心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

無意識

「ただ一つのもの una res 」

Cartesian Theater illustration published in a book!
 Cartesian Theater illustration published in a book!/Jen Garcia

前回記事の最後で、敢えて自分への課題として書いた一文も、
案の定・・・果たせないまま年を越し、(やはり無謀だったと反省)
早く本題に取り掛かりたいと思いながら日々を過ごしてきましたが、
そんな中、大変興味深い記事を見つけてしまいました。

よって、予定変更で今日は別の話題を取り上げます。


まずは、ぜひ以下のwebサイト記事をご一読ください。



脳が意識を生み出しているわけではない」


「死後の世界」が本当に在るかどうかについては、そもそも「‟現世”という世界をどう解釈するのか」という問題になってくると思いますし、「脳は意識の受け皿にすぎない」という表現にも、若干のズレを感じるので、個人的には、タイトルの言葉
100%同意ではないのですが、記事内の、
「脳が意識を生み出しているわけではない」 というランザ博士の言葉には、
‟激しく同意” でした。


上の記事では、量子力学の「二重スリット実験」において、「観察者がいる場合といない場合で、物質の性質に変化が現われるという‟非科学的な”事態が生じる」ことを、「物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない『観察』という‟意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっている」として、ランザ博士の「意識が物質世界よりも根源的だ」という考えを紹介しています。

また、ランザ博士より以前に、同様の考えを示していたとされる、物理学者についても触れられています。


量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

                                【上記webサイトより】
(ユング心理学的には、上記内容の「意識」を「無意識」という言葉に変換した方が理解しやすいかもしれません。)



以前にこのブログ「物理は心理(!?)」において、動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるという、アインシュタインの相対性理論と、ユングの「観察者の心的条件によって時空や物体が相対化される」という内容を取り上げました。



外的な事象、物質の動きや性質を捉える上において、その物質の動きや性質、時空などは「それ自体が絶対的」なのではなく、その事象を観察する側、観察者の(有無も含めた)状態が、物質を含めた外的世界を特定する大きな要因になっている、という論理。

これが真実
(と私も思っていますが) であれば、 れを体験(主観)しているのも、同時にその体験を通して世界の諸々を知ること(客観)ができるのも、「‟意識”を持った人」ということになり、その存在がなくなれば、世界もなくなるということになるはずです。


だからこそユングは、
「こころ」の価値を、そしてそれを持つ「個人」とその体験の価値を説いています。



ユングは心理学者として、「こころ」というものが、「無意識」というものが、いかに私たちの存在の‟根源”であるかをさまざまな論点から主張していますが、ユングの高弟であるフォン・フランツの以下の文が、ランザ博士等の論理に沿う形で、ユングの考えを端的に表わしていると思います。

物質はユングが推測したように心(psyche)の具体的な相(アスペクト)である。

それも個人的な心のそれではなく、集合的無意識のそれであり、諸元型はその場合、単に集合的無意識の構造特徴であるばかりでなく、宇宙形成要因そのものであるということである。

いずれにしても、共時性現象はこの方向を指し示している。
                                     『結合の神秘』



「脳が意識を生みだす」、「意識が脳を生みだす」という、‟どちらかが最初にあってもう片方が後から派生する”という因果関係ではなく、物質と心は相対的、共時的なものであると、ユングはそう考えていました。

そして、その両方の‟根源”が「無意識(自己 ゼルプスト)」であり、それはマクロコスモスもミクロコスモスもすべてを含む、「ただ一つのもの 
una res 」 だということなのです。




私たち人間は、ひとりの個体としても、心身(意識と物体)様々な ‟区別” のレベルで、同時に ‟同調”しており、またその構造は、もっともっと大きな宇宙を含めた、時空をも超える‟全体”としても同様である。

このような考え方は、ユングをはじめ、古今東西の哲学者や神秘主義者、宗教家、そして科学者にも多くの支持者がいる、神話の時代から受け継がれてきた「世界の原理」です。



われわれが自然をより高度な意味で、現象してくる一切のものの相対概念と考えるなら、その一つの側面は 物質的(physisch)であるが、もう一つの側面は霊〔精神〕的(pneumatisch)である。

                                     【C・G・ユング】                                             



あまりにも有名な老子の「道 Tao」も、ユングも注目していたとおり、‟同様の考え”を示しています。

物有り混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寞たり、独立して改まらず、周行して殆まず。
以て天下の母と為す可し。
吾れ、其の名を知らず、之に字してと曰い、強いて之が名を為してと曰う。
大なれば曰に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る。
道は大なり、天は大なり、地は大なり、王(人)も亦た大なり。
域中に四大有り、而して王(人)は其の一に居る。
人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
                                        『道徳経』


‟医学の父”と呼ばれるヒポクラテスも、次のように述べています。

そこにひとつの共通の流れ、共通の息吹きがあって、すべての事物が共感し合っている。
その有機体全体とその部分のおのおのが協同して、同一の目的のために働いている。

その偉大な原理が末端の部分にまで延長しており、そしてその末端の部分からそれは偉大な原理へ、ひとつの自然へ、存在と無へ向かって帰ってゆく。


関連して、ユングの言葉です。


「自分の必要とする一切」omne quo indiget を自分でそなえていること、自らを孕ませ、産み、殺し、呑み込むあの龍のように完全に自立的存在であることこそ、まさに変容物質の特徴なのである。       
                                     【C・G・ユング】 

ユングが研究した錬金術書物の一文。


いくつかの自然が存在するというわけでもなく、
存在するのは、神の自然物を凌駕するもろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である。

                                       『賢者の群』
 


日々、実際に私たちの体内で繰り広げられている 細胞レベルの活動、自らの身体でありながら ‟意識することなく”自律的に営まれているその驚異の現実を考えると、ひとりの人間も「変容物質の特徴」を備えた「もろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である」 という認識は、 (表現のイメージのみに観念的に惑わされないのであるとしても)最も理性的判断に適っていると私には思われます。





さてここで、過去記事の「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」 で引用したハメロフ博士の言葉をもう一度取り上げます。

「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。  
  

脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

量子コンピューターでは 「量子もつれ」という未知のプロセスを経て  情報が伝達される。

空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。



今日、始めの方で引用した「量子論の生み の親であるマックス・プランク」は「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と語ったとされていますが、「量子論の育て の親」と称されている ニールス・ボーアの「対応性の理論」に関連して、ユングが60年以上も前に既にこのように述べています。


宇宙的原理が最も小さな分子の中にさえも見出され、その分子はしたがって全体性に対応しているのである。


ちょうどある生命体のなかで、その異った諸器官が調和して働き、相互に意味深く適合し合っているように、この世界のなかの出来事は意味深い関係*1 の中にあり、この関係はどのような内在する因果性からも推論され得ないものである。
その理由は、いずれの場合においても、各部分の行動がそれらを超越的に秩序づける中心的制御に依存しているからである。            
                                   
 【C・G・ユング】 
(*1 この部分は、前述のヒポクラテスの論とも重なります)

ユングは、因果律では説明のできない現象があるとして「共時性」の概念を唱えました。

また、なぜ因果的な相関を見出せない中で、共時的な「同列の現象」、「対応した現象」が起こるのかということについて、経験的土台を軸にして、深層心理学の見地から考察、研究を重ねた上、「自己(ゼルプスト)」を定義しました。

そしてその過程において、異なる切り口、異なる立場、異なる分野の中に、同じ観念が語られていることを発見していたのです。



量子という最も小さな分子が、宇宙という最も広大な空間にも対応している。


今後、量子力学の解明が進んでいけばいくほど、物理学は否が応でも心理的現象への接近を迫られ、同時に、深層心理学の研究が進めば、その名のとおり
物理学を取り込んだ「超」心理学への理解が深まっていくのかもしれません。


荘子はこのように述べています。


(古代の賢者たちは)、事物が存在し始めない状態を彼等の出発点とした。
これはまさに極度の限界で、誰もそれを越えることはできない。

次の仮定は、事物は存在しているが、それらはまだ分離され始めていなかった。
次は、事物はある意味では分離されているが、肯定と否定が未だ始まっていなかった。

肯定と否定が存在し始めると、道は衰えた。
道の衰えの後に、一面的な執着心が生じた。

外部から聞こえることは、耳に届くだけでそれ以上浸透することはない。
知性は分離された存在を導こうとしない。
かくて、魂は空となり、全世界を吸収する。
この空をみたすものこそ道である。

その内なる目と内なる耳を用いて、事物の核心を貫ぬくこと。
すると知的な知識は不必要となる。


ユングも、自然科学的な‟知性だけ”では事象を説明しきれないと考えていました。


人間はその肉体と精神において「この世界の小さき神」であり、小宇宙である。

従って人間は神の如く事象の中心であり、すべての事象は人間を中心としてまわりをめぐっている。

このような思想は、現代人の精神にとってはまったく奇妙なものであるが、自然科学が人間の自然への従属性とその原因への極度の依存性を証明するまでの二、三世紀以前までは、人間の世界観を支配していたのである。

事象と意味(これは今ではまったく人間だけに帰着している)との間の相関関係というこの概念は、非常に遠い暗黒の領域に追放されたので、知識人たちはその足跡をまったく見失ってしまった。

ライブニッツ(G.W.Leibnitz)の科学的説明の中で、そのことが主要な項目のひとつを形作っていたが、その後、いささかおくればせながらショーペンハウエルがそれを思い起こしたのである。


近・現代の理性には、物質的なものを過大評価するあまり、精神的方向づけ、すなわち霊(pneuma)による方向づけが欠けている。


物質と心。物理学と心理学。

それぞれが個別の立場だけに執着してしまうと、どこかでその発展は頭打ちにならざるを得ないのかもしれません。




締めくくりに、過去のブログでも何度か引用した、
哲学者の西田幾多郎の、私が大好きな言葉をまた取り上げます。


我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。

即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                    


 ‟すべての道は自己(無意識)に通ず”





さて、最後は映画の話題です。

このブログの書き始めとちょうど時を同じくして観た映画  『ドクター・ストレンジ』

狙ったわけではなかったのですが、奇しくも、今日の記事と重なる「意識と物質の相対性」や「精神世界と物質世界」のおはなしで、私にとっては、ただのアメコミ原作ぶっ飛び魔術師映画ではなく、本当に現実にも通じている深遠なテーマを扱っている作品だと、映像はもちろん、内容的にもとても楽しめました。(一方、テーマが深遠すぎて、まとまり切れていない感も拭えませんでしたが、どちらにせよ制作陣には興味が湧きました。そもそも原作を知らないので、映画のそれがどちらから生まれたのかも私には全く分からないのですが・・・。)

特に、エンシェント・ワンの(最期を含む)いくつかのセリフには、個人的にはとても感じ入るものがありました。

あと、エンドロールに美しい曼荼羅の映像が次々と流れてくる場面があります。
自分のこころから自然に湧き出てくる曼荼羅と意味合いは少し異なるとしても、「ただ見ているだけ」でも、個人的には心落ち着くなにかを感じずにはいられませんでした。
これから映画に行かれる方はぜひ、最後まで席を立たずに、大画面でその映像美を楽しんでみてはいかがでしょうか。

‟それ”は、今日のブログのタイトルである「ただ一つのもの」の象徴です。

見逃すのはもったいないなと思います。



【参考文献】
C・G・ユング『結合の神秘 1 ユング・コレクション (5) [単行本]』 人文書院(1995-08)
『老子』 2013年8月 (100分 de 名著) [ムック] NHK出版(2013-07-25)
C・G・ユング『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]』 海鳴社(1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)


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「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」


Paul_Gauguin_-_D'ou_venons-nous








 D'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?


先日、とても興味を掻き立てられる番組を見つけました。

即、録画予約をして、まとまった時間がとれたときにじっくりと視聴したその番組は、予想を超える、
ドキドキワクワクものの内容でした。
 
それは、いつも優先順位の後ろに追いやってしまっている、このブログの更新に、集中させてくれる
エネルギーを私に与えてくれました。




案内役が"モーガン・フリーマン"ってだけでもう、直観的に「これは!」などと思ってしまったのですが、
観た後には「まさに!」と、これまた一人で勝手に納得してしまったわけです。(その理由は後ほど)



後で知ったのですが、この「時空を超えて」シリーズは、以前既に放送されていたようですね。
その時には全く知らず見逃していた私ですが、この度、事前に情報をキャッチできて本当に
良かった、とつくづく・・・。
正直、「こんな番組が作られていたなんて」と、いろんな意味で感動でした。




NHK Eテレ モーガン・フリーマン 時空を超えて・選「死後の世界はあるのか?」

各学問の研究者が、自身の専門分野を切り口にして様々な観点から検証。
脳神経外科の権威、ハーバード大学のエベン・アレクサンダー博士の"臨死体験談"や、多くの臨死体験者達が語るそのような体験の共通点、ちなみに、ユングにも臨死体験にまつわる興味深いエピソードがあることは有名で、自伝にその詳細が残されています。そして、ユングの体験にも共通点が語られていることを確認できます。)、その他、意識や魂についてなど充実の内容でしたが、その中でも私が特に惹きつけられたのは「量子もつれ」の話でした。


以下、番組からの引用です。


アリゾナ大学 意識研究センタ―所長のスチュワート・ハメロフ博士は、麻酔科医として多くの患者を診るうちに、脳の活動と意識との関係性を知りたいと思い、イギリスの著名な物理学者  ロジャー・ペンローズと共同研究を始めた。


・脳細胞の中にある「マイクロチューブル」と呼ばれる構造
マイクロチューブルは、脳細胞の中にある管のような構造で、「細胞骨格」の一種であり、細胞の構造を決定づけている。
マイクロチューブルは、細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられる。
脳を「量子コンピューター」として機能させる役割を担っていると考えられるのである。

脳は一つのニューロンが活動すると、シナプスを通じて他のニューロンに、そして脳全体に信号が送られていく。
これが従来の考え方だが、量子コンピューターでは
「量子もつれ」という未知のプロセスを経て
  情報が伝達される。




ハメロフ博士はこのように述べます。

「量子もつれ」は意識と深い関係があると考えている。

ある場所でニューロンの活動が起きたとする。
すると空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。


量子論によれば 「何もない空間でも情報が伝わる」 というのです。


「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。
あらゆる方向に情報が伝わるため、ある場所で何かが起きると、影響がすぐに離れた場所にも及ぶ。

この説が正しければ、マイクロチューブル内の情報が、脳の外にある広大な空間と繋がる可能性がある。
脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

人間の意識は脳を構成するニューロンよりも、もっと基本的な宇宙の構成成分のようなもので
出来ている。
                                          
   
                                 

さらに、ハメロフ博士が定義した「原意識(プロトコンシャスネス)」について、そしてその他の研究者の意見も含め、全編を通して、まさに番組内でモーガン・フリーマンが口にした問いかけ、「意識とは
何か
という問題です。意識とはどこから来て、死後、どこへ行くのでしょうか。」という知的好奇心を、
十二分に刺激してくれる話ばかりでした。



ハメロフ博士は、「生物学上の様々な現象が、量子論を応用することで説明可能だと(近年になって)分かってきている」とも、述べられていました。

「ユング心理学の"シンクロニシティ"の現象が、いつか、量子論によって説明できる日も来るのかも
しれない。」などと、量子論なんてまったく分からないけど、ただの門外漢としての一個人の夢は
膨らみました。



□■□■□■□■□

さて、ここからは少し話題を変えて、前述した(その理由は後ほど)について書きます。


2014年に公開された映画 『LUCY/ルーシー』


「10%しか使われていない人類の脳が徐々に覚醒し、100%使えるようになるとどうなってしまうのか!」というようなフレコミを見て咄嗟に、
「10%しか意識化できていない人類が、100%意識化できるとどうなってしまうのか!」
という置換を、私の頭の中のマイクロチューブルが勝手におこなってしまい、チラリと見た予告編と、
「主人公の名が"Lucy"」という点にも淡い期待を抱きつつ、映画館に足を運びました。

さてその(個人的)感想はというと、鑑賞前の"淡い期待"は脆くも崩れ落ち、近年見た映画の中でも
トップクラスの衝撃を与えてくれた、大傑作でした。
(よって、我が家の「DVDコレクション」にも当然仲間入りです)

今日の記事、ご紹介した番組の内容に関心が高い方であれば、多分、この作品を「トンデモ映画」
ではなく、とっても"面白く"観ていただけるのではないかと思います。


ちなみに、当時鑑賞後につぶやいた私の一言感想です。 ↓
意識化が極限になると「人」はどうなってしまうのか。
そのイメージが見事に表わされていたように思いました。

個体化の全過程は弁証法的であり、いわばその「終極」は、中心の「空虚さ」と自我が直面することです。
ここには、あらゆる経験の可能性の限界があります。
自我は認識の参照点として解消されるのです。
しかし、自我は中心と一致することはできません。
もし、一致したとすれば、われわれは無意識になってしまうでしょう。
つまり、自我の解消は、最善の場合でも無限の近似にすぎないのです。
自我がこの中心を簒奪すれば、自我は対象を失ってしまいます。
                                              【C・G・ユング】



前置きが長くなりましたが、この映画に、権威ある脳科学者役で、モーガン・フリーマンが出演して
います。

映画とドキュメンタリー番組と、どちらの出番が先だったのかは知りませんが、とにかく「LUCY」→
「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」と観た私は、「これは!」「まさに!」と、
モーガン・フリーマンが、2作品の共通の全体像への橋渡しをしてくれたような感覚を持ったのです。

上手く表現できませんが、モーガン・フリーマンが"案内役"でなかったら、タイトルにその名前が
なかったら、私は「時空を超えて」を、未だ知らずに見過ごしてしまっていたかもしれません。
そして、2つの作品の相乗効果が、(あくまでもイメージではありますが)理解の一歩を確実に
推し進めてくれたのは間違いありませんでした。


現在ではまだ仮説にすぎない意識や魂、こころについての理論も、これから少しずつさらに発展して
いくのだろうと、未知の世界の広がりや可能性を思い、心が解放されていくような気さえしました。



□■□■□■□■□




「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」も「LUCY」も、"脳科学"の視点から人間を探求して
いますが、その視点を"こころ"に置き換えても、探求の道は同じ方向に向けて、交差しつつ、
繋がりあいながら、開けてくるのではないでしょうか。

エベン・アレクサンダー博士が自身の臨死体験を「神経生理学や神経解剖学の様々な知識を駆使して自分の体験について考えてみた。しかし、私の身に起きたことを神経科学によって説明することは不可能であるという結論に至った」という話や、ハメロフ博士が「脳死宣告を受けた患者の、血液が流れていない脳に、ニューロンが爆発的に活動している現象を確認した。驚くべきことだが、まさにこの目で見たのだ。」といった話など、やはり、 脳とこころは決して切り離せるものではなく、深いレベルで相当に影響しあっているのだと、今まで夢分析を受けてきた自分の体験も重ねて、強くそう思います。


というより、西田幾多郎が述べていることそのものだと、私はその考えに深く共感しています。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。


我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                     『善の研究』




それでは、ユングの自伝からの言葉で、今日は終わりにします。


理性はわれわれにあまりにも狭い境界を設定している。そして、われわれに既知のこと―それに対しても限界をもって―のみを受けいれしめ、既知の枠組の中で生きてゆくようにせしめる。
それは、ちょうど、われわれが生命がどの程度の範囲までであるかを確信しているのと同様で
ある。
実際のところ、われわれは毎日毎日、意識の限界をこえて生きている。
つまり、それに気づいていないが、われわれの中で無意識の生命もまた、続いているのである。


心の一部は、時空の法則に従わないという徴候がある。

顕在的な世界の背後にある異なった体系をもつ世界の存在の可能性は、避けることのできない問題となり、われわれの世界は、その時間、空間、因果律と共に、その背後あるいは、下に存在する他の規範によるものと関係している事実に直面しなければならない。





奇人変人ノススメ




昭和から平成にかけての時代をつぶさに見、風刺してきた、こんな人生、送ろうと思ったって
なかなか送れない。
その結果水木さんが得たのが「人生におけるけたはずれの経験値」である。
                                              【大泉実成(編者)】



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前回記事を書いたのが秋ですから、年末年始どころか、季節をひとつ飛び越してしまった感じですが、
その間に、とてもとても残念なニュースが飛び込んできました。
昨年11月末の 水木しげるさん の訃報です。

「心の有り様」の記事の続きもずっと書きたいと思っていたのですが(必ず書きます)、
でもやはり、今日は私の尊敬する水木しげるさんについて、お悔やみの気持ちも込めて、
"私の勝手な考えと思い"を綴っていきたいと思います。



ご逝去の一報を目にして、胸に込み上げてきたのは、
「ああ、これでまた、自己(Self)の体験者である方がひとり、お亡くなりになった・・・。」
という、何とも言えない寂しい気持ちでした。

もちろん、面識などあろうはずもない水木しげるさんに、私が敬意を込めた関心を持つようになった経緯は、5年以上も前にこのブログで書いたとおりです。

「ゲゲゲの女房」
「妖怪とは人の心の中にいる」
目には見えないもの
無為に過ごす


「妖怪とは人の心の中にいる」の中で、
「ご自分の深いところとのパイプを、水木しげるさんも(もしかしたら)持っていらっしゃるのかも
しれません・・・。」
と、当時書いたのですが、その後、水木しげるさんが残された"名言"を知るうちに、その思いは、
私の中で確信になっていきました。

また、ある番組を通じて知った、
水木しげるさんが出征先の現地で「ぬりかべ」に"命を助けて"もらった体験、
幼少期にも"妖怪を見た"ことがあるというエピソードや、
(それらの幻視は、水木しげるさんにとっては"現実"だったはずです)

そして、以前の記事でも少し書きましたが、戦争の混乱時、死を強く意識せざるを得ない中で、
ゲーテを始めとする哲学書や聖書、仏教書をむさぼるように読み、「生死」について真剣に
"悩み、考えられた"こと。

何より、実際に戦地に赴かれ、想像を絶する凄惨な状況を生きぬかれたその"ご体験"。


水木しげるさんのこのような"けたはずれの人生経験"や、残された"名言"を知るたびに、
私にとっての水木しげるさん像は、ご自身がそうおっしゃられたとおり、
「漫画家」から、漫画という表現を用いられた「哲学者」に変わってしまったのです。


わたしゃ、あんた、ベビィのころから哲学者でしたよ。

マンガ家というふうに見ると、水木さんの正体はわからんです。
マンガは、生活の手段であり、表現の手段なんです。
                                            





漫画を描くことを通じて、自分が"何をしているのか"・・・。

目に見えないものが、神から妖怪にいたるまで、どのようにつながってるか、目に見える形で、
レンガのように積み重ねていかないとならんわけです。

目に見えないものを形にするのはアボリジニと水木さんです。
あとはあんまりがんばっとらんです。
せっかく精霊たちが自分の形を欲しがっとるのに。

私は漫画を描くときに、半ば無意識になるわけです。
だから、何か外側の力に描かされているという感じが半分以上あるんです。
ただ、それを描くことによって非常に充実感があります。

私はいつも、私の書いたものの中に、いわゆる"霊"がふくまれているわけなのだが、
誰もそれに気づいてくれないので、不思議に思っている。



"偶然"のことも・・・。

水木さんが考えているよりも、偶然のほうが賢かったです。
偶然のほうが賢いんですよ、人間が考えているより(笑)。



"夢"のことも・・・。

いや、我々は夢の世界(無意識)からやってきて夢の世界に還る存在にすぎない。
夢の世界が故郷であり実在なのだ。いまは人間の世界に生きまた故郷にかえっていく。

夢現っていうのがあるようですね。
夢のときに明快な判断が与えられたりする。
夢は三分の一ぐらい現実に入ってるんじゃないでしょうか。

セノイ族は"夢"について、かなりくわしい民族らしいが、なんとそこに、ものすごく妖怪が
いたのには驚いた。
夢や無意識の状態というのは、精霊を感じる力が、覚醒時の五倍もあるらしい。

(前略)霊的なもの、神との交流点だと私は考えています。
(中略)夢で伝授されるんですよ。



"無為"の意味も・・・。

努力は、人を裏切る。
少年よ がんばるなかれ。
あわてずにゆっくりやれ。
なまけ者になりなさい。

("自己"を信じきることができないかぎり本当の実践は不可能です。安易な真似事はもちろん、ただの怠け者では、その先に待ち受けているものは失敗や転落です。「自然な流れに委ねる」)


そして"無意識"についても・・・。

(前略)賢くなってきて、いろんなことに気づくようになってきた。
・・・・・・人間は、無意識から生まれてきて、気がついてみると、自分があるでしょう。
そしてまた無意識にかえっていくという感じでしょう。
無意識から生まれて・・・・・・また無意識に・・・・・・
そしてまた無意識から生まれて来るわけで・・・・・・
だから子供が無意識から気がついた時は、自分があるでしょう。
さらにまた無意識に帰って・・・・・・そして無意識からまた生まれる・・・・・・。



水木しげるさんは、すべて"知っておられた"のだとしか思えません。
だからやっぱり、そのご正体は哲学者。
しかも"実践"を伴って生き抜かれた、ホンモノの哲学者(philosopher)。


闇も光も体験されたであろうその人生は、まさに、
「神から妖怪にいたるまで、どのようにつながっているか」
をご自身で体得された、"自己実現"の歩みであったのだろうと、私にはそう思えるのです。




そして、体得者の水木しげるさんは、このような言葉も残していらっしゃいます。


(自分の幼年時を振り返って)
それにしても、ベビィのころから変人だった。

水木サンが長年にわたって古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が
多いことがわかりました。

さあ、あなたも、奇人変人になりましょう。ワッハッハ。



私は幸せのことしか考えないからよかったのです。
今の人々は、わざと幸せにならないよう努力している。



生きている以上、「幸福」を求めない人はまずいないと思いますが、だからこそ、水木さんの言葉が
意味していることは何なのか。

なにより、水木さんご自身の人生の軌跡そのものが、私たちに何を物語ってくれているのか。

大マジメに"変人"を目指してみるのも、充分価値があることだという気がします。



(仮面を買いながら)
同じものはいらない。
同じものはいらない。
他人と同じような仮面を被っていたら、安全だし、安心です。
でもそれでは、"奇人変人"にはなれません。



意識という「常識」の世界で、自覚して"奇人変人"を生きることは、
その覚悟や勇気を持つことを必然的に求められるようになるはずです。

「出る杭は打たれる」のは世の常ですし、"変わった人"には、色々と風当たりも強くなって
くるのかもしれません。




でも、水木さんは、様々な困難にも妥協することなく「自分だけの道」を切り開かれました。

「誰が何と言おうと」、"自己を生きる"ことを貫かれたのだと思います。


(奇人変人について)
こうした人たちには、好奇心の塊のような、わが道を狂信的なまでに追及している人が多い。
つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、わがままに自分の楽しみを追い求めているのです。
だから幸せなのです。






西田幾多郎や夏目漱石も、同様の「幸福論」を語っています。


真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。                           
                                                【西田幾多郎】


我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
                                                 【夏目漱石】 
(夏目漱石のこの言葉は逆説的に、自己実現に伴う苦難を彷彿させます)



すべて、ユング派でいうところの「個性化」、「自己実現」の生き方です。






長い自我の旅を終えられ、ご自身がおっしゃられていたとおり、
「無意識から生まれてきて、そしてまた無意識にかえっていかれた」、水木しげるさん。

一ファンとして、たった一度でもいいからお会いしたかったです・・・。


心より、こころより、ご冥福をお祈り申し上げます。




【引用文献】
水木 しげる 『水木サンの迷言366日 (幻冬舎文庫) [文庫] 幻冬舎(2010-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
夏目漱石 『私の個人主義 (講談社学術文庫) [文庫] 』 講談社(1978-08-08)


壁の向こう

今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価が
なされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、
いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)


私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だ
ストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこう
と思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む
機会はないままでした。

しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、
「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、
ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。

私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい
「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。


その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で
壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前
このブログでも取り上げた
、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。



しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、
ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、
文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが
味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。

壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。

壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」
おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)


そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、
「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います。



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"
自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、
「私」を保つことが出来ていたのでしょう。

一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、
あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。

そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、
改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた
未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、
あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、
その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。

もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。


「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や
 氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと
  思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                               『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。
                                               【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、
その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせて
くれようとしているように思われます。

そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。

現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると
感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせる
ことによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                              【河合隼雄】


『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、
多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。




さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。




心の有り様

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もう10月・・・。
中秋の名月も過ぎてしまい、日に日に秋の深まりを感じます。

今年の夏休みも、なかなか「静かに腰を据えて」とはなりませんでした。
ずっと、この場で書きたいことは色々と頭に浮かびつつも、結局は手つかず状態。
でも、今はそれで良し、と思うことにしています。


純粋にしたいことと、やっておかなければいけないと思うこと。

どちらも捨てがたい、それは決して強制ではなく自分自身の気持ちで、その自覚があってもなお、簡単に折り合いがつくものではありませんが、揺れた時には、「葛藤保持力」(河合隼雄先生が表現された深い意味の言葉です)の一言が、いつの頃からでしょうか、自然に頭に浮かんでくるようになりました。

そうすると、少し気持ちにゆとりが生まれてきて、多少なりとも"揺れていること自体"を受け入れられるようになります。
(おかげで記事の更新はさらに遅れますが・・・)



そもそも人間は、その根本的な存在原理として「矛盾を抱えた葛藤する生きもの」なのです。
そのことを理解できれば、「葛藤保持力」を実践する上での支えとなります。

人が「有る」こと自体が、大きな矛盾を抱えていることについては、河合隼雄先生はじめ、このブログでよく取り上げる賢者たちも、みな同様に指摘している哲学的な命題です。

生きている限り決して逃れることのできない矛盾の意味について知ることが出来れば、それは、
主観的な揺れを客観的に受け止める静かな力となり、沸き起こって来る情動を、無理に抑え込む
のではなく、かといって無暗に振り回されるのでもなく、「そのまま」にしておける、というコントロールが
(いくらかは)できるようになるのではないかと思います。

葛藤自体をすぐに、安易に、解消しようとせず、「そのまま」にして抱える。葛藤保持力。


 
人という存在がそもそも「矛盾」していることについては、「心の有り様」を熟慮することが不可欠と
なります。


意識というものがなければ実際上世界はない。

世界は心に意識され、反映され、表わされてはじめて存在する。
意識は存在の一条件なのである。                  
                                               
『人格の発展』

パラドキシカルな性質は、全体性が一部は人間の意識から、一部は無意識からなっていると
いう事実に照応している。                           
                                             『心理学と錬金術』
                                        
                                                【C・G・ユング】


明らかになることは、力の概念が二つの力のなかへ二重化されて、現実的になるということ、そしていかにしてそうなるかということである。
これら二つの力は、自分だけで存在するものとして、現に在る

悟性と物の内面という二つの極を結び合わせる媒介〔媒語〕は、力の展開された有であり、
この有は、これから後は、悟性自身にとり消え去るものである。
だから、この有がつまり現象なのである。

一般者は、物の内面をなすものであり、その内面は、二つの力のたわむれが自己自身に帰る
〔反照する〕ことである。
                                        
『精神現象学』 【ヘーゲル】


世界は絶対矛盾的自己同一
として、自己自身を超えたものにおいて自己同一を有ち、
我々は超越的一者に対することによって個物なる
が故に、我々は個物的なれ ばなるほど、
現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を超えて、反省的であり、思惟的で
あるのである。

                                 
『絶対矛盾的自己同一』  【西田幾多郎】


独坐大雄峯は根本的無分別の世界である。
絶対が相対にあるところがある。
が、無分別が分別になっただけではまだ十全でない。
ここに批判的なものがなくてはならぬ。
無分別と分別の世界の交加、相即ともいうべき、もう一つの働きが出なくては、
事の始末がつかぬ。
ここが丈すなわち打つ心であります。

(前略)
いわゆる阿轆轆地に転じなければならぬ。
そして一たび転ずれば必ず両頭に走るのです。   
転ずるというとき無分別が分別になる。
無分別が転ずれば両頭に走るようになるのだから、ここに是非善悪の世界が出て来る
有無の世界が出て来る。

                                     
 『無心ということ』 【鈴木大拙】
  
          
有名な哲学者、カントもこのように述べています。


私たちの認識がすべて経験をもってはじまるということについては、まったく疑いの余地は
ない。

私たちのうちに生じるいかなる認識も、時間的には経験に先立つものではなく、認識はすべて
経験をもってはじまるのである。
しかし私たちの認識がすべて経験をもってはじまるにしても、だからといって、私たちの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。

                                             『純粋理性批判』 


夏目漱石も、(作品を読めば疑う余地はありませんが)「無意識」はもちろんのこと、「心の有り様」を
知っていたことがよく分かります。


普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続
して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。

(中略)すると煎じ詰めたところが私もなければ貴所方(あなたがた)もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。

通俗の考えを離れて物我の世界を見た所では、物が自分から独立して現存しているという事も
いえず、自分が物を離れて生存しているという事も申されない。
換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、
いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。
(中略)だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に命というのであります。

甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときは既に甲は意識しておらん
訳です。
それにもかかわらず甲と乙とを区別する事が出来るならば、明瞭なる乙の意識の下には、
比較的不明瞭かは知らぬが、やはり甲の意識が存在している
と見做さなければ
なりません。

意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。
向後どこまで分化と統一が行われるか殆んど想像がつかない。
                                                    
                                           『文芸の哲学的基礎』


人間は、無意識から意識を区別することで、自他を含めた"世界"を認知できるようになります。
意識が有るからこそ、無意識を知る〔反照する〕
ことも可能となります。

そして、この「心の有り様」が矛盾(二律背反)なのです。


意識は自己自身に対している。

それは、区別されていないものを区別することである。
言いかえれば、自己意識である。
私は私を私自身から区別する。
そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している
〔無媒介に私にとってある〕。

一つの自己意識がもう一つの自己意識に対しているのである。
こうして初めて、自己意識は事実上存在していることになる。

自己意識に対しては別の自己意識が在る。
つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。

二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめると
いうふうに規定されている。

                                         『精神現象学』 【ヘーゲル】


表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、
知るものと知られるものとが一であるのである。

何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、
自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。


表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、
真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。

                                         『デカルト哲学について』


精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。

                                              
                                                『善の研究』

                                               【西田幾多郎】



カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、
人間というものがこういうものだから致し方ない
と思っています。

人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。
                            
                            
 『カウンセリングの実際問題』 【河合隼雄】

「心の有り様」を考えれば、 まさにそこに向き合うカウンセリングについても、一筋縄ではいかない
ことは「致し方ない」のだと納得できます。




日常の様々な場面で大小の葛藤が生じるのは人の世の常だと思いますが、その葛藤を
"とりあえず"ですぐに解消しようとするのではなく、「保持する意味」については、今回は下記の引用に留めることにして、次の記事で改めて触れていきたいと思います。



悩みや問題があるのが問題なのではなくて、問題があるのにちゃんと悩んだり迷ったりしない
ことが
問題なんです。
迷いを持ちこたえる力は大事です。                                  
                                   『こころの子育て』 【河合隼雄】


個性化プロセスによって私が意味するのは(中略)、二つの基本的な心的事実の間の
葛藤から
生まれてくる、発展の過程、ないしは経過である。

                                            【C・G・ユング】
                                              

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。

実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、
この衝突の際においてである。

分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる。


我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と
一致するに従って幸福となる
のである。


                                    『善の研究』 【西田幾多郎】



【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
C・G・ユング 『心理学と錬金術 (2) [単行本]』 人文書院(1976-10-01)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)
西田幾多郎 『絶対矛盾的自己同一 [Kindle版] 』(2012-10-01)
鈴木大拙 『無心ということ (角川ソフィア文庫) [文庫] 』  角川学芸出版(2007-09-22)
竹内 昭 『哲学案内 [単行本] 』 梓出版社(2004-04)   
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)
西田幾多郎 『デカルト哲学について [Kindle版]』(2012-10-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)
河合隼雄 『Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [文庫]』 朝日新聞社
 (2001-09)


普遍と個別

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クーパーはマーフとその場所でその時間に通じ合った。
クーパーはそれを知っていた。
マーフはそれを知っていた。



前回記事で取り上げた映画 『インターステラー』
かなり時機を逸した、そして鑑賞した方にしか分からない内容となってしまいますが、今日は前回に
引き続きこの映画を題材に書いていこうと思います。


主人公クーパーの生死にかかわるクライマックスの場面。
それは突如、クーパーと娘のマーフそれぞれが違う時空間に居ながら接触するという、
(私は)想定していなかったシーンへと進んでいきます。

そしてそこで、クーパーによってマーフに伝えられた情報を、マーフが理論化、さらに実用化することによって、結果的に人類は救われました。

『インターステラー』での世界(時空)は、いわゆる通常の時系列の枠を大きく逸脱しているので、
鑑賞している側も、描かれたシーンの因果関係を頭の中で整理することを要求されますが、
バラバラになっていたピースがきちんとはまった瞬間、マーフの子ども時代の"奇妙なオカルト現象"のその意味と、父娘のまさに時空を超えた絆、愛情が、胸に自然な感動を呼び起こしてくれます。

それは、その体験が特殊なものであるからこその「特別な感動」で、マーフの(一連の)体験を
"想像できればできるほど"、自分の中で強烈なものとなってくると思います。


ラストシーン。
父と(より年老いた)娘がこっそりと語り合う場面で、人類の危機を救ったマーフは、その智慧をどこから授かったか周りの人たちにいくら訴えても信じてもらえなかったこと、そして結果的に
「"私"の功績に なったわ」と、苦笑いしながら語っていました。

その"体験"は、クーパーとマーフという"当事者たち"にしか分かり合えない「秘め事」となりました。
(そうならざるを得ませんでした)
しかしその「二人だけの秘め事」により、物語の中では、人類全体が救われることとなったのです。



マーフとクーパーの体験を理解してくれる人は誰もいませんでしたが(その出来事を再現するという
科学的証明は不可能でしたが)、それが人類救済につながったことは、(映画の物語としては)
事実でした。





普遍的真理が非常に「限定的に」「個別的に」もたらされることについては、ユングも西田幾多郎も、
そして、(哲学者の)ホワイトヘッドやヘーゲルも指摘しています。


それは、ユング心理学の概念である「シンクロニシティ」にも非常に深い関連があり、因果律では説明ができない、(われわれの意識が作り上げた)一般的な「時間と空間」の捉え方では理解できない、
そのような「心的真理があるのだ」とユングは述べています。



哲学者のホワイトヘッドは次のように語っています。

われわれが直接経験の事柄を表現しようとするたびに見出すのは、
その理解は、それ自身を越えて、その同時的なものに、その過去に、その未来に
そして その限定性を示す種々の普遍的なものに、われわれを導いていく ということである。
しかしこれらの普遍的なものは、まさしくその普遍性によって、
さまざまなタイプの限定性を伴った 他の事実の潜勢態を体現している。

科学が情緒を問題にするとき、当の情緒は知覚対象であって、直接的な情念ではない。
他人の情緒であって、われわれ自身のものではない。
少なくとも回想におけるわれわれ自身の情緒であって、直接性におけるそれではない。

強調されるべき点は、経験される事物の、そして経験の働きの、
執拗な特殊性
 である。

「その狼がその羊をその場所でその時間に喰い殺した。
 狼はそれを知っていた。
 羊はそれを知っていた。
 そして黒禿鷹はそれを知っていた。」     
                                  【 A.N.ホワイドヘッド】

「われわれ自身のものではない」「他人の情緒」を、直接的に100%知ることは不可能ですが、
当人にしかわからないというその「限定的経験」という「特殊性」こそが、実は「普遍的なものに、
われわれを導いていく」のだということ。
パラドックス。

「その場所でその時間にいた"狼と羊とそれを見ていた黒禿鷹"」にしか、知り得ない
「直接経験の事柄」というものがある。
それは主客合一、一般的な時空の概念を越えた、古今東西の先人たちがさまざまな表現で
表している状態、特殊的な体験です。




ホワイトヘッドが「直接経験」と現わした内容を、西田幾多郎も同じく、
「直接経験」「純粋経験」 などと表現しています。

まず、「時間」について、前回記事に書いた、ユングの時空間に関する考え方、
ひいては相対性理論にも通じる考えを次のように記しています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには
先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。
然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。
されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に
由って成立するのである。

意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬ
ことになる。

                                      【西田幾多郎】


さらに「物理と心理」についても、次のように論及しています。

(一般的な)物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。

統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、(略)物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。
(ユングの類心的元型に通ずる)

我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。
ただ我々をして物理其物の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。
識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。

                                      【西田幾多郎】

先ずは「無知の知」の自覚が必要のようです。



そして、"普遍と個別"については"精神の発展"であるとしています。

今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わし来るのであるということができる。

精神の発展において始めて事実成立の根本的性質が現れてくるのである。
ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。

合目的なる自然が個々の分立により統合にすすみ、階段を踏んで己が真意を発揮する
見るのが至当である。

我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合する
ばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合する
のである。
                                      【西田幾多郎】

個々の人間が、「真の自己を知れば」「神意と冥合する」というのです。
前記のホワイトヘッドの「直接経験の事柄」も、同じと見るのが妥当なようです。




そしてヘーゲルは、"精神の発展"、 "普遍と個別"について 、『精神現象学』の中で延々と 論じて
いますが、今日は関連する部分の一つを挙げてみます。

個人の行為の結果は、現実としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、
個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの個々の個別性として、
自らを保とうとしている。

この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。
すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式を
もっているにすぎない。
つまり、その特殊な内容が、そのままで一般的なものと認めらるべきである、というのである。

だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。
むしろ、自分たちとは別の人のこころが、実現されていることに気がつく。

(略)
意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気づく。
意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。

                                       【ヘーゲル】




最後にユングの主張についてです。

前回記事で取り上げたとおり、ユングは、空間と時間について、それらは「物体の単なる見かけ上の
属性にすぎず」、「心的条件によってそれらが相対化される」可能性は有るとし、それは
「心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる」と考えました。

そして、ユングの概念として有名な共時性について、その現象の基本的な要素は、
「非因果性、相対的な同時性、意味の一致」の三つであるとし、この原理を心理的なものと
物理的なものとの間の第三のものとすることによって説明ができるとしました。

私は根底的な元型の本性を確立できるような、きわめて多くの共時的出来事を個人的に
見てきました。
元型それ自体は、類心的、つまり、先験的であり、こうして、数や空間や時間のカテゴリーを
超えています

つまり、それは統一性と不変性に近づくのです。
意識のカテゴリーから解放された場合、元型は、意味深い暗号(偶然の一致)の基盤になりうるといえるでしょう。 
                                      【C.G.ユング】

共時性は物理学における非連続性ほどにはわけのわからぬ、ないしは神秘的なものではない。ただ、因果律の卓越した力に対する深い信仰心によって、知的な困難が生じ、原因のない事象が存在し、また存在したということを考えられないこととしてしまうのである。

因果的な説明の欠如のために、意味のある配列として考えねばならなくなる。
しかしながら、(略)それらの「説明不可能性」は、その原因がわからないという事実によるのではなく、原因が知的な言葉では考えることすらできないことによる。

このことは、必然的に、空間と時間がその意味を失うか相対的なものになった場合のことである。というのは、そういう状況のもとでは空間と時間を連続体として前提している因果性が
もはや存在するとはいえなく、まったく考えられないものになるからである。

共時的現象を自然事象における特殊な部類として理解することを可能にするばかりでなく、
偶発性を、一部には永遠の昔から存在する普遍的な要因として、また 一部には、
時間とともに生ずる無数の個人的な創造行為の総計として、理解するのである。
                                   
                                             【C.G.ユング】 

狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない

狭義の共時性は一般の非因果的秩序性―すなわち観測者は一致の仲介者を認識できる
幸運な位置にある心的ならびに物理的過程における等価性―であるにすぎないという観点に、
私は実のところ傾いている。
                                       【C.G.ユング】




クーパーとマーフが体験したことを、他者に説明できず、よって理解もされなかったことは、それ自体
ひとつの「法則」だったのかもしれません。

科学者の説明法は知識の一方に偏したるものである。 

真の一般と個性とは相反する者でない、
個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる
                                      【西田幾多郎】

物理的にということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
                                            【C.G.ユング】 


でもそれが科学的に証明できない出来事であったにせよ、二人にとってはまぎれもない真実で、
結果的にそれは世界を変えることに繋がり、他者にも多大な影響を与えました。

そしてその物語は、けっして"ただのファンタジー"などではないのだと、私はそう感じました。


クーパーとマーフは、お互い(特にマーフは)長くて辛い時を経て再び繋がり、マーフは子供時代の
「あの出来事の意味」をやっと知ることができました。
大事なものが始めから布置されていたんですね。
マーフの“その時”の感動が伝わってくるようでした。



『インターステラー』
本当に色々と感じさせ、考えさせてくれる意味深い映画でした。

そして一見、荒唐無稽で私たちの日々の暮らしとは全くかけ離れた別世界のお話のようでありながら、でも実は、映画で"体現された"クーパーやマーフの生き方は、現実を生きる 私たちの課題でもある
「自己実現」、ユングのいう「個性化」について、(多くを)示唆してくれているようにも感じました。




最後に。
今日の記事を書いていて、こちらの映画の言葉が浮かんできました。

  生きねば。 
                           宮崎駿監督作品 『風立ちぬ』

意識を持ち世界を認知できている、「存在している」ことの意味、「自己実現」。
短い言葉に秘められた重みを、改めて考えずにはいられません。





【参考文献】
A.N.ホワイトヘッド 『ホワイトヘッド著作集 第10巻 過程と実在 (上) [単行本]』 松籟社(1984-08)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)

物理は心理 (!?)

昨年最後に鑑賞した映画 『インターステラー』

過去に『ダークナイト』や『インセプション』といった作品を、世に送り出しているノーラン監督の最新作ですから、観に行かないわけにはいきません。
そして当日。
3時間近い長い上映時間が終わり、映画館を後にする興奮冷めやらぬ私にとって、『インターステラー』はノーラン作品のトップに輝く映画となっていました。


そしてその日の夜、書斎兼仕事場にしている部屋で平積みにされている未読本の中から、一冊の本を引っ張り出してきました。


アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]


アインシュタインの相対性理論。
この言葉自体はあまりにも有名ですし、私も過去に読んだアインシュタインの伝記(といっても児童向けの漫画。でも今考えるとこれがなかなか重厚な内容でしたが。)で何となくは触れたことがありました。
でももちろん、「結局は時間と空間のこと?」ぐらいの上澄みだけの理解(?)で、ただアインシュタインがおこなったとされる「思考実験(頭の中の空想で実験した)」というエピソードだけは強く印象に残っていました。

Eテレの『100分de名著 アインシュタイン 相対性理論』を観たときも、その理論は相当難解で、複雑な数式などを理解していなければ全貌を把握し切れるものではないことを改めて感じつつ、でも放送内容自体は一般向けに噛み砕いて解説されていたので、それにより少し"知った"ことで逆に頭に?マークがついた点も含めて非常に興味が湧きました。

そこで、少しでももっと理解を深めたいと上記のテキストを購入したのですが、結局その時は他に読んでいた本に時間を取られ、一度パラパラッとめくられた後はそのまま、「平積みグループ」に埋もれたままになっていたのです。



さて、私がどうして、『インターステラー』を観た日を境に、埋もれていたその本に手を伸ばしたか、同映画を既にご観になった方はお分かりだと思います。

上記『相対性理論』の中に書かれていた内容、世界は、『インターステラー』でまさに映像化されていました(もちろん映画には"まだ"ファンタジーとしての要素も含まれていますが)。
動画で得たそのリアルなイメージに、改めてきちんと手に取った本(理論)の内容が相乗効果となり、まさに未知の世界が自分の中に広がってくるようで、「スゴイなー」とワクワクが止まらなくなりました。

ノーラン監督は映画製作にあたり「科学的正確さを目指し」、「実際の可能性を検証したい」とし、理論物理学者のキップ・ソーン氏の協力を受け、ストーリーには「実際の科学がとても深く盛り込まれ」ているとのこと。
(映画『インターステラー』 オフィシャルサイト スペシャル映像 より)

自身の頭で「相対性理論」に少しでも触れてみると、確かに映画のあの世界観は、決して荒唐無稽なものではないことが腑に落ちるのではないかと思います。


 時間と空間は縮む。
 「時間」は絶対ではない。
 動いているものの時間は遅れる。
 「空間」も絶対ではない。
 重力による時間の遅れ。

これらは全て、相対性理論が示していることです。


 相対性理論の描き出す世界は、(略)日常生活の世界とは大きく異なり奇妙な世界です。
 しかし、この奇妙な世界が、実は私たちの住むこの世界の真実なのです。      
                                               【佐藤勝彦】
                                             
私たちが地球上で送っている日常、普段の"常識"で「当然」と思っている世界が、実は「絶対」ではないのだということが、物理学(科学)の世界ではすでに"常識"となっていたんですね。


一般相対性理論に示された、時空の曲がりと物質のエネルギーの関係を示す「アインシュタイン方程式」を解いていくと、ある場合には時間が「ループ」になっている答えが存在するのです。

未来へどんどん進んでいくと、いつの間にか過去につながり、さらに進むと現在に再び戻るという、ループ状の時間の流れが出現することが理論上はあるのです。

物理学者はこの世界は物理法則という論理だった法則によって動いているのだという信念を持っていますが、物理法則の中でも特に時間や空間の物理学である相対性理論が不条理なことが起こることを許してしまっているのです。                      
                                               【佐藤勝彦】




ここでユングが、ノーベル物理学賞を受賞したスイスの物理学者(ヴォルフガング・エルンスト・パウリ)との共著、『自然現象と心の構造』の中で「空間と時間」について記した内容を次に挙げます。

人間が元来持っている世界観では、未開人に見られるように、空間と時間は非常に不安定な存在である。それらは、主として測定の導入のお蔭で、精神発達の過程においてのみ、「固定」観念になったにすぎない。

それら自身においては、空間と時間は、無から成立している。それらは、意識的精神の分別の活動から生まれて実体化した概念であり、運動する物体の行動を記述するのに不可欠な座標をなしている。

もし空間と時間が運動する物体の単なる見かけ上の属性にすぎず、観察者の知的な欲求によって造られたものであるなら、心的条件によってそれらが相対化されることは、もはや驚くべきことではなく、可能性の範囲にもたらされることになる。

この可能性は、心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる。

                                               【C・G・ユング】


アインシュタインの相対性理論でも、時間や空間の認識を、光の速度を絶対的なものとして捉え、その動きやスピードと矛盾がでないよう再構築していくのが基本ですが、たとえば動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるのです。

「止まっている人から見ると、動いているものの長さは縮んで見える」
「空間(長さ)は、ものの動きや時間と同様に、唯一絶対のものではなく、相対的に捉えるべきもので、誰からも同じに見える唯一の尺度というものは存在しない」    

いかに、外的な事象を認知する上において、各々が置かれている条件(心的条件)が大きく関わっているか、心理学とは対極を為すともいえる物理学によって、ある意味認められているのだと私は思いました。

   
空間と時間は影響しあっているとはいうものの、これも「時間の遅れ」や「長さの縮み」と同様で、普段の私たちの生活の中ではその影響を感じることはありません。
(略)差は、あまりに小さすぎるために、普段は気づくことがないというわけです。
                                               【佐藤勝彦】    
私たちは「気づいていない」だけなんだと・・・。



西田幾多郎がその点について、簡潔にダイレクトに次のように言っています。

我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。
即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者(ユングの説に通じます)を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。

深く共感します。


今日はこのへんで。
『インターステラー』にも絡んでもう少し思ったことがあるのですが、それは近いうちに次の記事として必ず書いてみたいと思っています。


○●○●○●○●○

今日取り上げたEテレの「100分de名著」の新春SP、「100分de日本人論」がとても面白かったので、ちょっとご紹介です。
論者の一人である人類学者の中沢新一さんが「今日の話ずーっと(語り合っているのは)一貫してるんだけど、"無意識"なんですよ」と番組内でおっしゃられたように、まさに「無意識」について様々な角度から考えることができます。
このブログで前回取り上げた鈴木大拙の『日本的霊性』、そして河合隼雄先生の『中空構造 日本の深層』が、まさに名著として取り上げられています!

1/25に再放送があるようなので、まだ観られていない方で、「無意識」に興味のある方は是非。



もちろん『インターステラー』もおススメします。
あれは大画面で観るべきです!



【参考文献】
佐藤勝彦 『アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]』 
 NHK出版  (2012/10/25)
C・G・ユング W・パウリ 『 自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]
 海鳴社 (1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1979-10)



地に足をつけて生きる


Sea Lion Cove at Point Lobos./Don DeBold


前回まで、グノーシスやソフィアなどについて書いた流れで、このまま続けようかとも思ったのですが、
ふと、自分の中でストップがかかってしまいました。

ということで今日は、神話や女神のお話からはちょっと離れて、主観的に“現実目線”で書いてみたい
と思います。


ユング心理学(深層心理学)では、意識の背景に広がる無意識というこころの領域の存在を
前提としていること。
このブログを以前から読んでくださっている方、そしてユング心理学に通じている方は
ご承知のとおりだと思います。

我々が認知できている“自分”や世界の基盤に、より大きな知らない世界(無意識)があることを
認めており、それは、心的な病はもちろんのこと、「生き方」という人の根本的課題についても、
決して無視することのできない重要な存在として位置づけられています。


さて、ここからは“イメージ”も取り入れながら、話を進めていきたいと思いますが、
「無意識と意識」の象徴として、「海と陸」が、多くの人の夢などに登場するようです。

今までのブログ記事でも何度も書きましたが、私の夢にも実際、「海」がよく出てきます。
夢分析を受けることにより、言ってみれば無意識が活発になるわけですから、
それを表す“海”が頻繁に夢に出てくることはある意味当然とも言えますが、
とにかく「夢の意味」だけに焦点を当てて考えてみても、海が無意識を表していることには
納得せざるを得ません。
(無意識の象徴は“海”だけではありませんが、今日は割愛します)

一方、「現実の海」は、よく“生命の源”とも言われます。
私たちヒトの遠い祖先は、始めは海でしか生きられませんでした。
そして、進化の過程で陸に上がってきて、ようやくそこで、文明を持ち得る人類になったわけです。

外的現実でも心理学的にも、海から陸、無意識から意識において、
“発展”を遂げてきた人間という存在。


哲学者の西田幾多郎やヘーゲルも述べていますが、我々は、「意識」という場においてしか、
精神を発展させることはできないのです。

「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。」

「意識においては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。」
                                         西田幾多郎 『善の研究』

「自然の精神は隠れた精神である。それは精神の形をとっては現われない。
  それは認識する精神にとってのみ存在する。」             ヘーゲル 『精神現象学』


ユングも、『旧約聖書のヨブ記』を、そのような心的(神的)発展という観点から読み解いています。

ヨブへの答え
ヨブへの答え



自覚のあるなしに関わらず、私たちは今日でも、内外の世界で海から多大な影響を受けていますが、
でもその我々が生きられる場所はやはり、「陸」しかあり得ません。

しっかりと地に足をつけて「現実を」生きること。

足の裏に大地の感覚を感じ取りながら立ちづづけることは、心理学的にみても、自分を見失わない
ために、とても大切なことだと思われます。


無意識は、断じて無視すべき存在ではありませんが(このテーマだけでも色々書けそうです・・・)、
だからといって、現実・意識という立脚点を失って、あちらの世界に軸を移すようなことになって
しまっては、それは「生」の意味を放棄することになると言っても過言ではありません。

そして同時に、本来果たすべき正しい個性化への歩みを、閉ざしてしまうことにもなるのです。

だから、ただの神秘主義に陥ってしまわないための、「現実的感覚」をきちんと持ち続けることが、
まず、必要とされるわけです。


ユングはもちろんのこと、河合隼雄先生を始めとするユング派の方々は、無意識を相手にすることを
論じる際に、「自我の強さ」の重要性と、脆い自我で無意識に向き合う危険性という点について、
それぞれの言葉で次のように言明しています。

「無意識の統合は自我が持ちこたえるときにのみ可能である。」

「無意識は、それが盛んに働きかけてくるのでなければ、そっとしておくのが一番よい。」
                                               【C.G.ユング】


「クライエントの状況によっては、夢分析を行わないときもある。
 クライエントの自我があまりにも弱く危険な場合や、むしろ日常的な実際生活を整えることに
 重点を置くべきだと考えられるときなどである。」

「まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
 自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。」
                                               【河合隼雄】

(アクティブ・イマジネーションを実践する条件として)
*アクティブ・イマジネーションとは日本語で「能動的想像法」と呼ばれる、夢分析に並ぶ無意識に向き合うための
   手法のひとつ。

「ユング自身の示した条件は、分析プロセスの後半にあること、あるいは人生後半の課題に
 取り組んでいることである。
 『分析プロセスの後半にあること』についてだが、これは裏を返せば、そのアナリザンド
には少なくとも分析プロセスの前半で遭遇する試練に耐えるだけの強さがある、
ということである。
 分析プロセスの前半では、内的にも外的にもさまざまなことが起こり、自我は以前から抱えて
きた諸問題への直面と対決を迫られる。
 曲がりなりにも日常生活をこなしながらこの重圧をくぐり抜けたのだとすれば、自我にある
程度の
強さが備わっていることはまちがいない。」

自我はアクティブな態度を保つ必要がある
(無意識から沸き起こってくるイメージに)容易に圧倒されないだけの備えが要求されるので
ある。
 さもないとイマジナーは、現実を見失うなどの症状を呈したり、何度も同じパターンで敗れ
去ったり、イメージの内容と一致した現実での危険に共時的に巻き込まれたりするかも
しれない。」
                                               【老松克博】

「無意識に足をすくわれる危険があることも忘れてはならない。」
                                                【豊田園子】




ここで話は変わりますが、私はユング心理学に出会うまで、昔話の「浦島太郎」について、ずっと
疑問に思っていたことがありました。
善行によって竜宮城にまで招かれた浦島太郎が、なぜ、お話の最後にあんな理不尽な目にあうのか。
何の責めも負うはずのない人の良い浦島太郎が、なぜ、ひとりぽっちで老人になってしまった場面で、
話が終わってしまうのか。
“その後”(数ある「浦島太郎伝説」の中には、玉手箱を開け老人になったばかりでなく、そこで死を
迎えて話が終わるものもあるそうです)の浦島太郎を考えるとあまりにも不憫で、どうしても納得できずに、どこかでひっかかっていました。

しかし、ユング心理学から解釈した昔話の心理学的意味を知り、浦島太郎の謎についても、私のなかでやっと霧が晴れました。
浦島太郎は、「陸」から離れすぎたのです。海(あちら)の世界に浸かりすぎてしまったのです。

(詳しく知りたい方はこちらを)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
クチコミを見る

無意識の世界に分け入ることの難しさと厳しさを、善人だからこその浦島太郎が、身を持って(?)
教えてくれていたのかもしれませんね。



前回までに書いた、グノーシス神話のプレローマ(上位世界)やアイオーン(超越神)についても、
それらが“本当に実在するか”どうか、そんな、神の存在自体に関わるようなあまりにも大きなこと、
逆立ちしても立証不可能なことを、いくら頭で考えたからといって答えなんて出せるはずがありません。

あくまでも“心理学的に見て”、それらの話がとても意味深い心的内容を物語っていると、
ユングは自らの臨床経験に基づいて考察したわけであり、そこで、どっぷりと神話の世界に
入り込んでしまうのではなく(でも、実はそれが必要な時もあるわけで、だから難しいのですが)、
論理的立場を崩さないこと、そこで持ちこたえることがやはり必要とされるわけです。

前記した『昔話と日本人の心』の著書の冒頭に、筆者である河合隼雄氏が引用している一文が、
その“関わり方”を端的に表しています。


むかし語ってきかせえ!―
さることのありしかなかりしか知らねども、あった
として聞かねばならぬぞよ―
                                 ―鹿児島県黒島―



どちらにせよ、「無意識に向き合う」ことは、我々の生き方を豊かにすることに間違いはないと
私は信じています。

そしてその豊かさとは、現代社会で一般的に多くの人が求める豊かさとは少し質の違うものかも
しれません。

だけどその質の違いこそが、実は「ホンモノ」なのかもしれないのです。

だからやはり、それぞれが“自分の竜宮城”を見つけられるよう、海に潜る価値はあると思います。
ただし、浦島太郎の二の舞を踏まないように、という条件付きであることを、くれぐれも忘れないように
したいものです。


【参考文献】
河合隼雄『ユング心理学入門培風館 (1967-10)
老松 克博『無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1』 
                トランスビュー (2004-05-05)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


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お酒で失敗してしまうとき

以前の記事(『自分を知る』ことの難しさ)で、無意識が我々に“秘かに”及ぼしている作用について少し触れましたが、今日は、「意識と無意識」について、少し詳しく取り上げてみようと思います。

カール・グスタフ・ユングによると、人間のこころの中心には、「自己(ゼルプスト)」があり、「自我(イッヒ)」とつながっているとされています。

ここでいう自我とは意識の中心のことで、この意識部分は、日常の言動など、我々が自分自身で認識できているこころの領域です。

一方、自己は先述の自我を含んだ意識と、その何十倍にも及ぶ(無限に広がっているともされる)無意識の領域(こころの構造において、双方が占める割合は、意識が3%、無意識97%という一説もあります)の全てを含んだ、こころの全体像の中心となります。

まとめると、

・意識も無意識も含めたこころ全体の中心が“自己”

・意識の中心が“自我”

というわけです。


ユング心理学では、意識より無意識の領域がはるかに広いので、全体の中心である自己も、必然的に無意識内に位置することになります。

そして、この自己は意識の表面に出てくることがないので、普段ははっきりと自覚されることはありません。

そのため、まれに表に出てきたときには、自分には全く未知なものとして感じられるのです。


自分でもコントロールできない様々な心的症状や、日常的な事例では、例えばお酒を飲んで、普段とは別人のような行動を起こして突発的に何かをしでかしてしまう、なんていうケースも、その人の無意識にあるものが、本人の意識を超えたところで、自律的に動いてしまったという可能性があります。


このように、我々は普段気づいていないだけで、自身のこころの内側にある巨大な無意識に、多くの影響を受けているのです。

職場を始めとする他人との関係性、もっと身近な両親や伴侶や子供との仲、そして愛しさと時には苦しみが交差する異性への想い、何より自分自身への肯定感。

それらに関連する多くのカギは、自分の内側にあるのです。


ユングは言っています。
        内なる声の力を意識に受け入れられる人のみが人格を統合する


私たちは、この見過ごしてしまいがちな、内界からの声に注意を払うことによって、穏やかな受容ととらわれない心、さらには人生の意味の認識を得ることが可能になるのです。


自分のこころのワークに目を向け始めることで、何かが、明らかに変わっていくかもしれません。



※ちなみに、今日ご紹介したこころの構造については、これはあくまでもユングの理論であり、例えばユングにも大きな影響を与えた、オーストリアの精神分析学者、ジークムント・フロイトが唱えたこころの構造では、無意識よりも意識の方が圧倒的に広いとされています。
ただし私個人としては、自分の体験からも、ユングの理論が妥当であると、それを受けいれています。


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自分の中の異性

かなり間が空いてしまいましたが、前回のつづきです・・・。

私の見た夢に出てきた俳優さん二人は、どちらも“私の人格の一部”と書きましたが、実はその後に見た夢でも、“私の内奥(無意識)の私たち”は様々な形で何人も登場してきているようです。

「人格」と表現すると、単純に「多重人格?」と、その本当に意味するものを誤って理解してしまう恐れがありますが、これら夢に出てくる“自分”とは、

 「無意識内に存在する、個人的なこころの要素が人格化されたもの」

なのです。

意識の中心である自我は、もちろん自分で認識できている“私”ですが、意識を包括している大きな無意識内には、本人にも気づけていない自分の要素というものが、誰にも存在しています。


その中でも、特に重要な存在が、「アニマとアニムス」です。


アニマは、男性の無意識における女性的性質が人格化されたもの。一方、アニムスは、女性の無意識の男性的性質が人格化されたものです。

無意識には意識に対する補償作用があるので、現実(意識)とは逆の性が、無意識内に存在するということになります。

この心理的な両性具有性は、性差を決める決定的な要因が、男女の遺伝子の数の多さだという生物学的な事実を反映しています。

数の少ない反対の性の遺伝子は、それに対応する性の性質を生み出し、それは普遍的無意識にとどまっているのです。

そして、このアニマ、アニムスは、夢のなかの異性の登場人物(恋人など)として、人格化されて表われてくるのが一般的です。

ちなみに、男性の夢にアニマが現れるときは、一人の女性の姿をとる場合が多いようですが、女性の場合のアニムスは、複数の男性像として出てくるようです。


このように、誰しもその内奥に「アニマとアニムス」を秘めていますが、この元型は非常に影響力を持っており、私たちの意識上の行動をも支配しているといえます。

あなたの中のアニマとアニムスも、意識上でのあなたの恋愛やその他の人間関係に、見えざる力で肯定的にも否定的にも、何かしらの作用を及ぼしているのかもしれません。


そのへんについては、また次回に・・・。



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