心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

夏目漱石

葛藤の中に身を置く

fork in the road, loring park
fork in the road, loring park/Connie

「"葛藤保持力"の続きは改めて」と締めくくってから、なんと1年以上も経ってしまいました・・・。
(そして前回更新からは早5か月・・・

今年度は何かと重なってしまい、ブログの更新も例年よりさらに後回しになっている中、でも、その後の記事でも、続きを「きちんと書くつもり」「必ず書きます」と記した気持ちにウソはなく、ずーっとその思いを"保持"し続けていたのですが、さすがに我ながらその抱えている感に堪え難くなってきたので、やっと重い腰を上げることにしました。


今回は「心の有り様」続きを書きます。



さて、もう何年も前になりますが、(私の分析家の)藤南佳代先生に、「第三の道」について教えていただいたことがあります。

AとBの道がある。でもどちらも選べない。
だがその葛藤に堪えていると、Cという「第三の道」が自然に開けてくる。



AとB、という二つの道について、ここからは私の感覚で書き進めたいと思います。

目の前に、今まで歩んできたAという道とは違う、もう一本のBという道が見え始めたとします。
「私」はその分岐点に立っていて、前に進むためには、二つのうちどちらかの道を選ばなければならない。

ここで、迷わずAの道をそのまま進んで行けるのであれば、何の問題もありません。
でも、Bという新しい道を見つけてしまった時点で、その人は既に、Aの道を 何も感じずに そのまま進んで行くことができなくなっているはずです。

だからといって、そう簡単にBに進むわけにもいかない。

だって、どちらかの道を選んでしまったことで、何かを失うかもしれない。
でも、どちらかの道を諦めてしまったことで、自分の大事な本当の思いを殺してしまうことになるかもしれない。


どちらも簡単には選び取れない、どちらも簡単には棄て去れない。
二つの道のどちらに進んでも、自分にとって何かしらのダメージが想定される場合、私たちは分岐点に立ち尽くしたまま、身動きが取れなくなってしまうことがあります。

葛藤のはじまりです。



そもそも現状に(少なくとも自我が)満足しているのであれば、分岐点には立っていないはずです。
何の迷いも戸惑いもなく、今まで歩んできた「一本道」をそのまま進めばいいだけなのですから・・・。

でも、自分の現状に疑問や不満を抱いている人、自分の変化の必要性に気づいてしまった人には、 今日まで歩んできた道とは違う、「別の道」が見え始めることがあります。


だけど、別の道に進路を変えるには、それ相当の覚悟と痛みを伴うことが容易に想像される場合、 やはり、今まで歩んできた(そしてそれは往々にして、無難・安定だと本人が感じているであろう)道を 簡単に棄て去ることは、なかなかできないはずです。

ですが、その人にはもう「別の道」が見えてしまっているのですから、一度見えて(気づいて)しまった その道を、簡単に"なかったこと"にすることも、もうできない。




このようなどちらも簡単には選択できない、相容れない自分の欲求を感じる「葛藤」の状態について、心理学では次のように定義されています。

「人がもつ複数の欲求が対立して、一方の欲求を満たすと、他方の欲求が満たされないという状態」
だとして、レヴィン(心理学者)が葛藤(conflict)を3つの型に区別しています。

 \楸-接近型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに正の誘発性をもち、両方ないしはすべてを満足させたいが、同時にそれをかなえることができないような場合。

◆_麋-回避型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに負の誘発性をもち、どれをも避けがたいが、それが出来ないという場合。

 接近-回避型の葛藤
欲求の対象が同時に正と負の誘発性を有する場合。
また、負の領域を通過しなければ、正の領域に到達できない場合。


どのパターンにせよ、結局は、折り合いのつかない欲求の板挟みになるわけですが、その欲求を引き起こしているのはなにかというと、当然ながらそれは「自分のこころ」であり、しかも「自分自身で簡単にコントロールできないもの」(無意識から沸き起こって来た欲求であることが多い)であるからこそ、苦しみを伴うものとなります。



人はよく、「環境のせいで葛藤が生じている」と感じる場合がありますが、例えば、傍から見て恵まれた素晴らしい環境に置かれている人がいたとしても、その個人に葛藤が起らないとは限りません。
また、逆のパターンもあり得ます。

絶望的な環境に置かれても、
「ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。」
と、受難の体験者である心理学者フランクルは、あの有名な著作『夜と霧』の中でその事実を明らかにしています。

収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。
けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房
2002-11-06



『夜と霧』での環境は、厳しい制約の中での生命の維持という究極的な問題であり、たしかに極端な例ではありますが、でもそんな中ですら、フランクルは「内なる自由」を得ることができるとしています。

結局、どのような環境下であっても、自分の心が適合できている場合は心理的な不自由は生じませんし、それを無理にでも変化させようとする欲求も起きません。

逆に言えば、「欲求が満たされていない」と感じるのも、変化という「新たな欲求を呼び起こす」のも、あくまでも「自分のこころ」であり、それはとても主観的なものだということです。



ただし、葛藤を"感じられている"ということは苦しくはあっても、決して「悪いこと」ではなく、自分のこころの状態に何かしら"気づけているのだ"とも言えます。

自覚されない(ほぼ意識化されていない、言葉通り"無意識的な")欲求というものもあり、その場合は、神経症や行動の混乱、性格障害などで現われることも多いからです。
葛藤という、引き裂かれそうな感情に晒される代わりに、別の苦しみを背負わされることになるわけです。
(その事実を知らない当の本人に、気づきを促す、意識化していく作業が"心理療法"のひとつです。 前記の『夜と霧』に書かれている、「苦悩があってこそ可能な価値」を実現し、「完全な内なる自由」の状態を得るとは、その先にあるものです。)



河合隼雄先生は「葛藤」について次のように説明されています。

葛藤の存在は意識化の前提である。
葛藤を解決しようとして、われわれは無意識的な内容に直面し、それを意識化することになる。
葛藤を経過しない解決は、意識・無意識の区別があいまいなままで、全体として調和した状態にあることを示している。
                                          【河合隼雄】 




意識と無意識の状態に、まだ際立った摩擦が表面化していない場合は、「調和」という、自我にとっては楽な状態に置かれているのかもしれません。

でも、「自分」という存在は、常に一定ではいられません。
外的にも内的にも変わっていくし、自我と自己(意識と無意識)の関係性も変わっていかなければならないし、変わらざるを得ないものでもあります。




夏目漱石の小説、『それから』の中で、主人公の代助が、「昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべき筈である」のに、それを自認していない父について、このように表現しています。

もし双方をそのままに存在させようとすれば、これを敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。
もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。
夏目 漱石
新潮社
1985-09-15



矛盾に気づき、それを自認し、さらにその"分別"がついている代助は、この作品の中でさまざまな葛藤の苦悩を味わっています。

『それから』は、意識と無意識の対決、自己実現の苦しみの物語であると解釈すると、私にはとても納得、共感できる部分が多いのです。
(物語のその深い意味に気づいたのは、やっと、ここ数年のことです。気づけるたびに、漱石への敬意は高まります。)




どちらにせよ、「自分の気持ち」であっても、相反するものが存在し、自分でもどうにもならない状態に陥る「葛藤」は、大小の差はあっても、誰しもが経験することだと思います。

やろうと思っていることができなかったり、止めようと思ったことが止められなかったり、どうにもならない感情に苛まれて「頭では分かっていても」、気持ちは全然抑えられなかったり・・・。

いかに、「自分」という存在が、簡単にコントロールしきれるようなものでないか。
そのことを、一人ひとりがしっかりと掘り下げて考えてみるだけでも、自分や他者に対する考え方や感じ方が、少しは変わってくるのではないかと思います。




実際に誰しもが、こころの内側に自分の知らない大いなる己が存在していて、 決して逃れることのできない「心の有り様」を抱えて生きていますが、だからこそ、自覚してその己にきちんと向き合い、何とか折り合いをつけていくことができてこそ、「第三の道」が開けてくるのです。


そしてその「第三の道」とは、自我という小さな私が小手先で拵える様な「とりあえず」のものではなく、もっと決定的なものなのでしょう。

忍耐と不屈の精神を伴う葛藤のなかから、予想もしなかった運命的とも言える解決が 当事者の内に現われてくる。                                
                                        【C・G・ユング】



「第三の道」について書くつもりが、イントロダクションが長くなりすぎました。
本題は、今年中には更新できればと思っています。



心の有り様

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もう10月・・・。
中秋の名月も過ぎてしまい、日に日に秋の深まりを感じます。

今年の夏休みも、なかなか「静かに腰を据えて」とはなりませんでした。
ずっと、この場で書きたいことは色々と頭に浮かびつつも、結局は手つかず状態。
でも、今はそれで良し、と思うことにしています。


純粋にしたいことと、やっておかなければいけないと思うこと。

どちらも捨てがたい、それは決して強制ではなく自分自身の気持ちで、その自覚があってもなお、簡単に折り合いがつくものではありませんが、揺れた時には、「葛藤保持力」(河合隼雄先生が表現された深い意味の言葉です)の一言が、いつの頃からでしょうか、自然に頭に浮かんでくるようになりました。

そうすると、少し気持ちにゆとりが生まれてきて、多少なりとも"揺れていること自体"を受け入れられるようになります。
(おかげで記事の更新はさらに遅れますが・・・)



そもそも人間は、その根本的な存在原理として「矛盾を抱えた葛藤する生きもの」なのです。
そのことを理解できれば、「葛藤保持力」を実践する上での支えとなります。

人が「有る」こと自体が、大きな矛盾を抱えていることについては、河合隼雄先生はじめ、このブログでよく取り上げる賢者たちも、みな同様に指摘している哲学的な命題です。

生きている限り決して逃れることのできない矛盾の意味について知ることが出来れば、それは、
主観的な揺れを客観的に受け止める静かな力となり、沸き起こって来る情動を、無理に抑え込む
のではなく、かといって無暗に振り回されるのでもなく、「そのまま」にしておける、というコントロールが
(いくらかは)できるようになるのではないかと思います。

葛藤自体をすぐに、安易に、解消しようとせず、「そのまま」にして抱える。葛藤保持力。


 
人という存在がそもそも「矛盾」していることについては、「心の有り様」を熟慮することが不可欠と
なります。


意識というものがなければ実際上世界はない。

世界は心に意識され、反映され、表わされてはじめて存在する。
意識は存在の一条件なのである。                  
                                               
『人格の発展』

パラドキシカルな性質は、全体性が一部は人間の意識から、一部は無意識からなっていると
いう事実に照応している。                           
                                             『心理学と錬金術』
                                        
                                                【C・G・ユング】


明らかになることは、力の概念が二つの力のなかへ二重化されて、現実的になるということ、そしていかにしてそうなるかということである。
これら二つの力は、自分だけで存在するものとして、現に在る

悟性と物の内面という二つの極を結び合わせる媒介〔媒語〕は、力の展開された有であり、
この有は、これから後は、悟性自身にとり消え去るものである。
だから、この有がつまり現象なのである。

一般者は、物の内面をなすものであり、その内面は、二つの力のたわむれが自己自身に帰る
〔反照する〕ことである。
                                        
『精神現象学』 【ヘーゲル】


世界は絶対矛盾的自己同一
として、自己自身を超えたものにおいて自己同一を有ち、
我々は超越的一者に対することによって個物なる
が故に、我々は個物的なれ ばなるほど、
現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を超えて、反省的であり、思惟的で
あるのである。

                                 
『絶対矛盾的自己同一』  【西田幾多郎】


独坐大雄峯は根本的無分別の世界である。
絶対が相対にあるところがある。
が、無分別が分別になっただけではまだ十全でない。
ここに批判的なものがなくてはならぬ。
無分別と分別の世界の交加、相即ともいうべき、もう一つの働きが出なくては、
事の始末がつかぬ。
ここが丈すなわち打つ心であります。

(前略)
いわゆる阿轆轆地に転じなければならぬ。
そして一たび転ずれば必ず両頭に走るのです。   
転ずるというとき無分別が分別になる。
無分別が転ずれば両頭に走るようになるのだから、ここに是非善悪の世界が出て来る
有無の世界が出て来る。

                                     
 『無心ということ』 【鈴木大拙】
  
          
有名な哲学者、カントもこのように述べています。


私たちの認識がすべて経験をもってはじまるということについては、まったく疑いの余地は
ない。

私たちのうちに生じるいかなる認識も、時間的には経験に先立つものではなく、認識はすべて
経験をもってはじまるのである。
しかし私たちの認識がすべて経験をもってはじまるにしても、だからといって、私たちの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。

                                             『純粋理性批判』 


夏目漱石も、(作品を読めば疑う余地はありませんが)「無意識」はもちろんのこと、「心の有り様」を
知っていたことがよく分かります。


普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続
して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。

(中略)すると煎じ詰めたところが私もなければ貴所方(あなたがた)もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。

通俗の考えを離れて物我の世界を見た所では、物が自分から独立して現存しているという事も
いえず、自分が物を離れて生存しているという事も申されない。
換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、
いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。
(中略)だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に命というのであります。

甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときは既に甲は意識しておらん
訳です。
それにもかかわらず甲と乙とを区別する事が出来るならば、明瞭なる乙の意識の下には、
比較的不明瞭かは知らぬが、やはり甲の意識が存在している
と見做さなければ
なりません。

意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。
向後どこまで分化と統一が行われるか殆んど想像がつかない。
                                                    
                                           『文芸の哲学的基礎』


人間は、無意識から意識を区別することで、自他を含めた"世界"を認知できるようになります。
意識が有るからこそ、無意識を知る〔反照する〕
ことも可能となります。

そして、この「心の有り様」が矛盾(二律背反)なのです。


意識は自己自身に対している。

それは、区別されていないものを区別することである。
言いかえれば、自己意識である。
私は私を私自身から区別する。
そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している
〔無媒介に私にとってある〕。

一つの自己意識がもう一つの自己意識に対しているのである。
こうして初めて、自己意識は事実上存在していることになる。

自己意識に対しては別の自己意識が在る。
つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。

二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめると
いうふうに規定されている。

                                         『精神現象学』 【ヘーゲル】


表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、
知るものと知られるものとが一であるのである。

何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、
自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。


表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、
真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。

                                         『デカルト哲学について』


精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。

                                              
                                                『善の研究』

                                               【西田幾多郎】



カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、
人間というものがこういうものだから致し方ない
と思っています。

人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。
                            
                            
 『カウンセリングの実際問題』 【河合隼雄】

「心の有り様」を考えれば、 まさにそこに向き合うカウンセリングについても、一筋縄ではいかない
ことは「致し方ない」のだと納得できます。




日常の様々な場面で大小の葛藤が生じるのは人の世の常だと思いますが、その葛藤を
"とりあえず"ですぐに解消しようとするのではなく、「保持する意味」については、今回は下記の引用に留めることにして、次の記事で改めて触れていきたいと思います。



悩みや問題があるのが問題なのではなくて、問題があるのにちゃんと悩んだり迷ったりしない
ことが
問題なんです。
迷いを持ちこたえる力は大事です。                                  
                                   『こころの子育て』 【河合隼雄】


個性化プロセスによって私が意味するのは(中略)、二つの基本的な心的事実の間の
葛藤から
生まれてくる、発展の過程、ないしは経過である。

                                            【C・G・ユング】
                                              

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。

実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、
この衝突の際においてである。

分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる。


我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と
一致するに従って幸福となる
のである。


                                    『善の研究』 【西田幾多郎】



【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
C・G・ユング 『心理学と錬金術 (2) [単行本]』 人文書院(1976-10-01)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)
西田幾多郎 『絶対矛盾的自己同一 [Kindle版] 』(2012-10-01)
鈴木大拙 『無心ということ (角川ソフィア文庫) [文庫] 』  角川学芸出版(2007-09-22)
竹内 昭 『哲学案内 [単行本] 』 梓出版社(2004-04)   
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)
西田幾多郎 『デカルト哲学について [Kindle版]』(2012-10-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)
河合隼雄 『Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [文庫]』 朝日新聞社
 (2001-09)


鈴木大拙

またしても前回記事から数か月が経ってしまい、「ぜひ、また続きを書きたいな」との思いにずっと変わりはなかったのですが、今日は、以前書いた記事に疑義が生じてしまったので、備忘録の意味でしたためます。


ここ数年、読みたい本があとからあとから出てくるので、私の読書スタイルは常に数冊併読なのですが、そんな中、ゆーっくりと読み進めていた著作があります。

無心ということ (角川ソフィア文庫)
鈴木 大拙
角川学芸出版
2007-09-22



鈴木大拙は、ユング同様、私が敬慕している哲学者の西田幾多郎とは ”加賀の三太郎” と称され、生涯の友であった偉大なる仏教者です。

(最近偶然見つけたのですが、こんな逸話もあったようです ↓ )


さて、この名著。
『無心ということ』を、じっくりと読み込んでいく中で、孟子について書かれた非常に興味深い内容が出てきました。

それは、「深き宗教的体験の閃めきが窺われる」心学の祖、石田梅厳の「都鄙問答 惟理問答の段」の引用で、孟子と告子の相違について論じられており、「これは
梅厳の哲学の中心をなすものである。」と鈴木大拙は評価しています。

 
 曰、孟子の性善と、告子が性に無善無不善と言は同じかるべし。
(中略)
孟子は是とし告子は非とするは如何なることぞ。

 答、是汝が不得の所なり。先告子が無善不善と云は、是思慮なり。(中略)
孟子の性善は直に天地なり。如何となれば人の寝入りたる時にても無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息に非ず。天地の陰陽が我体に出入りし形の動くは天地浩然の気なり。我と天地と渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。(中略)
其無心の陰陽が一たび動き一たび静なり、是を継者が善なりとの玉ふことなり。
此微妙の所と告子が云思慮と、一列にいはるべきや、大に異る所なり。
孟子の性善は生死を離れて天道なり、(中略)此は易(やすき)に似て難知(しりがたき)所なり。思慮を以て知らるる所にあらず。(中略)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(略)書は読めども、書の意味を知らず。*1
却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。(中略)


 人は全体一個の小天地なり。(中略)告子は是を不知。生滅にあづかる思慮を以て我性と思ふ。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば思慮なき天理に異るゆへなり。(中略)

渾然たる一理の性に至れる孟子*2 には異る所なり。


これを読むと、このブログで前に紹介した、夏目漱石の孟子論とはその内容がまるで逆なのです。
無為を為す(夏目漱石の老子論)


大雑把にざっくり分類するとこんな感じです。
老子(夏目漱石評)=孟子(石田梅厳評)
孟子(   〃    )=告子(   〃    )


夏目漱石の「相対を脱却して絶対の見識を立てた」老子と、石田梅厳の「渾然たる一理の性に至れる」*2 孟子、それぞれの論評のその意味するところは、同義であると私には思われます。

そうだとすると、もしかしたら漱石が、少なくとも孟子に関しては、(石田梅厳の言うところの)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(中略)書は読めども、書の意味を知らず。」*1
ということになる可能性すらあります。
(・・・でも、私は夏目漱石も大好きです)


漱石は、実は老子についても、以下のような批判をしています。
「(無為への)その悟入したる点を挙げて人を導くべきに、去はなくして劈頭より無為を説き不言を重んず。(中略)ただ、その無為に至るの過程を明示せざるを惜むのみ。」

私はこの点については以前から、疑問を持っていました。
「無為に至るの過程を明示」なんて、「(
老子の)その悟入したる点を挙げて人(他者)を導く」なんて、果たしてできるのだろうかと・・・。
そして、こうつぶやきました。



話を戻すと、思いがけず触れた孟子についての(私にとっての)新たな説に、「
私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、」と先述してはいたものの、ここに来て本当に分からなくなってしまいました・・・。

やはり何でも、「受け売り」はダメということでしょうか。
孟子についてもふりだしに戻って、「自らきちんと読む」ことから始めたいと思っています。



ここからは少し話題が変わって、「西田幾多郎と鈴木大拙」について。

以前、NHKで西田幾多郎の特集番組が放送された際、その中で西田幾多郎のたしかお孫さんにあたる方が出演されて、鈴木大拙について語っておられました。
西田幾多郎が亡くなった際、鈴木大拙が傍らで号泣していたそうです。両者の結び付きの深さが感じられて、とても印象深く心に響きました。
西田幾多郎も鈴木大拙も、 それぞれの著作の中で共に「宗教的体験」の重要性について語っていますが、互いにそのような稀有な体験の、全てではなくても根本的な何かを共有できる
、本当に希少で貴重な存在だったのかもしれないと、勝手に想像が膨らみました。

私が「鈴木大拙」を知ったのは、西田幾多郎の著作を読み始めてからだったのですが、その後、鈴木大拙はユングとも親交があったと知り、僅かな驚きとともに、どこか深く納得もできました。

それぞれの入り口は違えども、その「体験」には共通する点があること。
偉人3名の著書に目を通せば、その発見に心躍る感動が得られるのではないかと思います。



そして最後に。
『無心ということ』の中で、鈴木大拙は次のようにも述べています。

何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
無心の理論は、実に仏教思想の全体系を構成しているといってよい。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の心理を、自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。


仏教者 鈴木大拙、哲学者 西田幾多郎、そして心理学者 ユング。
各々の分野で高い見識を持ちつつ、その根底には、言葉も要らぬような深い分かち合いで通じていた、本物の天才たちなのだと思います。


【参考文献】
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)

無為を為す(夏目漱石の老子論)


Clouds./theaucitron
 

渦中では長く、過ぎれば短い、
ツインズの夏休みが終わって、あっという間に9月も半ば。

子供たちと、いつもより密着して過ごす40日の間、楽しくもありイライラもあり(笑)、そして、ココの記事の更新も頭の片隅では気になりつつ、でも結局は手つかずのまま、諸々の事柄の中で常にジレンマを感じながら過ごしたドタバタの暑い暑い夏でした。

そんなわけで、久しぶりにこうして腰を落ち着けてみると、「今年は季節にひとつの記事しか書いていないじゃないか」と、(書きたいのに書いていない)自分を鼻で笑ってやりたい気にもなりますが、久しぶりに思索とイメージに集中してみようと思います・・・。


前回記事で書いた、
「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること、自ら方向付けをしない、自然の流れに委ねる」

どれも(ココでは)同じ意味に捉えていただいていいわけですが、これらはすべて、過去の記事にも書きました“無為”と同義。
老子や荘子が説いた「無為自然」の生き方を表しています。

過去記事の「無為に過ごす」では、この無為が道教(タオ)、そしてユング心理学での「個性化」と深い関わりがあることを取り上げましたが、実は、哲学や禅の世界(もちろん「昔話やおとぎ話」、そして、ユングが自身の心理学の概念に相通ずるとして研究をした「錬金術」も然り)でも、切り口の違いや表現の差こそあれ、「根本の意味は同じ」であると捉えられる共通点を、それらの中に見出すことができるのです。


老子は、「人としての究極の生き方は“無為自然”な道のあり方である」と、説きました。

道家思想の祖と称される老子の教えは「道(タオ)」を説くところにありますが、この道(タオ)とは、「天地万物を生み出す造物主的な根拠、あるいは宇宙に一定の秩序をもたらす原理的な存在のこと」であり、この道の自然な展開に従う「無為を為す」ことによって、大成を期待できるとしています。

人は、「自分(→犲我″と読むと理解しやすくなります)の思いや考え」にそって多くを為すがばかりにかえって破滅し、功利を焦って失敗するのだから、無為であることこそ良い生き方である。
自らの行ないを無為自然に保つ“無為を為す”ことによってこそ、自然の霊妙たるはたらき、摂理による、あるがままの生き方を実現できるようになる。
と、説いたのです。


老子の思想は、一般的な処世法、政治の術のあり方、実践的な教訓として解されている向きもあるようですが、上記の老子の教えは、そのような“外的な実践術”ではなく、もっと深い、人のこころや魂の部分を基盤とする哲学的なものを指しているようです。

それは、前回記事の昔話の中の「怠けものが成功する」ことに通ずる、深い意味の共通点です。


(私の大好きな)日本を代表する文学者である夏目漱石が、『老子の哲学』という評論を発表しています。
そこでは、孟子を引き合いに出して、老子の教えと孟子のそれとは一見同じようでありながら、しかし根本的には違うものであると論じています。
漱石のこの論文を読むと、老子の思想の深い意味が結局のところ、自己実現、個性化の概念と共通することが理解(というか、その論への共感と解釈が)できますので、引用したいと思います。

この二子、時代に多少の差はあれども等しく争乱澆季(そうらんぎょうき)の世に生れ、民俗の日々功名利欲の末途に趨くを嘆じ、道の源頭より一隻眼を開いて人心の砥柱たるべき根本を教えんと企てたればこそその言もかく符合するなれ。
去れども孟子の本は老子の本にあらず。
老子の還また孟子の還と趣を異にす。
〔略〕
(孟子について↓)
その心には仁義より大なる道なく仁義より深き理なしと思ひ込みしなり。
なるほどこれは当り障りのなき議論にて、これを実行せば治国の上に利益あるは無論の事、まして周末汚濁の世には如何ばかり要用を有せしや知るべからず。
〔略〕
(老子について↓)
常識に適ふたる仁義の説だにかくの如くなるに、仁義以外に一歩を撇開(へいかい)して当時に迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。
これを誰かといふに周国苦県匐燭凌諭∪を李といひ名を耳と呼ぶ生れながらにして晧首の異人なり。
〔略〕
今に伝る所『老子道徳経』即ちこれなり。

さて老子の主義は如何に、儒教より一層高遠にして一層迂闊なりとは如何なる故ぞといふに、老子は相対を脱却して絶対の見識を立てたればなり。
捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道を以てその哲学の基としたればなり。
                                              (『第一篇 総論』)

漱石文芸論集 (岩波文庫)




漱石は、老子と孟子の、当時の世に対する嘆きや「言もかく符合」はするけれども、その教えは「趣を異にす」と述べています。
そして、孟子の教えについて、「深き理なし」「当り障りのなき議論」と評する一方、老子については、「迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。」とその違いを指摘しています。
またそれは、「相対を脱却して絶対の見識を立てた」ものであり、「捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道」という、明らかに“この世の”尺度では測り切れない「高遠にして」「迂闊」なものであると言っています。

私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、漱石の言うとおり、孟子の教えがあくまでも外的な事柄や生き方に即したものであるのなら、確かに老子の説かんとする内容とは、根底からその意味するところが違ってくると思います。

老子の教えが、人のこころや精神、魂についてなど、いわゆる以前の記事でも少し触れた philosophia (哲学)であること、ひいてはユング心理学の個性化に通ずるものであること。
夏目漱石が評した老子の哲学の意味について、私にはそのように理解ができるのです。


実は漱石は、同書で老子についての批判もしています。
それは、「個性化」がいかに険しい道のりであるか、パラドックスを生きねばならぬか、そしてそれを表現する難しさという、やはりユング思想との類似を思わせる内容なのですが、それはまたいつか別に、そのテーマで書きたいと思っています。


さて、ここで話を、夏目漱石自身に向けたいと思います。
漱石には『夢十夜』のような幻視作品があるのをご存じでしょうか。
そして、次のような興味深い感想も残しているそうです。

「霊ノ活動スル時、ワレ我ヲ知ル能ハズ。之ヲ secret ト云フ。此 secret ヲ捕ヘテ人ニ示スコトハ十年ニ一度ノ機会アリトモ百年ニ一度ノ機会アリトモ云ヒ難シ。之ヲ捕ヘ得ル人ハ万人ニ一人ナリ。文学者ノアルモノノ書キタル、アルモノノ価値アルハ之ガ為ナリ」(断片)。

どこで読んだか見たかは忘れてしまったので、出典は明示できないのすが、漱石は自身が「自動筆記」によって作品を書いたこともあると語っていたようです。

漱石自身が、「secret ヲ捕ヘ得ル」、「万人ニ一人」の人物だったからこそ、今日でも多くの人の胸を打つようなあれだけの作品を創造し(全くの個人的な想いなのですが、私の中の日本文学の最高傑作は漱石の『こころ』なのです。もう数十年前ですが、あの作品を初めて読んだ時のディープインパクトを超える作品に未だ出会ったことはありません。)、老子の無為についても、漱石自身の体験を通した深い視点を持ち得ていたのかもしれません。

(漱石の創造に至る苦しみが、それを更に、信憑性のあるものとして裏づけているような気もします)
『他人本位ではなく自己本位』


今日は、老子の「無為自然」を書く流れの中で、自然と夏目漱石の論評に手が伸びたため、それだけで、自分でも予想していなかったボリュームになってしまいました。
老子の道(タオ)についてなど、今日書ききれなかったことを、次回に引き続きたいなと考えています。

そして、「個性化」の“各分野”に表現されている共通点については、追々、取り上げていくつもりです。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
C.G.ユング 『創造する無意識―ユングの文芸論』 平凡社  (1996-03)


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