FGiHwZ8UYAAXvrG     FGiHwZ5VUAIzhqr

なんと、二年もブログ更新を放置していました。
そもそも、それまでも年に数回しか書いていなかったわけですが、ここまでほったらかし状態になっていたのには、色々と理由があります。

そのうちのひとつを挙げると、ある時から考えていた「ブログの引っ越し」。
https化についてなど、ライブドアブログが使いづらいと感じるようになったのが、もう何年前のことでしょう…。

一念発起、他のブログサービスに引っ越しする準備を少しずつ進めていた(合わせて過去記事の整理も。そして思いのほか、これに時間を費やすこととなった)のですが、その作業自体があまりにも遅々としていたため、始めてから数年経つうちに、気になっていた諸々の仕様がすべて改善されていました。
よって、引っ越しをする必要がなくなり、引き続きこちらでお世話になることにしました。

しかし、それでもなお、なかなか手をつけられずにいたブログの記事を、この度実際に書く気にまでさせてくれたのは、またしても、NHK Eテレの「100分de名著」。(…決して回し者ではありません)

既に放送が始まっている今月の内容、『新約聖書 福音書』です。





第一回放送の冒頭で司会の伊集院さんも述べられていましたが、同番組では以前、『旧約聖書』(2014年5月)が取り上げられていました。

今回放送の『新約聖書』について書く前に、まずはその時の話から入っていきたいと思います。

2014年当時も、『旧約聖書』の放送を視聴しつつ、テキストも購入して読んでいた私ですが、その時期にちょうど、『創世記』のノアの方舟を題材にした映画、『ノア 約束の舟』(日本公開:2014年6月13日)が公開されました。合わせたわけではないのでしょうから、今思えば、これも面白い偶然だと思うのです)




↑ 過去記事に書いたとおり、映画を観に行ったのは、ダーレン・アロノフスキー監督作品という内容そのものやキャストに強い関心を持ったからだったわけですが、でも時を同じくして触れていた『100分de名著 旧約聖書』にも、必然的に影響を受けることとなりました。
起こった波に自然に乗るかのように、ユングの著作も引っ張り出してきて、それらをつなぎ合わせながら、(映画への)連想がどんどんと湧いてきたのを、今でも覚えています。



でも結局は日々に流されてしまって『ノアの箱舟』の物語についての連想は、収拾しきれないまま終わってしまいました。



ということで、今回の『新約聖書』についても、どこまでまとめきることができるか分かりませんが、書いていきたいと思います。


さて、『100分de名著 新約聖書 福音書』に話を戻します。
4/3放送のはじまりで、指南役の若松英輔さんが次のように語られていました。
 聖書というのですはね、もちろんキリスト教を信仰している人の本でもあるんですけども、キリストに出会うための本であるというふうに考えると、キリスト教徒じゃない人に読まれてほしいですね。
もっと言いますと、キリスト教徒じゃない人が読むから、見えてくるところっていうのも、ものすごく豊かにあると思うんです。
また、伊集院さんとのやり取りでは、「無神論者のかたが(手に取るほうが)むしろいいと思う」と言われ、「(聖書とは)私たちの人生ともっと深く触れ合える、そういう本じゃないかと思う」とも述べられていました。


ここ数年、キリスト教徒でもない(でも、自分では無神論者でもないと思っています。あえて言うなら、ユング心理学の Self信者 です)のに真剣に聖書を読んできた私にとっては、なんとも心強い言葉でした。




私が初めてキリスト教に触れたのは、5、6歳の頃。
日曜学校に通っていたときがありました。



キリスト教が何ぞや、日曜学校が何ぞや、など子どもの頭ではほとんど考えることすらなく、朧げな記憶では、ただ、色々と催される会を楽しみに行っていた気がします。


どんなことをしていたかはなんとなくしか覚えていないけれど、食事会や運動会のような写真がアルバムには残っていますし、一方、今でもはっきりと記憶に残っているのは、「天にまします我らの父よ」というお祈りの言葉をいつも唱えていたこと、そしてクリスマスの夜に聖歌隊の一員として白い洋服を着て町内を歩きながら歌ったこと、合わせて「クリスマス会」での劇で羊飼いの役を演じたこと、です。

幼心にも、ヒンヤリとした冬の空気の中で感じたその時の雰囲気は、その後の人生で出会った数々のクリスマス会とは明らかに違う、イエス・キリストの誕生を祝う本来の厳粛さを感じるものでした



そして、私と『新約聖書』の最初の出会いも、この日曜学校においてでした。(今日のブログ冒頭の画像)


日曜学校には、せいぜい1,2年通ったくらいだったのではないかと思います。
父の仕事の関係で、当時住んでいたところは数年で転出しました。

そして、それからの人生の中でいくどか転居するたびに、整理を迫られた何冊もの本を処分してきました。
ですがもちろん、『聖書』を手放すことは心情的にできませんでした。
かといって、ページをめくるなんてことは何十年もの間一度もなく、普段は聖書の存在すら意識することのないまま、長い時を過ごしてきました。

そんな私が、ユングの著作を読み進めていくうちに、閉ざされていた聖書を自ら手に取るようになっていきました。

そして徐々にその熱は上がり、「最初の聖書」を痛めることのないよう、読み込んでいくための聖書をとうとう別に購入しました。
IMG_6183
(一度、意図せず「水に浸して」しまい、皴がついてしまいましたが、大切に読んでいます)














私が聖書にのめり込んでいった理由については、端的に、ユングの下記の言葉を知ったことと、自身の夢をはじめ、生起したいくつかの出来事からでした。
聖書の記述をもこころ(ゼーレ)の発言とみなす
ヨブへの答え
C.G. ユング
みすず書房
1988-03-11



また、読み進める聖書の中に、ユングの言葉を裏付けるようなこの文言を見つけたとき、私は、ユングの考え方にさらに信頼を寄せるようになりました。
FGiNhUlVIAM6Vv5
(「ペテロの第二の手紙」1・20-21)


















「聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないこと」
「人々が聖霊に感じ、神によって語ったもの」

これらは、『100分de名著』第二回放送「魂の糧としてのコトバ」で説明されていた「コトバ」、そしてユングの言う「こころ(ゼーレ)の発言」と同義であると、私にはそう捉えられるのです。
※「コトバ」の意味について知りたい方は、『100分de名著』第二回放送をご覧ください。来週月曜日に再放送があります。

もちろん、この解釈自体が ‘自分勝手‘ なことなのかもしれません。
しかし少なくとも、聖書に対して ‘自我のみ‘ で思い込んでしまうことに距離を置くことはできるはずです。
‘人間の意志‘を一旦脇に置き、「コトバ」を、「こころ(ゼーレ)」を理解しようとする姿勢に気づくことは、聖書を読むうえでも「まず第一に知るべき」ことなのではないかと、私はやはりそう思います。


とはいえ、聖書を「ユングの考え方」に準じた読み方をするのは、あくまでも私個人のことであって、世界最大のベストセラーである『聖書』に、さまざまな捉え方が出てくるのは当然だとも思っています。

『100分de名著 旧約聖書』の著者、聖書学専門の加藤隆先生も、「書物をどのように読むかは、読者の自由です。」とテキスト内で書き添えられています。





私の聖書への向き合い方は、ユングの考え方、ユングが残してくれた言葉が、まさに光明となったわけですが、それはユング派の「夢分析」にもそのままつながります。

それらは言ってみれば、「自己のコトバ」を解いていく、という行いなのだと思います。



そのへんについては、次回以降に書いていければと思っています。
若しくは、『100分de名著 新約聖書 福音書』第三回、四回の放送内容も取り入れながら、また、続きを更新するつもりです。