前回記事「聖書の記述をもこころの発言とみなす」の続きを、と考えていたのですが、『100分de名著 新約聖書 福音書』第三回の放送を観て思ったことがありましたので(こうなるかな、と想定はしていました…)、今日はその点について書いていきたいと思います。
第三回放送ではまず、「祈り」について取り上げられていました。
若松英輔さんと伊集院さんのやり取りでは、とても大切な問題に触れられていて、時に、厳しい口調ではっきりと断言されている場面では、訴えたい思いの強さが滲み出ているようにも感じました。
そして、その語らいの中で出てきたのが、神学者の「マイスター・エックハルト」の名前。
『新約聖書 福音書』のテキスト内では、マイスター・エックハルトについてもっと詳しく説明されていて、その中では、「ユングやエーリッヒ・フロムにも多大な影響を与えた」と、そう、ユングの名も登場していました。
たしかにユングは、自身の著書の中でエックハルトの言葉を用いています。
そして、マイスター・エックハルトが言ったとされる、「神殿とはわたしたちの魂のこと」という言葉を紹介されながら、若松英輔さんは次のように説明されていました。
(その神殿とは)私たちの魂、心の奥にある神と出会う場所ですよね
また、福音書に書かれている言葉を解説されていた際には、次のようにも言われていました。
隠れた場所で、目に見えない神とつながることが大事
ここでユングの考え方を紹介します。
簡潔にいうと、上記の内容を心理学者であるユングは、「無意識(自己)とつながる」ということだと説明しています。
放送内では他にも、「神に対する信頼」という言葉が出ていましたが、これもユング的に置き換えると、「無意識(自己)に対する信頼」と表現できるのだと思います。
放送内容に戻ります。
「み旨のままに」という福音書の言葉を解説された場面で、次に登場したのは 鈴木大拙。
放送内では「無心」についての説明がありましたが、テキストでは、私が以前読んで非常に感銘を受けた、『無心ということ』の書も紹介されていました。
この流れで、以前のブログでも引用した鈴木大拙の言葉を、ここでもう一度示したいと思います。
何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
無心の理論は、実に仏教思想の全体系を構成しているといってよい。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の心理を、自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。
若松さんは‟人はなぜ祈るのか”について、
「見失っている自分とつながること」
「自分に出会うこと」
と言われていました。
そしてそのすぐ後に、(もう)はっきりとこう言い切られました。
「‟自分と出会う”と”神と出会う”は同じこと」
であると。
祈りの先は「自分自身の内側にある」。
前記したユングや鈴木大拙はもちろん、同じようにこのブログでその名を何度も取り上げた西田幾多郎も、のみならず他の哲学者や神学者などにも、それは同様に説かれていることが見受けられる、真理のようです。
さらに、『新約聖書 福音書』のテキスト内では、河合隼雄先生の名も取り上げられていましたので、下に引用します。
(略)私たちの心やその奥にあるもの―ここではそれを心理療法家の河合隼雄の表現を借りて「たましい」と呼ぶことにします―は、神の口から出る言葉によってこそ養われるというのです。
河合隼雄先生の「たましい」という表現を用いられた若松英輔さんは、もちろんユング心理学についても、「無意識や自己」についての視点も多く持っておられるのだと、私はそう勝手に納得しながら、放送の中で語られた「私たちの魂、心の奥にある神と出会う場所ですよね」ほか、いくつかの言葉に頷いていました。
そのほか、伊集院さんとの対話では、「自我実現と自己実現」に関連する内容の話もありました。
‟意味のサイクル”を生きていくのは、それほどた易くはないのでしょうが、だからこそ、「祈り」や「信頼」がそこで本当の意味で試されてくるのだと、ユングは言及しています。
信仰の座は、しかしながら、意識にはなく、自然的な宗教経験にあり、この経験を通じて個人の信仰は神との直接的関係に位置づけられることになるのである。
第三回放送でのもう一つのテーマ、「ゆるし」についても、すぐ上に掲げたユングの著書『現在と未来』を始め、ユング心理学からの観点では、色々と考えさせられることがあります。
それは、『新約聖書』の福音書以外の内容にも通じる、とても広い意味を持った、複雑で重要な事柄なのだと思います。
今日のブログのタイトルの「〈無〉の場所」には、福音書だけでは説明しきれないものがあること。
聖書自体がそれを物語っていることを、加藤隆先生は次のように説明されています。
たとえば、聖書に書いてあることは、すべて「善」であり「正しく」、そしてすべてが現代に生きるわたしたちに役に立つ、というようなことを前提にする立場があります。こうした立場では、聖書のテキストの重要な意義が見失われてしまいます。「役に立ちそう」なところばかりに接するということで、聖書全体に接していると考えてしまいがちです。
(略)
全体を読むことは難しいことですが、全体を理解するように読む努力をしなければ、聖書の意義は見えてきません。
「聖書の記述をもこころの発言とみなす」というユングの言葉を軸に据えると、「聖書の全体を理解する努力をしなければ、その本当の意義も見えてこない」ということが何を意味しているのか、ということになるのだと思います。
「役に立ちそうにない」ことにまで向き合わなければならないのは、できれば避けたいことですが、それでは「聖書の意義は見えてこない」というわけですから。
「全体を理解する努力」はそれほど楽ではなく、やはり「難しいこと」のようですが、そこにこそ「重要な意義」があることを忘れてはいけないのだと、聖書はその複雑さでもって、示しているのだろうと思います。
まだ書ききれていないことがありますが、それはまた次回以降にします。
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