心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

映画

Tale As Old As Time...

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美女と野獣公式サイトより】  (こんな部屋に通されたらベルでなくてもグラリと来ます・・・)
 

ディズニー映画 実写版『美女と野獣』。
公開前から話題になっていたとおり、日本でも封切られると同時に大ヒットしているようです。

という私もご多分に漏れず、『美女と野獣』の実写版が制作されていると知った日から年をまたいでずっと、あの暗い特別な空間で大画面を前にして座る日をとても楽しみに待っていました。


そして先日、念願叶い。

今まで、アニメの『美女と野獣』は繰り返し繰り返し観ていましたし、発表されていた実写版の豪華なキャストにも、「えっ、あの役をあの人が!」と、鑑賞前から想像を膨らませていました。

また、後述するように、この映画に関する「自分の思い出」や、昔話としての心理学的意味などについても、 色んな考えや思いが、鑑賞(途中から)後には頭の整理がつかないくらいあれやこれやと湧いてきて、「いっぱいいっぱい」になってしまいました。

観終わってから少し時間が経ってしまったので、既に「いっぱいいっぱい」に湧いてきた思いも、内容と共に詳細を忘れてしまったものもありますが、残っているものについて書き留めておきたいと思います。




『美女と野獣』の物語に私が初めて出会ったのは、ディズニ−アニメ版が公開された後、もう20年以上も前。

当時から映画が大好きだった私は、様々な作品を暇さえあれば観ていましたが、でも
その時は専ら洋画ばかりだったこともあり、ディズニ−アニメには何の関心もなく、そもそも私の中では‟候補"にすら上がっていませんでした。

でも、日本での上映からちょうど3年ほどが経ったとき、
ある方からある日突然、録画されたVHSをいただいたのです。

今考えても、なぜ急にこのビデオをいただいたのか?
なぜこの人からこの作品なのか??
本当に
何の脈略もなく、ある日突然の サプライズギフトだったのですが、
そんなふうに自然な流れで私の元にやって来て、 何の知識もなく 素の状態で観た 『美女と野獣』に、一度ですっかり魅せられてしまいました。


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鑑賞後に行ったTDLで、思わず手を伸ばし衝動買いしたチップのカップ。
VHSビデオデッキは とうの昔に廃棄したため、見ることが出来なくなって久しい、いただいたテープ。
今でも思い出深い宝物です。




ビデオがDVDに換わってからも、何度となくアニメ版を観てきた私ですが、夢分析を受け始め、ユング心理学を深く学ぶようになってからはさらに、『美女と野獣』は私の中で特別な作品となりました。



河合隼雄先生が、‟女性のこころ"の「美女と野獣」について、以下のように説明されています。

父=娘結合を破る男性も、まず最初は怪物として−時には鬼として−認識されるものである。このような話は、いわゆる「美女と野獣」型の昔話として、全世界に満ちているというべきであろう。

怪物としての男性をまず受け容れることによって、それは王子へと変化するのである。


西洋の場合は、もともと人間の男性だったのが魔法によって動物にされており、それが女性の愛によって人間にかえり、結婚というハッピー・エンドで終りとなるのである。


異類婚譚についての解釈を、全体にわたってこころみることにしよう。
己のなかに存在する「自然」(つまり人間の変身したものとしての動物)を通じて、自然との関係を回復しようとのこころみがなされる。

人間の心のなかのこととして言えば、意識と無意識ということに置きかえることができるであろう。


このことを知ってから、『美女と野獣』に魅せられたことも、20数年前に自然に出会ったことも、自分にとっては意味ある出来事になりました。

アニメ版をいただいた当時の自分の状況やプレゼントしてくれた相手、それから長い時を経て分析を受け始め、自分のこころの中の父や野獣(アニムス)の問題と向き合うようになった、それら諸々のことが、あの時(公開3年後に)‟観るべき時に観るべくして観ることになった"、そして今年実写版を‟自分の意志で観に行った"、二つの『美女と野獣』を、独自で特別な、私だけの意味付けを持った価値ある映画作品へと押し上げてくれました。

「布置」を感じられることは、自分の無意識の存在、野獣との関係が変わっていくような、とても素敵で素晴らしいことなのだと心から感じます。




さてここからは、純粋に映画ファンとしての個人的レビュ−を。

先に書いたとおり、観る前から興味津々だったのはそのキャスト。

ガストンがルーク・エヴァンス!
コグスワースがイアン・マッケラン!
ルミエールが
ユアン・マクレガー!
ポット夫人がエマ・トンプソン!



中でも一番ひっかかったのは、ガストン。
過去に、「アラミスやゼウスやバルドやヴラド」を見せてもらった私としては、「あのガストン!」を、ルークがどのように演じるのか、期待と不安が入り混じった「・・・?」な感覚を拭い去ることができませんでした。
        
だって、「今までの」とは容易には結びつかないですから、イメージが・・・。

でも実際に画面でルークのガストンを目にすると、そんな感覚はただの杞憂に過ぎませんでした。

ベルが表現したとおりの男性像「ガストン」そのものでありつつ、でも、ル−ク自身の繊細でスマ−トな印象そのものまでが崩れ去ることはなかった。

調べてはいないけれど、「意図的に体重を増やし、ガッシリ体形を作ったのかな・・・」 と。

とにかくアニメと変わらない、ゴツくて暑苦しいガストンになりきっていた、ルークの幅の広さを新発見できた気がしました。

作中、ガストンの子分に‟三流銃士"が出てきて、私のように思わず笑ってしまった映画ファンの方は少なくないはずですが、本家三銃士ルークのガストンは‟一流"でした。



ガストンだけではなく、どのキャラクタ−も、アニメでの印象が既に強く刷り込まれてしまっていたので、コグスワースもルミエ−ルもポット夫人も、観るまではルーク同様、それぞれの演者たちとの間にイメージのズレがあったのですが、そこはさすがの名優陣。

素晴らしいメイクや衣装の後押しもあり、ラストでやっとご登場の場面では、全く違和感なく、それぞれが物語の人物としてスクリーンの中に生きていました。

エマ・ワトソンは「イメージどおり」、自分の意志をきちんともったブレない美しいベルにぴったりでした。




メイクと言えば、野獣に変えられてしまう前の傲慢な王子は、ケバケバしい化粧をしていて、その素顔が全くうかがえません。

また、野獣から王子様に戻る前には、一度息を引き取ります。


素顔が全く見えないほどの化粧をしなければ(多分)生きられなかった王子が、次には人ではない野獣の姿となり、それからありのままの自分の美しい本当の顔をとり戻すまでに、あれほど長く、醜く、辛い時を過ごさねばならなかったこと。

そして最後の最後、絶望的な状況においてやっと呪いが解けること。

またベルも、野獣と心が通うようになるまでに、父親と引き離される悲しみや囚われの恐怖などの苦難を味わねばならず、それを乗り越えてもなお、野獣が王子様に変わる前に、彼を一度失うといった絶望を体験しなければなりません。


映画の『美女と野獣』の中にもきちんと、昔話としての深い意味、ユング心理学のペルソナ、死と再生、エナンティオドロミアなどの要素が、描かれていました。





ポット婦人の、「こころの奥底に囚われている王子」というセリフがありましたが、その王子は実際に全ての女性の中に存在していて、ベルが成し遂げた「野獣の呪いを解き王子を救う」といった仕事も、(男性には「囚われたお姫様を救う」というテーマの昔話がちゃんとあります)現実の私たち一人ひとりに通じる心の現実であることを知れば、『美女と野獣』の感動を、「自分のこと」としてしっかりと受け止められるようになるのではないでしょうか。


ちなみに原作の「美女と野獣」では、野獣との関係において、ベルが主体的に事を為さねばならないこと(自我の役割)が、暗示的に、でも繰り返し、はっきりと示されています。


美女と野獣 (角川文庫)
ボーモン夫人
角川書店
1992-05






『美女と野獣』の歌詞。

Tale as old as time
True as it can be



そして今日、河合隼雄先生の言葉を引用させていただいた、以前書いたブログ記事「地に足をつけて生きる」でも取り上げた、『昔話と日本人の心』の冒頭に紹介されている一文。

   むかし語ってきかせえ!―
  さることのありしかなかりしか知らねども、あった 
  として聞かねばならぬぞよ―
                                 ―鹿児島県黒島―



ベルの物語が、決してただの絵空事ではないことを、私たちにちゃんと教えてくれています。



「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」


Paul_Gauguin_-_D'ou_venons-nous








 D'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?


先日、とても興味を掻き立てられる番組を見つけました。

即、録画予約をして、まとまった時間がとれたときにじっくりと視聴したその番組は、予想を超える、
ドキドキワクワクものの内容でした。
 
それは、いつも優先順位の後ろに追いやってしまっている、このブログの更新に、集中させてくれる
エネルギーを私に与えてくれました。




案内役が"モーガン・フリーマン"ってだけでもう、直観的に「これは!」などと思ってしまったのですが、
観た後には「まさに!」と、これまた一人で勝手に納得してしまったわけです。(その理由は後ほど)



後で知ったのですが、この「時空を超えて」シリーズは、以前既に放送されていたようですね。
その時には全く知らず見逃していた私ですが、この度、事前に情報をキャッチできて本当に
良かった、とつくづく・・・。
正直、「こんな番組が作られていたなんて」と、いろんな意味で感動でした。




NHK Eテレ モーガン・フリーマン 時空を超えて・選「死後の世界はあるのか?」

各学問の研究者が、自身の専門分野を切り口にして様々な観点から検証。
脳神経外科の権威、ハーバード大学のエベン・アレクサンダー博士の"臨死体験談"や、多くの臨死体験者達が語るそのような体験の共通点、ちなみに、ユングにも臨死体験にまつわる興味深いエピソードがあることは有名で、自伝にその詳細が残されています。そして、ユングの体験にも共通点が語られていることを確認できます。)、その他、意識や魂についてなど充実の内容でしたが、その中でも私が特に惹きつけられたのは「量子もつれ」の話でした。


以下、番組からの引用です。


アリゾナ大学 意識研究センタ―所長のスチュワート・ハメロフ博士は、麻酔科医として多くの患者を診るうちに、脳の活動と意識との関係性を知りたいと思い、イギリスの著名な物理学者  ロジャー・ペンローズと共同研究を始めた。


・脳細胞の中にある「マイクロチューブル」と呼ばれる構造
マイクロチューブルは、脳細胞の中にある管のような構造で、「細胞骨格」の一種であり、細胞の構造を決定づけている。
マイクロチューブルは、細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられる。
脳を「量子コンピューター」として機能させる役割を担っていると考えられるのである。

脳は一つのニューロンが活動すると、シナプスを通じて他のニューロンに、そして脳全体に信号が送られていく。
これが従来の考え方だが、量子コンピューターでは
「量子もつれ」という未知のプロセスを経て
  情報が伝達される。




ハメロフ博士はこのように述べます。

「量子もつれ」は意識と深い関係があると考えている。

ある場所でニューロンの活動が起きたとする。
すると空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。


量子論によれば 「何もない空間でも情報が伝わる」 というのです。


「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。
あらゆる方向に情報が伝わるため、ある場所で何かが起きると、影響がすぐに離れた場所にも及ぶ。

この説が正しければ、マイクロチューブル内の情報が、脳の外にある広大な空間と繋がる可能性がある。
脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

人間の意識は脳を構成するニューロンよりも、もっと基本的な宇宙の構成成分のようなもので
出来ている。
                                          
   
                                 

さらに、ハメロフ博士が定義した「原意識(プロトコンシャスネス)」について、そしてその他の研究者の意見も含め、全編を通して、まさに番組内でモーガン・フリーマンが口にした問いかけ、「意識とは
何か
という問題です。意識とはどこから来て、死後、どこへ行くのでしょうか。」という知的好奇心を、
十二分に刺激してくれる話ばかりでした。



ハメロフ博士は、「生物学上の様々な現象が、量子論を応用することで説明可能だと(近年になって)分かってきている」とも、述べられていました。

「ユング心理学の"シンクロニシティ"の現象が、いつか、量子論によって説明できる日も来るのかも
しれない。」などと、量子論なんてまったく分からないけど、ただの門外漢としての一個人の夢は
膨らみました。



□■□■□■□■□

さて、ここからは少し話題を変えて、前述した(その理由は後ほど)について書きます。


2014年に公開された映画 『LUCY/ルーシー』


「10%しか使われていない人類の脳が徐々に覚醒し、100%使えるようになるとどうなってしまうのか!」というようなフレコミを見て咄嗟に、
「10%しか意識化できていない人類が、100%意識化できるとどうなってしまうのか!」
という置換を、私の頭の中のマイクロチューブルが勝手におこなってしまい、チラリと見た予告編と、
「主人公の名が"Lucy"」という点にも淡い期待を抱きつつ、映画館に足を運びました。

さてその(個人的)感想はというと、鑑賞前の"淡い期待"は脆くも崩れ落ち、近年見た映画の中でも
トップクラスの衝撃を与えてくれた、大傑作でした。
(よって、我が家の「DVDコレクション」にも当然仲間入りです)

今日の記事、ご紹介した番組の内容に関心が高い方であれば、多分、この作品を「トンデモ映画」
ではなく、とっても"面白く"観ていただけるのではないかと思います。


ちなみに、当時鑑賞後につぶやいた私の一言感想です。 ↓
意識化が極限になると「人」はどうなってしまうのか。
そのイメージが見事に表わされていたように思いました。

個体化の全過程は弁証法的であり、いわばその「終極」は、中心の「空虚さ」と自我が直面することです。
ここには、あらゆる経験の可能性の限界があります。
自我は認識の参照点として解消されるのです。
しかし、自我は中心と一致することはできません。
もし、一致したとすれば、われわれは無意識になってしまうでしょう。
つまり、自我の解消は、最善の場合でも無限の近似にすぎないのです。
自我がこの中心を簒奪すれば、自我は対象を失ってしまいます。
                                              【C・G・ユング】



前置きが長くなりましたが、この映画に、権威ある脳科学者役で、モーガン・フリーマンが出演して
います。

映画とドキュメンタリー番組と、どちらの出番が先だったのかは知りませんが、とにかく「LUCY」→
「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」と観た私は、「これは!」「まさに!」と、
モーガン・フリーマンが、2作品の共通の全体像への橋渡しをしてくれたような感覚を持ったのです。

上手く表現できませんが、モーガン・フリーマンが"案内役"でなかったら、タイトルにその名前が
なかったら、私は「時空を超えて」を、未だ知らずに見過ごしてしまっていたかもしれません。
そして、2つの作品の相乗効果が、(あくまでもイメージではありますが)理解の一歩を確実に
推し進めてくれたのは間違いありませんでした。


現在ではまだ仮説にすぎない意識や魂、こころについての理論も、これから少しずつさらに発展して
いくのだろうと、未知の世界の広がりや可能性を思い、心が解放されていくような気さえしました。



□■□■□■□■□




「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」も「LUCY」も、"脳科学"の視点から人間を探求して
いますが、その視点を"こころ"に置き換えても、探求の道は同じ方向に向けて、交差しつつ、
繋がりあいながら、開けてくるのではないでしょうか。

エベン・アレクサンダー博士が自身の臨死体験を「神経生理学や神経解剖学の様々な知識を駆使して自分の体験について考えてみた。しかし、私の身に起きたことを神経科学によって説明することは不可能であるという結論に至った」という話や、ハメロフ博士が「脳死宣告を受けた患者の、血液が流れていない脳に、ニューロンが爆発的に活動している現象を確認した。驚くべきことだが、まさにこの目で見たのだ。」といった話など、やはり、 脳とこころは決して切り離せるものではなく、深いレベルで相当に影響しあっているのだと、今まで夢分析を受けてきた自分の体験も重ねて、強くそう思います。


というより、西田幾多郎が述べていることそのものだと、私はその考えに深く共感しています。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。


我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                     『善の研究』




それでは、ユングの自伝からの言葉で、今日は終わりにします。


理性はわれわれにあまりにも狭い境界を設定している。そして、われわれに既知のこと―それに対しても限界をもって―のみを受けいれしめ、既知の枠組の中で生きてゆくようにせしめる。
それは、ちょうど、われわれが生命がどの程度の範囲までであるかを確信しているのと同様で
ある。
実際のところ、われわれは毎日毎日、意識の限界をこえて生きている。
つまり、それに気づいていないが、われわれの中で無意識の生命もまた、続いているのである。


心の一部は、時空の法則に従わないという徴候がある。

顕在的な世界の背後にある異なった体系をもつ世界の存在の可能性は、避けることのできない問題となり、われわれの世界は、その時間、空間、因果律と共に、その背後あるいは、下に存在する他の規範によるものと関係している事実に直面しなければならない。





壁の向こう

今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価が
なされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、
いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)


私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だ
ストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこう
と思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む
機会はないままでした。

しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、
「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、
ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。

私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい
「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。


その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で
壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前
このブログでも取り上げた
、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。



しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、
ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、
文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが
味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。

壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。

壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」
おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)


そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、
「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います。



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"
自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、
「私」を保つことが出来ていたのでしょう。

一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、
あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。

そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、
改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた
未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、
あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、
その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。

もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。


「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や
 氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと
  思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                               『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。
                                               【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、
その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせて
くれようとしているように思われます。

そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。

現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると
感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせる
ことによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                              【河合隼雄】


『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、
多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。




さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。




普遍と個別

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クーパーはマーフとその場所でその時間に通じ合った。
クーパーはそれを知っていた。
マーフはそれを知っていた。



前回記事で取り上げた映画 『インターステラー』
かなり時機を逸した、そして鑑賞した方にしか分からない内容となってしまいますが、今日は前回に
引き続きこの映画を題材に書いていこうと思います。


主人公クーパーの生死にかかわるクライマックスの場面。
それは突如、クーパーと娘のマーフそれぞれが違う時空間に居ながら接触するという、
(私は)想定していなかったシーンへと進んでいきます。

そしてそこで、クーパーによってマーフに伝えられた情報を、マーフが理論化、さらに実用化することによって、結果的に人類は救われました。

『インターステラー』での世界(時空)は、いわゆる通常の時系列の枠を大きく逸脱しているので、
鑑賞している側も、描かれたシーンの因果関係を頭の中で整理することを要求されますが、
バラバラになっていたピースがきちんとはまった瞬間、マーフの子ども時代の"奇妙なオカルト現象"のその意味と、父娘のまさに時空を超えた絆、愛情が、胸に自然な感動を呼び起こしてくれます。

それは、その体験が特殊なものであるからこその「特別な感動」で、マーフの(一連の)体験を
"想像できればできるほど"、自分の中で強烈なものとなってくると思います。


ラストシーン。
父と(より年老いた)娘がこっそりと語り合う場面で、人類の危機を救ったマーフは、その智慧をどこから授かったか周りの人たちにいくら訴えても信じてもらえなかったこと、そして結果的に
「"私"の功績に なったわ」と、苦笑いしながら語っていました。

その"体験"は、クーパーとマーフという"当事者たち"にしか分かり合えない「秘め事」となりました。
(そうならざるを得ませんでした)
しかしその「二人だけの秘め事」により、物語の中では、人類全体が救われることとなったのです。



マーフとクーパーの体験を理解してくれる人は誰もいませんでしたが(その出来事を再現するという
科学的証明は不可能でしたが)、それが人類救済につながったことは、(映画の物語としては)
事実でした。





普遍的真理が非常に「限定的に」「個別的に」もたらされることについては、ユングも西田幾多郎も、
そして、(哲学者の)ホワイトヘッドやヘーゲルも指摘しています。


それは、ユング心理学の概念である「シンクロニシティ」にも非常に深い関連があり、因果律では説明ができない、(われわれの意識が作り上げた)一般的な「時間と空間」の捉え方では理解できない、
そのような「心的真理があるのだ」とユングは述べています。



哲学者のホワイトヘッドは次のように語っています。

われわれが直接経験の事柄を表現しようとするたびに見出すのは、
その理解は、それ自身を越えて、その同時的なものに、その過去に、その未来に
そして その限定性を示す種々の普遍的なものに、われわれを導いていく ということである。
しかしこれらの普遍的なものは、まさしくその普遍性によって、
さまざまなタイプの限定性を伴った 他の事実の潜勢態を体現している。

科学が情緒を問題にするとき、当の情緒は知覚対象であって、直接的な情念ではない。
他人の情緒であって、われわれ自身のものではない。
少なくとも回想におけるわれわれ自身の情緒であって、直接性におけるそれではない。

強調されるべき点は、経験される事物の、そして経験の働きの、
執拗な特殊性
 である。

「その狼がその羊をその場所でその時間に喰い殺した。
 狼はそれを知っていた。
 羊はそれを知っていた。
 そして黒禿鷹はそれを知っていた。」     
                                  【 A.N.ホワイドヘッド】

「われわれ自身のものではない」「他人の情緒」を、直接的に100%知ることは不可能ですが、
当人にしかわからないというその「限定的経験」という「特殊性」こそが、実は「普遍的なものに、
われわれを導いていく」のだということ。
パラドックス。

「その場所でその時間にいた"狼と羊とそれを見ていた黒禿鷹"」にしか、知り得ない
「直接経験の事柄」というものがある。
それは主客合一、一般的な時空の概念を越えた、古今東西の先人たちがさまざまな表現で
表している状態、特殊的な体験です。




ホワイトヘッドが「直接経験」と現わした内容を、西田幾多郎も同じく、
「直接経験」「純粋経験」 などと表現しています。

まず、「時間」について、前回記事に書いた、ユングの時空間に関する考え方、
ひいては相対性理論にも通じる考えを次のように記しています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには
先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。
然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。
されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に
由って成立するのである。

意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬ
ことになる。

                                      【西田幾多郎】


さらに「物理と心理」についても、次のように論及しています。

(一般的な)物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。

統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、(略)物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。
(ユングの類心的元型に通ずる)

我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。
ただ我々をして物理其物の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。
識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。

                                      【西田幾多郎】

先ずは「無知の知」の自覚が必要のようです。



そして、"普遍と個別"については"精神の発展"であるとしています。

今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わし来るのであるということができる。

精神の発展において始めて事実成立の根本的性質が現れてくるのである。
ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。

合目的なる自然が個々の分立により統合にすすみ、階段を踏んで己が真意を発揮する
見るのが至当である。

我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合する
ばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合する
のである。
                                      【西田幾多郎】

個々の人間が、「真の自己を知れば」「神意と冥合する」というのです。
前記のホワイトヘッドの「直接経験の事柄」も、同じと見るのが妥当なようです。




そしてヘーゲルは、"精神の発展"、 "普遍と個別"について 、『精神現象学』の中で延々と 論じて
いますが、今日は関連する部分の一つを挙げてみます。

個人の行為の結果は、現実としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、
個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの個々の個別性として、
自らを保とうとしている。

この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。
すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式を
もっているにすぎない。
つまり、その特殊な内容が、そのままで一般的なものと認めらるべきである、というのである。

だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。
むしろ、自分たちとは別の人のこころが、実現されていることに気がつく。

(略)
意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気づく。
意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。

                                       【ヘーゲル】




最後にユングの主張についてです。

前回記事で取り上げたとおり、ユングは、空間と時間について、それらは「物体の単なる見かけ上の
属性にすぎず」、「心的条件によってそれらが相対化される」可能性は有るとし、それは
「心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる」と考えました。

そして、ユングの概念として有名な共時性について、その現象の基本的な要素は、
「非因果性、相対的な同時性、意味の一致」の三つであるとし、この原理を心理的なものと
物理的なものとの間の第三のものとすることによって説明ができるとしました。

私は根底的な元型の本性を確立できるような、きわめて多くの共時的出来事を個人的に
見てきました。
元型それ自体は、類心的、つまり、先験的であり、こうして、数や空間や時間のカテゴリーを
超えています

つまり、それは統一性と不変性に近づくのです。
意識のカテゴリーから解放された場合、元型は、意味深い暗号(偶然の一致)の基盤になりうるといえるでしょう。 
                                      【C.G.ユング】

共時性は物理学における非連続性ほどにはわけのわからぬ、ないしは神秘的なものではない。ただ、因果律の卓越した力に対する深い信仰心によって、知的な困難が生じ、原因のない事象が存在し、また存在したということを考えられないこととしてしまうのである。

因果的な説明の欠如のために、意味のある配列として考えねばならなくなる。
しかしながら、(略)それらの「説明不可能性」は、その原因がわからないという事実によるのではなく、原因が知的な言葉では考えることすらできないことによる。

このことは、必然的に、空間と時間がその意味を失うか相対的なものになった場合のことである。というのは、そういう状況のもとでは空間と時間を連続体として前提している因果性が
もはや存在するとはいえなく、まったく考えられないものになるからである。

共時的現象を自然事象における特殊な部類として理解することを可能にするばかりでなく、
偶発性を、一部には永遠の昔から存在する普遍的な要因として、また 一部には、
時間とともに生ずる無数の個人的な創造行為の総計として、理解するのである。
                                   
                                             【C.G.ユング】 

狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない

狭義の共時性は一般の非因果的秩序性―すなわち観測者は一致の仲介者を認識できる
幸運な位置にある心的ならびに物理的過程における等価性―であるにすぎないという観点に、
私は実のところ傾いている。
                                       【C.G.ユング】




クーパーとマーフが体験したことを、他者に説明できず、よって理解もされなかったことは、それ自体
ひとつの「法則」だったのかもしれません。

科学者の説明法は知識の一方に偏したるものである。 

真の一般と個性とは相反する者でない、
個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる
                                      【西田幾多郎】

物理的にということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
                                            【C.G.ユング】 


でもそれが科学的に証明できない出来事であったにせよ、二人にとってはまぎれもない真実で、
結果的にそれは世界を変えることに繋がり、他者にも多大な影響を与えました。

そしてその物語は、けっして"ただのファンタジー"などではないのだと、私はそう感じました。


クーパーとマーフは、お互い(特にマーフは)長くて辛い時を経て再び繋がり、マーフは子供時代の
「あの出来事の意味」をやっと知ることができました。
大事なものが始めから布置されていたんですね。
マーフの“その時”の感動が伝わってくるようでした。



『インターステラー』
本当に色々と感じさせ、考えさせてくれる意味深い映画でした。

そして一見、荒唐無稽で私たちの日々の暮らしとは全くかけ離れた別世界のお話のようでありながら、でも実は、映画で"体現された"クーパーやマーフの生き方は、現実を生きる 私たちの課題でもある
「自己実現」、ユングのいう「個性化」について、(多くを)示唆してくれているようにも感じました。




最後に。
今日の記事を書いていて、こちらの映画の言葉が浮かんできました。

  生きねば。 
                           宮崎駿監督作品 『風立ちぬ』

意識を持ち世界を認知できている、「存在している」ことの意味、「自己実現」。
短い言葉に秘められた重みを、改めて考えずにはいられません。





【参考文献】
A.N.ホワイトヘッド 『ホワイトヘッド著作集 第10巻 過程と実在 (上) [単行本]』 松籟社(1984-08)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)

物理は心理 (!?)

昨年最後に鑑賞した映画 『インターステラー』

過去に『ダークナイト』や『インセプション』といった作品を、世に送り出しているノーラン監督の最新作ですから、観に行かないわけにはいきません。
そして当日。
3時間近い長い上映時間が終わり、映画館を後にする興奮冷めやらぬ私にとって、『インターステラー』はノーラン作品のトップに輝く映画となっていました。


そしてその日の夜、書斎兼仕事場にしている部屋で平積みにされている未読本の中から、一冊の本を引っ張り出してきました。


アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]


アインシュタインの相対性理論。
この言葉自体はあまりにも有名ですし、私も過去に読んだアインシュタインの伝記(といっても児童向けの漫画。でも今考えるとこれがなかなか重厚な内容でしたが。)で何となくは触れたことがありました。
でももちろん、「結局は時間と空間のこと?」ぐらいの上澄みだけの理解(?)で、ただアインシュタインがおこなったとされる「思考実験(頭の中の空想で実験した)」というエピソードだけは強く印象に残っていました。

Eテレの『100分de名著 アインシュタイン 相対性理論』を観たときも、その理論は相当難解で、複雑な数式などを理解していなければ全貌を把握し切れるものではないことを改めて感じつつ、でも放送内容自体は一般向けに噛み砕いて解説されていたので、それにより少し"知った"ことで逆に頭に?マークがついた点も含めて非常に興味が湧きました。

そこで、少しでももっと理解を深めたいと上記のテキストを購入したのですが、結局その時は他に読んでいた本に時間を取られ、一度パラパラッとめくられた後はそのまま、「平積みグループ」に埋もれたままになっていたのです。



さて、私がどうして、『インターステラー』を観た日を境に、埋もれていたその本に手を伸ばしたか、同映画を既にご観になった方はお分かりだと思います。

上記『相対性理論』の中に書かれていた内容、世界は、『インターステラー』でまさに映像化されていました(もちろん映画には"まだ"ファンタジーとしての要素も含まれていますが)。
動画で得たそのリアルなイメージに、改めてきちんと手に取った本(理論)の内容が相乗効果となり、まさに未知の世界が自分の中に広がってくるようで、「スゴイなー」とワクワクが止まらなくなりました。

ノーラン監督は映画製作にあたり「科学的正確さを目指し」、「実際の可能性を検証したい」とし、理論物理学者のキップ・ソーン氏の協力を受け、ストーリーには「実際の科学がとても深く盛り込まれ」ているとのこと。
(映画『インターステラー』 オフィシャルサイト スペシャル映像 より)

自身の頭で「相対性理論」に少しでも触れてみると、確かに映画のあの世界観は、決して荒唐無稽なものではないことが腑に落ちるのではないかと思います。


 時間と空間は縮む。
 「時間」は絶対ではない。
 動いているものの時間は遅れる。
 「空間」も絶対ではない。
 重力による時間の遅れ。

これらは全て、相対性理論が示していることです。


 相対性理論の描き出す世界は、(略)日常生活の世界とは大きく異なり奇妙な世界です。
 しかし、この奇妙な世界が、実は私たちの住むこの世界の真実なのです。      
                                               【佐藤勝彦】
                                             
私たちが地球上で送っている日常、普段の"常識"で「当然」と思っている世界が、実は「絶対」ではないのだということが、物理学(科学)の世界ではすでに"常識"となっていたんですね。


一般相対性理論に示された、時空の曲がりと物質のエネルギーの関係を示す「アインシュタイン方程式」を解いていくと、ある場合には時間が「ループ」になっている答えが存在するのです。

未来へどんどん進んでいくと、いつの間にか過去につながり、さらに進むと現在に再び戻るという、ループ状の時間の流れが出現することが理論上はあるのです。

物理学者はこの世界は物理法則という論理だった法則によって動いているのだという信念を持っていますが、物理法則の中でも特に時間や空間の物理学である相対性理論が不条理なことが起こることを許してしまっているのです。                      
                                               【佐藤勝彦】




ここでユングが、ノーベル物理学賞を受賞したスイスの物理学者(ヴォルフガング・エルンスト・パウリ)との共著、『自然現象と心の構造』の中で「空間と時間」について記した内容を次に挙げます。

人間が元来持っている世界観では、未開人に見られるように、空間と時間は非常に不安定な存在である。それらは、主として測定の導入のお蔭で、精神発達の過程においてのみ、「固定」観念になったにすぎない。

それら自身においては、空間と時間は、無から成立している。それらは、意識的精神の分別の活動から生まれて実体化した概念であり、運動する物体の行動を記述するのに不可欠な座標をなしている。

もし空間と時間が運動する物体の単なる見かけ上の属性にすぎず、観察者の知的な欲求によって造られたものであるなら、心的条件によってそれらが相対化されることは、もはや驚くべきことではなく、可能性の範囲にもたらされることになる。

この可能性は、心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる。

                                               【C・G・ユング】


アインシュタインの相対性理論でも、時間や空間の認識を、光の速度を絶対的なものとして捉え、その動きやスピードと矛盾がでないよう再構築していくのが基本ですが、たとえば動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるのです。

「止まっている人から見ると、動いているものの長さは縮んで見える」
「空間(長さ)は、ものの動きや時間と同様に、唯一絶対のものではなく、相対的に捉えるべきもので、誰からも同じに見える唯一の尺度というものは存在しない」    

いかに、外的な事象を認知する上において、各々が置かれている条件(心的条件)が大きく関わっているか、心理学とは対極を為すともいえる物理学によって、ある意味認められているのだと私は思いました。

   
空間と時間は影響しあっているとはいうものの、これも「時間の遅れ」や「長さの縮み」と同様で、普段の私たちの生活の中ではその影響を感じることはありません。
(略)差は、あまりに小さすぎるために、普段は気づくことがないというわけです。
                                               【佐藤勝彦】    
私たちは「気づいていない」だけなんだと・・・。



西田幾多郎がその点について、簡潔にダイレクトに次のように言っています。

我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。
即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者(ユングの説に通じます)を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。

深く共感します。


今日はこのへんで。
『インターステラー』にも絡んでもう少し思ったことがあるのですが、それは近いうちに次の記事として必ず書いてみたいと思っています。


○●○●○●○●○

今日取り上げたEテレの「100分de名著」の新春SP、「100分de日本人論」がとても面白かったので、ちょっとご紹介です。
論者の一人である人類学者の中沢新一さんが「今日の話ずーっと(語り合っているのは)一貫してるんだけど、"無意識"なんですよ」と番組内でおっしゃられたように、まさに「無意識」について様々な角度から考えることができます。
このブログで前回取り上げた鈴木大拙の『日本的霊性』、そして河合隼雄先生の『中空構造 日本の深層』が、まさに名著として取り上げられています!

1/25に再放送があるようなので、まだ観られていない方で、「無意識」に興味のある方は是非。



もちろん『インターステラー』もおススメします。
あれは大画面で観るべきです!



【参考文献】
佐藤勝彦 『アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]』 
 NHK出版  (2012/10/25)
C・G・ユング W・パウリ 『 自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]
 海鳴社 (1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1979-10)



選ばれたノア

noah












鑑賞からあっという間に1か月ほどが経ち、記憶はかなり曖昧になってしまいましたが、前回からの続きです・・・。

映画の題材である『旧約聖書』の〔創世記〕に記されている「ノアの洪水物語」でノアは、
「正義の人と神に認められて」います。
そのノアは、「地上に人の悪がはびこっているのを見た神」から、『わたしは彼らを地もろとも破滅させ
る。しかし、あなたは家族と共に箱舟に入るがよい』と、箱舟の制作を命じられました。
ノアは “神に選ばれ、その命令に従った” のです。




聖書で、神に正義の人と認められているノア。
映画でも、冒頭からノアは「正義の人」として登場します。
観ている側は、善人であるノアだからこそ神に選ばれたのだと、ストーリーの流れを自然に受け入れられます。
箱舟が完成し、ノアたち家族とつがいの動物たち(だけ)が乗り込むことにも、それ自体が「神の命令」であり、何より聖書にそう記述されているのですから、そもそも疑問を抱くことではありません。

「旧約聖書」は「掟」である

きわめて重要なことを指摘しておきます。
(略)
(「旧約聖書」は)「法律」「掟」のように権威あるものとして存在しているので、無視したり否定したりすることはできません。とするならば、
物語が「法律」「掟」とされていることの意味を考えて対処する、ということになります。
                                                                                                  【加藤 隆】         


アロノフスキー監督は、聖書の「掟」を守りつつ、その意味を考えられたのでしょう。
そして、現代のスクリーンでは、その掟には記されていないノアの葛藤の物語が展開し始めます。


次男ハムの恋人をはじめ、洪水に飲み込まれ叫び声をあげている大勢の人たちにも背を向け、誰ひとり助けようとはしないノア。
「地上にはびこった人の悪」を破滅させるのが神の御業なのですから、その命に従うと決めたノアは逆らうわけにはいかないのです。
その行為が、としての自分の思いと相反するものであっても、ノアは頑なに、ただただ神の宣告に従おうとします。
そしてついに、強いきずなで結ばれていた家族をも敵にまわし、生まれ出ようとしている、血を分けた自身の孫にさえ刃を向けようとします。

箱舟に乗りこみ、洪水の中を漂っている40日間のノアの行動は、人の側から見ると、善どころか悪です。
ノアは、自分の家族以外の人間を見殺しにし、いずれ、残ったその血さえも絶やそうとするのですから。

イラ(エマ・ワトソン)を助けた時のような、温かくて優しかった「正義の人」とはまるで別人のような、徹底した非情さを、そこでノアは露わにします。


しかしノアは、決して何も感じていないわけではありませんでした。
神の命令だからと全てを割り切れていたのではなく、自分の取っている行動に葛藤や疑念を抱え、苦しんでいたのです。
夫の人柄を誰よりも知っている妻のナーマが、ノアに静かに語り掛けるシーンがきちんとそれを物語っていました。


絶対的存在の神からの使命と自身の人間的感情との、まさに両極の狭間で、舟に乗っている40日の間、ノアはひとりで苦しみぬいていたはずです。
終盤のクライマックスを除いて、ノアの苦悩の場面が劇的に描かれることはありませんでしたが、神の命に淡々と従おうとするそのノアの姿が逆に、家族とすら分かち合えない孤独な苦しみを、巧みに表現しているように感じました。

他の人を見殺しにしても何も感じない、愛しい家族を苦しめても罪悪感を持たない生粋の悪人(なんてそもそもいないはずですが)ではなく、ノアは元来「正義の人」なのですから、その葛藤の大きさはそのまま苦の大きさと比例していたはずです。


しかしノアは、その苦難の40日間を耐え抜き、最後には「自分を見失わなかった」からこそ、家族と共に"新世界”に一歩を踏み出し、芽生えた自分の血を継ぐ新しい命を絶やすことなく腕に抱くことができました。



ここで、ユングが自身の著書『転移の心理学』で引用している、イギリスの神学者で錬金術師であるポーディジが錬金術の《作業(オプス)》との関連で残している記述を取り上げます。

ここで術師は、彼の仕事がすべて水泡に帰したのではないかと思う。

誘惑の40日が過ぎ去るまで、あなたの忍耐の日々が終わるまで、忍耐と我慢と沈黙のうちに内部に留めておかなければならない。

し かしこの作業は、人間の意志がそうした態度(人間の意志が委ねられあるいは放棄されて)を取れるようになるまでは、すなわちその眼前に火という火が放たれ あらゆる誘惑が襲いかかってくるときも泰然として冷静でいられるようになるまでは、人間の意志にとってなんと難しく、苦しく、辛いことであろうか。

つ まりそれは大勢の悪魔や誘惑しようとする多数の元素にぐるりと取り囲まれ攻めたてられるからである。しかしチンキがこの火=試練と強い誘惑に耐えて持ちこたえることができるなら、そして勝利を収めるなら、そのときあなたは地獄、罪、死と死すべき者の墓場からそれが復活し始めるのを(略)見るであろう。

いまや石は形を与えられ、生の秘薬が準備され、愛らしい子供あるいは愛の結晶が生まれる。

こうして新たな誕生が実現され、作業はすべて申し分なく成就される。

転移の心理学
C.G. ユング
みすず書房
2000-10




また、錬金術の書である『哲学者の薔薇園』には、このような記述があります。

数知れぬ苦しみと大いなる殉難を経しのち
われは蘇りたり、聖化され、あらゆる汚れを洗い浄められ。
  
心理学と錬金術 (2)
C・G・ユング
人文書院
1976-10-01

                               


ノアの存在する世界は、大洪水ののち「汚れを洗い浄められ」蘇りました。
ノアが(新しい)大地に再び立つことができたのは、彼が「数知れぬ苦しみと大いなる艱難を経しのち」でした。

ノアは、全ての陸地が沈んでしまうほどの洪水に飲み込まれた40日間の、艱難辛苦の道を渡りきる強靭さを持っていたからこそ、神に選ばれたのではないでしょうか。
そして、最後の決断の時に人としての自分を見失わなかったからこそ・・・。


今日は、ユングの聖書に関する次の文章で終わりたいと思います。
好意的な読者へ(という前置きがあります)

「物理的に」ということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
私は(略)、心理主義の嫌疑をかけられる危険を顧みず、聖書の記述をもこころの発言とみなす


ヨブへの答え
C.G. ユング
みすず書房
1988-03

(※、ユングは、「無意識と意識のドラマ」という心理学的な解釈によって、この著書を書き上げました)



私も"自分なり"に、そのような視点で映画を鑑賞し、感想を書きました。
「好意的な読者」の方々には、ご理解いただけるのではないかと思っております。


※映画では、「人はみな自分の中に悪を持っている」「(人殺しという悪を働いた次男セムに対して)これでお前も人になったな」というような、意味深いセリフもありました。
ぜひまた、続きを書きたいなと思っています。
(ただし我が家の、”熱い”40日の夏休みが終わった後になるかもしれません・・・)

『ノア 約束の舟』

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先日、公開中の映画『ノア 約束の舟』を鑑賞してきました。
旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語が映画として公開されると知ったとき、それだけでも内心ざわめき立ったのですが、それが、ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞に輝いた、あの『ブラック・スワン』のアロノフスキー監督がメガホンを取った作品だと分かって、私の「絶対に観る映画リスト」に即追加されました。

『ブラック・スワン』は、レビューなどで一部の人が指摘しているように、私も、ユング心理学の「影の統合」の問題に関連が深い作品だという感想を持っていました。
ですので、そのアロノフスキー監督が、『旧約聖書 創世記』のノアの物語をどのように描くのか、とても興味が湧いたのです。

そして観終わった感想は、「やっぱり」。
全くの個人的憶測ですが、私が気づいた部分だけでも(でもかなり細部にわたって)深意が含まれていました(と、私には感じられました)し、入念に練り上げて作られた作品だという印象でした。

『ブラック・スワン』のみならず『ノア』でも、どうにもユング心理学がチラついて、「深意」を漏らすまいと、集中して見入ってしまいました。


たとえば、作られた箱舟にまず最初に乗り込むのは「鳥たち」。
そして次にあらわれた大群は「蛇」でした。
まさに、天の象徴と地の象徴の両者(対立物)が、まず助けられるべき存在として、舟に乗り込んだわけです。

映画には登場しませんが、東西に古くから伝わる想像上の生き物である龍(Dragon)は、鳥と蛇の両方を兼ね備える対立物合一の象徴です。

龍はそれ自体としては一箇の怪物である。つまり蛇の地の原理と鳥の気の原理とが合体した一箇の象徴である。龍はしかし、(略)メルクリウス(対立物合一)の一変形である。
メルクリウスは原初の具有存在ヘルマプロディトスであり、一旦は二つに分れて(略)対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光 lumen novum」すなわち「賢者の石」という形態をとって光り輝く。
                                        (ユング)

堕落した人間を滅ぼし、新たな世界を創造するという神の意志に従うことを決めた、ノアが造った箱舟に、最初に乗り込む鳥。そして続く蛇。

ノア自身の結合、「新しい光」が輝くためには、当然の成り行きだったのかもしれません。


また、ノアの箱舟造りを手助けし、"神の裁き"が始まった混乱時に、ノアたち家族を守る役目を果たす者として岩の巨人「ウォッチャー(番人)」が登場しますが、彼らはもともと「光」だったものが、物質としての石に閉じ込められており、最期(物質としての石が崩壊した時)には「光」として天に帰っていきます。

ユングが、心的内容と深い関連があるとして研究した錬金術では、「石(ラピス)」が象徴的に重要な意味を含んでいます。

石(ラピス)には発端というものはなく、永遠そのものの内から出てきたところの「根源的本質」を持ち、それゆえまた決して終りを知らず、永遠に存在しつづけるということである。

この光は神がその太初において自然とわれわれの心とに点し給うたものなのだ。
                                          『賢者の水族館』

映画で岩の巨人の中に閉じ込められていた光。
実は「われわれ人間の中にも秘められている」ことを神話は密かに語り、(一部の)哲学者や錬金術師、そしてユングも、そのことに気づいていました。

哲学者たちの著作を研究することによって人間は秀れた術を身につけこの「賢者の石」を手に入れることができる。が、この「賢者の石」とはまたしても人間なのである。それゆえドルネウスは「汝らは死せる石から賢者の石に変身せよ」と叫び、この言葉によって、人間の内にひそむものと物質のうちにひそむものとの同一性を極めて明瞭に表現しているのである。 
                                                (ユング)
「(前略)これらの石こそ魂の真の火であり、賢者の光に他ならない。」
                        (ベルアルド・ドゥ・ヴェルヴィル 『暗号書写法選』)


「鳥と蛇」と同様、ノアが新しい世界にたどり着くためには、「ウォッチャー(番人)」との信頼関係と助けが必要でした。
巨人との関係が成り立っていなければ、箱舟を造ることも、箱舟を乗っ取ろうと襲ってくる暴徒たちを食い止めることもできなかったのですから・・・。
ノアの仕事は、(心理学的には)錬金術でいうところの「業(オプス)」であり、とてもひとりでやり遂げられるようなものではありません。

彼らの術は聖なるものにして神的なるものであるという点、そして彼らの作業(オプス)は神の助力によってのみ成就されるという点がそれである。
                                              (ユング)

そして、その後のノアの大業の結末を暗示するかのように、ノアを助けた岩の巨人たちは、自らも救済されて天に昇っていきます。
(グノーシス神話では、グノーシス(自己認識)に応えられた「光の粒子」「本来的自己」が、プレーローマ(上位世界)に帰還します。過去記事

人間は救済されるべき者であるとともに、また救済する者でもあるということを教えている。
                                              (ユング)

ノア(自我)と巨人との関係が同一だと仮定すると、発想がどんどん広がりました。


(引用はすべてこちらから)


とにかく随所に、寓意を感じる場面が散りばめられていて(そもそも聖書が題材なのですから当然とも言えますが)、長い上映時間があっという間に終わってしまいました。
この映画については、色々と書きたいことはまだあるのですが、自分でもイメージの収拾がつかなくなってきそうなので、今日はいったんここまで。
ノアのみならず次男ハムの存在など、ほかにも気になる点があったので、できれば後日続きを書きたいのですが・・・。


頭を一度リセットして、キャストについても少し。
ノアを「ラッセル・クロウ」が、その妻を「ジェニファー・コネリー」が演じています。
この配役を事前に知った時も、ちょっとした感慨でした。

二人は以前にも夫婦役を演じていますが、その作品は、私にとって忘れられない映画、『ビューティフル・マインド』です。
この映画を通して、初めて大事なことに気づきました・・・。

主人公は実在の天才数学者で、統合失調症を発症します。
本人にしかわからない幻覚や幻聴がどのようなものなのか、この映画を通して少なからず想像できますし、「無意識」についても、興味のある方は考えさせられることがあろうかと思います。

再び夫婦役を演じた、『ノア』の画面に映る二人の顔つきから感じられる年月と自分のそれが重なり、さらに二つの映画の内容も重なり、余計にしんみりとしてしまいました。


最後に。
アロノフスキー監督、シンクロニシティ?を体験されたみたいです。
「NOAH」についての"偶然"。しかも日本に関連しています。
ご自身も興味深く感じられたようで、わざわざtwitterでも紹介しておられますよ。
監督、やっぱりユング心理学に・・・・・?


※今日の記事は、映画『ノア 約束の舟』についての個人的感想です。

『危険なメソッド』

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寒中お見舞い申し上げます。
今年は、クライエントさんへの年賀状・年賀メールが出せませんでしたので、
この場で、年始のご挨拶に代えさせていただきます。
今年もよろしくお願いします。

さて、年初めの記事。
当初は、前回記事の続きで、「ムスビの御神像」について取り上げようかと思っていたのですが、
変更して、ゆるりと映画の話題など。

それにしても、いつも、後から後から書きたい話題が出てきて、アウトプットが全然追いついていない。
バランスを取る難しさを今年も抱えながら、多分、このブログも相変わらずのスローペースで続けていくことになりそうです・・・。


戯言はいいとして、
昨年暮れの休日、主人に子守を任せて、ひとりである映画を鑑賞に行きました。

『危険なメソッド』

    

キーワードは「ユング」と「ヴィゴ」。
個人的には、はずせないこの2人が絡んでいる映画がつくられていると知った時から、
日本での公開を待ちに待っていたのです。

当時つぶやいたTwitter記事を探してみると、この映画の存在を初めて知ったのは、
もう2年も前のことでした。
    ↓



『危険なメソッド』については、鑑賞された方には言わずもがな。
観ていない方も、関連サイトを見ていただければ分かるとおり、「ユング」が主人公の映画です。

複数のサイトで、レビューも色々と書かれていますので、ご興味のある方はそれらを読めば参考になると思います。

私の個人的感想としては、意外にも!?、過剰な脚色もなく真面目に作られていたという印象を受けました。

『危険なメソッド』の前に観ていた、(監督の)クローネンバーグの作品、『イースタン・プロミス』が
なかなか強烈だっただけに、重度の神経症を患っていたザビーナや、そのザビーナとユングの恋愛、
ユングとフロイトの関係など、曰く付きな内容がどのように描かれているのか、実際に観るまで少し気がかりではありました。

でも、史実とそれほどかけ離れた作られ方はしていなかったように感じましたし(もちろん私の浅い知識による評価ですが)、「フロイトの書棚事件」と呼ばれる、一歩間違えれば、“ただの怪しいオカルト”になってしまいかねないような場面も、悪意なく自然に描かれているように感じました。

ユングがフロイトの家を訪れ会話をしていた際、オカルト現象を批判したフロイトに対して苛立ちを覚え、横隔膜が熱くなってきたかと思うと、突然書棚から激しい音が鳴り響いた。この現象は自分のこころのエネルギーが引き起こしたと確信したユングは、そのことを信じようとしないフロイトに向かって、「同じことがもう一度起るでしょう」と言ったところ、本当に同じ現象が再度起ったという出来事。このときばかりは、さしものフロイトも返す言葉がなく、唖然とするしかなかったと伝えられている。)

あえて挙げるとすれば、ザビーナ(キーラ・ナイトレイ)の狂気ぶりには、「実際のところはどうだったのだろう」と、疑問符が頭に浮かんできましたが、他の場面について不信感をさほど感じなかっただけに、ザビーナの病状についても、事実をきちんと調べた上での演出だったのかも知れません。


映画を観たことによる収穫は、まず、ユングの生きた時代背景を動画によるリアルさで擬似体験できたこと。付随してさらに膨らむイメージ。

そして何より心に残ったのは、私が知らなかった、ユングが日常のなかで体験したシンクロニシティの場面が、いくつか描かれていた点でした。

それは、映画には描かれていない、記録にすら残っていないシンクロニシティを、他にももっとユングは体験していたかもしれない、いや間違いなくあったであろうと、私に強く思わせる発見でした。

どちらにせよ、活字でしか知らなかった、そして全く知らなかったエピソードも含め、それらを映像を通して体験できたことはやっぱり感動でした。


この映画の「はずせない」もう一方、「ヴィゴ・モーテンセン」についても、書きたいことがいっぱいあるのですが、完全に“自分の世界”になりそうなので、今日は控えめにしておきます・・・。

近年、ヴィゴが主演した映画、『ザ・ロード』や前記した『イースタン・プロミス』、『善き人』など、これらのどの作品の人物とも全くカラーの違う、そして今回は実在の偉大な心理学者“フロイト”を、違和感なくしっかり溶け込みながら演じていると感じました。
(また、体重も調整した模様・・・)

十年来、密かに(ここで公言したから、もう密かにではなくなりましたが)ヴィゴのファンを自認している私としては、“ユングの映画”で、フロイトとして登場するヴィゴの姿が観れると知った時、興奮せずにはいられませんでした。

ヴィゴの出演作品には、ほぼ目を通してきましたが、下積みが長かったヴィゴが、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルン役で大ブレークし、こうして今、フロイト役で画面に登場してくれるなんて、端役時代のビデオを借りまくって観ていた頃を思い出すと、それだけでも『危険なメソッド』は、私にとって“ごちそう”でした。

Viggo Mortensen Translation Archive

(残念ながらもう更新されていませんがヴィゴファンにお薦めのサイトです。)


さて、映画のほうに話を戻すと、この若き日のユングの恋愛話に、眉をひそめる方もいるかもしれません。

山中康裕氏監修の『ユング心理学』では、このように書かれています。

ユングはザビーナを不幸にした責任を痛感していたことでしょう。

のちに彼は倫理的な意味から逆転移の意識化を強調するようになりますが、その根本には、ザビーナに対する痛恨と贖罪の念があったにちがいありません。


そして、ユングの自伝には、このような一節があります。

私は多くの人々の感情を損ねた。
というのも、彼らが私を理解しないと見るや否や、もう話はすんだとして私がとり合わなかったからである。
私は先を急がねばならなかった。

私は自分に課せられた内的な法則に常に従わねばならず、選択の自由が残されていなかった。
もちろん、私は常にそれに従ったわけではない。
いったい誰が矛盾なしに生き得られるだろうか。

ある人たちにとって、彼らが私の内的世界に関係あるかぎり、私は常に近い存在としてあった。しかし、私を彼らに結びつけるものがなくなってしまうと、私はもはや彼らとともにいないということも生じた。

多くの人々が、生きた人間性の感情を私の中にひきおこした。


ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)


確かにザビーナとの関係は悲劇だったかもしれませんが、ユングにとって彼女との出会いが、大きな意味をもっていたであろうことは間違いないはずです。

そしてユングが、自己(Self)からの要請と自我との狭間で、重圧を抱えていたことも、上記の自伝からは読み取れます。

そのような視点でこの映画を観ると、フロイトとの関係も含め、また違った捉え方ができそうです。


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