前回の記事で“感情の抑圧”について書きましたが、
実は、私自身が過去に、かなり自分の気持ちを抑え込んでいる時期がありました。

もう何年も前のことで、今では、

「よく我慢できていたな。
今の私には、それだけの忍耐力はないな。」

などと、笑って振り返られるのですが、
当時は我慢しているのだということすら、明確に自覚できていない状態でした。



その時の私は、自分自身を見失いかけていました。

でも多分、表面的には、それほど不安定な状態であるようには
見えなかったかもしれません。


何より自分自身が、“問題がある”ということにあまり気づいていませんでしたし、
ただただ忙しさの中で、流れていくように毎日を過ごしていて、
きちんと立ち止まって、自分の心や感情にしっかりと向き合うことなんてなかったからです。


でも思い返すと、あまり自覚できていなかったその頃から、
決して健康なこころの状態ではなかったのだと、今ではよく理解できます。

なぜそう思えるか、その理由の一つは、主人が当時教えてくれたことにあります。


「最近、夜、寝言で、何だかいつも“怒ってるよ”」

ある休日、夫婦で朝食を摂っていた時、何気なくこんなことを言われました。

「え、そう?何だろう・・・。
怒ってるような夢見た記憶もないし・・・。
ホントにそんなにしょっちゅう、怒ってる?」

主人にそんな話を切り出されても当の私自身、キツネにつままれたようなもので、
なぜ寝言でそんなに怒っているのか、よく分かりませんでした。

そして、


「日中、怒れずに我慢していることがあるから、
代わりに寝言で怒っているのかもね。」

なんて冗談で言っていたのです。

でもその冗談は、どうも“本当”だったのだと、後になって分かりました。


当時の私は、“夢”や“無意識”についての知識など、
ほとんど持ち合わせていませんでした。

その時交わされた夫婦の会話も、‟ただのおしゃべり”であって、
それが“意味ある”ことだったなんて、思いもしませんでした。



だけど、今になって考えてみると、睡眠時に意識が弱まり、
代わりに無意識が表出しやすくなっている時に、
そこで私は「怒っていた」のだと、自分なりに納得できました。

意識がなく、記憶もない眠りの時間に、
私の無意識はそこに押しやられていた怒りを表現していたのだと・・・。


自我(意識)では、“理不尽さ”に、自分がどこまで怒りを感じていたかも、
よく分かっていませんでした。

ただ、辛くてもとにかく我慢している。当時はずっとそんな状態でした。

でも、そこには確実に怒りがあって、
それはきちんと私の意識に感じ取られないまま
(だから、そのときはまだ自覚したうえでの表現なんてもってのほか)、
そのまま無意識に押し込められていたようです。


今となっては、“寝言”でいくらかでもガス抜きをしてくれていて良かったと、
冗談抜きで、自分の無意識に感謝したいくらいです。
(主人には迷惑をかけましたが・・・)

もし、ガス抜きもなくいつまでも無自覚なままでいたら、
いつか抗うこともできないほどの「不安定な状態」に、
見えざるを得ない形で陥ってしまっていたのかもしれません。



私はこの体験から、感情を抑圧することがどういうことなのかを、
少なからず理解できた気がしています。

また、“頭”で、道徳的態度にばかり固執することが、
自分の心の健康にとって果たして良いことなのか、
ということについても、深く考えるようになりました。

そしてそういう視点で、ユング心理学を学ぶと、
その意味するところが、違和感なく「すーっ」と胸に入ってくるのです。
綺麗ごとではない、ユングが残してくれた真実の言葉に感動すら覚えるのです。


 
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