心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

シンクロニシティ

「ただ一つのもの una res 」

Cartesian Theater illustration published in a book!
 Cartesian Theater illustration published in a book!/Jen Garcia

前回記事の最後で、敢えて自分への課題として書いた一文も、
案の定・・・果たせないまま年を越し、(やはり無謀だったと反省)
早く本題に取り掛かりたいと思いながら日々を過ごしてきましたが、
そんな中、大変興味深い記事を見つけてしまいました。

よって、予定変更で今日は別の話題を取り上げます。


まずは、ぜひ以下のwebサイト記事をご一読ください。



脳が意識を生み出しているわけではない」


「死後の世界」が本当に在るかどうかについては、そもそも「‟現世”という世界をどう解釈するのか」という問題になってくると思いますし、「脳は意識の受け皿にすぎない」という表現にも、若干のズレを感じるので、個人的には、タイトルの言葉
100%同意ではないのですが、記事内の、
「脳が意識を生み出しているわけではない」 というランザ博士の言葉には、
‟激しく同意” でした。


上の記事では、量子力学の「二重スリット実験」において、「観察者がいる場合といない場合で、物質の性質に変化が現われるという‟非科学的な”事態が生じる」ことを、「物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない『観察』という‟意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっている」として、ランザ博士の「意識が物質世界よりも根源的だ」という考えを紹介しています。

また、ランザ博士より以前に、同様の考えを示していたとされる、物理学者についても触れられています。


量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

                                【上記webサイトより】
(ユング心理学的には、上記内容の「意識」を「無意識」という言葉に変換した方が理解しやすいかもしれません。)



以前にこのブログ「物理は心理(!?)」において、動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるという、アインシュタインの相対性理論と、ユングの「観察者の心的条件によって時空や物体が相対化される」という内容を取り上げました。



外的な事象、物質の動きや性質を捉える上において、その物質の動きや性質、時空などは「それ自体が絶対的」なのではなく、その事象を観察する側、観察者の(有無も含めた)状態が、物質を含めた外的世界を特定する大きな要因になっている、という論理。

これが真実
(と私も思っていますが) であれば、 れを体験(主観)しているのも、同時にその体験を通して世界の諸々を知ること(客観)ができるのも、「‟意識”を持った人」ということになり、その存在がなくなれば、世界もなくなるということになるはずです。


だからこそユングは、
「こころ」の価値を、そしてそれを持つ「個人」とその体験の価値を説いています。



ユングは心理学者として、「こころ」というものが、「無意識」というものが、いかに私たちの存在の‟根源”であるかをさまざまな論点から主張していますが、ユングの高弟であるフォン・フランツの以下の文が、ランザ博士等の論理に沿う形で、ユングの考えを端的に表わしていると思います。

物質はユングが推測したように心(psyche)の具体的な相(アスペクト)である。

それも個人的な心のそれではなく、集合的無意識のそれであり、諸元型はその場合、単に集合的無意識の構造特徴であるばかりでなく、宇宙形成要因そのものであるということである。

いずれにしても、共時性現象はこの方向を指し示している。
                                     『結合の神秘』



「脳が意識を生みだす」、「意識が脳を生みだす」という、‟どちらかが最初にあってもう片方が後から派生する”という因果関係ではなく、物質と心は相対的、共時的なものであると、ユングはそう考えていました。

そして、その両方の‟根源”が「無意識(自己 ゼルプスト)」であり、それはマクロコスモスもミクロコスモスもすべてを含む、「ただ一つのもの 
una res 」 だということなのです。




私たち人間は、ひとりの個体としても、心身(意識と物体)様々な ‟区別” のレベルで、同時に ‟同調”しており、またその構造は、もっともっと大きな宇宙を含めた、時空をも超える‟全体”としても同様である。

このような考え方は、ユングをはじめ、古今東西の哲学者や神秘主義者、宗教家、そして科学者にも多くの支持者がいる、神話の時代から受け継がれてきた「世界の原理」です。



われわれが自然をより高度な意味で、現象してくる一切のものの相対概念と考えるなら、その一つの側面は 物質的(physisch)であるが、もう一つの側面は霊〔精神〕的(pneumatisch)である。

                                     【C・G・ユング】                                             



あまりにも有名な老子の「道 Tao」も、ユングも注目していたとおり、‟同様の考え”を示しています。

物有り混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寞たり、独立して改まらず、周行して殆まず。
以て天下の母と為す可し。
吾れ、其の名を知らず、之に字してと曰い、強いて之が名を為してと曰う。
大なれば曰に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る。
道は大なり、天は大なり、地は大なり、王(人)も亦た大なり。
域中に四大有り、而して王(人)は其の一に居る。
人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
                                        『道徳経』


‟医学の父”と呼ばれるヒポクラテスも、次のように述べています。

そこにひとつの共通の流れ、共通の息吹きがあって、すべての事物が共感し合っている。
その有機体全体とその部分のおのおのが協同して、同一の目的のために働いている。

その偉大な原理が末端の部分にまで延長しており、そしてその末端の部分からそれは偉大な原理へ、ひとつの自然へ、存在と無へ向かって帰ってゆく。


関連して、ユングの言葉です。


「自分の必要とする一切」omne quo indiget を自分でそなえていること、自らを孕ませ、産み、殺し、呑み込むあの龍のように完全に自立的存在であることこそ、まさに変容物質の特徴なのである。       
                                     【C・G・ユング】 

ユングが研究した錬金術書物の一文。


いくつかの自然が存在するというわけでもなく、
存在するのは、神の自然物を凌駕するもろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である。

                                       『賢者の群』
 


日々、実際に私たちの体内で繰り広げられている 細胞レベルの活動、自らの身体でありながら ‟意識することなく”自律的に営まれているその驚異の現実を考えると、ひとりの人間も「変容物質の特徴」を備えた「もろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である」 という認識は、 (表現のイメージのみに観念的に惑わされないのであるとしても)最も理性的判断に適っていると私には思われます。





さてここで、過去記事の「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」 で引用したハメロフ博士の言葉をもう一度取り上げます。

「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。  
  

脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

量子コンピューターでは 「量子もつれ」という未知のプロセスを経て  情報が伝達される。

空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。



今日、始めの方で引用した「量子論の生み の親であるマックス・プランク」は「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と語ったとされていますが、「量子論の育て の親」と称されている ニールス・ボーアの「対応性の理論」に関連して、ユングが60年以上も前に既にこのように述べています。


宇宙的原理が最も小さな分子の中にさえも見出され、その分子はしたがって全体性に対応しているのである。


ちょうどある生命体のなかで、その異った諸器官が調和して働き、相互に意味深く適合し合っているように、この世界のなかの出来事は意味深い関係*1 の中にあり、この関係はどのような内在する因果性からも推論され得ないものである。
その理由は、いずれの場合においても、各部分の行動がそれらを超越的に秩序づける中心的制御に依存しているからである。            
                                   
 【C・G・ユング】 
(*1 この部分は、前述のヒポクラテスの論とも重なります)

ユングは、因果律では説明のできない現象があるとして「共時性」の概念を唱えました。

また、なぜ因果的な相関を見出せない中で、共時的な「同列の現象」、「対応した現象」が起こるのかということについて、経験的土台を軸にして、深層心理学の見地から考察、研究を重ねた上、「自己(ゼルプスト)」を定義しました。

そしてその過程において、異なる切り口、異なる立場、異なる分野の中に、同じ観念が語られていることを発見していたのです。



量子という最も小さな分子が、宇宙という最も広大な空間にも対応している。


今後、量子力学の解明が進んでいけばいくほど、物理学は否が応でも心理的現象への接近を迫られ、同時に、深層心理学の研究が進めば、その名のとおり
物理学を取り込んだ「超」心理学への理解が深まっていくのかもしれません。


荘子はこのように述べています。


(古代の賢者たちは)、事物が存在し始めない状態を彼等の出発点とした。
これはまさに極度の限界で、誰もそれを越えることはできない。

次の仮定は、事物は存在しているが、それらはまだ分離され始めていなかった。
次は、事物はある意味では分離されているが、肯定と否定が未だ始まっていなかった。

肯定と否定が存在し始めると、道は衰えた。
道の衰えの後に、一面的な執着心が生じた。

外部から聞こえることは、耳に届くだけでそれ以上浸透することはない。
知性は分離された存在を導こうとしない。
かくて、魂は空となり、全世界を吸収する。
この空をみたすものこそ道である。

その内なる目と内なる耳を用いて、事物の核心を貫ぬくこと。
すると知的な知識は不必要となる。


ユングも、自然科学的な‟知性だけ”では事象を説明しきれないと考えていました。


人間はその肉体と精神において「この世界の小さき神」であり、小宇宙である。

従って人間は神の如く事象の中心であり、すべての事象は人間を中心としてまわりをめぐっている。

このような思想は、現代人の精神にとってはまったく奇妙なものであるが、自然科学が人間の自然への従属性とその原因への極度の依存性を証明するまでの二、三世紀以前までは、人間の世界観を支配していたのである。

事象と意味(これは今ではまったく人間だけに帰着している)との間の相関関係というこの概念は、非常に遠い暗黒の領域に追放されたので、知識人たちはその足跡をまったく見失ってしまった。

ライブニッツ(G.W.Leibnitz)の科学的説明の中で、そのことが主要な項目のひとつを形作っていたが、その後、いささかおくればせながらショーペンハウエルがそれを思い起こしたのである。


近・現代の理性には、物質的なものを過大評価するあまり、精神的方向づけ、すなわち霊(pneuma)による方向づけが欠けている。


物質と心。物理学と心理学。

それぞれが個別の立場だけに執着してしまうと、どこかでその発展は頭打ちにならざるを得ないのかもしれません。




締めくくりに、過去のブログでも何度か引用した、
哲学者の西田幾多郎の、私が大好きな言葉をまた取り上げます。


我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。

即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                    


 ‟すべての道は自己(無意識)に通ず”





さて、最後は映画の話題です。

このブログの書き始めとちょうど時を同じくして観た映画  『ドクター・ストレンジ』

狙ったわけではなかったのですが、奇しくも、今日の記事と重なる「意識と物質の相対性」や「精神世界と物質世界」のおはなしで、私にとっては、ただのアメコミ原作ぶっ飛び魔術師映画ではなく、本当に現実にも通じている深遠なテーマを扱っている作品だと、映像はもちろん、内容的にもとても楽しめました。(一方、テーマが深遠すぎて、まとまり切れていない感も拭えませんでしたが、どちらにせよ制作陣には興味が湧きました。そもそも原作を知らないので、映画のそれがどちらから生まれたのかも私には全く分からないのですが・・・。)

特に、エンシェント・ワンの(最期を含む)いくつかのセリフには、個人的にはとても感じ入るものがありました。

あと、エンドロールに美しい曼荼羅の映像が次々と流れてくる場面があります。
自分のこころから自然に湧き出てくる曼荼羅と意味合いは少し異なるとしても、「ただ見ているだけ」でも、個人的には心落ち着くなにかを感じずにはいられませんでした。
これから映画に行かれる方はぜひ、最後まで席を立たずに、大画面でその映像美を楽しんでみてはいかがでしょうか。

‟それ”は、今日のブログのタイトルである「ただ一つのもの」の象徴です。

見逃すのはもったいないなと思います。



【参考文献】
C・G・ユング『結合の神秘 1 ユング・コレクション (5) [単行本]』 人文書院(1995-08)
『老子』 2013年8月 (100分 de 名著) [ムック] NHK出版(2013-07-25)
C・G・ユング『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]』 海鳴社(1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)


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「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」


Paul_Gauguin_-_D'ou_venons-nous








 D'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?


先日、とても興味を掻き立てられる番組を見つけました。

即、録画予約をして、まとまった時間がとれたときにじっくりと視聴したその番組は、予想を超える、
ドキドキワクワクものの内容でした。
 
それは、いつも優先順位の後ろに追いやってしまっている、このブログの更新に、集中させてくれる
エネルギーを私に与えてくれました。




案内役が"モーガン・フリーマン"ってだけでもう、直観的に「これは!」などと思ってしまったのですが、
観た後には「まさに!」と、これまた一人で勝手に納得してしまったわけです。(その理由は後ほど)



後で知ったのですが、この「時空を超えて」シリーズは、以前既に放送されていたようですね。
その時には全く知らず見逃していた私ですが、この度、事前に情報をキャッチできて本当に
良かった、とつくづく・・・。
正直、「こんな番組が作られていたなんて」と、いろんな意味で感動でした。




NHK Eテレ モーガン・フリーマン 時空を超えて・選「死後の世界はあるのか?」

各学問の研究者が、自身の専門分野を切り口にして様々な観点から検証。
脳神経外科の権威、ハーバード大学のエベン・アレクサンダー博士の"臨死体験談"や、多くの臨死体験者達が語るそのような体験の共通点、ちなみに、ユングにも臨死体験にまつわる興味深いエピソードがあることは有名で、自伝にその詳細が残されています。そして、ユングの体験にも共通点が語られていることを確認できます。)、その他、意識や魂についてなど充実の内容でしたが、その中でも私が特に惹きつけられたのは「量子もつれ」の話でした。


以下、番組からの引用です。


アリゾナ大学 意識研究センタ―所長のスチュワート・ハメロフ博士は、麻酔科医として多くの患者を診るうちに、脳の活動と意識との関係性を知りたいと思い、イギリスの著名な物理学者  ロジャー・ペンローズと共同研究を始めた。


・脳細胞の中にある「マイクロチューブル」と呼ばれる構造
マイクロチューブルは、脳細胞の中にある管のような構造で、「細胞骨格」の一種であり、細胞の構造を決定づけている。
マイクロチューブルは、細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられる。
脳を「量子コンピューター」として機能させる役割を担っていると考えられるのである。

脳は一つのニューロンが活動すると、シナプスを通じて他のニューロンに、そして脳全体に信号が送られていく。
これが従来の考え方だが、量子コンピューターでは
「量子もつれ」という未知のプロセスを経て
  情報が伝達される。




ハメロフ博士はこのように述べます。

「量子もつれ」は意識と深い関係があると考えている。

ある場所でニューロンの活動が起きたとする。
すると空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。


量子論によれば 「何もない空間でも情報が伝わる」 というのです。


「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。
あらゆる方向に情報が伝わるため、ある場所で何かが起きると、影響がすぐに離れた場所にも及ぶ。

この説が正しければ、マイクロチューブル内の情報が、脳の外にある広大な空間と繋がる可能性がある。
脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

人間の意識は脳を構成するニューロンよりも、もっと基本的な宇宙の構成成分のようなもので
出来ている。
                                          
   
                                 

さらに、ハメロフ博士が定義した「原意識(プロトコンシャスネス)」について、そしてその他の研究者の意見も含め、全編を通して、まさに番組内でモーガン・フリーマンが口にした問いかけ、「意識とは
何か
という問題です。意識とはどこから来て、死後、どこへ行くのでしょうか。」という知的好奇心を、
十二分に刺激してくれる話ばかりでした。



ハメロフ博士は、「生物学上の様々な現象が、量子論を応用することで説明可能だと(近年になって)分かってきている」とも、述べられていました。

「ユング心理学の"シンクロニシティ"の現象が、いつか、量子論によって説明できる日も来るのかも
しれない。」などと、量子論なんてまったく分からないけど、ただの門外漢としての一個人の夢は
膨らみました。



□■□■□■□■□

さて、ここからは少し話題を変えて、前述した(その理由は後ほど)について書きます。


2014年に公開された映画 『LUCY/ルーシー』


「10%しか使われていない人類の脳が徐々に覚醒し、100%使えるようになるとどうなってしまうのか!」というようなフレコミを見て咄嗟に、
「10%しか意識化できていない人類が、100%意識化できるとどうなってしまうのか!」
という置換を、私の頭の中のマイクロチューブルが勝手におこなってしまい、チラリと見た予告編と、
「主人公の名が"Lucy"」という点にも淡い期待を抱きつつ、映画館に足を運びました。

さてその(個人的)感想はというと、鑑賞前の"淡い期待"は脆くも崩れ落ち、近年見た映画の中でも
トップクラスの衝撃を与えてくれた、大傑作でした。
(よって、我が家の「DVDコレクション」にも当然仲間入りです)

今日の記事、ご紹介した番組の内容に関心が高い方であれば、多分、この作品を「トンデモ映画」
ではなく、とっても"面白く"観ていただけるのではないかと思います。


ちなみに、当時鑑賞後につぶやいた私の一言感想です。 ↓
意識化が極限になると「人」はどうなってしまうのか。
そのイメージが見事に表わされていたように思いました。

個体化の全過程は弁証法的であり、いわばその「終極」は、中心の「空虚さ」と自我が直面することです。
ここには、あらゆる経験の可能性の限界があります。
自我は認識の参照点として解消されるのです。
しかし、自我は中心と一致することはできません。
もし、一致したとすれば、われわれは無意識になってしまうでしょう。
つまり、自我の解消は、最善の場合でも無限の近似にすぎないのです。
自我がこの中心を簒奪すれば、自我は対象を失ってしまいます。
                                              【C・G・ユング】



前置きが長くなりましたが、この映画に、権威ある脳科学者役で、モーガン・フリーマンが出演して
います。

映画とドキュメンタリー番組と、どちらの出番が先だったのかは知りませんが、とにかく「LUCY」→
「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」と観た私は、「これは!」「まさに!」と、
モーガン・フリーマンが、2作品の共通の全体像への橋渡しをしてくれたような感覚を持ったのです。

上手く表現できませんが、モーガン・フリーマンが"案内役"でなかったら、タイトルにその名前が
なかったら、私は「時空を超えて」を、未だ知らずに見過ごしてしまっていたかもしれません。
そして、2つの作品の相乗効果が、(あくまでもイメージではありますが)理解の一歩を確実に
推し進めてくれたのは間違いありませんでした。


現在ではまだ仮説にすぎない意識や魂、こころについての理論も、これから少しずつさらに発展して
いくのだろうと、未知の世界の広がりや可能性を思い、心が解放されていくような気さえしました。



□■□■□■□■□




「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」も「LUCY」も、"脳科学"の視点から人間を探求して
いますが、その視点を"こころ"に置き換えても、探求の道は同じ方向に向けて、交差しつつ、
繋がりあいながら、開けてくるのではないでしょうか。

エベン・アレクサンダー博士が自身の臨死体験を「神経生理学や神経解剖学の様々な知識を駆使して自分の体験について考えてみた。しかし、私の身に起きたことを神経科学によって説明することは不可能であるという結論に至った」という話や、ハメロフ博士が「脳死宣告を受けた患者の、血液が流れていない脳に、ニューロンが爆発的に活動している現象を確認した。驚くべきことだが、まさにこの目で見たのだ。」といった話など、やはり、 脳とこころは決して切り離せるものではなく、深いレベルで相当に影響しあっているのだと、今まで夢分析を受けてきた自分の体験も重ねて、強くそう思います。


というより、西田幾多郎が述べていることそのものだと、私はその考えに深く共感しています。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。


我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                     『善の研究』




それでは、ユングの自伝からの言葉で、今日は終わりにします。


理性はわれわれにあまりにも狭い境界を設定している。そして、われわれに既知のこと―それに対しても限界をもって―のみを受けいれしめ、既知の枠組の中で生きてゆくようにせしめる。
それは、ちょうど、われわれが生命がどの程度の範囲までであるかを確信しているのと同様で
ある。
実際のところ、われわれは毎日毎日、意識の限界をこえて生きている。
つまり、それに気づいていないが、われわれの中で無意識の生命もまた、続いているのである。


心の一部は、時空の法則に従わないという徴候がある。

顕在的な世界の背後にある異なった体系をもつ世界の存在の可能性は、避けることのできない問題となり、われわれの世界は、その時間、空間、因果律と共に、その背後あるいは、下に存在する他の規範によるものと関係している事実に直面しなければならない。





壁の向こう

今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価が
なされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、
いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)


私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だ
ストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこう
と思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む
機会はないままでした。

しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、
「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、
ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。

私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい
「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。


その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で
壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前
このブログでも取り上げた
、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。



しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、
ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、
文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが
味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。

壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。

壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」
おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)


そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、
「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います。



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"
自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、
「私」を保つことが出来ていたのでしょう。

一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、
あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。

そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、
改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた
未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、
あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、
その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。

もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。


「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や
 氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと
  思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                               『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。
                                               【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、
その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせて
くれようとしているように思われます。

そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。

現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると
感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせる
ことによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                              【河合隼雄】


『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、
多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。




さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。




クライエントさんとのご縁


Rose-rise./Sharon Mollerus

今日のタイトル、書き始めは今までの流れから、『共時性3』としていたのですが、
最終的に変えました。
理由は読んでいただければ分かるかな・・・。

ということで、テーマは今日も『共時性』です。

まずは、前回に引き続き、河合隼雄先生のお話からです。


あるとき、(クライエントで)「私の心境は太宰の『人間失格』です」と言った人がいました。
ところが、同じ日に別の人が来て、「私は『人間失格』がすごく好きです」と言う。
こういうことがよくあります。
個人的には関係ない複数の人が、三島の『金閣寺』に感動したとか、同じようなことを言ったりします。
それだけ重なるからには、そこになにかしらのメッセージがあるはずですから、
そういうときはどんなに忙しくても、必ず読んでみます。
                                『人の心はどこまでわかるか』 講談社
                               

「それだけ重なるからには、そこになにかしらのメッセージがある」

まさに、「意味のある偶然の一致」ですね・・・。

しかも河合先生は、「こういうことがよくあります。」とも言われています。


また、以前ブログ内でもご紹介しましたが、ユングも次のように言っています。

集合的無意識の仮設抜きでは、説明しがたいような象徴的対応現象が生じる事例に、
心理学者はつねに応じざるをえない。


他には、ユング派精神分析家のスーパーヴィジョン及び教育分析を受けられていた、
大妻女子大学准教授の福島哲夫先生も、ご自身の著書で、
「このような(不思議な)現象は筆者自身も何回か経験のあることである。」
と書かれています。


このように、「こころ」という「目には見えない世界」に関わっていると、
いわゆる“不思議なこと”に出くわす場面も自然増えてくるのだと、私も思っています。

私は心理学者ではありませんが、しかしカウンセリングという場で、
前述した河合先生のようなケースと、全く同じような経験をしたことがあります。

たまたま、続けてカウンセリングを依頼して来られた別々のクライエントさんが、
お話をうかがっていると、ほとんど同じと言っていいような内容の相談をされ、
しかも、その相談の主訴とも言うべき、あるキーワードまで一致していたのです。

ちなみにこのキーワード、普段の日常生活の中では、まず耳にすることのない、
「聞き慣れない言葉」 でした。


その他にも、私自身の過去の、全く個人的な経験にピッタリと重なるような相談内容をお聞きしたり、
自分が最近、「○○が気になるなー」とあることに興味を示していると、
まさに“そのこと”に関しての詳しいお話を、クライエントさんが急に話し始めたり・・・。

このようなことがある度に、ユングの理論への関心が深まりますし、
何より、深いレベルのお話を聴かせていただく、一人ひとりのクライエントさんとの、
目には見えない“ご縁”というものを、本当にしみじみと感じます。


共時性 1 の記事でご紹介した、ユングが、自身の元患者が拳銃自殺したことを“感じた”という話。

ユングはこの現象を、ユング自身の元患者への無意識的な同一化によって、
時空を超えた知覚が生じたのだとしています。

我々は、目に見える“意識”のやり取りだけではなく、見えない部分での“無意識”でも、
関係性を持っているということですね。

というより実は、意識⇔意識、無意識⇔無意識、意識⇔無意識 という、
非常に複雑な関係性の上で、私たちは周囲の人とやり取りをしているのですが、
(私自身、my shrinkである佳代先生 とのセッションで、この件を取り上げてもらったことがあります)
もちろん、通常我々が認知できているのは、意識上の部分だけです。

でも、見えない部分の関係性が、好き・嫌いという感情を含めた、
身近な家族を含めた様々な人間関係に大きな影響を及ぼしていて、
いわゆる精神分析やカウンセリングというものは、
「その部分」に光を当てていく(蓋を開ける)ことであるとも言えます。

私自身も、自分の見えない部分である無意識に意識を向ける、
「こころのワーク」(教育分析)を大切にしています。


今日は最後に、かの、アインシュタインのこの言葉をどうぞ。

「直接目に見える真理から一見かけ離れた複雑な現象に統一性を認識することは、崇高である。




(今日ご紹介した、福島哲夫先生の著書です。
ユング心理学について分かりやすく書かれています。)
ユング心理学 (図解雑学)
ユング心理学 (図解雑学)
著者:福島 哲夫
ナツメ社(2002-10)
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共時性 2

img387


共時性1
 の記事からあっという間にひと月が経ってしまいました・・・。


前回は、ユングのシンクロニシティのエピソードをご紹介しましたが、
今日は、日本人として、ユング派精神分析家の資格を初めて取得された、
河合隼雄先生の体験談です。


〜スイスのユング研究所では、もちろん幾度か試験を受けることになるのだが、
その試験官である(ユングの高弟である)フォン・フランツが厳しいことで有名なので、
「恐いな」と思っていた。

そうしたときに、「カラスが自分の肩の上にすばらしい宝石箱を背負って出てくる夢」を見た。

「これはなんやろ?」と、自身の分析家マイヤー博士に尋ねたところ、
「自分にも分らないが、せめてカラスのことでも調べておいたらどうか」と言われたので、
“カラス”についてものすごく調べた。
でも、調べてみても夢の意味はよく分からない。

ところが、フォン・フランツの口頭試験を受けてみたら、“カラス”が話の中心だった。
それで、
「ぼくは調べたことをワーッとしゃべったわけですよ、それで最高点をとった。」〜


おもしろいシンクロニシティですね。

“カラスが宝石箱を背負って出てきた夢”をきっかけにして、
河合先生は、厳しいフォン・フランツ女史の試験で、“最高点”を取れたのですから・・・。

夢の意味が分からないから、「とりあえず調べてみたらどうだ」とマイヤー博士に言われ、
調べていたことが、良い結果に結び付いた。
この一連の流れ・・・。

シンクロニシティとしてもですが、夢ってこんな感じで“知らせてくれる”ことがあるのだという、
分かりやすい例だと思います。


ここで少し私見をはさみますが、こうした夢のメッセージも、“見過ごして”しまっていたら、
せっかくの“宝石箱”も、ただの箱にしかならなかったと思うのです。

河合先生も、その夢に意識を向けてみたからこそ、現実の世界で“活かす”ことができたわけです。

だから我々は、そこ(夢)に意識を向けない限り、もしかしたら、
日夜送られてくる無意識からの大切なメッセージを、
どんどん取りこぼしてしまっているのかもしれません・・・。
(本当はみなさん夢を見ているのですから。覚えているかどうかの違いです。)

もちろん、どの夢も、こんな風に“分かりやすい結果”として出てくるとは限りませんが。


この河合先生のシンクロニシティ、実はまだ話が続きます・・・。

〜フォン・フランツ女史は、シンクロニシティの話がものすごく好きで、
でも、河合先生は「それが」いやだった。

でも、この一例は「ものすごい見事なシンクロニシティ」になっていて、
あんまりおもしろいから、やはり(フランツ女史に)言おうかなと思っていた。

そんな折、別の試験の時に、試験官であるフォン・フランツを図書室で待っていて、
ある本をぱっと開くと、

「中国の絵で、八咫烏(やたがらす)、太陽の中にいる三本足の烏、
それを猟師がねらっているところの絵が描いてあったのです。
そして、It is true,but pity you have said it.(それはほんとうだけど、言ったのは残念だ)
と書いてあったんです。
おもしろいですね。
だからフォン・フランツに言うのをやめたんです。」

これこそほんとにシンクロニシティ。
しかも、本をパッと開けたらその絵がピタッと出てきたんですよ。
しかもカラスでしょう。
あれは感激しました。

この一件により、その時には“伝えなかった”河合先生ですが、
さらにさらに、この次のフォン・フランツ女史の試験の時にも、
おもしろいシンクロニシティが起こったそうです。

だからそれも、あまりに不思議だったから、
「前はじつはこうやった」と、その時に、
カラスの夢の件も伝えたとのことです。〜


これを読んで、にわかには信じがたいと思われる方もいるかもしれませんが、
私は、このようなことは実際に起こるのだと思っています。

「実際に起こるから」
ユングもそれをシンクロニシティとして理論にしたのですし、
その理論に共感して支持する人も大勢いるのだと思います。


まだご紹介できるお話はありますが、今日はこのへんで。

〆も河合先生談で。

「ぼくはこのような傑作な話いっぱいあるんですけれども、
あんまり言うとみんな喜びすぎますからね。」

ぜひ、いっぱいご紹介いただきたかったなーと思います・・・。



(今日ご紹介したお話は、こちらに詳しく書かれています。)

未来への記憶―自伝の試み〈下〉 (岩波新書)
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共時性 1


blue-gold beetle on leaf /
Austin Turner

前々回の記事 を始め、今までに幾度か、
「シンクロニシティー(共時性)」について取り上げてきましたが、
ユングは勿論のこと、日本人のユング派の方の著書にも、
シンクロニシティーの“体験談”が書かれているのを読んだことがあります。

これから、それらの一端をご紹介したいと思います。


まずは“ユング博士”です。
有名な話は、ユングが自身の患者の死を、“感じた”というエピソードです。

『ある日ユングは、講義の後、旅先のホテルで床に入り、なかなか寝付けずにいました。
そして夜中、ようやく眠りに入ったころに、何かに驚いて目を覚まし、
誰かが部屋に入ってきたと感じます。
しかし、辺りを調べてみても、何事もありません。

「変だな。確かに誰かが入ってきたのに!」

そしてその時に起こったことを正確に思い出してみると、

「私はまるで何かが私の額、それから後頭部を打ったような鋭い痛みの感じに
目を覚まされたのだと気づいた」 のです。

次の日、ユングは自分の患者が、拳銃で自殺したという電報を受け取りました。
そして、その患者の頭蓋後壁に小銃弾が残っていたことも、後になって知りました。』


ユングは、この出来事について、このように述べています。
この経験は元型的な状況―この場合は、死―と関連して非常にしばしば観察されるような
一つの純粋に同時的な現象であった。
無意識における時空の相対化によって、私は現実には他所で起こっている何かを
知覚することができたのである。
集合的無意識はすべての人に共通である。     『ユング自伝 1 』(みすず書房)



もう一つ、ユング自身が書き遺している、ある体験談があります。

『ユングが治療していた女性患者が、治療の重要なポイントで、黄金のスカラベ(コガネムシ)を
与えられる夢を見ました。(ユング心理学で治療の中核をなすのは“夢分析”です。)

そして、この夢について、女性がユングに話をしているまさにその時、ユングの背後の窓ガラスに
コツコツと何かが当たる音がしたので開けてみると、その音の主は、飛んできた“コガネムシ”でした。

しかも、普通“コガネムシ”は、明るいところに向かう性質があるのに、この時には不思議に、
ユングたちの居た暗い部屋に入ろうとしていたのです。』

このスカラベ(コガネムシ)の“非合理的な出来事”は、固い合理主義者だったその女性患者に、
決定的ともいえる影響を与え、変容のプロセスが動き始めたとの事です。


ユング自身の言葉です。
(進展が見られなかった女性の治療について)
明らかに、私の力を超えた何かまったく非合理的なことが生じる必要があったのだ。

ちなみに、スカラベは、「再生の象徴の古典的な例である」とも、ユングは指摘しています。

頑固な合理主義者だったが故に、ユングを始めとする医師に(ユングの治療を受ける前に、
既に二人の医師の努力があったようです。)診てもらわざるを得なかったであろう、
彼女の心の変容→再生に、「再生の象徴をもつ(この象徴の意味についてもユングは記していますが、
ここでは割愛します)」スカラベが、“非合理的なできごと”として現れた、という事実は、
やはり、とても意味深いように感じられます。


さて、これらの出来事を始めとして、ユングは、その他にも、「非合理的な」現象を、
多数経験していたようです。

しかし、このようにも述べています。
私は、(中略)ここで報告した事実(スカラベの出来事)が本当のことであることを十分に知っているが、
こうしたことはあくまでも「偶然」にすぎないのだと確信している人々の考えを
この話で変えられるとは少しも思っていない。
このできごとを述べたのは、実際生活のなかでいかに意味のある偶然の一致がよく生じているのか、
単にその例を示したかったからにすぎない。      
                                 『エッセンシャル・ユング』(創元社) 


以前にもブログで書きましたが、ユングは自分の経験を通して、
シンクロニシティ(共時性)の概念を確立したことが理解できます。


ユングの信頼を得て、個人的秘書も務めた「アニエラ・ヤッフェ」もこういっています。
科学者としては、彼(ユング)は経験論者である。

経験論者であるからこそ、ユングは“異論”があることも十分承知していたのですね。

でも、“非合理”な現象に、偏見を持たず、ただただ事実を見据え、
正面から取り組んだユングのその理論を、支持する人たちも沢山いるということは、
そこにもちゃんと意味があるのだと、私は思います。


では、今日は最後にユングのこの言葉を。
集合的無意識の仮設抜きでは、説明しがたいような象徴的対応現象が生じる事例に、
心理学者はつねに応じざるをえない。


次回はこのユングの言葉につながるような、他の事例をご紹介したいと思います。
(また“日が空いてしまう”かもしれませが・・・)


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セミの抜け殻




先週から、子どもたちが相次いで病気になってしまいました。
既に回復し、二人揃って登園できるようになりましたが、
今夏最後のプールに行く予定もながれてしまい、親としても少し残念でした。

それにしても、子どもたちが病気になる少し前、
「そういえばここ数カ月、2人とも特にこれといった病気もせずに平穏だよねー。
ああ、こんなこと言っててホントに(病気が)“来ちゃ”いけないから、この話はナシナシ!」
なんて、夫婦で冗談を言っていたのです。

そうしたら、やっぱり()“来て”しまいました(笑)

今思うと、夫婦で自然とそんな会話になったのも、もしかしたら“予兆”だったのかもしれません・・・。


さて、今日の本題です。

7月の下旬に、主人の実家に遊びに行った時、おじいちゃんに、
「面白いものが庭にあるからおいで」
と誘われ、私も子どもたちと一緒に見に行きました。

そこで私たちを待っていたものとは・・・、
“セミの抜け殻”  でした。

3体、完全な形で木の枝にくっついていたのです。

子どもたちは勿論のこと、私も“セミの抜け殻”を見たのは(しかもこんなに完全な状態で!)、
生まれて初めてのことでした。

「へぇ〜」と、
子どもたちと一緒に、私も物珍しく観察し、ツインズはそれぞれ一つずつもらって、家に帰りました。

セミの抜け殻
(この写真では分かりづらいですが、背中のくぼみは脱皮のあとです。)



そして、その晩、私は日課である(と言ってもその日課は、ツインズが良い子ですんなりと寝てくれる
日に限られるのですが・・・)就寝前の読書をしていました。

すると、その本の中に、このような箇所が出てきたのです。

「そして見捨てられたこの世の肉体は、蝉が脱ぎ捨てた殻のように、
ひからびたぬけがらとして後に残るだけである。」


この一文は、ユングが、自身の思想的立場を確立するのに大きな影響を与えた、
ドイツの中国学者、「リヒアルト・ヴィルヘルム」が書いたものであり、
ユングとヴィルヘルムの共著作として広く知られている、
「黄金の華の秘密」に記されています。

黄金の華の秘密黄金の華の秘密
著者:C.G. ユング
人文書院(2004-03)
おすすめ度:4.5
販売元:Amazon.co.jp
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私はこの本を、自分の読書タイムに少しずつ読み進めていたのですが、
本物のセミの抜け殻を生まれて初めて見たその日に、
ちょうど、前記の“一文”の箇所を読むことになったというこの事実が、
ただの偶然とは思えませんでした。

個人としては、「シンクロニシティ」であったと確信していますし、
だから少し(いえ、かなり)感動もしました。


このような出来事があったとき、それをどのように捉えるかは、その人それぞれだと思いますが、
例えば、“このような出来事”が、何度か繰り返し起こったとすると、
だんだん、それらを「ただの偶然」とは思えなくなってくるはずです。

そして、ユングはそれを“体験”したはずで、
そこから「シンクロニシティ」の概念を確立したのです。


ともあれ、「セミの抜け殻」は、
子どもたちだけではなく、私の目にも心にも、素敵な“夏の想い出”となりました



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不思議な偶然


Big Tree / vitroid

 今日、webでおもしろいニュースを見つけました。       
                    ↓

これって偶然?テレサ・テンとエルビス・プレスリーの生死に奇妙な数字の一致―台湾メディア
 - 速報:@niftyニュース. (※この記事はすでに削除されています)


そして、昔TVで見たことのある、「不思議」も思い出しました。

皇室に嫁がれた『雅子様と紀子様の旧姓を上下互い違いに読んでも同じ名前になる』

小和田雅子 様 おわだまさこ 様 
川島紀子  様 かわしまきこ 様  
         ↓   
お わ だ ま さ こ  
 か わ し ま き こ


ユングのシンクロニシティの概念に、何か通じるものがあるような気がしました。

ユングや河合隼雄先生も言っていますが、心理に携わっていると、
このような不思議に出会う場面は少なくないのです。


ちなみに私は、分析家の佳代先生とのセッションの前日や当日に、
不思議なこと(いわゆるシンクロニシティ)が起こったりします。

そういうことが一度ならず、何度も重なってくると、「あー、これはやっぱり何かあるんだなー」などと、
その事実を認めざるを得なくなってくるわけです。
(“何かあるのかなー”と感じて、そのことについて調べてみると、
 “おー!”と更に驚くようなことが出てきたりもします)

ユングも、事実と体験を真正面からきちんと受け止めて、
そしてシンクロニシティの概念を打ち立てたんだなと、自分自身も体験を通して納得できるのです。


このような不思議、実は多くの人の周りでも起こっているそうです。

ただ、そこにアンテナを張っているかどうかが、
“気づく”かどうかの分かれ目になるようです。(ユング派 曰く)


あなたの心が発信している声に、真剣に耳を傾けてみると、面白い体験ができるかもしれません。  

           

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シンクロにつながった私の夢 ‐3‐

“夢と映画がシンクロした”

あなたはこの話を読んでどう思われたでしょうか?


「たまたまだろう!」

「記憶違いでは?」

「そういうことって不思議だけどあるだろうなー」



色んな捉え方があるでしょうが、でもこの出来事は、「たまたま」でも「記憶違い」でもないんです。

「たまたま」3つもの夢(断片的とはいえ)と、映画の内容が偶然に一致するものでしょうか?



ユングはこう言っています。

「偶然」一緒に起こったとはいえ、そのあまりの意味深い関連ゆえ、その確率を算出すれば天文学的な数字で表すしかないほどの偶然さでもある。

私の一件も、ただの偶然と片付けられる確率ではないと思うんです。
(誰か計算できる方、いらっしゃいませんか


「記憶違い」も残念ながら?、あり得ません。
なぜなら、その映画が公開される数カ月も前に、夢日誌として夢をきちんと記録し、分析家の佳代さんにも提出していたのですから・・・。


この出来事に、何よりビックリしたのは当の私自身です。

当時の私は、まだユングの理論に絶対の確信を持っているわけではありませんでした。

でも「受け入れては」いました。

分析を受け始めて何カ月か経っていましたし、過去の私の不思議体験も、ユング心理学的にみれば、“納得”できるようになっていたからです。


とはいえ、やっぱり映画を観終わったときは、驚きと感動で、当分ぼんやりしていました。

「こんなことが本当に起こるんだ」と、自分でも信じられないような気持ちでした。



なぜこんな「意味ある偶然」が起こったのか、そこにどんな“意味”があるのか。

実は私にも一部しか理解できていません。
(そもそも、頭で分かろうとするものではないようです)

でも、どちらにしても、この映画が私のこころに与えた影響は間違いなく大きなものでした。


とにかく、私のこころのどこかと、この映画のストーリーに重なり合う部分があり、このようなことが起こったのでしょう。


河合隼雄先生も述べられていますが、心理に携わっていたら、このようなどうしても科学では説明のつかない事象に、意外とよく出くわすそうです。

もちろん、ユング自身がそうでした。

ユングはそういう「不思議」を頭から否定するのではなく、事実は事実としてきちんと受け止め、長年研究した末「シンクロニシティ」の理論をうちたてたんですね。


ユングの共時性(シンクロニシティ)についての言葉です。

この現象は、無意識の作用素の活動と関わっており、これまで「テレパシー」などの現象として認められていた、もしくは排撃されていた現象である。
しかし、疑いのまなざしは不正確な理論にのみ向けるべきで、それ自体存在を疑いえない事実に対して向けるべきではなかろう。
観察者の目に偏見がなければ、この事実を否定できないはずである。



分析を受け始め、自分の無意識に向き合うようになったからか、この映画の一件に留まらず、私はここ数年いくつかの“不思議”を体験するようになりました。

そして、私はその事実を受け入れています。

いつかまた、別のエピソードもご紹介したいと思っています。


                   “ありがとうございます”
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シンクロにつながった私の夢 ‐2‐

以前書いた記事の続きがそのままになっていましたので、今回から取り上げていきたいと思います。
(興味のある方は、以前の記事を先にお読みください)

この「湖の夢」を見た数ヵ月後、ある印象的な夢(B)を見ました。もちろん日誌に書き留め、分析も受けました。
ただその時点では、夢の内容について解釈しきれずに「なぜこんな場面が出てきたのだろう・・・」と疑問が残ったままになっている部分がありました。

そしてそれからまた数ヵ月が経ちました。

ある日、たまたまテレビで映画の宣伝をしているのを目にしたとき、思わず「えっ!」と声をあげてしまいそうになりました。

実はこの映画の主人公の男女が、私の「湖の夢」に出てきた男優さんと女優さん、その人たちだったのです。

「偶然にしても・・・」と気になったので、その映画がどんな内容なのか少し調べました。
とはいっても、まだ公開前だったので、少しの情報しか入りません。
でも、紹介されていたある一場面が、「湖の夢」の前に見た夢(A)と重なっていることが分かりました。

さすがに「これは」と思い、公開後すぐに鑑賞に行きました。

観た後にさらに驚きました。
解釈しきれずにいた(B)の夢と一致する場面も、この映画の中に出てきていたからです。

この映画は、私がそれ以前に見た3つの夢とシンクロしていたというわけです。


「・・・こんなことが本当に起こるんだな」と実感できた、あまりにも感動的な出来事でした。
そして、ユングの理論に“確信”を持ち始めた瞬間でもありました。


それでは続きはまた次回に。




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