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美女と野獣公式サイトより】  (こんな部屋に通されたらベルでなくてもグラリと来ます・・・)
 

ディズニー映画 実写版『美女と野獣』。
公開前から話題になっていたとおり、日本でも封切られると同時に大ヒットしているようです。

という私もご多分に漏れず、『美女と野獣』の実写版が制作されていると知った日から年をまたいでずっと、あの暗い特別な空間で大画面を前にして座る日をとても楽しみに待っていました。


そして先日、念願叶い。

今まで、アニメの『美女と野獣』は繰り返し繰り返し観ていましたし、発表されていた実写版の豪華なキャストにも、「えっ、あの役をあの人が!」と、鑑賞前から想像を膨らませていました。

また、後述するように、この映画に関する「自分の思い出」や、昔話としての心理学的意味などについても、 色んな考えや思いが、鑑賞(途中から)後には頭の整理がつかないくらいあれやこれやと湧いてきて、「いっぱいいっぱい」になってしまいました。

観終わってから少し時間が経ってしまったので、既に「いっぱいいっぱい」に湧いてきた思いも、内容と共に詳細を忘れてしまったものもありますが、残っているものについて書き留めておきたいと思います。




『美女と野獣』の物語に私が初めて出会ったのは、ディズニ−アニメ版が公開された後、もう20年以上も前。

当時から映画が大好きだった私は、様々な作品を暇さえあれば観ていましたが、でも
その時は専ら洋画ばかりだったこともあり、ディズニ−アニメには何の関心もなく、そもそも私の中では‟候補"にすら上がっていませんでした。

でも、日本での上映からちょうど3年ほどが経ったとき、
ある方からある日突然、録画されたVHSをいただいたのです。

今考えても、なぜ急にこのビデオをいただいたのか?
なぜこの人からこの作品なのか??
本当に
何の脈略もなく、ある日突然の サプライズギフトだったのですが、
そんなふうに自然な流れで私の元にやって来て、 何の知識もなく 素の状態で観た 『美女と野獣』に、一度ですっかり魅せられてしまいました。


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鑑賞後に行ったTDLで、思わず手を伸ばし衝動買いしたチップのカップ。
VHSビデオデッキは とうの昔に廃棄したため、見ることが出来なくなって久しい、いただいたテープ。
今でも思い出深い宝物です。




ビデオがDVDに換わってからも、何度となくアニメ版を観てきた私ですが、夢分析を受け始め、ユング心理学を深く学ぶようになってからはさらに、『美女と野獣』は私の中で特別な作品となりました。



河合隼雄先生が、‟女性のこころ"の「美女と野獣」について、以下のように説明されています。

父=娘結合を破る男性も、まず最初は怪物として−時には鬼として−認識されるものである。このような話は、いわゆる「美女と野獣」型の昔話として、全世界に満ちているというべきであろう。

怪物としての男性をまず受け容れることによって、それは王子へと変化するのである。


西洋の場合は、もともと人間の男性だったのが魔法によって動物にされており、それが女性の愛によって人間にかえり、結婚というハッピー・エンドで終りとなるのである。


異類婚譚についての解釈を、全体にわたってこころみることにしよう。
己のなかに存在する「自然」(つまり人間の変身したものとしての動物)を通じて、自然との関係を回復しようとのこころみがなされる。

人間の心のなかのこととして言えば、意識と無意識ということに置きかえることができるであろう。


このことを知ってから、『美女と野獣』に魅せられたことも、20数年前に自然に出会ったことも、自分にとっては意味ある出来事になりました。

アニメ版をいただいた当時の自分の状況やプレゼントしてくれた相手、それから長い時を経て分析を受け始め、自分のこころの中の父や野獣(アニムス)の問題と向き合うようになった、それら諸々のことが、あの時(公開3年後に)‟観るべき時に観るべくして観ることになった"、そして今年実写版を‟自分の意志で観に行った"、二つの『美女と野獣』を、独自で特別な、私だけの意味付けを持った価値ある映画作品へと押し上げてくれました。

「布置」を感じられることは、自分の無意識の存在、野獣との関係が変わっていくような、とても素敵で素晴らしいことなのだと心から感じます。




さてここからは、純粋に映画ファンとしての個人的レビュ−を。

先に書いたとおり、観る前から興味津々だったのはそのキャスト。

ガストンがルーク・エヴァンス!
コグスワースがイアン・マッケラン!
ルミエールが
ユアン・マクレガー!
ポット夫人がエマ・トンプソン!



中でも一番ひっかかったのは、ガストン。
過去に、「アラミスやゼウスやバルドやヴラド」を見せてもらった私としては、「あのガストン!」を、ルークがどのように演じるのか、期待と不安が入り混じった「・・・?」な感覚を拭い去ることができませんでした。
        
だって、「今までの」とは容易には結びつかないですから、イメージが・・・。

でも実際に画面でルークのガストンを目にすると、そんな感覚はただの杞憂に過ぎませんでした。

ベルが表現したとおりの男性像「ガストン」そのものでありつつ、でも、ル−ク自身の繊細でスマ−トな印象そのものまでが崩れ去ることはなかった。

調べてはいないけれど、「意図的に体重を増やし、ガッシリ体形を作ったのかな・・・」 と。

とにかくアニメと変わらない、ゴツくて暑苦しいガストンになりきっていた、ルークの幅の広さを新発見できた気がしました。

作中、ガストンの子分に‟三流銃士"が出てきて、私のように思わず笑ってしまった映画ファンの方は少なくないはずですが、本家三銃士ルークのガストンは‟一流"でした。



ガストンだけではなく、どのキャラクタ−も、アニメでの印象が既に強く刷り込まれてしまっていたので、コグスワースもルミエ−ルもポット夫人も、観るまではルーク同様、それぞれの演者たちとの間にイメージのズレがあったのですが、そこはさすがの名優陣。

素晴らしいメイクや衣装の後押しもあり、ラストでやっとご登場の場面では、全く違和感なく、それぞれが物語の人物としてスクリーンの中に生きていました。

エマ・ワトソンは「イメージどおり」、自分の意志をきちんともったブレない美しいベルにぴったりでした。




メイクと言えば、野獣に変えられてしまう前の傲慢な王子は、ケバケバしい化粧をしていて、その素顔が全くうかがえません。

また、野獣から王子様に戻る前には、一度息を引き取ります。


素顔が全く見えないほどの化粧をしなければ(多分)生きられなかった王子が、次には人ではない野獣の姿となり、それからありのままの自分の美しい本当の顔をとり戻すまでに、あれほど長く、醜く、辛い時を過ごさねばならなかったこと。

そして最後の最後、絶望的な状況においてやっと呪いが解けること。

またベルも、野獣と心が通うようになるまでに、父親と引き離される悲しみや囚われの恐怖などの苦難を味わねばならず、それを乗り越えてもなお、野獣が王子様に変わる前に、彼を一度失うといった絶望を体験しなければなりません。


映画の『美女と野獣』の中にもきちんと、昔話としての深い意味、ユング心理学のペルソナ、死と再生、エナンティオドロミアなどの要素が、描かれていました。





ポット婦人の、「こころの奥底に囚われている王子」というセリフがありましたが、その王子は実際に全ての女性の中に存在していて、ベルが成し遂げた「野獣の呪いを解き王子を救う」といった仕事も、(男性には「囚われたお姫様を救う」というテーマの昔話がちゃんとあります)現実の私たち一人ひとりに通じる心の現実であることを知れば、『美女と野獣』の感動を、「自分のこと」としてしっかりと受け止められるようになるのではないでしょうか。


ちなみに原作の「美女と野獣」では、野獣との関係において、ベルが主体的に事を為さねばならないこと(自我の役割)が、暗示的に、でも繰り返し、はっきりと示されています。


美女と野獣 (角川文庫)
ボーモン夫人
角川書店
1992-05






『美女と野獣』の歌詞。

Tale as old as time
True as it can be



そして今日、河合隼雄先生の言葉を引用させていただいた、以前書いたブログ記事「地に足をつけて生きる」でも取り上げた、『昔話と日本人の心』の冒頭に紹介されている一文。

   むかし語ってきかせえ!―
  さることのありしかなかりしか知らねども、あった 
  として聞かねばならぬぞよ―
                      ―鹿児島県黒島―



ベルの物語が、決してただの絵空事ではないことを、私たちにちゃんと教えてくれています。