記事upにタイムラグが生じてしまいましたが、今年も行ってきました。
我が家の恒例行事、出雲大社の神在祭参詣。

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神在祭にお参りするようになって、もうかれこれ5年ほど経つでしょうか。
始めの頃は、ツインズを双子用ベビーカーに乗せて、フーフー言いながら長い砂利の参道を歩いたものですが、今では、とっとと足早に駆けていく彼らに、親が急かされるまでになりました。


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神在祭に行きはじめたのは、私や家族にとっての大きな転機につながった、ある個人的理由があったのですが、今では当初とは違った思いで通っています。


私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。両親も無宗教でした。
でも、まだ小さかった時分、キリスト教会の日曜学校に近所のお友達と一緒に通ったり、当時暮らしていた土地柄、神社やお寺が其処彼処に建っていた(今考えると恵まれた)環境もあって、とにかく和洋、神仏の垣根を越えて、日常のなかで自然に「手を合わせる」ということは多かったように思います。


日曜学校に通うようになった経緯については、全く記憶がないだけに今となっては私もよく分からないのですが、でも多分母は、近所で親子共に仲良しだったお友達のお母さんと、「子ども会」に行かせるぐらいの感覚で、一緒に入れたのだと思います。
そして教会のシスターも、それぐらいの気持ちでも「来てくれることが良い」と、歓迎してくださっていたのでしょう。
実際、私はその日曜学校で、みんなと一緒にご飯を食べたり遊んだりして楽しく過ごすことと並行して、聖書を読んだり、イエス様やマリア様に関するお話を聞いたり、礼拝の仕方を学んだりという、お勉強もしていたわけですから。



話が逸れてしまいましたが、私はそのような幼少期の体験があったからなのか、括りはないけれど、自分より“大きな存在”というものを、どこかで自然と受けいれられるようになったような気がしています。

そして、その「受けいれられる心」に、実は何度も守ってもらっていたのだと、今になってようやく分かったような気もしているのです。




「こころと宗教」について、ユングや河合隼雄先生は「切り離せないもの」として述べています。
多くの哲学者も「宗教」の意味について、それぞれの時論を語っています。

心理学においても、哲学においても、避けることのできない「宗教」という命題。
どれも“根本”は同じなのでしょう。
もっと広義に解釈したら、一見宗教とは相反するように見える「科学」だって、根っこは同じはずです。



だから私にとって、我が子への教育に「宗教心」の課外授業は欠かせないのです。
科学が進歩した現代だからこそ、それは欠かしてはいけないものだと考えています。

目に見えない何か大きな存在を感じられるように、自然に受け入れられるようになってもらいたい。
神さまでも仏さまでも妖怪(笑)でも、とにかくよく分からないし実体はつかみきれないけれど、そういった不可視の存在を「非科学的」「馬鹿らしい」とばっさり切り捨ててしまうのではなく、“どこかで”信じられるようなを持ってもらいたい。


長い長い人生を生きる中で、「自分の努力だけではどうにもならない」苦難にぶつかったときに、そのはきっと、彼らを守ってくれる大きなになるに違いないと、私は信じているからです。
ずっとずっと先に、外の世界に見ていた盾を引き戻す日が来るとしても、まずはそれを「持てるように」ならなければ話は始まりません。

こころの太陽中心説」をしっかりと感じ取れるように成長してくれれば、人生の荒波にもまれるようなことがあっても、すぐに絶望するのではなく、そこに「意味」を見出そうとする僅かな力が湧いてくるはずです。

「意味」があれば、人は生きていくことができます。


ユングは、「宗教心」と「心の病」に深い関連があることも指摘しています。

重篤な心の病とについて、無視できないつながりがあることは、例えば、「神は死んだ」といったニヒリスト、天才ニーチェの悲劇的な末路が、そこに確かなものを物語っているように、私には思われます。



だからやっぱり、「頭のお勉強」と同じくらいに、いえ、もしかしたらそれ以上に、「こころのお勉強」も大事。

知力を鍛えることは、確かに、現実社会で「自由な環境」を得るための重要な武器にはなります。

でも、いくら頭が良くて学力が高くても、それだけが「人生を幸せに生き続けられる」条件ではないはずです。


知的レベルを上げ、外的な実力ばかりを身につけ、お金も地位も名誉もそろった、恵まれた環境を手に入れることができたとしても、それで「苦」から完全に逃れられるわけでもないはずです。

心理学者マズロー(欲求段階説理論)が言っているとおり、外的欲求が完全に満たされたとしても、人間はそれで、「めでたし、めでたし」とはならないのです。


また、外的基盤のほうが、一度何かのきっかけで崩れ始めたら、非常に脆いような気がします。
その時に何が底力になるかというと、やはり「こころ」の基盤なのではないでしょうか。

そしてその「こころ」の基盤が強く大きく成長していけば、外的不足はもはや、「幸福(感)」を妨げる必要条件ですらなくなるのです。



さて、“神在祭”に話を戻しますと、子供たちに「今、ここに日本中の神さまが集まってるのよ」と説明すると、「じゃあ、絶対に聞いてもらえるね!」と、深々と頭を下げて、真剣モードでクリスマスプレゼントのお願いをしていました。
時期的に、去年も同じパターンだったような・・・。

そして私も、セルフを思いつつ、(見えないけれど)ずらりと鎮座されている日本の八百万の神さまに手を合わせました。


周りの素晴らしい自然と相まって、その時、内側から感じられたなんとも言えない重みと清々しさは、「確かなもの」だったような気がしました。


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子どもたちが大きくなり、ゆとりを持って参詣できるようになったと実感できた今年、ふと、「ここ数年素通りしていたけれど、久しぶりに手を合わせよう」と、銅鳥居手前、参道右手に御座する「ムスビの御神像」に立ち寄ってみました。

そして、像の前にあった由来碑に書かれている文章に目を通してみると、私の心の中で小さな感動が起こりました。

また、記事にしたいと思っています。


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