心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

哲学

「ただ一つのもの una res 」

Cartesian Theater illustration published in a book!
 Cartesian Theater illustration published in a book!/Jen Garcia

前回記事の最後で、敢えて自分への課題として書いた一文も、
案の定・・・果たせないまま年を越し、(やはり無謀だったと反省)
早く本題に取り掛かりたいと思いながら日々を過ごしてきましたが、
そんな中、大変興味深い記事を見つけてしまいました。

よって、予定変更で今日は別の話題を取り上げます。


まずは、ぜひ以下のwebサイト記事をご一読ください。



脳が意識を生み出しているわけではない」


「死後の世界」が本当に在るかどうかについては、そもそも「‟現世”という世界をどう解釈するのか」という問題になってくると思いますし、「脳は意識の受け皿にすぎない」という表現にも、若干のズレを感じるので、個人的には、タイトルの言葉
100%同意ではないのですが、記事内の、
「脳が意識を生み出しているわけではない」 というランザ博士の言葉には、
‟激しく同意” でした。


上の記事では、量子力学の「二重スリット実験」において、「観察者がいる場合といない場合で、物質の性質に変化が現われるという‟非科学的な”事態が生じる」ことを、「物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない『観察』という‟意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっている」として、ランザ博士の「意識が物質世界よりも根源的だ」という考えを紹介しています。

また、ランザ博士より以前に、同様の考えを示していたとされる、物理学者についても触れられています。


量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

                                【上記webサイトより】
(ユング心理学的には、上記内容の「意識」を「無意識」という言葉に変換した方が理解しやすいかもしれません。)



以前にこのブログ「物理は心理(!?)」において、動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるという、アインシュタインの相対性理論と、ユングの「観察者の心的条件によって時空や物体が相対化される」という内容を取り上げました。



外的な事象、物質の動きや性質を捉える上において、その物質の動きや性質、時空などは「それ自体が絶対的」なのではなく、その事象を観察する側、観察者の(有無も含めた)状態が、物質を含めた外的世界を特定する大きな要因になっている、という論理。

これが真実
(と私も思っていますが) であれば、 れを体験(主観)しているのも、同時にその体験を通して世界の諸々を知ること(客観)ができるのも、「‟意識”を持った人」ということになり、その存在がなくなれば、世界もなくなるということになるはずです。


だからこそユングは、
「こころ」の価値を、そしてそれを持つ「個人」とその体験の価値を説いています。



ユングは心理学者として、「こころ」というものが、「無意識」というものが、いかに私たちの存在の‟根源”であるかをさまざまな論点から主張していますが、ユングの高弟であるフォン・フランツの以下の文が、ランザ博士等の論理に沿う形で、ユングの考えを端的に表わしていると思います。

物質はユングが推測したように心(psyche)の具体的な相(アスペクト)である。

それも個人的な心のそれではなく、集合的無意識のそれであり、諸元型はその場合、単に集合的無意識の構造特徴であるばかりでなく、宇宙形成要因そのものであるということである。

いずれにしても、共時性現象はこの方向を指し示している。
                                     『結合の神秘』



「脳が意識を生みだす」、「意識が脳を生みだす」という、‟どちらかが最初にあってもう片方が後から派生する”という因果関係ではなく、物質と心は相対的、共時的なものであると、ユングはそう考えていました。

そして、その両方の‟根源”が「無意識(自己 ゼルプスト)」であり、それはマクロコスモスもミクロコスモスもすべてを含む、「ただ一つのもの 
una res 」 だということなのです。




私たち人間は、ひとりの個体としても、心身(意識と物体)様々な ‟区別” のレベルで、同時に ‟同調”しており、またその構造は、もっともっと大きな宇宙を含めた、時空をも超える‟全体”としても同様である。

このような考え方は、ユングをはじめ、古今東西の哲学者や神秘主義者、宗教家、そして科学者にも多くの支持者がいる、神話の時代から受け継がれてきた「世界の原理」です。



われわれが自然をより高度な意味で、現象してくる一切のものの相対概念と考えるなら、その一つの側面は 物質的(physisch)であるが、もう一つの側面は霊〔精神〕的(pneumatisch)である。

                                     【C・G・ユング】                                             



あまりにも有名な老子の「道 Tao」も、ユングも注目していたとおり、‟同様の考え”を示しています。

物有り混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寞たり、独立して改まらず、周行して殆まず。
以て天下の母と為す可し。
吾れ、其の名を知らず、之に字してと曰い、強いて之が名を為してと曰う。
大なれば曰に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る。
道は大なり、天は大なり、地は大なり、王(人)も亦た大なり。
域中に四大有り、而して王(人)は其の一に居る。
人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
                                        『道徳経』


‟医学の父”と呼ばれるヒポクラテスも、次のように述べています。

そこにひとつの共通の流れ、共通の息吹きがあって、すべての事物が共感し合っている。
その有機体全体とその部分のおのおのが協同して、同一の目的のために働いている。

その偉大な原理が末端の部分にまで延長しており、そしてその末端の部分からそれは偉大な原理へ、ひとつの自然へ、存在と無へ向かって帰ってゆく。


関連して、ユングの言葉です。


「自分の必要とする一切」omne quo indiget を自分でそなえていること、自らを孕ませ、産み、殺し、呑み込むあの龍のように完全に自立的存在であることこそ、まさに変容物質の特徴なのである。       
                                     【C・G・ユング】 

ユングが研究した錬金術書物の一文。


いくつかの自然が存在するというわけでもなく、
存在するのは、神の自然物を凌駕するもろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である。

                                       『賢者の群』
 


日々、実際に私たちの体内で繰り広げられている 細胞レベルの活動、自らの身体でありながら ‟意識することなく”自律的に営まれているその驚異の現実を考えると、ひとりの人間も「変容物質の特徴」を備えた「もろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である」 という認識は、 (表現のイメージのみに観念的に惑わされないのであるとしても)最も理性的判断に適っていると私には思われます。





さてここで、過去記事の「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」 で引用したハメロフ博士の言葉をもう一度取り上げます。

「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。  
  

脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

量子コンピューターでは 「量子もつれ」という未知のプロセスを経て  情報が伝達される。

空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。



今日、始めの方で引用した「量子論の生み の親であるマックス・プランク」は「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と語ったとされていますが、「量子論の育て の親」と称されている ニールス・ボーアの「対応性の理論」に関連して、ユングが60年以上も前に既にこのように述べています。


宇宙的原理が最も小さな分子の中にさえも見出され、その分子はしたがって全体性に対応しているのである。


ちょうどある生命体のなかで、その異った諸器官が調和して働き、相互に意味深く適合し合っているように、この世界のなかの出来事は意味深い関係*1 の中にあり、この関係はどのような内在する因果性からも推論され得ないものである。
その理由は、いずれの場合においても、各部分の行動がそれらを超越的に秩序づける中心的制御に依存しているからである。            
                                   
 【C・G・ユング】 
(*1 この部分は、前述のヒポクラテスの論とも重なります)

ユングは、因果律では説明のできない現象があるとして「共時性」の概念を唱えました。

また、なぜ因果的な相関を見出せない中で、共時的な「同列の現象」、「対応した現象」が起こるのかということについて、経験的土台を軸にして、深層心理学の見地から考察、研究を重ねた上、「自己(ゼルプスト)」を定義しました。

そしてその過程において、異なる切り口、異なる立場、異なる分野の中に、同じ観念が語られていることを発見していたのです。



量子という最も小さな分子が、宇宙という最も広大な空間にも対応している。


今後、量子力学の解明が進んでいけばいくほど、物理学は否が応でも心理的現象への接近を迫られ、同時に、深層心理学の研究が進めば、その名のとおり
物理学を取り込んだ「超」心理学への理解が深まっていくのかもしれません。


荘子はこのように述べています。


(古代の賢者たちは)、事物が存在し始めない状態を彼等の出発点とした。
これはまさに極度の限界で、誰もそれを越えることはできない。

次の仮定は、事物は存在しているが、それらはまだ分離され始めていなかった。
次は、事物はある意味では分離されているが、肯定と否定が未だ始まっていなかった。

肯定と否定が存在し始めると、道は衰えた。
道の衰えの後に、一面的な執着心が生じた。

外部から聞こえることは、耳に届くだけでそれ以上浸透することはない。
知性は分離された存在を導こうとしない。
かくて、魂は空となり、全世界を吸収する。
この空をみたすものこそ道である。

その内なる目と内なる耳を用いて、事物の核心を貫ぬくこと。
すると知的な知識は不必要となる。


ユングも、自然科学的な‟知性だけ”では事象を説明しきれないと考えていました。


人間はその肉体と精神において「この世界の小さき神」であり、小宇宙である。

従って人間は神の如く事象の中心であり、すべての事象は人間を中心としてまわりをめぐっている。

このような思想は、現代人の精神にとってはまったく奇妙なものであるが、自然科学が人間の自然への従属性とその原因への極度の依存性を証明するまでの二、三世紀以前までは、人間の世界観を支配していたのである。

事象と意味(これは今ではまったく人間だけに帰着している)との間の相関関係というこの概念は、非常に遠い暗黒の領域に追放されたので、知識人たちはその足跡をまったく見失ってしまった。

ライブニッツ(G.W.Leibnitz)の科学的説明の中で、そのことが主要な項目のひとつを形作っていたが、その後、いささかおくればせながらショーペンハウエルがそれを思い起こしたのである。


近・現代の理性には、物質的なものを過大評価するあまり、精神的方向づけ、すなわち霊(pneuma)による方向づけが欠けている。


物質と心。物理学と心理学。

それぞれが個別の立場だけに執着してしまうと、どこかでその発展は頭打ちにならざるを得ないのかもしれません。




締めくくりに、過去のブログでも何度か引用した、
哲学者の西田幾多郎の、私が大好きな言葉をまた取り上げます。


我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。

即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                    


 ‟すべての道は自己(無意識)に通ず”





さて、最後は映画の話題です。

このブログの書き始めとちょうど時を同じくして観た映画  『ドクター・ストレンジ』

狙ったわけではなかったのですが、奇しくも、今日の記事と重なる「意識と物質の相対性」や「精神世界と物質世界」のおはなしで、私にとっては、ただのアメコミ原作ぶっ飛び魔術師映画ではなく、本当に現実にも通じている深遠なテーマを扱っている作品だと、映像はもちろん、内容的にもとても楽しめました。(一方、テーマが深遠すぎて、まとまり切れていない感も拭えませんでしたが、どちらにせよ制作陣には興味が湧きました。そもそも原作を知らないので、映画のそれがどちらから生まれたのかも私には全く分からないのですが・・・。)

特に、エンシェント・ワンの(最期を含む)いくつかのセリフには、個人的にはとても感じ入るものがありました。

あと、エンドロールに美しい曼荼羅の映像が次々と流れてくる場面があります。
自分のこころから自然に湧き出てくる曼荼羅と意味合いは少し異なるとしても、「ただ見ているだけ」でも、個人的には心落ち着くなにかを感じずにはいられませんでした。
これから映画に行かれる方はぜひ、最後まで席を立たずに、大画面でその映像美を楽しんでみてはいかがでしょうか。

‟それ”は、今日のブログのタイトルである「ただ一つのもの」の象徴です。

見逃すのはもったいないなと思います。



【参考文献】
C・G・ユング『結合の神秘 1 ユング・コレクション (5) [単行本]』 人文書院(1995-08)
『老子』 2013年8月 (100分 de 名著) [ムック] NHK出版(2013-07-25)
C・G・ユング『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]』 海鳴社(1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)


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奇人変人ノススメ




昭和から平成にかけての時代をつぶさに見、風刺してきた、こんな人生、送ろうと思ったって
なかなか送れない。
その結果水木さんが得たのが「人生におけるけたはずれの経験値」である。
                                              【大泉実成(編者)】



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前回記事を書いたのが秋ですから、年末年始どころか、季節をひとつ飛び越してしまった感じですが、
その間に、とてもとても残念なニュースが飛び込んできました。
昨年11月末の 水木しげるさん の訃報です。

「心の有り様」の記事の続きもずっと書きたいと思っていたのですが(必ず書きます)、
でもやはり、今日は私の尊敬する水木しげるさんについて、お悔やみの気持ちも込めて、
"私の勝手な考えと思い"を綴っていきたいと思います。



ご逝去の一報を目にして、胸に込み上げてきたのは、
「ああ、これでまた、自己(Self)の体験者である方がひとり、お亡くなりになった・・・。」
という、何とも言えない寂しい気持ちでした。

もちろん、面識などあろうはずもない水木しげるさんに、私が敬意を込めた関心を持つようになった経緯は、5年以上も前にこのブログで書いたとおりです。

「ゲゲゲの女房」
「妖怪とは人の心の中にいる」
目には見えないもの
無為に過ごす


「妖怪とは人の心の中にいる」の中で、
「ご自分の深いところとのパイプを、水木しげるさんも(もしかしたら)持っていらっしゃるのかも
しれません・・・。」
と、当時書いたのですが、その後、水木しげるさんが残された"名言"を知るうちに、その思いは、
私の中で確信になっていきました。

また、ある番組を通じて知った、
水木しげるさんが出征先の現地で「ぬりかべ」に"命を助けて"もらった体験、
幼少期にも"妖怪を見た"ことがあるというエピソードや、
(それらの幻視は、水木しげるさんにとっては"現実"だったはずです)

そして、以前の記事でも少し書きましたが、戦争の混乱時、死を強く意識せざるを得ない中で、
ゲーテを始めとする哲学書や聖書、仏教書をむさぼるように読み、「生死」について真剣に
"悩み、考えられた"こと。

何より、実際に戦地に赴かれ、想像を絶する凄惨な状況を生きぬかれたその"ご体験"。


水木しげるさんのこのような"けたはずれの人生経験"や、残された"名言"を知るたびに、
私にとっての水木しげるさん像は、ご自身がそうおっしゃられたとおり、
「漫画家」から、漫画という表現を用いられた「哲学者」に変わってしまったのです。


わたしゃ、あんた、ベビィのころから哲学者でしたよ。

マンガ家というふうに見ると、水木さんの正体はわからんです。
マンガは、生活の手段であり、表現の手段なんです。
                                            





漫画を描くことを通じて、自分が"何をしているのか"・・・。

目に見えないものが、神から妖怪にいたるまで、どのようにつながってるか、目に見える形で、
レンガのように積み重ねていかないとならんわけです。

目に見えないものを形にするのはアボリジニと水木さんです。
あとはあんまりがんばっとらんです。
せっかく精霊たちが自分の形を欲しがっとるのに。

私は漫画を描くときに、半ば無意識になるわけです。
だから、何か外側の力に描かされているという感じが半分以上あるんです。
ただ、それを描くことによって非常に充実感があります。

私はいつも、私の書いたものの中に、いわゆる"霊"がふくまれているわけなのだが、
誰もそれに気づいてくれないので、不思議に思っている。



"偶然"のことも・・・。

水木さんが考えているよりも、偶然のほうが賢かったです。
偶然のほうが賢いんですよ、人間が考えているより(笑)。



"夢"のことも・・・。

いや、我々は夢の世界(無意識)からやってきて夢の世界に還る存在にすぎない。
夢の世界が故郷であり実在なのだ。いまは人間の世界に生きまた故郷にかえっていく。

夢現っていうのがあるようですね。
夢のときに明快な判断が与えられたりする。
夢は三分の一ぐらい現実に入ってるんじゃないでしょうか。

セノイ族は"夢"について、かなりくわしい民族らしいが、なんとそこに、ものすごく妖怪が
いたのには驚いた。
夢や無意識の状態というのは、精霊を感じる力が、覚醒時の五倍もあるらしい。

(前略)霊的なもの、神との交流点だと私は考えています。
(中略)夢で伝授されるんですよ。



"無為"の意味も・・・。

努力は、人を裏切る。
少年よ がんばるなかれ。
あわてずにゆっくりやれ。
なまけ者になりなさい。

("自己"を信じきることができないかぎり本当の実践は不可能です。安易な真似事はもちろん、ただの怠け者では、その先に待ち受けているものは失敗や転落です。「自然な流れに委ねる」)


そして"無意識"についても・・・。

(前略)賢くなってきて、いろんなことに気づくようになってきた。
・・・・・・人間は、無意識から生まれてきて、気がついてみると、自分があるでしょう。
そしてまた無意識にかえっていくという感じでしょう。
無意識から生まれて・・・・・・また無意識に・・・・・・
そしてまた無意識から生まれて来るわけで・・・・・・
だから子供が無意識から気がついた時は、自分があるでしょう。
さらにまた無意識に帰って・・・・・・そして無意識からまた生まれる・・・・・・。



水木しげるさんは、すべて"知っておられた"のだとしか思えません。
だからやっぱり、そのご正体は哲学者。
しかも"実践"を伴って生き抜かれた、ホンモノの哲学者(philosopher)。


闇も光も体験されたであろうその人生は、まさに、
「神から妖怪にいたるまで、どのようにつながっているか」
をご自身で体得された、"自己実現"の歩みであったのだろうと、私にはそう思えるのです。




そして、体得者の水木しげるさんは、このような言葉も残していらっしゃいます。


(自分の幼年時を振り返って)
それにしても、ベビィのころから変人だった。

水木サンが長年にわたって古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が
多いことがわかりました。

さあ、あなたも、奇人変人になりましょう。ワッハッハ。



私は幸せのことしか考えないからよかったのです。
今の人々は、わざと幸せにならないよう努力している。



生きている以上、「幸福」を求めない人はまずいないと思いますが、だからこそ、水木さんの言葉が
意味していることは何なのか。

なにより、水木さんご自身の人生の軌跡そのものが、私たちに何を物語ってくれているのか。

大マジメに"変人"を目指してみるのも、充分価値があることだという気がします。



(仮面を買いながら)
同じものはいらない。
同じものはいらない。
他人と同じような仮面を被っていたら、安全だし、安心です。
でもそれでは、"奇人変人"にはなれません。



意識という「常識」の世界で、自覚して"奇人変人"を生きることは、
その覚悟や勇気を持つことを必然的に求められるようになるはずです。

「出る杭は打たれる」のは世の常ですし、"変わった人"には、色々と風当たりも強くなって
くるのかもしれません。




でも、水木さんは、様々な困難にも妥協することなく「自分だけの道」を切り開かれました。

「誰が何と言おうと」、"自己を生きる"ことを貫かれたのだと思います。


(奇人変人について)
こうした人たちには、好奇心の塊のような、わが道を狂信的なまでに追及している人が多い。
つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、わがままに自分の楽しみを追い求めているのです。
だから幸せなのです。






西田幾多郎や夏目漱石も、同様の「幸福論」を語っています。


真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。   


個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。
即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。

而してこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。                     
                                                【西田幾多郎】


我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
                                                 【夏目漱石】 
(夏目漱石のこの言葉は逆説的に、自己実現に伴う苦難を彷彿させます)



すべて、ユング派でいうところの「個性化」、「自己実現」の生き方です。






長い自我の旅を終えられ、ご自身がおっしゃられていたとおり、
「無意識から生まれてきて、そしてまた無意識にかえっていかれた」、水木しげるさん。

一ファンとして、たった一度でもいいからお会いしたかったです・・・。


心より、こころより、ご冥福をお祈り申し上げます。




【引用文献】
水木 しげる 『水木サンの迷言366日 (幻冬舎文庫) [文庫] 幻冬舎(2010-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
夏目漱石 『私の個人主義 (講談社学術文庫) [文庫] 』 講談社(1978-08-08)


心の有り様

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もう10月・・・。
中秋の名月も過ぎてしまい、日に日に秋の深まりを感じます。

今年の夏休みも、なかなか「静かに腰を据えて」とはなりませんでした。
ずっと、この場で書きたいことは色々と頭に浮かびつつも、結局は手つかず状態。
でも、今はそれで良し、と思うことにしています。


純粋にしたいことと、やっておかなければいけないと思うこと。

どちらも捨てがたい、それは決して強制ではなく自分自身の気持ちで、その自覚があってもなお、簡単に折り合いがつくものではありませんが、揺れた時には、「葛藤保持力」(河合隼雄先生が表現された深い意味の言葉です)の一言が、いつの頃からでしょうか、自然に頭に浮かんでくるようになりました。

そうすると、少し気持ちにゆとりが生まれてきて、多少なりとも"揺れていること自体"を受け入れられるようになります。
(おかげで記事の更新はさらに遅れますが・・・)



そもそも人間は、その根本的な存在原理として「矛盾を抱えた葛藤する生きもの」なのです。
そのことを理解できれば、「葛藤保持力」を実践する上での支えとなります。

人が「有る」こと自体が、大きな矛盾を抱えていることについては、河合隼雄先生はじめ、このブログでよく取り上げる賢者たちも、みな同様に指摘している哲学的な命題です。

生きている限り決して逃れることのできない矛盾の意味について知ることが出来れば、それは、
主観的な揺れを客観的に受け止める静かな力となり、沸き起こって来る情動を、無理に抑え込む
のではなく、かといって無暗に振り回されるのでもなく、「そのまま」にしておける、というコントロールが
(いくらかは)できるようになるのではないかと思います。

葛藤自体をすぐに、安易に、解消しようとせず、「そのまま」にして抱える。葛藤保持力。


 
人という存在がそもそも「矛盾」していることについては、「心の有り様」を熟慮することが不可欠と
なります。


意識というものがなければ実際上世界はない。

世界は心に意識され、反映され、表わされてはじめて存在する。
意識は存在の一条件なのである。                  
                                               
『人格の発展』

パラドキシカルな性質は、全体性が一部は人間の意識から、一部は無意識からなっていると
いう事実に照応している。                           
                                             『心理学と錬金術』
                                        
                                                【C・G・ユング】


明らかになることは、力の概念が二つの力のなかへ二重化されて、現実的になるということ、そしていかにしてそうなるかということである。
これら二つの力は、自分だけで存在するものとして、現に在る

悟性と物の内面という二つの極を結び合わせる媒介〔媒語〕は、力の展開された有であり、
この有は、これから後は、悟性自身にとり消え去るものである。
だから、この有がつまり現象なのである。

一般者は、物の内面をなすものであり、その内面は、二つの力のたわむれが自己自身に帰る
〔反照する〕ことである。
                                        
『精神現象学』 【ヘーゲル】


世界は絶対矛盾的自己同一
として、自己自身を超えたものにおいて自己同一を有ち、
我々は超越的一者に対することによって個物なる
が故に、我々は個物的なれ ばなるほど、
現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を超えて、反省的であり、思惟的で
あるのである。

                                 
『絶対矛盾的自己同一』  【西田幾多郎】


独坐大雄峯は根本的無分別の世界である。
絶対が相対にあるところがある。
が、無分別が分別になっただけではまだ十全でない。
ここに批判的なものがなくてはならぬ。
無分別と分別の世界の交加、相即ともいうべき、もう一つの働きが出なくては、
事の始末がつかぬ。
ここが丈すなわち打つ心であります。

(前略)
いわゆる阿轆轆地に転じなければならぬ。
そして一たび転ずれば必ず両頭に走るのです。   
転ずるというとき無分別が分別になる。
無分別が転ずれば両頭に走るようになるのだから、ここに是非善悪の世界が出て来る
有無の世界が出て来る。

                                     
 『無心ということ』 【鈴木大拙】
  
          
有名な哲学者、カントもこのように述べています。


私たちの認識がすべて経験をもってはじまるということについては、まったく疑いの余地は
ない。

私たちのうちに生じるいかなる認識も、時間的には経験に先立つものではなく、認識はすべて
経験をもってはじまるのである。
しかし私たちの認識がすべて経験をもってはじまるにしても、だからといって、私たちの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。

                                             『純粋理性批判』 


夏目漱石も、(作品を読めば疑う余地はありませんが)「無意識」はもちろんのこと、「心の有り様」を
知っていたことがよく分かります。


普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続
して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。

(中略)すると煎じ詰めたところが私もなければ貴所方(あなたがた)もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。

通俗の考えを離れて物我の世界を見た所では、物が自分から独立して現存しているという事も
いえず、自分が物を離れて生存しているという事も申されない。
換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、
いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。
(中略)だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に命というのであります。

甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときは既に甲は意識しておらん
訳です。
それにもかかわらず甲と乙とを区別する事が出来るならば、明瞭なる乙の意識の下には、
比較的不明瞭かは知らぬが、やはり甲の意識が存在している
と見做さなければ
なりません。

意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。
向後どこまで分化と統一が行われるか殆んど想像がつかない。
                                                    
                                           『文芸の哲学的基礎』


人間は、無意識から意識を区別することで、自他を含めた"世界"を認知できるようになります。
意識が有るからこそ、無意識を知る〔反照する〕
ことも可能となります。

そして、この「心の有り様」が矛盾(二律背反)なのです。


意識は自己自身に対している。

それは、区別されていないものを区別することである。
言いかえれば、自己意識である。
私は私を私自身から区別する。
そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している
〔無媒介に私にとってある〕。

一つの自己意識がもう一つの自己意識に対しているのである。
こうして初めて、自己意識は事実上存在していることになる。

自己意識に対しては別の自己意識が在る。
つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。

二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめると
いうふうに規定されている。

                                         『精神現象学』 【ヘーゲル】


表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、
知るものと知られるものとが一であるのである。

何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、
自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。


表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、
真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。

                                         『デカルト哲学について』


精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。

                                              
                                                『善の研究』

                                               【西田幾多郎】



カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、
人間というものがこういうものだから致し方ない
と思っています。

人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。
                            
                            
 『カウンセリングの実際問題』 【河合隼雄】

「心の有り様」を考えれば、 まさにそこに向き合うカウンセリングについても、一筋縄ではいかない
ことは「致し方ない」のだと納得できます。




日常の様々な場面で大小の葛藤が生じるのは人の世の常だと思いますが、その葛藤を
"とりあえず"ですぐに解消しようとするのではなく、「保持する意味」については、今回は下記の引用に留めることにして、次の記事で改めて触れていきたいと思います。



悩みや問題があるのが問題なのではなくて、問題があるのにちゃんと悩んだり迷ったりしない
ことが
問題なんです。
迷いを持ちこたえる力は大事です。                                  
                                   『こころの子育て』 【河合隼雄】


個性化プロセスによって私が意味するのは(中略)、二つの基本的な心的事実の間の
葛藤から
生まれてくる、発展の過程、ないしは経過である。

                                            【C・G・ユング】
                                              

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。

実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、
この衝突の際においてである。

分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる。


我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と
一致するに従って幸福となる
のである。


                                    『善の研究』 【西田幾多郎】



【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
C・G・ユング 『心理学と錬金術 (2) [単行本]』 人文書院(1976-10-01)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)
西田幾多郎 『絶対矛盾的自己同一 [Kindle版] 』(2012-10-01)
鈴木大拙 『無心ということ (角川ソフィア文庫) [文庫] 』  角川学芸出版(2007-09-22)
竹内 昭 『哲学案内 [単行本] 』 梓出版社(2004-04)   
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)
西田幾多郎 『デカルト哲学について [Kindle版]』(2012-10-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)
河合隼雄 『Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [文庫]』 朝日新聞社
 (2001-09)


無為を為す(夏目漱石の老子論)


Clouds./theaucitron
 

渦中では長く、過ぎれば短い、
ツインズの夏休みが終わって、あっという間に9月も半ば。

子供たちと、いつもより密着して過ごす40日の間、楽しくもありイライラもあり(笑)、そして、ココの記事の更新も頭の片隅では気になりつつ、でも結局は手つかずのまま、諸々の事柄の中で常にジレンマを感じながら過ごしたドタバタの暑い暑い夏でした。

そんなわけで、久しぶりにこうして腰を落ち着けてみると、「今年は季節にひとつの記事しか書いていないじゃないか」と、(書きたいのに書いていない)自分を鼻で笑ってやりたい気にもなりますが、久しぶりに思索とイメージに集中してみようと思います・・・。


前回記事で書いた、
「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること、自ら方向付けをしない、自然の流れに委ねる」

どれも(ココでは)同じ意味に捉えていただいていいわけですが、これらはすべて、過去の記事にも書きました“無為”と同義。
老子や荘子が説いた「無為自然」の生き方を表しています。

過去記事の「無為に過ごす」では、この無為が道教(タオ)、そしてユング心理学での「個性化」と深い関わりがあることを取り上げましたが、実は、哲学や禅の世界(もちろん「昔話やおとぎ話」、そして、ユングが自身の心理学の概念に相通ずるとして研究をした「錬金術」も然り)でも、切り口の違いや表現の差こそあれ、「根本の意味は同じ」であると捉えられる共通点を、それらの中に見出すことができるのです。


老子は、「人としての究極の生き方は“無為自然”な道のあり方である」と、説きました。

道家思想の祖と称される老子の教えは「道(タオ)」を説くところにありますが、この道(タオ)とは、「天地万物を生み出す造物主的な根拠、あるいは宇宙に一定の秩序をもたらす原理的な存在のこと」であり、この道の自然な展開に従う「無為を為す」ことによって、大成を期待できるとしています。

人は、「自分(→犲我″と読むと理解しやすくなります)の思いや考え」にそって多くを為すがばかりにかえって破滅し、功利を焦って失敗するのだから、無為であることこそ良い生き方である。
自らの行ないを無為自然に保つ“無為を為す”ことによってこそ、自然の霊妙たるはたらき、摂理による、あるがままの生き方を実現できるようになる。
と、説いたのです。


老子の思想は、一般的な処世法、政治の術のあり方、実践的な教訓として解されている向きもあるようですが、上記の老子の教えは、そのような“外的な実践術”ではなく、もっと深い、人のこころや魂の部分を基盤とする哲学的なものを指しているようです。

それは、前回記事の昔話の中の「怠けものが成功する」ことに通ずる、深い意味の共通点です。


(私の大好きな)日本を代表する文学者である夏目漱石が、『老子の哲学』という評論を発表しています。
そこでは、孟子を引き合いに出して、老子の教えと孟子のそれとは一見同じようでありながら、しかし根本的には違うものであると論じています。
漱石のこの論文を読むと、老子の思想の深い意味が結局のところ、自己実現、個性化の概念と共通することが理解(というか、その論への共感と解釈が)できますので、引用したいと思います。

この二子、時代に多少の差はあれども等しく争乱澆季(そうらんぎょうき)の世に生れ、民俗の日々功名利欲の末途に趨くを嘆じ、道の源頭より一隻眼を開いて人心の砥柱たるべき根本を教えんと企てたればこそその言もかく符合するなれ。
去れども孟子の本は老子の本にあらず。
老子の還また孟子の還と趣を異にす。
〔略〕
(孟子について↓)
その心には仁義より大なる道なく仁義より深き理なしと思ひ込みしなり。
なるほどこれは当り障りのなき議論にて、これを実行せば治国の上に利益あるは無論の事、まして周末汚濁の世には如何ばかり要用を有せしや知るべからず。
〔略〕
(老子について↓)
常識に適ふたる仁義の説だにかくの如くなるに、仁義以外に一歩を撇開(へいかい)して当時に迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。
これを誰かといふに周国苦県匐燭凌諭∪を李といひ名を耳と呼ぶ生れながらにして晧首の異人なり。
〔略〕
今に伝る所『老子道徳経』即ちこれなり。

さて老子の主義は如何に、儒教より一層高遠にして一層迂闊なりとは如何なる故ぞといふに、老子は相対を脱却して絶対の見識を立てたればなり。
捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道を以てその哲学の基としたればなり。
                                              (『第一篇 総論』)

漱石文芸論集 (岩波文庫)




漱石は、老子と孟子の、当時の世に対する嘆きや「言もかく符合」はするけれども、その教えは「趣を異にす」と述べています。
そして、孟子の教えについて、「深き理なし」「当り障りのなき議論」と評する一方、老子については、「迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。」とその違いを指摘しています。
またそれは、「相対を脱却して絶対の見識を立てた」ものであり、「捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道」という、明らかに“この世の”尺度では測り切れない「高遠にして」「迂闊」なものであると言っています。

私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、漱石の言うとおり、孟子の教えがあくまでも外的な事柄や生き方に即したものであるのなら、確かに老子の説かんとする内容とは、根底からその意味するところが違ってくると思います。

老子の教えが、人のこころや精神、魂についてなど、いわゆる以前の記事でも少し触れた philosophia (哲学)であること、ひいてはユング心理学の個性化に通ずるものであること。
夏目漱石が評した老子の哲学の意味について、私にはそのように理解ができるのです。


実は漱石は、同書で老子についての批判もしています。
それは、「個性化」がいかに険しい道のりであるか、パラドックスを生きねばならぬか、そしてそれを表現する難しさという、やはりユング思想との類似を思わせる内容なのですが、それはまたいつか別に、そのテーマで書きたいと思っています。


さて、ここで話を、夏目漱石自身に向けたいと思います。
漱石には『夢十夜』のような幻視作品があるのをご存じでしょうか。
そして、次のような興味深い感想も残しているそうです。

「霊ノ活動スル時、ワレ我ヲ知ル能ハズ。之ヲ secret ト云フ。此 secret ヲ捕ヘテ人ニ示スコトハ十年ニ一度ノ機会アリトモ百年ニ一度ノ機会アリトモ云ヒ難シ。之ヲ捕ヘ得ル人ハ万人ニ一人ナリ。文学者ノアルモノノ書キタル、アルモノノ価値アルハ之ガ為ナリ」(断片)。

どこで読んだか見たかは忘れてしまったので、出典は明示できないのすが、漱石は自身が「自動筆記」によって作品を書いたこともあると語っていたようです。

漱石自身が、「secret ヲ捕ヘ得ル」、「万人ニ一人」の人物だったからこそ、今日でも多くの人の胸を打つようなあれだけの作品を創造し(全くの個人的な想いなのですが、私の中の日本文学の最高傑作は漱石の『こころ』なのです。もう数十年前ですが、あの作品を初めて読んだ時のディープインパクトを超える作品に未だ出会ったことはありません。)、老子の無為についても、漱石自身の体験を通した深い視点を持ち得ていたのかもしれません。

(漱石の創造に至る苦しみが、それを更に、信憑性のあるものとして裏づけているような気もします)
『他人本位ではなく自己本位』


今日は、老子の「無為自然」を書く流れの中で、自然と夏目漱石の論評に手が伸びたため、それだけで、自分でも予想していなかったボリュームになってしまいました。
老子の道(タオ)についてなど、今日書ききれなかったことを、次回に引き続きたいなと考えています。

そして、「個性化」の“各分野”に表現されている共通点については、追々、取り上げていくつもりです。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
C.G.ユング 『創造する無意識―ユングの文芸論』 平凡社  (1996-03)


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ソフィア (sophia)


Aya Sophia Interior /
Alastair Rae

「万学の祖」といわれた偉大な哲学者アリストテレス。
この名を聞いたことのない人はまずいないでしょう。

このアリストテレスが第一哲学と称する『形而上学』という著述があります。
そこでは、いわゆる「存在」に関するさまざまな問題が扱われているわけですが、
「形而上学(metaphysics)」という言葉は、アリストテレスの数々の著作を編集する際、
「自然学関係の諸巻(physica)」の後に置かれた諸巻という意味で作られたとされる
“metaphysica” がもとになっているようです。

meta は超越を意味しますので、“metaphysica” とは自然を超越したもの、「超自然学」を意味します。
自然の背後にあるもの、いわゆる“あちら”の世界についての学問。
(自然と訳される physis は、そもそも「生まれ出たもののすべて」を意味します)

深層心理学的に、ちょっと大胆に言ってしまうと、
“無意識”にあるものの探究、と言い換えることもできるのではないでしょうか。

この『形而上学』について、アリストテレスはまた、「ソフィアをあつかう学」とも称していますが、
ソフィア sophia とは、ギリシア語で「知恵」を意味することを鑑みますと、
ソフィアをあつかう学(第一哲学)とは、われわれの 「存在根本についての知恵に関する学」 であり、
「万物を動かす原理である不動の動者、神(と呼ばれる存在)を探究する学問」であるといえます。


西洋世界において意味深い「ソフィア」の存在について、ユングはあくまでも心理学の観点から、
男性の無意識に存在する、“高次のアニマ”であると述べています。
* アニマとは男性の無意識の中に存在しているとされる、普遍的な女らしさの元型。ソフィアは第四段階の叡智のアニマ。
(ゲーテの『ファウスト』における)「永遠にして女性的なるもの」(ソフィア)は
錬金術の≪智慧≫を具現化したものとして登場する。

ソフィアは、(中略)「楽園の」あるいは「神的な」人間、すなわち「自己」である。


転移の心理学
転移の心理学
著者:C.G. ユング
販売元:みすず書房
(2000-10)








また、前回記事で書いたグノーシス主義では、『旧約聖書』で「最初の人間」とされている
アダムとイブに、2人が“無知の闇”に閉じこめられていることを知らせるため、
智慧の女神ソフィアがヘビを遣わしたとされています。

『旧約聖書』において、知識の木の実を食べるようそそのかした悪魔の使いとされるヘビを、
グノーシス主義では礼拝の対象としていたのです。

(正統派キリスト教、異端派グノーシス主義における、“ヘビ”のこのアンビバレンスな捉え方も、
今日は触れませんが、非常に意味のあることです。
ちなみにユングは、自分の心の深層に導いてくれる存在として、緑のヘビを描いています。)


私たち人間は、自我が芽生えてこそ、他者の存在のみならず、自分の“存在”をも
認知できるようになります。
“無知の闇”(無意識)を抜け出してこそ、「人」となるわけです。
(赤ん坊が幼児に成長する過程を見ていると、それがよく分かります。)

闇を完全に光で満たすことはもちろん不可能ですが、そこに何があるのか、
少しずつ明かりを灯していくことこそ、「ソフィアをあつかう学」につながるのだと、
私には思われます。


「人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』『本来的自己』『光の粒子』」
である、グノーシス主義における女神ソフィアを、ユングが解釈したように、
私たちのこころの深くにある「自己」と考えると(この場合はあくまでも男性心理からの視点で、
ユングは、アニマとセルフを同一視している部分があることが研究者によって指摘されている)、
やはり、わたしたち人間一人ひとりが、
自身の“無意識の声”を聞いていくこと、“認識(グノーシス)”すること。
そして、“無知の知(闇)”の自覚を出発点に、“ソフィア(叡智)の救済”へ努めることは、
たとえそれが終わりのない道であっても、とても意味のあることなのです。

それは、以前のブログで書いた「ホントの自己実現」の生き方と同義です。



西洋のおとぎ話では、王子様が「閉じこめられたお姫様を救出する」お話がよく出てきますが、
そのようなテーマが古くから多くの人の心を揺さぶり、言い伝えられてきたことも、
深層心理学的に解釈すると、納得できそうですね。
それは、私たちの生の「本来の課題」を表しているわけですから・・・。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
筒井 賢治 グノーシス (講談社選書メチエ)』 講談社 (2004-10-09)
山中康裕監修 ユング心理学 (雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)
 PHP研究所 (2007-02)
        

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グノーシス主義のソフィア


Goddess /

暦ではとうに秋ですが、まだまだ残暑が厳しいですね。
でも、朝晩はかなり過ごしやすくなってきたように思います。
秋は私が一番好きな季節。
今年も、秋を堪能できる自然に包まれに、どこかへ行ってみたいなと考えてます。


さて今日は、
5月のブログ記事の最後で触れた“ソフィア”について。

まず、ユング関連の著作の数々を読んでいますと、「グノーシス」という言葉を
目にすることが度々あります。

ユングは、中国思想のタオや易、占星術、タロットなど、様々な分野に興味を示し、
その心理学的意味について考察していますが、古代「グノーシス主義」についても
その内容に深層心理学的に有意味な関連を見出し、たいへんな感銘を受けたようです。
グノーシスの一派である「バシレイデース」の名で、本まで出版しているのですから、
その関心ぶりの高さがうかがえます。
また、「個性化の過程」を考案した際にも、グノーシス主義の思想に影響を受けた
ことが指摘されています。

さて、この「グノーシス」についてですが、講談社選書メチエから出版されている
『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』にはこのように説明されています。

紀元二世紀後半、誕生して間もないキリスト教会では、総称的に「グノーシス」とか
「グノーシス主義」と呼ばれるさまざまな異端的流派が広がりを見せていた。

「グノーシス」とは、ただの単語として見るなら、「認識』や「知識」を意味する
古代ギリシア語の普遍名詞である。
ならば、キリスト教グノーシスとは、「知る」ということに特に重きをおくキリスト教
流派であったのだろうと想像することができるだろう。
事実、そう考えても間違いではない。
ただし、いったい何を「知る」というのか、この点で一定の方向性があった。
多くの場合、キリスト教グノーシスにおける「認識」の対象は、(中略)
人間もまた創造神の作品であるが、その中に、ごく一部だけ、至高神に由来する
要素(=「本来的自己」)が含まれているということ、救済とは、その本来的自己が
この世界から解き放たれて至高神のもとに戻ることなのだということ、
といった事柄である。

キリスト教の異端とされたグノーシス主義。
でもユングは、その思想の中に、人の心的過程に通ずるものを見出したわけです。

「グノーシス主義は何を信奉するのか。
それはこの世界の外、あるいはその上にあるいわば『上位世界』、
そしてそこに位置している『至高神』である。
そして人間の霊魂も、もともとはこの上位世界、別名『プレローマ』の出身であり、
現在はこの世界に幽閉されている形になっている。
(中略)
そこで、霊魂が身体を含むこの世界から解放され、故郷である上位世界に
戻ること、それがグノーシス主義者にとっての『救済』となる。」

「人間にとっては、自分自身のこのような本質に目覚めること、
それを『認識』することが、救われるための必須条件になる。」

一見するとあまりにも現実離れした話で、まさに遠い昔の“神話”であり、
あくまでも宗教的な事柄のようにも受け取れます。
しかしその内容を、人の(無意識の)心的成長のプロセスという切り口で捉えた
場合、それは私たちにとって、重要な意味を秘めていると理解できるのです。

そんな“グノーシス”。
深く多様な意味を含んでいるようです。
「グノーシス主義を筋道立てて総合的に解説するという課題は、きわめて複雑で
困難なものとなる。
むしろ、すべての側面を完全にフォローするのは、実際問題として不可能だと
いうべきであろう。」
“無意識世界”の説明にも同じことが言えるような気がします。

では、ここからは話を“ソフィア”に移してみたいと思います。
と言っても、まだグノーシスの話は終わりません。
なぜかというと、“ソフィア”とは、このグノーシス主義に登場する、
重要な役割を負う女神の名前だからです。

グノーシス主義では、プトレマイオスという人物による宇宙創成神話が有名ですが、
その内容について簡単に触れてみたいと思います。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

まず最初に、至高神(プロパトール)とエンノイアという女性神のペアから、
順次男女ペアの神が流出し、合計30の神々、アイオーンが成立し、
そして、その神々による「上位世界」、“プレーローマ”が完成される。

しかし、至高神を見知ることができるのは、至高神から直接流出した
“ヌース(叡智)”のみであって、他のアイオーン達には許されていない。

にも関わらず、最下位のアイオーンであった“ソフィア”が、大胆にも至高神を
直接に知ろうと企てるが、勿論そんな無謀は失敗に終わり、絶望したソフィアは
プレーローマから転落しそうになる。

しかし、ホロスという存在によって転落は食い止められ、過ちを悟ったソフィアは
自らの「情念」を切り離してプレーローマの外に捨て、自身は救われる。

その後、ヌースという高次のアイオーンから流出した「キリスト」が、
投げ捨てられたソフィアの「情念」を哀れに思い、それに形を与える。
これこそが、この世の創造神(デミウルゴス)と人間を含む「この世界」の起源と
なる。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

グノーシス主義では、「創造神デミウルゴス(=旧約聖書のヤハウェ)」の上に、
上位世界と至高神がいるとされているわけです。

「プトレマイオスの理論によれば、創造神とこの世界はソフィアの向こう見ずな
好奇心から―文字どおり―『生まれ落ちた』産物なのである。」


そしてここからが肝心です。

「ソフィアの『情念』はあくまでソフィアというプレーローマ構成員から出たもので
あり、そのため、わずかとはいえ、プレーローマの要素が混入していたのである。
これが、今でも人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』
『本来的自己』『光の粒子』にほかならないということになる。
その後、プレーローマからキリストが派遣されて覚醒ないし自己認識(グノーシス)
を呼びかけ、それに応えた霊魂たちがプレーローマに次々に帰還する。」



今日は、グノーシス一色で、どっぷりと“非現実的”な感じになってしまいましたが、
“ソフィア”について、そして「自己」やこころについて、次回以降、続きを書いて
いきたいと思います。
そして、グノーシス主義を始めとする様々な思想と無意識について、
“非現実”と“現実”について、結び付けていければな、と考えています。


―締めくくりに少し。
「哲学」の語源は、 philosophia(愛知) であり、その意味は、
「ソフィアを愛し求めること」というものです。
「哲学」という言葉の意味とグノーシス思想との繋がりが感じられますし、
人が“哲学する”ということが何を意味するのか。
その深さも表している気がします。


(今日の引用文は全てこちらの文献から)
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「知らないこと」を知る


Underground /


5月に入りました。そしてGW。
ゆっくりと休暇を取っていらっしゃる方、「いやいや、仕事だよ」という方も
いらっしゃるでしょう。

記したいテーマはたくさんあるにも関わらず、更新が滞っているこのブログ。
「せめて1カ月に一度は」と思っていたのに、とうとう4月はひとつも記事を
書きませんでした。

実はツインズが今春から小学生になり、私も生活のペースが変わりました。
子どもの成長は、振り返ってみると本当に早いなと感じます。
彼らの成長、変化に合わせて、私も色んな刺激を受けながら、親としての成長も
促されているような気がしています。
河合隼雄さん、そして佳代先生も、
「(親が)子どもからもらうものは、どれほど深くて大きいか」というようなことを
述べられていましたが、本当にそうだなと思います。
深いレベルでの癒しを与えてくれる存在です・・・。

私は一時期、子供を授かることは無理なのかなと諦めかけていたことが
あるのですが、今となっては、産まれてきてくれるべき「時」に、
ちゃんと彼らと出会えたような気がしています。

ユングや河合隼雄さんは「時」についても述べられていますが、やはり私たちは、
「カイロス」という見えない時間においても、生かされているのだと感じます。



プライベートな話題はさておき、今日の本題です。

― ソクラテスの「無知の知」
― 孔子の「知るを知るとなし 知らざるを知らずとなす これ知るなり」

洋の東西に伝わる有名な格言です。

簡単に言うと、
「“知らないことを”知っている。」 という意味です。

でも、「自分にはまだまだ知らないことがあるなー」と謙遜することが大事。
というだけではない、これらの言葉にも奥深い意味が秘められているようです。
(格言とは、そもそも字義どおりに受け取るべきものではないような気がします)


賢者たちが述べたこれら「知る」の意味とは、
自我レベルでの知識や技術の習得度についてではなく、
自我の“私”では把握・説明しきれない何か大きなもの。
それをはっきりと認めるということを指しているのではないでしょうか。

深層心理学的にいえば、それは「自我と無意識」の関係性であり、
前回記事に書いた、「外界、内界における“地動説”をはっきりと認識する」
ということと、同じような意味なのではないかと、私には考えられます。


私たち人間が、全てを掌握しそれを意のままにコントロールできるとするのは、
やはり大変な傲慢であり、そのような考え方には危険な「落とし穴」が潜んでいると
思われます。
そして、それは見えにくい気づきにくい「落とし穴」だけに、
いつなんどき足を取られてしまうかは、非常に予測しにくいわけです。

見える景色にばかり目を取られていると、ある日突然、
隠されていた穴にストンと足を取られ、体ごと捉えられてしまうかもしれない。

「知っている」、見える空間にあるものだけが全てではない。
日頃は全く見えていない地下のような、「知らない」何かがあることを、
私たちは「知らなければならない」。

それをはっきりと自覚することこそ、
「無知の知」
「知るを知るとなし 知らざるを知らずとなす これ知るなり」
なのではないでしょうか。


もうひと月前になりますが、深夜たまたま目にしたテレビ番組がありました。
それは、3.11の大震災の約一年前に放送されていたらしい、
地震に関する番組の再放送でした。

その番組の終盤あたりで、
【メキシコ自治国立大学 シーナ・ロムニッツ名誉教授】が語られていた、
次の言葉が、とても印象に残りました。

「地震は毎回、姿かたちを変えて襲ってきます。
私たちは新たな震災に対して備えていかなければなりません。
大切なのは、自然の力に対して畏敬の念を抱き、
いつも謙虚さを忘れないことなのです
。」

『NHKスペシャル MEGAQUAKE 巨大地震 第三回「長周期地震動の脅威」』 
(NHK総合 4/1(日)AM0:30〜1:20)


地下や宇宙も含めた大自然という外側の世界にも、無意識という内側の世界にも、
我々には計り知れない未知の領域があるとまずは自覚し、
その自分より大きな何かに頭を垂れるような姿勢をどこかに持っておくことは、
やはりとても大切なことなのではないかと思います。

「無知の知」を常に意識しておくこと。
過去の東西の偉人たちが残した言葉に含まれるその深い意味に、
私たちは真正面から向き合わなければいけない時代に
来ているのかもしれません。


○●○●○●○●○

これは、河合隼雄さんがご自身の講義でも用いられておられたそうで、
お気に入りだったという絵本です。
私も子どもたちと一緒に読みました。

目の前を飛ぶチョウチョ取りに夢中で、背後から次々と迫り来る大きな存在に、
「ブタヤマさん」は全く気付いていません。
見えていないもの、意識できていないものを知ることは、
やはり簡単ではないのかもしれませんね・・・。

それにしても、「ブタヤマさん」のすぐ後ろに近づいている生き物たちは、
通常のそれと比べたらとてつもなく大きいのです。
「普通の生き物」ではない感じが、よく出ているなと思います。

ブタヤマさんたらブタヤマさん (えほんのもり 9)
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心と哲学も「太陽中心説」


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今月始め、NHKのある番組を視聴しました。
それは
梅原猛さんがご出演され、「3.11」の東日本大震災について、
哲学者としてのお立場からお話になるというもので、
期待どおり、色々と考えさせられるとても深い内容でした。

ちなみに、梅原猛さんのお名前は、
河合隼雄さんの著作を読み進める中で知り得ていました。
生前の河合隼雄さんとは、哲学者と心理学者としての交流がおありなったようで、
それが、番組を見てみようと私が思った動機となりました。

さて、その内容については、あれもこれもと気になる点、
勉強になるお話がいくつもあったのですが、
その中でも私が一番興味をそそられたことはつぎのようなものでした。

梅原猛さんはこのように述べられていました。

□■□■□■□■□

「現代の科学技術の文明背後には、
自然を意のままに支配しようという人間中心の西洋哲学がある。」

とした上で、

「(過去、)自然科学において、天動説は誤りで地動説になった。
(でも)哲学においては、天動説じゃないかと。
自然科学は地動説を取ったけれど、
近代哲学は寧ろ天動説を唱えたのではないかと。
もう一度哲学においても、地動説に戻さなあかんという、
そういう太陽の恩恵を考える、そういう哲学になるべきだと思うんだけどね。」 

3.11の大震災を契機に、梅原猛さんは哲学者として、
「自然を意のままに支配しようという人間中心の」西洋哲学や合理主義の限界を、
改めて思い知らされたとのことでした。


『こころの時代〜宗教・人生〜 シリーズ 私にとっての「3.11」』 (NHK Eテレ 3/4(日))

□■□■□■□■□


「地動説」とはご存じのとおり、太陽の周りを地球が公転しているという、
現代では常識となっている天文学説です。
「太陽中心説」ともいいます。

自然科学においては、コペルニクスにおいて地動説が定説となっていきました。

しかし近代哲学においては「天動説」であり続け、人類は科学技術を発達させ、
「人間中心」の考え方により、自然すら支配下に置こうとしてきた。
しかしその自然とは、穏やかに恵みを与えてくれる存在であると同時に、
もう一方では、非常に恐ろしい面を隠し持っている。
そして、その脅威を見せつけられた時、
人は自らの存在の脆弱さを思い知らされる。

梅原猛さんは、そのような人類全体の自然に対する驕りの危険性と限界について語り、


「今まで、自然を支配する道具として、科学技術が使われていた。
今度(これから)は、自然と共存できる科学技術に変貌する、
というふうに私は思いますね。」

とも言われていました。


私はその放送内容を聞きながら、心に関するユングの説も思い出し、
胸に深く響くものを感じていました。

次に挙げるのはユングの言葉です。
 
「自己が何か不合理なもの、定義不可能なものであって、
自我はそれに敵対するわけでも隷属しているわけでもなく、
それに依存しつつ、ちょうど太陽のまわりをまわる地球のように、
そのまわりをまわっていると感じ取られたとき、
個体化の目標は達せられたことになる。
・・・個体化された自我は、自らが、上位に位置する知られざる主体の
客体であると感じるようになる。」

ユングにおける心と体験世界 (南山大学学術叢書)


私たちは、現実の生き方、思想、という外界においても、
こころという内界においても、
やはり「太陽中心説」であると認識すべきなのではないかと思いました。

外界においても、内界においても、「私」が中心で絶対的な存在ではないとする
思想は重要なのではないのか。
「哲学において、地動説に戻さなあかん」ように、
心理学においても、地動説が広く認知されるべきなのではないかと、
私はそう思います。


最後に・・・。
西田幾多郎は『善の研究』にこのように書いています。

「意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、
個人とは意識の中の一小体系にすぎない。
我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、
もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、
この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意思実現である。」

哲学者の中にも、地動説(太陽中心説)を唱えていた人物が
ちゃんといたんですよね。

また今度、続きを書きたいと思います・・・。


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