心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

宗教的体験

「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」


Paul_Gauguin_-_D'ou_venons-nous








 D'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?


先日、とても興味を掻き立てられる番組を見つけました。

即、録画予約をして、まとまった時間がとれたときにじっくりと視聴したその番組は、予想を超える、
ドキドキワクワクものの内容でした。
 
それは、いつも優先順位の後ろに追いやってしまっている、このブログの更新に、集中させてくれる
エネルギーを私に与えてくれました。




案内役が"モーガン・フリーマン"ってだけでもう、直観的に「これは!」などと思ってしまったのですが、
観た後には「まさに!」と、これまた一人で勝手に納得してしまったわけです。(その理由は後ほど)



後で知ったのですが、この「時空を超えて」シリーズは、以前既に放送されていたようですね。
その時には全く知らず見逃していた私ですが、この度、事前に情報をキャッチできて本当に
良かった、とつくづく・・・。
正直、「こんな番組が作られていたなんて」と、いろんな意味で感動でした。




NHK Eテレ モーガン・フリーマン 時空を超えて・選「死後の世界はあるのか?」

各学問の研究者が、自身の専門分野を切り口にして様々な観点から検証。
脳神経外科の権威、ハーバード大学のエベン・アレクサンダー博士の"臨死体験談"や、多くの臨死体験者達が語るそのような体験の共通点、ちなみに、ユングにも臨死体験にまつわる興味深いエピソードがあることは有名で、自伝にその詳細が残されています。そして、ユングの体験にも共通点が語られていることを確認できます。)、その他、意識や魂についてなど充実の内容でしたが、その中でも私が特に惹きつけられたのは「量子もつれ」の話でした。


以下、番組からの引用です。


アリゾナ大学 意識研究センタ―所長のスチュワート・ハメロフ博士は、麻酔科医として多くの患者を診るうちに、脳の活動と意識との関係性を知りたいと思い、イギリスの著名な物理学者  ロジャー・ペンローズと共同研究を始めた。


・脳細胞の中にある「マイクロチューブル」と呼ばれる構造
マイクロチューブルは、脳細胞の中にある管のような構造で、「細胞骨格」の一種であり、細胞の構造を決定づけている。
マイクロチューブルは、細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられる。
脳を「量子コンピューター」として機能させる役割を担っていると考えられるのである。

脳は一つのニューロンが活動すると、シナプスを通じて他のニューロンに、そして脳全体に信号が送られていく。
これが従来の考え方だが、量子コンピューターでは
「量子もつれ」という未知のプロセスを経て
  情報が伝達される。




ハメロフ博士はこのように述べます。

「量子もつれ」は意識と深い関係があると考えている。

ある場所でニューロンの活動が起きたとする。
すると空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。


量子論によれば 「何もない空間でも情報が伝わる」 というのです。


「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。
あらゆる方向に情報が伝わるため、ある場所で何かが起きると、影響がすぐに離れた場所にも及ぶ。

この説が正しければ、マイクロチューブル内の情報が、脳の外にある広大な空間と繋がる可能性がある。
脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

人間の意識は脳を構成するニューロンよりも、もっと基本的な宇宙の構成成分のようなもので
出来ている。
                                          
   
                                 

さらに、ハメロフ博士が定義した「原意識(プロトコンシャスネス)」について、そしてその他の研究者の意見も含め、全編を通して、まさに番組内でモーガン・フリーマンが口にした問いかけ、「意識とは
何か
という問題です。意識とはどこから来て、死後、どこへ行くのでしょうか。」という知的好奇心を、
十二分に刺激してくれる話ばかりでした。



ハメロフ博士は、「生物学上の様々な現象が、量子論を応用することで説明可能だと(近年になって)分かってきている」とも、述べられていました。

「ユング心理学の"シンクロニシティ"の現象が、いつか、量子論によって説明できる日も来るのかも
しれない。」などと、量子論なんてまったく分からないけど、ただの門外漢としての一個人の夢は
膨らみました。



□■□■□■□■□

さて、ここからは少し話題を変えて、前述した(その理由は後ほど)について書きます。


2014年に公開された映画 『LUCY/ルーシー』


「10%しか使われていない人類の脳が徐々に覚醒し、100%使えるようになるとどうなってしまうのか!」というようなフレコミを見て咄嗟に、
「10%しか意識化できていない人類が、100%意識化できるとどうなってしまうのか!」
という置換を、私の頭の中のマイクロチューブルが勝手におこなってしまい、チラリと見た予告編と、
「主人公の名が"Lucy"」という点にも淡い期待を抱きつつ、映画館に足を運びました。

さてその(個人的)感想はというと、鑑賞前の"淡い期待"は脆くも崩れ落ち、近年見た映画の中でも
トップクラスの衝撃を与えてくれた、大傑作でした。
(よって、我が家の「DVDコレクション」にも当然仲間入りです)

今日の記事、ご紹介した番組の内容に関心が高い方であれば、多分、この作品を「トンデモ映画」
ではなく、とっても"面白く"観ていただけるのではないかと思います。


ちなみに、当時鑑賞後につぶやいた私の一言感想です。 ↓
意識化が極限になると「人」はどうなってしまうのか。
そのイメージが見事に表わされていたように思いました。

個体化の全過程は弁証法的であり、いわばその「終極」は、中心の「空虚さ」と自我が直面することです。
ここには、あらゆる経験の可能性の限界があります。
自我は認識の参照点として解消されるのです。
しかし、自我は中心と一致することはできません。
もし、一致したとすれば、われわれは無意識になってしまうでしょう。
つまり、自我の解消は、最善の場合でも無限の近似にすぎないのです。
自我がこの中心を簒奪すれば、自我は対象を失ってしまいます。
                                              【C・G・ユング】



前置きが長くなりましたが、この映画に、権威ある脳科学者役で、モーガン・フリーマンが出演して
います。

映画とドキュメンタリー番組と、どちらの出番が先だったのかは知りませんが、とにかく「LUCY」→
「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」と観た私は、「これは!」「まさに!」と、
モーガン・フリーマンが、2作品の共通の全体像への橋渡しをしてくれたような感覚を持ったのです。

上手く表現できませんが、モーガン・フリーマンが"案内役"でなかったら、タイトルにその名前が
なかったら、私は「時空を超えて」を、未だ知らずに見過ごしてしまっていたかもしれません。
そして、2つの作品の相乗効果が、(あくまでもイメージではありますが)理解の一歩を確実に
推し進めてくれたのは間違いありませんでした。


現在ではまだ仮説にすぎない意識や魂、こころについての理論も、これから少しずつさらに発展して
いくのだろうと、未知の世界の広がりや可能性を思い、心が解放されていくような気さえしました。



□■□■□■□■□




「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」も「LUCY」も、"脳科学"の視点から人間を探求して
いますが、その視点を"こころ"に置き換えても、探求の道は同じ方向に向けて、交差しつつ、
繋がりあいながら、開けてくるのではないでしょうか。

エベン・アレクサンダー博士が自身の臨死体験を「神経生理学や神経解剖学の様々な知識を駆使して自分の体験について考えてみた。しかし、私の身に起きたことを神経科学によって説明することは不可能であるという結論に至った」という話や、ハメロフ博士が「脳死宣告を受けた患者の、血液が流れていない脳に、ニューロンが爆発的に活動している現象を確認した。驚くべきことだが、まさにこの目で見たのだ。」といった話など、やはり、 脳とこころは決して切り離せるものではなく、深いレベルで相当に影響しあっているのだと、今まで夢分析を受けてきた自分の体験も重ねて、強くそう思います。


というより、西田幾多郎が述べていることそのものだと、私はその考えに深く共感しています。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。


我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                     『善の研究』




それでは、ユングの自伝からの言葉で、今日は終わりにします。


理性はわれわれにあまりにも狭い境界を設定している。そして、われわれに既知のこと―それに対しても限界をもって―のみを受けいれしめ、既知の枠組の中で生きてゆくようにせしめる。
それは、ちょうど、われわれが生命がどの程度の範囲までであるかを確信しているのと同様で
ある。
実際のところ、われわれは毎日毎日、意識の限界をこえて生きている。
つまり、それに気づいていないが、われわれの中で無意識の生命もまた、続いているのである。


心の一部は、時空の法則に従わないという徴候がある。

顕在的な世界の背後にある異なった体系をもつ世界の存在の可能性は、避けることのできない問題となり、われわれの世界は、その時間、空間、因果律と共に、その背後あるいは、下に存在する他の規範によるものと関係している事実に直面しなければならない。





普遍と個別

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クーパーはマーフとその場所でその時間に通じ合った。
クーパーはそれを知っていた。
マーフはそれを知っていた。



前回記事で取り上げた映画 『インターステラー』
かなり時機を逸した、そして鑑賞した方にしか分からない内容となってしまいますが、今日は前回に
引き続きこの映画を題材に書いていこうと思います。


主人公クーパーの生死にかかわるクライマックスの場面。
それは突如、クーパーと娘のマーフそれぞれが違う時空間に居ながら接触するという、
(私は)想定していなかったシーンへと進んでいきます。

そしてそこで、クーパーによってマーフに伝えられた情報を、マーフが理論化、さらに実用化することによって、結果的に人類は救われました。

『インターステラー』での世界(時空)は、いわゆる通常の時系列の枠を大きく逸脱しているので、
鑑賞している側も、描かれたシーンの因果関係を頭の中で整理することを要求されますが、
バラバラになっていたピースがきちんとはまった瞬間、マーフの子ども時代の"奇妙なオカルト現象"のその意味と、父娘のまさに時空を超えた絆、愛情が、胸に自然な感動を呼び起こしてくれます。

それは、その体験が特殊なものであるからこその「特別な感動」で、マーフの(一連の)体験を
"想像できればできるほど"、自分の中で強烈なものとなってくると思います。


ラストシーン。
父と(より年老いた)娘がこっそりと語り合う場面で、人類の危機を救ったマーフは、その智慧をどこから授かったか周りの人たちにいくら訴えても信じてもらえなかったこと、そして結果的に
「"私"の功績に なったわ」と、苦笑いしながら語っていました。

その"体験"は、クーパーとマーフという"当事者たち"にしか分かり合えない「秘め事」となりました。
(そうならざるを得ませんでした)
しかしその「二人だけの秘め事」により、物語の中では、人類全体が救われることとなったのです。



マーフとクーパーの体験を理解してくれる人は誰もいませんでしたが(その出来事を再現するという
科学的証明は不可能でしたが)、それが人類救済につながったことは、(映画の物語としては)
事実でした。





普遍的真理が非常に「限定的に」「個別的に」もたらされることについては、ユングも西田幾多郎も、
そして、(哲学者の)ホワイトヘッドやヘーゲルも指摘しています。


それは、ユング心理学の概念である「シンクロニシティ」にも非常に深い関連があり、因果律では説明ができない、(われわれの意識が作り上げた)一般的な「時間と空間」の捉え方では理解できない、
そのような「心的真理があるのだ」とユングは述べています。



哲学者のホワイトヘッドは次のように語っています。

われわれが直接経験の事柄を表現しようとするたびに見出すのは、
その理解は、それ自身を越えて、その同時的なものに、その過去に、その未来に
そして その限定性を示す種々の普遍的なものに、われわれを導いていく ということである。
しかしこれらの普遍的なものは、まさしくその普遍性によって、
さまざまなタイプの限定性を伴った 他の事実の潜勢態を体現している。

科学が情緒を問題にするとき、当の情緒は知覚対象であって、直接的な情念ではない。
他人の情緒であって、われわれ自身のものではない。
少なくとも回想におけるわれわれ自身の情緒であって、直接性におけるそれではない。

強調されるべき点は、経験される事物の、そして経験の働きの、
執拗な特殊性
 である。

「その狼がその羊をその場所でその時間に喰い殺した。
 狼はそれを知っていた。
 羊はそれを知っていた。
 そして黒禿鷹はそれを知っていた。」     
                                  【 A.N.ホワイドヘッド】

「われわれ自身のものではない」「他人の情緒」を、直接的に100%知ることは不可能ですが、
当人にしかわからないというその「限定的経験」という「特殊性」こそが、実は「普遍的なものに、
われわれを導いていく」のだということ。
パラドックス。

「その場所でその時間にいた"狼と羊とそれを見ていた黒禿鷹"」にしか、知り得ない
「直接経験の事柄」というものがある。
それは主客合一、一般的な時空の概念を越えた、古今東西の先人たちがさまざまな表現で
表している状態、特殊的な体験です。




ホワイトヘッドが「直接経験」と現わした内容を、西田幾多郎も同じく、
「直接経験」「純粋経験」 などと表現しています。

まず、「時間」について、前回記事に書いた、ユングの時空間に関する考え方、
ひいては相対性理論にも通じる考えを次のように記しています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには
先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。
然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。
されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に
由って成立するのである。

意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬ
ことになる。

                                      【西田幾多郎】


さらに「物理と心理」についても、次のように論及しています。

(一般的な)物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。

統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、(略)物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。
(ユングの類心的元型に通ずる)

我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。
ただ我々をして物理其物の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。
識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。

                                      【西田幾多郎】

先ずは「無知の知」の自覚が必要のようです。



そして、"普遍と個別"については"精神の発展"であるとしています。

今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わし来るのであるということができる。

精神の発展において始めて事実成立の根本的性質が現れてくるのである。
ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。

合目的なる自然が個々の分立により統合にすすみ、階段を踏んで己が真意を発揮する
見るのが至当である。

我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合する
ばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合する
のである。
                                      【西田幾多郎】

個々の人間が、「真の自己を知れば」「神意と冥合する」というのです。
前記のホワイトヘッドの「直接経験の事柄」も、同じと見るのが妥当なようです。




そしてヘーゲルは、"精神の発展"、 "普遍と個別"について 、『精神現象学』の中で延々と 論じて
いますが、今日は関連する部分の一つを挙げてみます。

個人の行為の結果は、現実としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、
個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの個々の個別性として、
自らを保とうとしている。

この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。
すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式を
もっているにすぎない。
つまり、その特殊な内容が、そのままで一般的なものと認めらるべきである、というのである。

だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。
むしろ、自分たちとは別の人のこころが、実現されていることに気がつく。

(略)
意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気づく。
意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。

                                       【ヘーゲル】




最後にユングの主張についてです。

前回記事で取り上げたとおり、ユングは、空間と時間について、それらは「物体の単なる見かけ上の
属性にすぎず」、「心的条件によってそれらが相対化される」可能性は有るとし、それは
「心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる」と考えました。

そして、ユングの概念として有名な共時性について、その現象の基本的な要素は、
「非因果性、相対的な同時性、意味の一致」の三つであるとし、この原理を心理的なものと
物理的なものとの間の第三のものとすることによって説明ができるとしました。

私は根底的な元型の本性を確立できるような、きわめて多くの共時的出来事を個人的に
見てきました。
元型それ自体は、類心的、つまり、先験的であり、こうして、数や空間や時間のカテゴリーを
超えています

つまり、それは統一性と不変性に近づくのです。
意識のカテゴリーから解放された場合、元型は、意味深い暗号(偶然の一致)の基盤になりうるといえるでしょう。 
                                      【C.G.ユング】

共時性は物理学における非連続性ほどにはわけのわからぬ、ないしは神秘的なものではない。ただ、因果律の卓越した力に対する深い信仰心によって、知的な困難が生じ、原因のない事象が存在し、また存在したということを考えられないこととしてしまうのである。

因果的な説明の欠如のために、意味のある配列として考えねばならなくなる。
しかしながら、(略)それらの「説明不可能性」は、その原因がわからないという事実によるのではなく、原因が知的な言葉では考えることすらできないことによる。

このことは、必然的に、空間と時間がその意味を失うか相対的なものになった場合のことである。というのは、そういう状況のもとでは空間と時間を連続体として前提している因果性が
もはや存在するとはいえなく、まったく考えられないものになるからである。

共時的現象を自然事象における特殊な部類として理解することを可能にするばかりでなく、
偶発性を、一部には永遠の昔から存在する普遍的な要因として、また 一部には、
時間とともに生ずる無数の個人的な創造行為の総計として、理解するのである。
                                   
                                             【C.G.ユング】 

狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない

狭義の共時性は一般の非因果的秩序性―すなわち観測者は一致の仲介者を認識できる
幸運な位置にある心的ならびに物理的過程における等価性―であるにすぎないという観点に、
私は実のところ傾いている。
                                       【C.G.ユング】




クーパーとマーフが体験したことを、他者に説明できず、よって理解もされなかったことは、それ自体
ひとつの「法則」だったのかもしれません。

科学者の説明法は知識の一方に偏したるものである。 

真の一般と個性とは相反する者でない、
個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる
                                      【西田幾多郎】

物理的にということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
                                            【C.G.ユング】 


でもそれが科学的に証明できない出来事であったにせよ、二人にとってはまぎれもない真実で、
結果的にそれは世界を変えることに繋がり、他者にも多大な影響を与えました。

そしてその物語は、けっして"ただのファンタジー"などではないのだと、私はそう感じました。


クーパーとマーフは、お互い(特にマーフは)長くて辛い時を経て再び繋がり、マーフは子供時代の
「あの出来事の意味」をやっと知ることができました。
大事なものが始めから布置されていたんですね。
マーフの“その時”の感動が伝わってくるようでした。



『インターステラー』
本当に色々と感じさせ、考えさせてくれる意味深い映画でした。

そして一見、荒唐無稽で私たちの日々の暮らしとは全くかけ離れた別世界のお話のようでありながら、でも実は、映画で"体現された"クーパーやマーフの生き方は、現実を生きる 私たちの課題でもある
「自己実現」、ユングのいう「個性化」について、(多くを)示唆してくれているようにも感じました。




最後に。
今日の記事を書いていて、こちらの映画の言葉が浮かんできました。

  生きねば。 
                           宮崎駿監督作品 『風立ちぬ』

意識を持ち世界を認知できている、「存在している」ことの意味、「自己実現」。
短い言葉に秘められた重みを、改めて考えずにはいられません。





【参考文献】
A.N.ホワイトヘッド 『ホワイトヘッド著作集 第10巻 過程と実在 (上) [単行本]』 松籟社(1984-08)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)

鈴木大拙

またしても前回記事から数か月が経ってしまい、「ぜひ、また続きを書きたいな」との思いにずっと変わりはなかったのですが、今日は、以前書いた記事に疑義が生じてしまったので、備忘録の意味でしたためます。


ここ数年、読みたい本があとからあとから出てくるので、私の読書スタイルは常に数冊併読なのですが、そんな中、ゆーっくりと読み進めていた著作があります。

無心ということ (角川ソフィア文庫)
鈴木 大拙
角川学芸出版
2007-09-22



鈴木大拙は、ユング同様、私が敬慕している哲学者の西田幾多郎とは ”加賀の三太郎” と称され、生涯の友であった偉大なる仏教者です。

(最近偶然見つけたのですが、こんな逸話もあったようです ↓ )


さて、この名著。
『無心ということ』を、じっくりと読み込んでいく中で、孟子について書かれた非常に興味深い内容が出てきました。

それは、「深き宗教的体験の閃めきが窺われる」心学の祖、石田梅厳の「都鄙問答 惟理問答の段」の引用で、孟子と告子の相違について論じられており、「これは
梅厳の哲学の中心をなすものである。」と鈴木大拙は評価しています。

 
 曰、孟子の性善と、告子が性に無善無不善と言は同じかるべし。
(中略)
孟子は是とし告子は非とするは如何なることぞ。

 答、是汝が不得の所なり。先告子が無善不善と云は、是思慮なり。(中略)
孟子の性善は直に天地なり。如何となれば人の寝入りたる時にても無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息に非ず。天地の陰陽が我体に出入りし形の動くは天地浩然の気なり。我と天地と渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。(中略)
其無心の陰陽が一たび動き一たび静なり、是を継者が善なりとの玉ふことなり。
此微妙の所と告子が云思慮と、一列にいはるべきや、大に異る所なり。
孟子の性善は生死を離れて天道なり、(中略)此は易(やすき)に似て難知(しりがたき)所なり。思慮を以て知らるる所にあらず。(中略)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(略)書は読めども、書の意味を知らず。*1
却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。(中略)


 人は全体一個の小天地なり。(中略)告子は是を不知。生滅にあづかる思慮を以て我性と思ふ。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば思慮なき天理に異るゆへなり。(中略)

渾然たる一理の性に至れる孟子*2 には異る所なり。


これを読むと、このブログで前に紹介した、夏目漱石の孟子論とはその内容がまるで逆なのです。
無為を為す(夏目漱石の老子論)


大雑把にざっくり分類するとこんな感じです。
老子(夏目漱石評)=孟子(石田梅厳評)
孟子(   〃    )=告子(   〃    )


夏目漱石の「相対を脱却して絶対の見識を立てた」老子と、石田梅厳の「渾然たる一理の性に至れる」*2 孟子、それぞれの論評のその意味するところは、同義であると私には思われます。

そうだとすると、もしかしたら漱石が、少なくとも孟子に関しては、(石田梅厳の言うところの)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(中略)書は読めども、書の意味を知らず。」*1
ということになる可能性すらあります。
(・・・でも、私は夏目漱石も大好きです)


漱石は、実は老子についても、以下のような批判をしています。
「(無為への)その悟入したる点を挙げて人を導くべきに、去はなくして劈頭より無為を説き不言を重んず。(中略)ただ、その無為に至るの過程を明示せざるを惜むのみ。」

私はこの点については以前から、疑問を持っていました。
「無為に至るの過程を明示」なんて、「(
老子の)その悟入したる点を挙げて人(他者)を導く」なんて、果たしてできるのだろうかと・・・。
そして、こうつぶやきました。



話を戻すと、思いがけず触れた孟子についての(私にとっての)新たな説に、「
私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、」と先述してはいたものの、ここに来て本当に分からなくなってしまいました・・・。

やはり何でも、「受け売り」はダメということでしょうか。
孟子についてもふりだしに戻って、「自らきちんと読む」ことから始めたいと思っています。



ここからは少し話題が変わって、「西田幾多郎と鈴木大拙」について。

以前、NHKで西田幾多郎の特集番組が放送された際、その中で西田幾多郎のたしかお孫さんにあたる方が出演されて、鈴木大拙について語っておられました。
西田幾多郎が亡くなった際、鈴木大拙が傍らで号泣していたそうです。両者の結び付きの深さが感じられて、とても印象深く心に響きました。
西田幾多郎も鈴木大拙も、 それぞれの著作の中で共に「宗教的体験」の重要性について語っていますが、互いにそのような稀有な体験の、全てではなくても根本的な何かを共有できる
、本当に希少で貴重な存在だったのかもしれないと、勝手に想像が膨らみました。

私が「鈴木大拙」を知ったのは、西田幾多郎の著作を読み始めてからだったのですが、その後、鈴木大拙はユングとも親交があったと知り、僅かな驚きとともに、どこか深く納得もできました。

それぞれの入り口は違えども、その「体験」には共通する点があること。
偉人3名の著書に目を通せば、その発見に心躍る感動が得られるのではないかと思います。



そして最後に。
『無心ということ』の中で、鈴木大拙は次のようにも述べています。

何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
無心の理論は、実に仏教思想の全体系を構成しているといってよい。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の心理を、自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。


仏教者 鈴木大拙、哲学者 西田幾多郎、そして心理学者 ユング。
各々の分野で高い見識を持ちつつ、その根底には、言葉も要らぬような深い分かち合いで通じていた、本物の天才たちなのだと思います。


【参考文献】
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)

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