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今月始め、NHKのある番組を視聴しました。
それは梅原猛さんがご出演され、「3.11」の東日本大震災について、
哲学者としてのお立場からお話になるというもので、
期待どおり、色々と考えさせられるとても深い内容でした。
ちなみに、梅原猛さんのお名前は、
河合隼雄さんの著作を読み進める中で知り得ていました。
生前の河合隼雄さんとは、哲学者と心理学者としての交流がおありなったようで、
それが、番組を見てみようと私が思った動機となりました。
さて、その内容については、あれもこれもと気になる点、
勉強になるお話がいくつもあったのですが、
その中でも私が一番興味をそそられたことはつぎのようなものでした。
梅原猛さんはこのように述べられていました。
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現代の科学技術の文明背後には、
自然を意のままに支配しようという人間中心の西洋哲学がある。
とした上で、
(過去、)自然科学において、天動説は誤りで地動説になった。
(でも)哲学においては、天動説じゃないかと。
自然科学は地動説を取ったけれど、
近代哲学は寧ろ天動説を唱えたのではないかと。
もう一度哲学においても、地動説に戻さなあかんという、
そういう太陽の恩恵を考える、そういう哲学になるべきだと思うんだけどね。
3.11の大震災を契機に、梅原猛さんは哲学者として、
「自然を意のままに支配しようという人間中心の」西洋哲学や合理主義の限界を、
改めて思い知らされたとのことでした。
『こころの時代〜宗教・人生〜 シリーズ 私にとっての「3.11」』 (NHK Eテレ 3/4(日))
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「地動説」とはご存じのとおり、太陽の周りを地球が公転しているという、
現代では常識となっている天文学説です。
「太陽中心説」ともいいます。
自然科学においては、コペルニクスにおいて地動説が定説となっていきました。
しかし近代哲学においては「天動説」であり続け、人類は科学技術を発達させ、
「人間中心」の考え方により、自然すら支配下に置こうとしてきた。
しかしその自然とは、穏やかに恵みを与えてくれる存在であると同時に、
もう一方では、非常に恐ろしい面を隠し持っている。
そして、その脅威を見せつけられた時、
人は自らの存在の脆弱さを思い知らされる。
梅原猛さんは、そのような人類全体の自然に対する驕りの危険性と限界について語り、
今まで、自然を支配する道具として、科学技術が使われていた。
今度(これから)は、自然と共存できる科学技術に変貌する、
というふうに私は思いますね。
とも言われていました。
私はその放送内容を聞きながら、心に関するユングの説も思い出し、
胸に深く響くものを感じていました。
次に挙げるのはユングの言葉です。
自己が何か不合理なもの、定義不可能なものであって、ユングにおける心と体験世界 (南山大学学術叢書)
自我はそれに敵対するわけでも隷属しているわけでもなく、
それに依存しつつ、ちょうど太陽のまわりをまわる地球のように、
そのまわりをまわっていると感じ取られたとき、
個体化の目標は達せられたことになる。
・・・個体化された自我は、自らが、上位に位置する知られざる主体の
客体であると感じるようになる。
私たちは、現実の生き方、思想、という外界においても、
こころという内界においても、
やはり「太陽中心説」であると認識すべきなのではないかと思いました。
外界においても、内界においても、「私」が中心で絶対的な存在ではないとする
思想は重要なのではないのか。
「哲学において、地動説に戻さなあかん」ように、
心理学においても、地動説が広く認知されるべきなのではないかと、
私はそう思います。
最後に・・・。
西田幾多郎は『善の研究』にこのように書いています。
意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、
個人とは意識の中の一小体系にすぎない。
我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、
もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、
この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意思実現である。
哲学者の中にも、地動説(太陽中心説)を唱えていた人物が
ちゃんといたんですよね。
また今度、続きを書きたいと思います・・・。


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