石がそれぞれに指摘した、
精神が天地間の万物において己自身を知るにある」
無上普遍の真を伝うる」
その‟真を体せる人”ヘーゲルの思想について、どんな話が聞けるのか、とても楽しみにしています。