今日も『Dr.倫太郎』絡みです。
こころの病がテーマのドラマですから、当然ながら、あちらこちらに引っかかりどころ満載です。
(自分なりに咀嚼して)毎回、色んな意味で学べる点があります。


8話では、母親に「あんた、もう必要なくなった」と別れを告げられた明良が、「私を捨てないで」と激しく取り乱すシーンがありました。
そして感情のコントロールが利かなくなった夢乃(明良)は、倫太郎の家に無断で入り込みお金を探して荒らすという、常軌を逸した行動にまで及んでしまいました。

明良と夢乃という、分離した両方の人格が表に出てきてしまっている「解離性同一性障害」の根底にあるものが、幼少期から何度となく繰り返された母親に置き去りにされる体験、大きな不安感にあることが、はっきりと示された場面でした。



一方、そのひとつ前の7話は、明良親子とは対照的な、看護師の薫母子の心温まる物語でした。

息子の深也くんが、倫太郎の診察室で夢乃が散らかした箱庭アイテムの動物たちを並べるシーン。
どの動物も、親子対で一列に並べられていました。

そして、深也くんが外のベンチで、ピンクの象のおもちゃで遊んでいるところへ明良が来るシーン。
話しかけられた深也が指し示した草むらの先には、お母さん象が置かれていました。
小象が遊んでいる少し離れた場所から、ちゃんとお母さん象がその様子を見守っていて、そこには「安心」がありました。



その他にも、倫太郎と薫の会話や、親子で倒れた自転車を起こすシーン、検査の申し出があったときの薫の(自身と)深也くんへの向き合い方など、全ての場面で、「明良親子」とはまさに相反する母子関係が描かれていたように思います。

深也の検査が終わった後、倫太郎と薫が深也くんを見守りながら語り合っているシーン。
そこでも、深也くんはひとりで、倫太郎の診察室の外で動物のアイテムをベンチの上に並べていましたが、その親子の動物たちは全て、「きちんと向き合って」いました。


見えない心の部分での薫親子の関係性が、言語ではないところで(だからこそ)見事に表現されているその様子を見た倫太郎が、優しく微笑みながら「深也くんはしっかり成長しています」といった言葉には、薫への敬意が含まれていたように私は感じました。



このドラマで、明良の解離性同一性障害の原因となったのが、母娘の関係性にあると設定されていることは誰の目にも明らかで、それはかなり「ドラマティック」な描かれ方をしていますし、明良の置かれた境遇は確かに“特殊”な例なのかもしれません。

しかし、根本の部分。
「親子の愛着の問題」として捉えた場合には、観ている側にとっても決して「他人事」ではない、普遍的な意味を持ってくるのではないでしょうか。

従来、愛着の問題は、子どもの問題、それも特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かった。
しかし、近年は、一般の子どもにも当てはまるだけでなく、大人にも広くみられる問題だと考えられるようになっている。

愛着の問題は、一部の人の特別な問題ではない。
ほとんどの人に広く当てはまる問題でもある。

愛着の安定性や様式は、対人関係のスタイルや親密さの求め方だけでなく、その人の生き方や関心、恋愛や子育ての仕方、ストレスに対する耐性や生涯の健康にまで関わっている。
意識しないところで、知らずしらずその人の心理と行動を支配しているのである。
  
              
                       【岡田尊司】



「愛着障害」が人格形成に及ぼすマイナス面だけではなく「創造性」という部分、両義的な意味にきちんと視点を充て、また克服のプロセスや人格成長についてなどにも触れられていて、厳しさのみではなく希望も持てる内容なので、「自分や家族を振り返る」きっかけとしてはとても良い本だと思います。
(実際、よく売れているようです)


まさに、明良を思わせるこんな一文もありました。

どんな理不尽な仕打ちをされようと、子どもは親を愛し、求めようとする。
そのため、深く傷つきながらも、親を責めるのではなく、むしろ自分を責める方向に気持ちが向かう。
自分がダメな子だから親は愛してくれないのだ―そう考えて納得しようとする。


「納得しようと」、頑張って自分の気持ちを抑えて抑えて、その挙句に出てきたのが、夢乃という影の人格。
「私が明良を守っているのだ」と夢乃は言っていましたが、確かに、自分を守るためには致し方なかったのでしょう。

ひどく乖離してしまった二つの人格を統合していくことが、明良と夢乃の治療になってくるわけですが、実は私たちも、通常は無意識内に留まってくれている「もうひとり(いえ複数)の私」を、自我の私に統合していくことで、こころの成長をはかることができます。



少し脱線してしまいましたが、もう一冊、こちらも同じく岡田尊司氏の著書です。



明良は解離性同一性障害ですが、近年では、この「境界性パーソナリティ障害」が、“時代の病”として急増しているようです。

ドラマの中でも、倫太郎に激しく執着する人物像として描かれて(登場して)いましたが、このこころの病にも「愛着」の問題が強く絡んでいます。


子どもの数が減り、一人ひとりの子どもが、手厚く大切に育てられているはずの現代において、愛着の問題を抱えた子どもだけでなく、大人までも増えているという現実がある。

比較的マイルドな愛着の問題は、愛着スタイルが確立するとともに、自立への圧力が高まる青年期以降にさまざまなトラブルとなって現れ始める。

大人にひそむ愛着障害の増加を間接的に示しているのは、たとえば、境界性パーソナリティ障害の増加であるし、依存症や過食症の増加である。
これらは、愛着不安の強いタイプの愛着障害が増えていることを示唆していると考えられる。
                                                        『愛着障害』



『愛着障害』を読んで何か興味が湧いた方は、さらに『境界性パーソナリティ障害』に目を通されることで、更なる気づきや理解が得られる点があろうかと思います。

境界性パーソナリティ障害だけではなく他のパーソナリティ障害など、こころの病には併存する症状がみられる場合が少なくないので、その根底にあるものを知ることはもちろん、回復の過程についても、共通項として学べる内容が含まれていて理解が深まります。


境界性パーソナリティ障害は、一見、特殊で狭い問題のようでいて、実際は、さまざまな領域の幅広い問題に通じる普遍的なテーマを含んでいることに気づかれるだろう。

まさに、人が生きるとは何か、何によってそれが可能になるのかという、人間にとってのもっとも根本的な問題を突きつけてもいる。

                 『境界性パーソナリティ障害』




こちらは専門的にはなりますが、河合隼雄先生をはじめとする、錚々たる心理専門の先生方が執筆に加わっておられ非常に重厚な内容の著作です。






河合隼雄先生は境界性パーソナリティ障害という“時代の病”が、現代人の意識の拡大に関連していると、大きな視点から指摘されておられます。

(前略)必要なことは、片子の人間としての存在も、鬼としての存在も両方を許容すべきではないだろうか。

近代自我を拒否するのではないが、それをよしとして、自我の強化のみを(中略)目標にするのではなく、近代自我とは異なる視点から−(中略)ものごとを見ようと試みることではないだろうか。

「現代に生きる」人間、あるいは、せめて生きようとしている人間であることを自覚すると、境界例の人たちが、そのためにわれわれに教えてくれる−教えるというよりは、きたえるというほうがいいかもしれぬが−ことがわかるのである。

現代人は相当な意識の拡大を強いられており、それはそれ相当の苦しみを必要とするものである。


半鬼半人という表現がどうしても気にいらない人に対しては、われわれは人間ではあるが、鬼の世界との接触を保ち、それを切って棄ててしまわないように努力すべきだ、と言い換えてもいいだろう。
そのような意識の拡大は現代人すべての課題であると思うのである。

                                                           【河合隼雄】



「“時代の病”がわれわれに教えてくれる」こととは、安易に片方に偏ってしまわないこと、「半鬼半人」のしんどさを抱え続けること、「海と陸」の両方に立ち続けること、「自己も自我も」実現すること。

「中庸を生きる」意味を知り、それを自分のこととして自覚することにあるようです。

そしてそれは、「現代の子育て」の問題にも通じています。
親の生き方や子どもへの接し方が簡単に「偏ってしまうこと」によって、その影響を受けた子どもが、否応なく境界に立たされる苦しみを抱えてしまうという、皮肉な結果につながる可能性があることが示唆されています。




おわりに−愛着を軽視してきた合理主義社会の破綻
 
愛着障害は、多くの子どもだけでなく、大人にもひそんで、その行動を知らずしらず左右し、ときには自らを損なう危険な方向に、人生をゆがめている。

その人のもつ愛着スタイルは、対人関係だけでなく、生き方の根本の部分を含む、さまざまな面に影響している。
それほど重要な問題であるにもかかわらず、一般の人だけでなく、専門家の認識も非常に遅れており、むしろ、愛着の問題を軽視してきたとも言えるのである。

すなわち、なぜ、手厚く子どもを育ててきたはずの現代社会で愛着障害をベースとする問題が増え続けるのか、ということにも関わってくる。

この数十年、社会環境が、愛着を守るよりも、それを軽視し、損なう方向に変化してきたということに尽きるのである。

愛着という要素は、効率主義に反するものとして、ないがしろにされ続けてきたのである。
合理的な考え方からすると、古臭く、本能的で、原始的とも言える仕組みは、もっと効率的で、近代的な仕組みに取って代わられるべきものとみなされたのだ。
          
                         『愛着障害』





女性の社会進出は、たいへんにけっこうです。それはどんどんやっていただいてかまいません。
それをやりながら、自分の子どもの本質的な幸福というものを考えてもらえたらいいわけです。
                                                          【河合隼雄】





母性の機能を、今日は意識したうえで行わなければならない。すなわち、「母性の意識化」である。
                                                          【河合隼雄】





「自分自身を生きつつ、子どもとの愛着も固めていくこと」に、マニュアルも、合理的で効率的な方法もなく、道なき道を掻き分けてとにかくやっていくしかないようです。

その意味と大変さを自覚することがなにより大切で、迷いながらも真正面からそこにきちんと取り組む重要性を、実際の家庭問題に取り組んでこられた心理エキスパートの先生方が、もう何年も前から、それぞれの言葉で伝えようとされているのだと、新しい表紙を開くたびに感じとれます。



倫太郎や明良がずっと向き合っている(引きずっている)のも、結局はその土台の部分ですが、次回最終回では、ひとつのトンネルの出口が垣間見えるようなストーリーになっていればいいなと思います。