心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

こころの世界

「ただ一つのもの una res 」

Cartesian Theater illustration published in a book!
 Cartesian Theater illustration published in a book!/Jen Garcia

前回記事の最後で、敢えて自分への課題として書いた一文も、
案の定・・・果たせないまま年を越し、(やはり無謀だったと反省)
早く本題に取り掛かりたいと思いながら日々を過ごしてきましたが、
そんな中、大変興味深い記事を見つけてしまいました。

よって、予定変更で今日は別の話題を取り上げます。


まずは、ぜひ以下のwebサイト記事をご一読ください。



脳が意識を生み出しているわけではない」


「死後の世界」が本当に在るかどうかについては、そもそも「‟現世”という世界をどう解釈するのか」という問題になってくると思いますし、「脳は意識の受け皿にすぎない」という表現にも、若干のズレを感じるので、個人的には、タイトルの言葉
100%同意ではないのですが、記事内の、
「脳が意識を生み出しているわけではない」 というランザ博士の言葉には、
‟激しく同意” でした。


上の記事では、量子力学の「二重スリット実験」において、「観察者がいる場合といない場合で、物質の性質に変化が現われるという‟非科学的な”事態が生じる」ことを、「物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない『観察』という‟意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっている」として、ランザ博士の「意識が物質世界よりも根源的だ」という考えを紹介しています。

また、ランザ博士より以前に、同様の考えを示していたとされる、物理学者についても触れられています。


量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

                                【上記webサイトより】
(ユング心理学的には、上記内容の「意識」を「無意識」という言葉に変換した方が理解しやすいかもしれません。)



以前にこのブログ「物理は心理(!?)」において、動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるという、アインシュタインの相対性理論と、ユングの「観察者の心的条件によって時空や物体が相対化される」という内容を取り上げました。



外的な事象、物質の動きや性質を捉える上において、その物質の動きや性質、時空などは「それ自体が絶対的」なのではなく、その事象を観察する側、観察者の(有無も含めた)状態が、物質を含めた外的世界を特定する大きな要因になっている、という論理。

これが真実
(と私も思っていますが) であれば、 れを体験(主観)しているのも、同時にその体験を通して世界の諸々を知ること(客観)ができるのも、「‟意識”を持った人」ということになり、その存在がなくなれば、世界もなくなるということになるはずです。


だからこそユングは、
「こころ」の価値を、そしてそれを持つ「個人」とその体験の価値を説いています。



ユングは心理学者として、「こころ」というものが、「無意識」というものが、いかに私たちの存在の‟根源”であるかをさまざまな論点から主張していますが、ユングの高弟であるフォン・フランツの以下の文が、ランザ博士等の論理に沿う形で、ユングの考えを端的に表わしていると思います。

物質はユングが推測したように心(psyche)の具体的な相(アスペクト)である。

それも個人的な心のそれではなく、集合的無意識のそれであり、諸元型はその場合、単に集合的無意識の構造特徴であるばかりでなく、宇宙形成要因そのものであるということである。

いずれにしても、共時性現象はこの方向を指し示している。
                                     『結合の神秘』



「脳が意識を生みだす」、「意識が脳を生みだす」という、‟どちらかが最初にあってもう片方が後から派生する”という因果関係ではなく、物質と心は相対的、共時的なものであると、ユングはそう考えていました。

そして、その両方の‟根源”が「無意識(自己 ゼルプスト)」であり、それはマクロコスモスもミクロコスモスもすべてを含む、「ただ一つのもの 
una res 」 だということなのです。




私たち人間は、ひとりの個体としても、心身(意識と物体)様々な ‟区別” のレベルで、同時に ‟同調”しており、またその構造は、もっともっと大きな宇宙を含めた、時空をも超える‟全体”としても同様である。

このような考え方は、ユングをはじめ、古今東西の哲学者や神秘主義者、宗教家、そして科学者にも多くの支持者がいる、神話の時代から受け継がれてきた「世界の原理」です。



われわれが自然をより高度な意味で、現象してくる一切のものの相対概念と考えるなら、その一つの側面は 物質的(physisch)であるが、もう一つの側面は霊〔精神〕的(pneumatisch)である。

                                     【C・G・ユング】                                             



あまりにも有名な老子の「道 Tao」も、ユングも注目していたとおり、‟同様の考え”を示しています。

物有り混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寞たり、独立して改まらず、周行して殆まず。
以て天下の母と為す可し。
吾れ、其の名を知らず、之に字してと曰い、強いて之が名を為してと曰う。
大なれば曰に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る。
道は大なり、天は大なり、地は大なり、王(人)も亦た大なり。
域中に四大有り、而して王(人)は其の一に居る。
人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
                                        『道徳経』


‟医学の父”と呼ばれるヒポクラテスも、次のように述べています。

そこにひとつの共通の流れ、共通の息吹きがあって、すべての事物が共感し合っている。
その有機体全体とその部分のおのおのが協同して、同一の目的のために働いている。

その偉大な原理が末端の部分にまで延長しており、そしてその末端の部分からそれは偉大な原理へ、ひとつの自然へ、存在と無へ向かって帰ってゆく。


関連して、ユングの言葉です。


「自分の必要とする一切」omne quo indiget を自分でそなえていること、自らを孕ませ、産み、殺し、呑み込むあの龍のように完全に自立的存在であることこそ、まさに変容物質の特徴なのである。       
                                     【C・G・ユング】 

ユングが研究した錬金術書物の一文。


いくつかの自然が存在するというわけでもなく、
存在するのは、神の自然物を凌駕するもろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である。

                                       『賢者の群』
 


日々、実際に私たちの体内で繰り広げられている 細胞レベルの活動、自らの身体でありながら ‟意識することなく”自律的に営まれているその驚異の現実を考えると、ひとりの人間も「変容物質の特徴」を備えた「もろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である」 という認識は、 (表現のイメージのみに観念的に惑わされないのであるとしても)最も理性的判断に適っていると私には思われます。





さてここで、過去記事の「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」 で引用したハメロフ博士の言葉をもう一度取り上げます。

「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。  
  

脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

量子コンピューターでは 「量子もつれ」という未知のプロセスを経て  情報が伝達される。

空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。



今日、始めの方で引用した「量子論の生み の親であるマックス・プランク」は「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と語ったとされていますが、「量子論の育て の親」と称されている ニールス・ボーアの「対応性の理論」に関連して、ユングが60年以上も前に既にこのように述べています。


宇宙的原理が最も小さな分子の中にさえも見出され、その分子はしたがって全体性に対応しているのである。


ちょうどある生命体のなかで、その異った諸器官が調和して働き、相互に意味深く適合し合っているように、この世界のなかの出来事は意味深い関係*1 の中にあり、この関係はどのような内在する因果性からも推論され得ないものである。
その理由は、いずれの場合においても、各部分の行動がそれらを超越的に秩序づける中心的制御に依存しているからである。            
                                   
 【C・G・ユング】 
(*1 この部分は、前述のヒポクラテスの論とも重なります)

ユングは、因果律では説明のできない現象があるとして「共時性」の概念を唱えました。

また、なぜ因果的な相関を見出せない中で、共時的な「同列の現象」、「対応した現象」が起こるのかということについて、経験的土台を軸にして、深層心理学の見地から考察、研究を重ねた上、「自己(ゼルプスト)」を定義しました。

そしてその過程において、異なる切り口、異なる立場、異なる分野の中に、同じ観念が語られていることを発見していたのです。



量子という最も小さな分子が、宇宙という最も広大な空間にも対応している。


今後、量子力学の解明が進んでいけばいくほど、物理学は否が応でも心理的現象への接近を迫られ、同時に、深層心理学の研究が進めば、その名のとおり
物理学を取り込んだ「超」心理学への理解が深まっていくのかもしれません。


荘子はこのように述べています。


(古代の賢者たちは)、事物が存在し始めない状態を彼等の出発点とした。
これはまさに極度の限界で、誰もそれを越えることはできない。

次の仮定は、事物は存在しているが、それらはまだ分離され始めていなかった。
次は、事物はある意味では分離されているが、肯定と否定が未だ始まっていなかった。

肯定と否定が存在し始めると、道は衰えた。
道の衰えの後に、一面的な執着心が生じた。

外部から聞こえることは、耳に届くだけでそれ以上浸透することはない。
知性は分離された存在を導こうとしない。
かくて、魂は空となり、全世界を吸収する。
この空をみたすものこそ道である。

その内なる目と内なる耳を用いて、事物の核心を貫ぬくこと。
すると知的な知識は不必要となる。


ユングも、自然科学的な‟知性だけ”では事象を説明しきれないと考えていました。


人間はその肉体と精神において「この世界の小さき神」であり、小宇宙である。

従って人間は神の如く事象の中心であり、すべての事象は人間を中心としてまわりをめぐっている。

このような思想は、現代人の精神にとってはまったく奇妙なものであるが、自然科学が人間の自然への従属性とその原因への極度の依存性を証明するまでの二、三世紀以前までは、人間の世界観を支配していたのである。

事象と意味(これは今ではまったく人間だけに帰着している)との間の相関関係というこの概念は、非常に遠い暗黒の領域に追放されたので、知識人たちはその足跡をまったく見失ってしまった。

ライブニッツ(G.W.Leibnitz)の科学的説明の中で、そのことが主要な項目のひとつを形作っていたが、その後、いささかおくればせながらショーペンハウエルがそれを思い起こしたのである。


近・現代の理性には、物質的なものを過大評価するあまり、精神的方向づけ、すなわち霊(pneuma)による方向づけが欠けている。


物質と心。物理学と心理学。

それぞれが個別の立場だけに執着してしまうと、どこかでその発展は頭打ちにならざるを得ないのかもしれません。




締めくくりに、過去のブログでも何度か引用した、
哲学者の西田幾多郎の、私が大好きな言葉をまた取り上げます。


我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。

即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                    


 ‟すべての道は自己(無意識)に通ず”





さて、最後は映画の話題です。

このブログの書き始めとちょうど時を同じくして観た映画  『ドクター・ストレンジ』

狙ったわけではなかったのですが、奇しくも、今日の記事と重なる「意識と物質の相対性」や「精神世界と物質世界」のおはなしで、私にとっては、ただのアメコミ原作ぶっ飛び魔術師映画ではなく、本当に現実にも通じている深遠なテーマを扱っている作品だと、映像はもちろん、内容的にもとても楽しめました。(一方、テーマが深遠すぎて、まとまり切れていない感も拭えませんでしたが、どちらにせよ制作陣には興味が湧きました。そもそも原作を知らないので、映画のそれがどちらから生まれたのかも私には全く分からないのですが・・・。)

特に、エンシェント・ワンの(最期を含む)いくつかのセリフには、個人的にはとても感じ入るものがありました。

あと、エンドロールに美しい曼荼羅の映像が次々と流れてくる場面があります。
自分のこころから自然に湧き出てくる曼荼羅と意味合いは少し異なるとしても、「ただ見ているだけ」でも、個人的には心落ち着くなにかを感じずにはいられませんでした。
これから映画に行かれる方はぜひ、最後まで席を立たずに、大画面でその映像美を楽しんでみてはいかがでしょうか。

‟それ”は、今日のブログのタイトルである「ただ一つのもの」の象徴です。

見逃すのはもったいないなと思います。



【参考文献】
C・G・ユング『結合の神秘 1 ユング・コレクション (5) [単行本]』 人文書院(1995-08)
『老子』 2013年8月 (100分 de 名著) [ムック] NHK出版(2013-07-25)
C・G・ユング『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]』 海鳴社(1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)


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壁の向こう

今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価が
なされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、
いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)


私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だ
ストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこう
と思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む
機会はないままでした。

しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、
「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、
ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。

私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい
「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。


その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で
壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前
このブログでも取り上げた
、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。



しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、
ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、
文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが
味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。

壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。

壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」
おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)


そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、
「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います。



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"
自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、
「私」を保つことが出来ていたのでしょう。

一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、
あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。

そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、
改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた
未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、
あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、
その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。

もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。


「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や
 氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと
  思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                               『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。
                                               【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、
その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせて
くれようとしているように思われます。

そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。

現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると
感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせる
ことによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                              【河合隼雄】


『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、
多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。




さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。




心の有り様

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もう10月・・・。
中秋の名月も過ぎてしまい、日に日に秋の深まりを感じます。

今年の夏休みも、なかなか「静かに腰を据えて」とはなりませんでした。
ずっと、この場で書きたいことは色々と頭に浮かびつつも、結局は手つかず状態。
でも、今はそれで良し、と思うことにしています。


純粋にしたいことと、やっておかなければいけないと思うこと。

どちらも捨てがたい、それは決して強制ではなく自分自身の気持ちで、その自覚があってもなお、簡単に折り合いがつくものではありませんが、揺れた時には、「葛藤保持力」(河合隼雄先生が表現された深い意味の言葉です)の一言が、いつの頃からでしょうか、自然に頭に浮かんでくるようになりました。

そうすると、少し気持ちにゆとりが生まれてきて、多少なりとも"揺れていること自体"を受け入れられるようになります。
(おかげで記事の更新はさらに遅れますが・・・)



そもそも人間は、その根本的な存在原理として「矛盾を抱えた葛藤する生きもの」なのです。
そのことを理解できれば、「葛藤保持力」を実践する上での支えとなります。

人が「有る」こと自体が、大きな矛盾を抱えていることについては、河合隼雄先生はじめ、このブログでよく取り上げる賢者たちも、みな同様に指摘している哲学的な命題です。

生きている限り決して逃れることのできない矛盾の意味について知ることが出来れば、それは、
主観的な揺れを客観的に受け止める静かな力となり、沸き起こって来る情動を、無理に抑え込む
のではなく、かといって無暗に振り回されるのでもなく、「そのまま」にしておける、というコントロールが
(いくらかは)できるようになるのではないかと思います。

葛藤自体をすぐに、安易に、解消しようとせず、「そのまま」にして抱える。葛藤保持力。


 
人という存在がそもそも「矛盾」していることについては、「心の有り様」を熟慮することが不可欠と
なります。


意識というものがなければ実際上世界はない。

世界は心に意識され、反映され、表わされてはじめて存在する。
意識は存在の一条件なのである。                  
                                               
『人格の発展』

パラドキシカルな性質は、全体性が一部は人間の意識から、一部は無意識からなっていると
いう事実に照応している。                           
                                             『心理学と錬金術』
                                        
                                                【C・G・ユング】


明らかになることは、力の概念が二つの力のなかへ二重化されて、現実的になるということ、そしていかにしてそうなるかということである。
これら二つの力は、自分だけで存在するものとして、現に在る

悟性と物の内面という二つの極を結び合わせる媒介〔媒語〕は、力の展開された有であり、
この有は、これから後は、悟性自身にとり消え去るものである。
だから、この有がつまり現象なのである。

一般者は、物の内面をなすものであり、その内面は、二つの力のたわむれが自己自身に帰る
〔反照する〕ことである。
                                        
『精神現象学』 【ヘーゲル】


世界は絶対矛盾的自己同一
として、自己自身を超えたものにおいて自己同一を有ち、
我々は超越的一者に対することによって個物なる
が故に、我々は個物的なれ ばなるほど、
現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を超えて、反省的であり、思惟的で
あるのである。

                                 
『絶対矛盾的自己同一』  【西田幾多郎】


独坐大雄峯は根本的無分別の世界である。
絶対が相対にあるところがある。
が、無分別が分別になっただけではまだ十全でない。
ここに批判的なものがなくてはならぬ。
無分別と分別の世界の交加、相即ともいうべき、もう一つの働きが出なくては、
事の始末がつかぬ。
ここが丈すなわち打つ心であります。

(前略)
いわゆる阿轆轆地に転じなければならぬ。
そして一たび転ずれば必ず両頭に走るのです。   
転ずるというとき無分別が分別になる。
無分別が転ずれば両頭に走るようになるのだから、ここに是非善悪の世界が出て来る
有無の世界が出て来る。

                                     
 『無心ということ』 【鈴木大拙】
  
          
有名な哲学者、カントもこのように述べています。


私たちの認識がすべて経験をもってはじまるということについては、まったく疑いの余地は
ない。

私たちのうちに生じるいかなる認識も、時間的には経験に先立つものではなく、認識はすべて
経験をもってはじまるのである。
しかし私たちの認識がすべて経験をもってはじまるにしても、だからといって、私たちの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。

                                             『純粋理性批判』 


夏目漱石も、(作品を読めば疑う余地はありませんが)「無意識」はもちろんのこと、「心の有り様」を
知っていたことがよく分かります。


普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続
して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。

(中略)すると煎じ詰めたところが私もなければ貴所方(あなたがた)もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。

通俗の考えを離れて物我の世界を見た所では、物が自分から独立して現存しているという事も
いえず、自分が物を離れて生存しているという事も申されない。
換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、
いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。
(中略)だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に命というのであります。

甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときは既に甲は意識しておらん
訳です。
それにもかかわらず甲と乙とを区別する事が出来るならば、明瞭なる乙の意識の下には、
比較的不明瞭かは知らぬが、やはり甲の意識が存在している
と見做さなければ
なりません。

意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。
向後どこまで分化と統一が行われるか殆んど想像がつかない。
                                                    
                                           『文芸の哲学的基礎』


人間は、無意識から意識を区別することで、自他を含めた"世界"を認知できるようになります。
意識が有るからこそ、無意識を知る〔反照する〕
ことも可能となります。

そして、この「心の有り様」が矛盾(二律背反)なのです。


意識は自己自身に対している。

それは、区別されていないものを区別することである。
言いかえれば、自己意識である。
私は私を私自身から区別する。
そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している
〔無媒介に私にとってある〕。

一つの自己意識がもう一つの自己意識に対しているのである。
こうして初めて、自己意識は事実上存在していることになる。

自己意識に対しては別の自己意識が在る。
つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。

二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめると
いうふうに規定されている。

                                         『精神現象学』 【ヘーゲル】


表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、
知るものと知られるものとが一であるのである。

何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、
自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。


表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、
真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。

                                         『デカルト哲学について』


精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。

                                              
                                                『善の研究』

                                               【西田幾多郎】



カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、
人間というものがこういうものだから致し方ない
と思っています。

人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。
                            
                            
 『カウンセリングの実際問題』 【河合隼雄】

「心の有り様」を考えれば、 まさにそこに向き合うカウンセリングについても、一筋縄ではいかない
ことは「致し方ない」のだと納得できます。




日常の様々な場面で大小の葛藤が生じるのは人の世の常だと思いますが、その葛藤を
"とりあえず"ですぐに解消しようとするのではなく、「保持する意味」については、今回は下記の引用に留めることにして、次の記事で改めて触れていきたいと思います。



悩みや問題があるのが問題なのではなくて、問題があるのにちゃんと悩んだり迷ったりしない
ことが
問題なんです。
迷いを持ちこたえる力は大事です。                                  
                                   『こころの子育て』 【河合隼雄】


個性化プロセスによって私が意味するのは(中略)、二つの基本的な心的事実の間の
葛藤から
生まれてくる、発展の過程、ないしは経過である。

                                            【C・G・ユング】
                                              

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。

実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、
この衝突の際においてである。

分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる。


我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と
一致するに従って幸福となる
のである。


                                    『善の研究』 【西田幾多郎】



【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
C・G・ユング 『心理学と錬金術 (2) [単行本]』 人文書院(1976-10-01)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)
西田幾多郎 『絶対矛盾的自己同一 [Kindle版] 』(2012-10-01)
鈴木大拙 『無心ということ (角川ソフィア文庫) [文庫] 』  角川学芸出版(2007-09-22)
竹内 昭 『哲学案内 [単行本] 』 梓出版社(2004-04)   
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)
西田幾多郎 『デカルト哲学について [Kindle版]』(2012-10-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)
河合隼雄 『Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [文庫]』 朝日新聞社
 (2001-09)


こころの距離

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前回記事で触れた、『Dr.倫太郎』、続けて視聴しています。

TVドラマなのであくまでも“フィクション”として観ること、現実との相違があることは当たり前として、それでも、こういった内容の“物語”が今、多くの人の目に触れることはひとつの機会になるのではないかと、個人的にはそう感じながら毎回楽しみに観ています。

 

倫太郎の患者への関わり方など、たしかに色々と突っ込みどころはあるとしても、そういった見かけや設定という外枠のことではなく、本質的な部分で、観ている側の心に何か響いてくるものがあることが「良い物語」の条件であり、それは小説でも映画でもTVドラマでも、同じことなのだろうと思います。

(と言いつつ、一般的にはあまり気づかれないようなところで、実は緻密な作り方がされている場面も見受けられます。例えば、夢乃が一頭の馬を箱庭の中に置いたシーン。その解釈を倫太郎もドラマの中で語っていましたが、それがなぜ“馬”なのかという点にもきちんとした意味が含まれていると、私は思いました。

以前にこのサイトでご紹介した映画『危険なメソッド』の中でも、ユングが自分の夢に出てきた馬についてフロイトと語り合っているシーンがあります。余談ですが、私の夢にも馬が出てきたことがあります。

ユングは自身の論文、『夢分析の実践的使用』において、ある患者の夢の解釈をする上で、“馬”の象徴性について次のように論じています。

「馬」は神話や民話に広く流布する元型である。動物としての非・人間的なこころ、人間に近い動物的側面、つまり無意識を表象する。

これが、民話で馬がときどきヴィジョンを見たり、声を聞いたり、話をしたりする理由である。

家畜としては、馬は母親元型と近い関係にある。

人間よりも下等な動物として、それは身体のより本能的な領域とそこから生じる動物的衝動を表象する。
(後略)

(このドラマの監修に、専門的知識を持った先生方がきちんと携わっておられることが伝わってきます。)

 


上記のような点を読み解いたり再確認したりする面白さがあるのはもちろん、でも何より、このドラマを通じて、現実の臨床現場において新しく話題や議題が提起されたり、「こころの世界」を日頃全く意識していない人たちに、僅かでも何かの興味が生れるとしたら、“倫太郎の物語”はただのフィクションではなくなってくるのだろうと思います。


「こころの世界」は例外なく誰しもが自分の内に持っているものであり、そこを全く無視して生きるよりは、「興味を持つこと、知ること」により、生き方を根本から改善できる可能性が出てくるわけですが、でも実際には、「向き合わざるを得ない状況」に追い込まれてやっと、そこに目を向け始めるケースがほとんどではないでしょうか。

 

ユングや河合隼雄先生が言われている「時」のことを考えると、個々に自分の内に向き合う最適な「時」があって、それは確かに“自然にもたらされるもの”なのかもしれませんが、一方、のっぴきならない状態になって初めて自分の内側に目を向けたその時が、もう手遅れになっていることもあります。

若しくは、向き合うことすらないまま、最悪の結果を迎えることだって十分あり得ます。

追い込まれてから知るのでは、もう遅すぎる場合が実際にあるのです。

 

だから“今”、知っていこうとすることだって、それは、誰にとってもその人なりの意味が出てくるのだろうと思います。

“今”既に、「こころの世界」から大きな影響を知らず知らず受けていて、自分でも全く気付かないうちに、その影響によって何かしらの生きづらさを抱えている人も決して少なくはないはずです。

もっと言えば、無意識からの影響を全く受けずに生きている人なんて、この世には存在しないからです。


もちろん、闇雲に知ろうとする必要はないし、“面白半分”で続けられるようなものでもありませんから(倫太郎の言葉を借りるとすれば、遅かれ早かれ“覚悟”が必要になってくると思います。)、あえてそんなことをしなくても、平穏無事に毎日を送れているのであればそれに越したことはありません。

ただ、何かで行き詰っている場合、その原因が外側の世界ではなく、自分の内側にあるのかもしれないと気づくことによって、本当に「変わり始める」第一歩になる場合は少なくないのです。


 

ドラマを通して気になった点をもう一つ。

ここまでの放送で、夢乃にしろ、倫太郎にしろ、その他倫太郎の患者たちにしろ、良きにつけ悪しきにつけ、「母と子」の関わりが深く浅く、色んなパターンで描かれています。

人格が形成され、それが維持されるうえにおいて、母が子に与える(与えた)影響の大きさと深さが、暗喩的にドラマの中でも表現されています。


心理療法の世界では、「親子」の関係を無視して進むことはまず有り得ないわけですが、(来談した際の主訴が始めは全く違うことであっても、一定期間面接を続けていれば、どこかの時点で必ず“親”のことが出てきます。やはりそこが“ベース”なのです。)

ひとりの人が一生を生きていく上において、それほど、親(特に母親)から受けた影響は大きいのだと、学問的にはもちろん、自他の体験を通して、納得せずにはいられません。

そしてその影響の大きさと深さに、100%気づけている人はまずいないと思います。

河合隼雄先生曰く、「井戸掘り」をしなければ、それはなかなか気づけるようなものではないからです。

 


『Dr.倫太郎』を通じて、何か「こころの世界」に興味が湧いて、現実のケースなり心理学の知識なりを、個々が自分で色々と(是も非も含めて)探索していくきっかけになれば(心理学に関する良書も色々と出ていますから、その気になれば、自分の興味の度合に合わせて、いくらでも“知識”を取り入れていくことはできます。知識から、実際の「井戸掘り」に入っていく場合もあると思います。推薦図書については、改めて記事にしたいと思います。)、“日野先生”の功績は、フィクションの枠を超えたものになってくるのでしょう。



さて、倫太郎と夢乃の二人には、この先、さらに新たな展開が待っている感じですね。

転移は起こらない方がやりやすいと思います。起こってしまう場合にそれを取り扱うことは、なかなかむずかしいことです。よほどカウンセラーが体験と訓練をつんでいなければできないことです。


カウンセリングというのは厳しい関係です。クライエントは自分の力で立ち上がるといっていますが、自分の力で立ち上がることほど、人間にとって厳しいものはありません。


私は「あなたは他人の深い問題を聴いていながら、どうしてつきまとわれないのだ」と聞かれることがあります。(中略)強さがカウンセラーには必要です。

よほど自分を知っているつもりでも、転移と逆転移のなかに知らず知らずのうちに巻きこまれていくような事柄が起こるわけです。


いわば、素人の喜びそうな恋愛に似たような感情というものが、ほとんど愛と関係のないものだということを知れば知るほど、そういうこと(陽性転移)があまり嬉しくなくなります。端的にいって、深いけれど親しくない関係、親しくないが、それゆえにこそ深い関係に入りこめるという事実をよく知るべきです。


クライエントからの陽性の転移に喜んでしまって逆転移を起こし、そのために、そこから逃げ出るための無用の苦しみをクライエントに与えてしまうことは、カウンセラーとして厳しく自戒せねばならぬところです。


たしかに逆転移をあまりにも恐れていては、カウンセリングはできません。「傷つくことによって癒す」ことは治療の根本とさえいえます。しかし、カウンセラーとしても、自分を一人の生きた人間として、その弱さや力の限界を知るかぎり、限界を破ることの恐ろしさをあくまでも心にとめておくべきです。


われわれは限界を守ったためにうまくゆかないにしても、たかだかクライエントにしばらく恨まれる位がおちですが、限界を破ったために生じる誤ちはクライエントの命を奪うことにさえなりかねないのです。


クライエントとカウンセラーの深い関係が確立し、クライエントの力も強いときは、限界の問題に神経質になる必要はありません。少し位の限界を破っても、それによってクライエントが強い転移を起こすこともありませんから。


転移の問題は非常に複雑で困難なことです。カウンセリングにおいては、カウンセラー個人の人間としての限界があることは大切なことです。

カウンセラーは、(中略)自分の限界をよく心得ておくべきです。

                                             【河合隼雄】


「境界を超えても、自分は戻ってこれる」と言っていた倫太郎。

これからその実力の見せ場となるのか、自身への過信と無防備さを悔やむことになるのか。

学びにしつつ、見届けつつ。

これからの放送も楽しみです。


【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)

現代の寓話

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子どもの時、母によく映画館に連れて行ってもらったことが影響しているのか、
私は昔から映画が
大好きで、今でも気になる作品が出たときには、でき得る限り映画館に足を運んで鑑賞するように
しています。

特に心理の世界に飛び込んでからは、「ただの娯楽」ではなくなってしまい、時には映画鑑賞に
"義務感"すら持っているときがあります。

こんな話をすると、?と思われる方もいるかもしれませんが、実際ここ数年は、「観たい!」という
100%純粋な欲求よりも、「これは観ておくべきかな」と"感じて"、行くことのほうが多いのです。

そして事前に"感じた"ことがドンピシャで、鑑賞後には映画の内容を超えた、個人的にとても大きな
ものを得ることもままあります。
それは、シンクロニシティ、無意識への"確信"が、私の中で揺るぎない経験値となって積み重なって
いくことにつながっています。


また、映画館で映画を観るということ自体、私にとってはどこか、カウンセリングにも通じるような気が
しています。
その時間、その場所は、限定された「非日常」の別世界になるからです。



河合隼雄先生も、「いろんな体験をすることがカウンセラーとしての勉強となる」と、ご自身の著書の
中で語られています。
「心理学の勉強だけするのではなくて、小説や神話や児童文学を読んだり、映画を観たり、
そういうことがみんな関係してくる。」と。


また、晩年フロイトにも師事し、あのニーチェや詩人のリルケなど、著名な思想家たちに大きな影響を
与え、波乱万丈、まさに"個性"を生きた魅惑の女性、 ルー・アンドレアス・ザロメも、「映画」について
このように語っています。

たとえそれ(映画)が単に表面的な娯楽にすぎないとしても、それは映像やフォルムや印象の
富でわたしたちの感覚をゆたかにしてくれます。
上記著者のH・F・ペータースはこのことについて、「彼女は、しだいに単調になってゆく労働が内面的な疲弊の原因となって、もっと需要の多い芸術型式がもはや大衆の要求をみたしえなくなった世界に
おいて、映画は大きな未来をもつであろうと予言した。」と書いていますが、前記のルーの言葉といい、
私も
本当にそうだと思います。
少なくとも、私にとってはルーの「予言」は的中しています。

ルーが生きた時代とは比べ物にならないほど、現代の映像技術は革新を遂げ、今や架空の世界すら映画の中では違和感のない「現実」になっていますし、なにより映像に限らず、そこで展開される
物語は、観ている側に疑似体験として迫ってきて、ルーの言ったとおり、
「わたしたちの感覚をゆたかにしてくれ」るからです。


昇華の作用だけ取り上げてみても、それは、とても意味のあることではないでしょうか。
(たとえば、ホラーやサスペンスといった作品が決して廃れないことも、そういった作品が負っている
ものは大きいような気がします。)




さて、つい先日もある作品が、まさしく私の感覚を豊かにしてくれました。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

(またなんと意味深なサブタイトルでしょうか!)

この作品だけでも、表現したいことが山ほど出てくるのですが大要だけ。

インタビュー映像の中で、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督は、「観客にはこの作品を、主人公リーガンの目を通して体験してほしい」、そして「小さな"バードマン"は誰の中にも存在する」と語っています。

また主人公を演じた マイケル・キートンは、「彼は精神を病むと同時に、自己実現の機会を得たんだ。」とも語っています。(すごい!)

『バードマン』への評価は、この二人の言葉(の意味)に共感でき、映画を観ることで実際に自分の目を通して「体験」できるかによって、大きく分かれてしまうのかもしれません・・・。

ラストシーンについてのみ、私なりの解釈を。
私は、リーガンは新しい鼻をつけ(ペルソナを得て)、20年間くすぶり続けていた日々と"バードマン"に別れを告げ、新しい世界に羽ばたいていったんだと思います。
そしてその新たな道の途上で、更なる自己実現に向けて、別の"バードマン"に出会うこともあるのかもしれません。
リーガンの旅はまだ終わっていない、今から「新しい舞台に立つ」と信じたいと思いました。



最近気になった作品をもう一つ挙げます。
といってもこちらは映画ではなくTVドラマです。

先週から日テレで、『Dr.倫太郎』というドラマが始まりました。
観られた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私は、このドラマが始まることを直前にたまたま知り、「精神科医が主人公」、「脚本が中園ミホさん」という点にアンテナが立って、第一回放送を視聴しました。
中園ミホさんが過去に書かれたドラマ、『ドクターX』では、ちょっと面白いことがあって、実は自分の分析でも取り上げたことがありました。)

そして、久しぶりに"連続"ドラマを観ることに決めました。

第一回放送内容だけでも考えさせられる点があり、個人的にはストーリーに強い関心が湧いたので
少し調べてみたところ、原案となった著作があるようです。


セラピューティック・ラブ [単行本]

今のところ読む予定はありませんが、上記の内容紹介をチラ見したところ、どうも「転移と逆転移」
の話になっていくのかな、という感じです。


ドラマの中で、倫太郎は逆転移について、「自分にはあり得ない」という自信をチラつかせながら雄弁に語っている場面がありましたが、今後、自我(頭)ではコントロールできない強烈なこころの渦に
巻き込まれていくのかもしれません・・・!?


「倫太郎の物語」に沿って、私も色々と感じたり考えたり、勉強できればなと期待しています。


心理療法というのは、単なる人生相談ではなく、人間の心の深いところにまで入りこんで
いきますから、下手にやると、クライエントはおろか、治療者もおかしくなってしまうことにも
なりかねません。

それだけ危険をともないますので、そういうことを避けるためにも、現実的でセレモニー的な枠を
はめておく必要があります。        


自分なりの枠組みをもっていないと、心理療法家のほうがまいってしまいます。
しかも、人の役に立ちたいという思いが強い人ほど、このことに気をつけなければ
ならないでしょう。          

                                      【河合隼雄】





「倫太郎の物語」に沿って、精神分析やカウンセリング、こころの世界に関する認知が広がることも
期待しています。




現代の寓話は、決して色あせない文字の独特の世界とは別に、素晴らしい映画やドラマの中でも、
息づいているような気がします。




普遍と個別

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クーパーはマーフとその場所でその時間に通じ合った。
クーパーはそれを知っていた。
マーフはそれを知っていた。



前回記事で取り上げた映画 『インターステラー』
かなり時機を逸した、そして鑑賞した方にしか分からない内容となってしまいますが、今日は前回に
引き続きこの映画を題材に書いていこうと思います。


主人公クーパーの生死にかかわるクライマックスの場面。
それは突如、クーパーと娘のマーフそれぞれが違う時空間に居ながら接触するという、
(私は)想定していなかったシーンへと進んでいきます。

そしてそこで、クーパーによってマーフに伝えられた情報を、マーフが理論化、さらに実用化することによって、結果的に人類は救われました。

『インターステラー』での世界(時空)は、いわゆる通常の時系列の枠を大きく逸脱しているので、
鑑賞している側も、描かれたシーンの因果関係を頭の中で整理することを要求されますが、
バラバラになっていたピースがきちんとはまった瞬間、マーフの子ども時代の"奇妙なオカルト現象"のその意味と、父娘のまさに時空を超えた絆、愛情が、胸に自然な感動を呼び起こしてくれます。

それは、その体験が特殊なものであるからこその「特別な感動」で、マーフの(一連の)体験を
"想像できればできるほど"、自分の中で強烈なものとなってくると思います。


ラストシーン。
父と(より年老いた)娘がこっそりと語り合う場面で、人類の危機を救ったマーフは、その智慧をどこから授かったか周りの人たちにいくら訴えても信じてもらえなかったこと、そして結果的に
「"私"の功績に なったわ」と、苦笑いしながら語っていました。

その"体験"は、クーパーとマーフという"当事者たち"にしか分かり合えない「秘め事」となりました。
(そうならざるを得ませんでした)
しかしその「二人だけの秘め事」により、物語の中では、人類全体が救われることとなったのです。



マーフとクーパーの体験を理解してくれる人は誰もいませんでしたが(その出来事を再現するという
科学的証明は不可能でしたが)、それが人類救済につながったことは、(映画の物語としては)
事実でした。





普遍的真理が非常に「限定的に」「個別的に」もたらされることについては、ユングも西田幾多郎も、
そして、(哲学者の)ホワイトヘッドやヘーゲルも指摘しています。


それは、ユング心理学の概念である「シンクロニシティ」にも非常に深い関連があり、因果律では説明ができない、(われわれの意識が作り上げた)一般的な「時間と空間」の捉え方では理解できない、
そのような「心的真理があるのだ」とユングは述べています。



哲学者のホワイトヘッドは次のように語っています。

われわれが直接経験の事柄を表現しようとするたびに見出すのは、
その理解は、それ自身を越えて、その同時的なものに、その過去に、その未来に
そして その限定性を示す種々の普遍的なものに、われわれを導いていく ということである。
しかしこれらの普遍的なものは、まさしくその普遍性によって、
さまざまなタイプの限定性を伴った 他の事実の潜勢態を体現している。

科学が情緒を問題にするとき、当の情緒は知覚対象であって、直接的な情念ではない。
他人の情緒であって、われわれ自身のものではない。
少なくとも回想におけるわれわれ自身の情緒であって、直接性におけるそれではない。

強調されるべき点は、経験される事物の、そして経験の働きの、
執拗な特殊性
 である。

「その狼がその羊をその場所でその時間に喰い殺した。
 狼はそれを知っていた。
 羊はそれを知っていた。
 そして黒禿鷹はそれを知っていた。」     
                                  【 A.N.ホワイドヘッド】

「われわれ自身のものではない」「他人の情緒」を、直接的に100%知ることは不可能ですが、
当人にしかわからないというその「限定的経験」という「特殊性」こそが、実は「普遍的なものに、
われわれを導いていく」のだということ。
パラドックス。

「その場所でその時間にいた"狼と羊とそれを見ていた黒禿鷹"」にしか、知り得ない
「直接経験の事柄」というものがある。
それは主客合一、一般的な時空の概念を越えた、古今東西の先人たちがさまざまな表現で
表している状態、特殊的な体験です。




ホワイトヘッドが「直接経験」と現わした内容を、西田幾多郎も同じく、
「直接経験」「純粋経験」 などと表現しています。

まず、「時間」について、前回記事に書いた、ユングの時空間に関する考え方、
ひいては相対性理論にも通じる考えを次のように記しています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには
先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。
然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。
されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に
由って成立するのである。

意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬ
ことになる。

                                      【西田幾多郎】


さらに「物理と心理」についても、次のように論及しています。

(一般的な)物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。

統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、(略)物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。
(ユングの類心的元型に通ずる)

我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。
ただ我々をして物理其物の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。
識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。

                                      【西田幾多郎】

先ずは「無知の知」の自覚が必要のようです。



そして、"普遍と個別"については"精神の発展"であるとしています。

今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わし来るのであるということができる。

精神の発展において始めて事実成立の根本的性質が現れてくるのである。
ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。

合目的なる自然が個々の分立により統合にすすみ、階段を踏んで己が真意を発揮する
見るのが至当である。

我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合する
ばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合する
のである。
                                      【西田幾多郎】

個々の人間が、「真の自己を知れば」「神意と冥合する」というのです。
前記のホワイトヘッドの「直接経験の事柄」も、同じと見るのが妥当なようです。




そしてヘーゲルは、"精神の発展"、 "普遍と個別"について 、『精神現象学』の中で延々と 論じて
いますが、今日は関連する部分の一つを挙げてみます。

個人の行為の結果は、現実としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、
個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの個々の個別性として、
自らを保とうとしている。

この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。
すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式を
もっているにすぎない。
つまり、その特殊な内容が、そのままで一般的なものと認めらるべきである、というのである。

だから、この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。
むしろ、自分たちとは別の人のこころが、実現されていることに気がつく。

(略)
意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気づく。
意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。

                                       【ヘーゲル】




最後にユングの主張についてです。

前回記事で取り上げたとおり、ユングは、空間と時間について、それらは「物体の単なる見かけ上の
属性にすぎず」、「心的条件によってそれらが相対化される」可能性は有るとし、それは
「心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる」と考えました。

そして、ユングの概念として有名な共時性について、その現象の基本的な要素は、
「非因果性、相対的な同時性、意味の一致」の三つであるとし、この原理を心理的なものと
物理的なものとの間の第三のものとすることによって説明ができるとしました。

私は根底的な元型の本性を確立できるような、きわめて多くの共時的出来事を個人的に
見てきました。
元型それ自体は、類心的、つまり、先験的であり、こうして、数や空間や時間のカテゴリーを
超えています

つまり、それは統一性と不変性に近づくのです。
意識のカテゴリーから解放された場合、元型は、意味深い暗号(偶然の一致)の基盤になりうるといえるでしょう。 
                                      【C.G.ユング】

共時性は物理学における非連続性ほどにはわけのわからぬ、ないしは神秘的なものではない。ただ、因果律の卓越した力に対する深い信仰心によって、知的な困難が生じ、原因のない事象が存在し、また存在したということを考えられないこととしてしまうのである。

因果的な説明の欠如のために、意味のある配列として考えねばならなくなる。
しかしながら、(略)それらの「説明不可能性」は、その原因がわからないという事実によるのではなく、原因が知的な言葉では考えることすらできないことによる。

このことは、必然的に、空間と時間がその意味を失うか相対的なものになった場合のことである。というのは、そういう状況のもとでは空間と時間を連続体として前提している因果性が
もはや存在するとはいえなく、まったく考えられないものになるからである。

共時的現象を自然事象における特殊な部類として理解することを可能にするばかりでなく、
偶発性を、一部には永遠の昔から存在する普遍的な要因として、また 一部には、
時間とともに生ずる無数の個人的な創造行為の総計として、理解するのである。
                                   
                                             【C.G.ユング】 

狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない

狭義の共時性は一般の非因果的秩序性―すなわち観測者は一致の仲介者を認識できる
幸運な位置にある心的ならびに物理的過程における等価性―であるにすぎないという観点に、
私は実のところ傾いている。
                                       【C.G.ユング】




クーパーとマーフが体験したことを、他者に説明できず、よって理解もされなかったことは、それ自体
ひとつの「法則」だったのかもしれません。

科学者の説明法は知識の一方に偏したるものである。 

真の一般と個性とは相反する者でない、
個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる
                                      【西田幾多郎】

物理的にということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
                                            【C.G.ユング】 


でもそれが科学的に証明できない出来事であったにせよ、二人にとってはまぎれもない真実で、
結果的にそれは世界を変えることに繋がり、他者にも多大な影響を与えました。

そしてその物語は、けっして"ただのファンタジー"などではないのだと、私はそう感じました。


クーパーとマーフは、お互い(特にマーフは)長くて辛い時を経て再び繋がり、マーフは子供時代の
「あの出来事の意味」をやっと知ることができました。
大事なものが始めから布置されていたんですね。
マーフの“その時”の感動が伝わってくるようでした。



『インターステラー』
本当に色々と感じさせ、考えさせてくれる意味深い映画でした。

そして一見、荒唐無稽で私たちの日々の暮らしとは全くかけ離れた別世界のお話のようでありながら、でも実は、映画で"体現された"クーパーやマーフの生き方は、現実を生きる 私たちの課題でもある
「自己実現」、ユングのいう「個性化」について、(多くを)示唆してくれているようにも感じました。




最後に。
今日の記事を書いていて、こちらの映画の言葉が浮かんできました。

  生きねば。 
                           宮崎駿監督作品 『風立ちぬ』

意識を持ち世界を認知できている、「存在している」ことの意味、「自己実現」。
短い言葉に秘められた重みを、改めて考えずにはいられません。





【参考文献】
A.N.ホワイトヘッド 『ホワイトヘッド著作集 第10巻 過程と実在 (上) [単行本]』 松籟社(1984-08)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)

物理は心理 (!?)

昨年最後に鑑賞した映画 『インターステラー』

過去に『ダークナイト』や『インセプション』といった作品を、世に送り出しているノーラン監督の最新作ですから、観に行かないわけにはいきません。
そして当日。
3時間近い長い上映時間が終わり、映画館を後にする興奮冷めやらぬ私にとって、『インターステラー』はノーラン作品のトップに輝く映画となっていました。


そしてその日の夜、書斎兼仕事場にしている部屋で平積みにされている未読本の中から、一冊の本を引っ張り出してきました。


アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]


アインシュタインの相対性理論。
この言葉自体はあまりにも有名ですし、私も過去に読んだアインシュタインの伝記(といっても児童向けの漫画。でも今考えるとこれがなかなか重厚な内容でしたが。)で何となくは触れたことがありました。
でももちろん、「結局は時間と空間のこと?」ぐらいの上澄みだけの理解(?)で、ただアインシュタインがおこなったとされる「思考実験(頭の中の空想で実験した)」というエピソードだけは強く印象に残っていました。

Eテレの『100分de名著 アインシュタイン 相対性理論』を観たときも、その理論は相当難解で、複雑な数式などを理解していなければ全貌を把握し切れるものではないことを改めて感じつつ、でも放送内容自体は一般向けに噛み砕いて解説されていたので、それにより少し"知った"ことで逆に頭に?マークがついた点も含めて非常に興味が湧きました。

そこで、少しでももっと理解を深めたいと上記のテキストを購入したのですが、結局その時は他に読んでいた本に時間を取られ、一度パラパラッとめくられた後はそのまま、「平積みグループ」に埋もれたままになっていたのです。



さて、私がどうして、『インターステラー』を観た日を境に、埋もれていたその本に手を伸ばしたか、同映画を既にご観になった方はお分かりだと思います。

上記『相対性理論』の中に書かれていた内容、世界は、『インターステラー』でまさに映像化されていました(もちろん映画には"まだ"ファンタジーとしての要素も含まれていますが)。
動画で得たそのリアルなイメージに、改めてきちんと手に取った本(理論)の内容が相乗効果となり、まさに未知の世界が自分の中に広がってくるようで、「スゴイなー」とワクワクが止まらなくなりました。

ノーラン監督は映画製作にあたり「科学的正確さを目指し」、「実際の可能性を検証したい」とし、理論物理学者のキップ・ソーン氏の協力を受け、ストーリーには「実際の科学がとても深く盛り込まれ」ているとのこと。
(映画『インターステラー』 オフィシャルサイト スペシャル映像 より)

自身の頭で「相対性理論」に少しでも触れてみると、確かに映画のあの世界観は、決して荒唐無稽なものではないことが腑に落ちるのではないかと思います。


 時間と空間は縮む。
 「時間」は絶対ではない。
 動いているものの時間は遅れる。
 「空間」も絶対ではない。
 重力による時間の遅れ。

これらは全て、相対性理論が示していることです。


 相対性理論の描き出す世界は、(略)日常生活の世界とは大きく異なり奇妙な世界です。
 しかし、この奇妙な世界が、実は私たちの住むこの世界の真実なのです。      
                                               【佐藤勝彦】
                                             
私たちが地球上で送っている日常、普段の"常識"で「当然」と思っている世界が、実は「絶対」ではないのだということが、物理学(科学)の世界ではすでに"常識"となっていたんですね。


一般相対性理論に示された、時空の曲がりと物質のエネルギーの関係を示す「アインシュタイン方程式」を解いていくと、ある場合には時間が「ループ」になっている答えが存在するのです。

未来へどんどん進んでいくと、いつの間にか過去につながり、さらに進むと現在に再び戻るという、ループ状の時間の流れが出現することが理論上はあるのです。

物理学者はこの世界は物理法則という論理だった法則によって動いているのだという信念を持っていますが、物理法則の中でも特に時間や空間の物理学である相対性理論が不条理なことが起こることを許してしまっているのです。                      
                                               【佐藤勝彦】




ここでユングが、ノーベル物理学賞を受賞したスイスの物理学者(ヴォルフガング・エルンスト・パウリ)との共著、『自然現象と心の構造』の中で「空間と時間」について記した内容を次に挙げます。

人間が元来持っている世界観では、未開人に見られるように、空間と時間は非常に不安定な存在である。それらは、主として測定の導入のお蔭で、精神発達の過程においてのみ、「固定」観念になったにすぎない。

それら自身においては、空間と時間は、無から成立している。それらは、意識的精神の分別の活動から生まれて実体化した概念であり、運動する物体の行動を記述するのに不可欠な座標をなしている。

もし空間と時間が運動する物体の単なる見かけ上の属性にすぎず、観察者の知的な欲求によって造られたものであるなら、心的条件によってそれらが相対化されることは、もはや驚くべきことではなく、可能性の範囲にもたらされることになる。

この可能性は、心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる。

                                               【C・G・ユング】


アインシュタインの相対性理論でも、時間や空間の認識を、光の速度を絶対的なものとして捉え、その動きやスピードと矛盾がでないよう再構築していくのが基本ですが、たとえば動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるのです。

「止まっている人から見ると、動いているものの長さは縮んで見える」
「空間(長さ)は、ものの動きや時間と同様に、唯一絶対のものではなく、相対的に捉えるべきもので、誰からも同じに見える唯一の尺度というものは存在しない」    

いかに、外的な事象を認知する上において、各々が置かれている条件(心的条件)が大きく関わっているか、心理学とは対極を為すともいえる物理学によって、ある意味認められているのだと私は思いました。

   
空間と時間は影響しあっているとはいうものの、これも「時間の遅れ」や「長さの縮み」と同様で、普段の私たちの生活の中ではその影響を感じることはありません。
(略)差は、あまりに小さすぎるために、普段は気づくことがないというわけです。
                                               【佐藤勝彦】    
私たちは「気づいていない」だけなんだと・・・。



西田幾多郎がその点について、簡潔にダイレクトに次のように言っています。

我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。
即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者(ユングの説に通じます)を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。

深く共感します。


今日はこのへんで。
『インターステラー』にも絡んでもう少し思ったことがあるのですが、それは近いうちに次の記事として必ず書いてみたいと思っています。


○●○●○●○●○

今日取り上げたEテレの「100分de名著」の新春SP、「100分de日本人論」がとても面白かったので、ちょっとご紹介です。
論者の一人である人類学者の中沢新一さんが「今日の話ずーっと(語り合っているのは)一貫してるんだけど、"無意識"なんですよ」と番組内でおっしゃられたように、まさに「無意識」について様々な角度から考えることができます。
このブログで前回取り上げた鈴木大拙の『日本的霊性』、そして河合隼雄先生の『中空構造 日本の深層』が、まさに名著として取り上げられています!

1/25に再放送があるようなので、まだ観られていない方で、「無意識」に興味のある方は是非。



もちろん『インターステラー』もおススメします。
あれは大画面で観るべきです!



【参考文献】
佐藤勝彦 『アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]』 
 NHK出版  (2012/10/25)
C・G・ユング W・パウリ 『 自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]
 海鳴社 (1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1979-10)



鈴木大拙

またしても前回記事から数か月が経ってしまい、「ぜひ、また続きを書きたいな」との思いにずっと変わりはなかったのですが、今日は、以前書いた記事に疑義が生じてしまったので、備忘録の意味でしたためます。


ここ数年、読みたい本があとからあとから出てくるので、私の読書スタイルは常に数冊併読なのですが、そんな中、ゆーっくりと読み進めていた著作があります。

無心ということ (角川ソフィア文庫)
鈴木 大拙
角川学芸出版
2007-09-22



鈴木大拙は、ユング同様、私が敬慕している哲学者の西田幾多郎とは ”加賀の三太郎” と称され、生涯の友であった偉大なる仏教者です。

(最近偶然見つけたのですが、こんな逸話もあったようです ↓ )


さて、この名著。
『無心ということ』を、じっくりと読み込んでいく中で、孟子について書かれた非常に興味深い内容が出てきました。

それは、「深き宗教的体験の閃めきが窺われる」心学の祖、石田梅厳の「都鄙問答 惟理問答の段」の引用で、孟子と告子の相違について論じられており、「これは
梅厳の哲学の中心をなすものである。」と鈴木大拙は評価しています。

 
 曰、孟子の性善と、告子が性に無善無不善と言は同じかるべし。
(中略)
孟子は是とし告子は非とするは如何なることぞ。

 答、是汝が不得の所なり。先告子が無善不善と云は、是思慮なり。(中略)
孟子の性善は直に天地なり。如何となれば人の寝入りたる時にても無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息に非ず。天地の陰陽が我体に出入りし形の動くは天地浩然の気なり。我と天地と渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。(中略)
其無心の陰陽が一たび動き一たび静なり、是を継者が善なりとの玉ふことなり。
此微妙の所と告子が云思慮と、一列にいはるべきや、大に異る所なり。
孟子の性善は生死を離れて天道なり、(中略)此は易(やすき)に似て難知(しりがたき)所なり。思慮を以て知らるる所にあらず。(中略)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(略)書は読めども、書の意味を知らず。*1
却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。(中略)


 人は全体一個の小天地なり。(中略)告子は是を不知。生滅にあづかる思慮を以て我性と思ふ。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば思慮なき天理に異るゆへなり。(中略)

渾然たる一理の性に至れる孟子*2 には異る所なり。


これを読むと、このブログで前に紹介した、夏目漱石の孟子論とはその内容がまるで逆なのです。
無為を為す(夏目漱石の老子論)


大雑把にざっくり分類するとこんな感じです。
老子(夏目漱石評)=孟子(石田梅厳評)
孟子(   〃    )=告子(   〃    )


夏目漱石の「相対を脱却して絶対の見識を立てた」老子と、石田梅厳の「渾然たる一理の性に至れる」*2 孟子、それぞれの論評のその意味するところは、同義であると私には思われます。

そうだとすると、もしかしたら漱石が、少なくとも孟子に関しては、(石田梅厳の言うところの)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(中略)書は読めども、書の意味を知らず。」*1
ということになる可能性すらあります。
(・・・でも、私は夏目漱石も大好きです)


漱石は、実は老子についても、以下のような批判をしています。
「(無為への)その悟入したる点を挙げて人を導くべきに、去はなくして劈頭より無為を説き不言を重んず。(中略)ただ、その無為に至るの過程を明示せざるを惜むのみ。」

私はこの点については以前から、疑問を持っていました。
「無為に至るの過程を明示」なんて、「(
老子の)その悟入したる点を挙げて人(他者)を導く」なんて、果たしてできるのだろうかと・・・。
そして、こうつぶやきました。



話を戻すと、思いがけず触れた孟子についての(私にとっての)新たな説に、「
私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、」と先述してはいたものの、ここに来て本当に分からなくなってしまいました・・・。

やはり何でも、「受け売り」はダメということでしょうか。
孟子についてもふりだしに戻って、「自らきちんと読む」ことから始めたいと思っています。



ここからは少し話題が変わって、「西田幾多郎と鈴木大拙」について。

以前、NHKで西田幾多郎の特集番組が放送された際、その中で西田幾多郎のたしかお孫さんにあたる方が出演されて、鈴木大拙について語っておられました。
西田幾多郎が亡くなった際、鈴木大拙が傍らで号泣していたそうです。両者の結び付きの深さが感じられて、とても印象深く心に響きました。
西田幾多郎も鈴木大拙も、 それぞれの著作の中で共に「宗教的体験」の重要性について語っていますが、互いにそのような稀有な体験の、全てではなくても根本的な何かを共有できる
、本当に希少で貴重な存在だったのかもしれないと、勝手に想像が膨らみました。

私が「鈴木大拙」を知ったのは、西田幾多郎の著作を読み始めてからだったのですが、その後、鈴木大拙はユングとも親交があったと知り、僅かな驚きとともに、どこか深く納得もできました。

それぞれの入り口は違えども、その「体験」には共通する点があること。
偉人3名の著書に目を通せば、その発見に心躍る感動が得られるのではないかと思います。



そして最後に。
『無心ということ』の中で、鈴木大拙は次のようにも述べています。

何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
無心の理論は、実に仏教思想の全体系を構成しているといってよい。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の心理を、自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。


仏教者 鈴木大拙、哲学者 西田幾多郎、そして心理学者 ユング。
各々の分野で高い見識を持ちつつ、その根底には、言葉も要らぬような深い分かち合いで通じていた、本物の天才たちなのだと思います。


【参考文献】
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)

無為を為す(夏目漱石の老子論)


Clouds./theaucitron
 

渦中では長く、過ぎれば短い、
ツインズの夏休みが終わって、あっという間に9月も半ば。

子供たちと、いつもより密着して過ごす40日の間、楽しくもありイライラもあり(笑)、そして、ココの記事の更新も頭の片隅では気になりつつ、でも結局は手つかずのまま、諸々の事柄の中で常にジレンマを感じながら過ごしたドタバタの暑い暑い夏でした。

そんなわけで、久しぶりにこうして腰を落ち着けてみると、「今年は季節にひとつの記事しか書いていないじゃないか」と、(書きたいのに書いていない)自分を鼻で笑ってやりたい気にもなりますが、久しぶりに思索とイメージに集中してみようと思います・・・。


前回記事で書いた、
「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること、自ら方向付けをしない、自然の流れに委ねる」

どれも(ココでは)同じ意味に捉えていただいていいわけですが、これらはすべて、過去の記事にも書きました“無為”と同義。
老子や荘子が説いた「無為自然」の生き方を表しています。

過去記事の「無為に過ごす」では、この無為が道教(タオ)、そしてユング心理学での「個性化」と深い関わりがあることを取り上げましたが、実は、哲学や禅の世界(もちろん「昔話やおとぎ話」、そして、ユングが自身の心理学の概念に相通ずるとして研究をした「錬金術」も然り)でも、切り口の違いや表現の差こそあれ、「根本の意味は同じ」であると捉えられる共通点を、それらの中に見出すことができるのです。


老子は、「人としての究極の生き方は“無為自然”な道のあり方である」と、説きました。

道家思想の祖と称される老子の教えは「道(タオ)」を説くところにありますが、この道(タオ)とは、「天地万物を生み出す造物主的な根拠、あるいは宇宙に一定の秩序をもたらす原理的な存在のこと」であり、この道の自然な展開に従う「無為を為す」ことによって、大成を期待できるとしています。

人は、「自分(→犲我″と読むと理解しやすくなります)の思いや考え」にそって多くを為すがばかりにかえって破滅し、功利を焦って失敗するのだから、無為であることこそ良い生き方である。
自らの行ないを無為自然に保つ“無為を為す”ことによってこそ、自然の霊妙たるはたらき、摂理による、あるがままの生き方を実現できるようになる。
と、説いたのです。


老子の思想は、一般的な処世法、政治の術のあり方、実践的な教訓として解されている向きもあるようですが、上記の老子の教えは、そのような“外的な実践術”ではなく、もっと深い、人のこころや魂の部分を基盤とする哲学的なものを指しているようです。

それは、前回記事の昔話の中の「怠けものが成功する」ことに通ずる、深い意味の共通点です。


(私の大好きな)日本を代表する文学者である夏目漱石が、『老子の哲学』という評論を発表しています。
そこでは、孟子を引き合いに出して、老子の教えと孟子のそれとは一見同じようでありながら、しかし根本的には違うものであると論じています。
漱石のこの論文を読むと、老子の思想の深い意味が結局のところ、自己実現、個性化の概念と共通することが理解(というか、その論への共感と解釈が)できますので、引用したいと思います。

この二子、時代に多少の差はあれども等しく争乱澆季(そうらんぎょうき)の世に生れ、民俗の日々功名利欲の末途に趨くを嘆じ、道の源頭より一隻眼を開いて人心の砥柱たるべき根本を教えんと企てたればこそその言もかく符合するなれ。
去れども孟子の本は老子の本にあらず。
老子の還また孟子の還と趣を異にす。
〔略〕
(孟子について↓)
その心には仁義より大なる道なく仁義より深き理なしと思ひ込みしなり。
なるほどこれは当り障りのなき議論にて、これを実行せば治国の上に利益あるは無論の事、まして周末汚濁の世には如何ばかり要用を有せしや知るべからず。
〔略〕
(老子について↓)
常識に適ふたる仁義の説だにかくの如くなるに、仁義以外に一歩を撇開(へいかい)して当時に迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。
これを誰かといふに周国苦県匐燭凌諭∪を李といひ名を耳と呼ぶ生れながらにして晧首の異人なり。
〔略〕
今に伝る所『老子道徳経』即ちこれなり。

さて老子の主義は如何に、儒教より一層高遠にして一層迂闊なりとは如何なる故ぞといふに、老子は相対を脱却して絶対の見識を立てたればなり。
捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道を以てその哲学の基としたればなり。
                                              (『第一篇 総論』)

漱石文芸論集 (岩波文庫)




漱石は、老子と孟子の、当時の世に対する嘆きや「言もかく符合」はするけれども、その教えは「趣を異にす」と述べています。
そして、孟子の教えについて、「深き理なし」「当り障りのなき議論」と評する一方、老子については、「迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。」とその違いを指摘しています。
またそれは、「相対を脱却して絶対の見識を立てた」ものであり、「捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道」という、明らかに“この世の”尺度では測り切れない「高遠にして」「迂闊」なものであると言っています。

私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、漱石の言うとおり、孟子の教えがあくまでも外的な事柄や生き方に即したものであるのなら、確かに老子の説かんとする内容とは、根底からその意味するところが違ってくると思います。

老子の教えが、人のこころや精神、魂についてなど、いわゆる以前の記事でも少し触れた philosophia (哲学)であること、ひいてはユング心理学の個性化に通ずるものであること。
夏目漱石が評した老子の哲学の意味について、私にはそのように理解ができるのです。


実は漱石は、同書で老子についての批判もしています。
それは、「個性化」がいかに険しい道のりであるか、パラドックスを生きねばならぬか、そしてそれを表現する難しさという、やはりユング思想との類似を思わせる内容なのですが、それはまたいつか別に、そのテーマで書きたいと思っています。


さて、ここで話を、夏目漱石自身に向けたいと思います。
漱石には『夢十夜』のような幻視作品があるのをご存じでしょうか。
そして、次のような興味深い感想も残しているそうです。

「霊ノ活動スル時、ワレ我ヲ知ル能ハズ。之ヲ secret ト云フ。此 secret ヲ捕ヘテ人ニ示スコトハ十年ニ一度ノ機会アリトモ百年ニ一度ノ機会アリトモ云ヒ難シ。之ヲ捕ヘ得ル人ハ万人ニ一人ナリ。文学者ノアルモノノ書キタル、アルモノノ価値アルハ之ガ為ナリ」(断片)。

どこで読んだか見たかは忘れてしまったので、出典は明示できないのすが、漱石は自身が「自動筆記」によって作品を書いたこともあると語っていたようです。

漱石自身が、「secret ヲ捕ヘ得ル」、「万人ニ一人」の人物だったからこそ、今日でも多くの人の胸を打つようなあれだけの作品を創造し(全くの個人的な想いなのですが、私の中の日本文学の最高傑作は漱石の『こころ』なのです。もう数十年前ですが、あの作品を初めて読んだ時のディープインパクトを超える作品に未だ出会ったことはありません。)、老子の無為についても、漱石自身の体験を通した深い視点を持ち得ていたのかもしれません。

(漱石の創造に至る苦しみが、それを更に、信憑性のあるものとして裏づけているような気もします)
『他人本位ではなく自己本位』


今日は、老子の「無為自然」を書く流れの中で、自然と夏目漱石の論評に手が伸びたため、それだけで、自分でも予想していなかったボリュームになってしまいました。
老子の道(タオ)についてなど、今日書ききれなかったことを、次回に引き続きたいなと考えています。

そして、「個性化」の“各分野”に表現されている共通点については、追々、取り上げていくつもりです。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
C.G.ユング 『創造する無意識―ユングの文芸論』 平凡社  (1996-03)


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こころの課外授業(出雲大社 2012)

記事upにタイムラグが生じてしまいましたが、今年も行ってきました。
我が家の恒例行事、出雲大社の神在祭参詣。

4 111     4 110


神在祭にお参りするようになって、もうかれこれ5年ほど経つでしょうか。
始めの頃は、ツインズを双子用ベビーカーに乗せて、フーフー言いながら長い砂利の参道を
歩いたものですが、今では、とっとと足早に駆けていく彼らに、親が急かされるまでになりました。

4 109     4 107


神在祭に行きはじめたのは、私や家族にとっての大きな転機につながった、ある個人的理由が
あったのですが、今では当初とは違った思いで通っています。


私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。両親も無宗教でした。
でも、まだ小さかった時分、キリスト教会の日曜学校に近所のお友達と一緒に通ったり、
当時暮らしていた土地柄、神社やお寺が其処彼処に建っていた(今考えると恵まれた)環境もあって、
とにかく和洋、神仏の垣根を越えて、日常のなかで自然に「手を合わせる」ということは多かったように
思います。

日曜学校に通うようになった経緯については、全く記憶がないだけに今となっては私もよく分からない
のですが、でも多分母は、近所で親子共に仲良しだったお友達のお母さんと、「子ども会」に行かせる
ぐらいの感覚で、一緒に入れたのだと思います。
そして教会のシスターも、それぐらいの気持ちでも「来てくれることが良い」と、歓迎してくださっていた
のでしょう。
実際、私はその日曜学校で、みんなと一緒にご飯を食べたり遊んだりして楽しく過ごすことと並行
して、聖書を読んだり、イエス様やマリア様に関するお話を聞いたり、礼拝の仕方を学んだりという、
お勉強もしていたわけですから。


話が逸れてしまいましたが、私はそのような幼少期の体験があったからなのか、括りはないけれど、
自分より“大きな存在”というものを、どこかで自然と受けいれられるようになったような気がして
います。

そして、その「受けいれられる心」に、実は何度も守ってもらっていたのだと、今になってようやく
分かったような気もしているのです。



「こころと宗教」について、ユングや河合隼雄先生は「切り離せないもの」として述べています。
多くの哲学者も「宗教」の意味について、それぞれの時論を語っています。

心理学においても、哲学においても、避けることのできない「宗教」という命題。
どれも“根本”は同じなのでしょう。
もっと広義に解釈したら、一見宗教とは相反するように見える「科学」だって、根っこは同じはず
です。


だから私にとって、我が子への教育に「宗教心」の課外授業は欠かせないのです。
科学が進歩した現代だからこそ、それは欠かしてはいけないものだと考えています。

目に見えない何か大きな存在を感じられるように、自然に受け入れられるようになってもらいたい。
神さまでも仏さまでも妖怪(笑)でも、とにかくよく分からないし実体はつかみきれないけれど、
そういった不可視の存在を「非科学的」「馬鹿らしい」とばっさり切り捨ててしまうのではなく、
“どこかで”信じられるようなを持ってもらいたい。

長い長い人生を生きる中で、「自分の努力だけではどうにもならない」苦難にぶつかったときに、
そのはきっと、彼らを守ってくれる大きなになるに違いないと、私は信じているからです。
ずっとずっと先に、外の世界に見ていた盾を引き戻す日が来るとしても、まずはそれを
「持てるように」ならなければ話は始まりません。

こころの太陽中心説」をしっかりと感じ取れるように成長してくれれば、人生の荒波にもまれる
ようなことがあっても、すぐに絶望するのではなく、そこに「意味」を見出そうとする僅かな力が
湧いてくるはずです。
「意味」があれば、人は生きていくことができます。


ユングは、「宗教心」と「心の病」に深い関連があることも指摘しています。

重篤な心の病とについて、無視できないつながりがあることは、例えば、「神は死んだ」といった
ニヒリスト、天才ニーチェの悲劇的な末路が、そこに確かなものを物語っているように、私には
思われます。


だからやっぱり、「頭のお勉強」と同じくらいに、いえ、もしかしたらそれ以上に、「こころのお勉強」も
大事。

知力を鍛えることは、確かに、現実社会で「自由な環境」を得るための重要な武器にはなります。

でも、いくら頭が良くて学力が高くても、それだけが「人生を幸せに生き続けられる」条件ではないはずです。

知的レベルを上げ、外的な実力ばかりを身につけ、お金も地位も名誉もそろった、恵まれた環境を手に
入れることができたとしても、それで「苦」から完全に逃れられるわけでもないはずです。

心理学者マズロー(欲求段階説理論)が言っているとおり、外的欲求が完全に満たされたとしても、
人間はそれで、「めでたし、めでたし」とはならないのです。


また、外的基盤のほうが、一度何かのきっかけで崩れ始めたら、非常に脆いような気がします。
その時に何が底力になるかというと、やはり「こころ」の基盤なのではないでしょうか。

そしてその「こころ」の基盤が強く大きく成長していけば、外的不足はもはや、「幸福(感)」を妨げる
必要条件ですらなくなるのです。



さて、“神在祭”に話を戻しますと、子供たちに「今、ここに日本中の神さまが集まってるのよ」と
説明すると、「じゃあ、絶対に聞いてもらえるね!」と、深々と頭を下げて、真剣モードでクリスマス
プレゼントのお願いをしていました。
時期的に、去年も同じパターンだったような・・・。

そして私も、セルフを思いつつ、(見えないけれど)ずらりと鎮座されている日本の八百万の神さまに
手を合わせました。

周りの素晴らしい自然と相まって、その時、内側から感じられたなんとも言えない重みと清々しさは、
「確かなもの」だったような気がしました。


□■□■□■□■□

子どもたちが大きくなり、ゆとりを持って参詣できるようになったと実感できた今年、ふと、
「ここ数年素通りしていたけれど、久しぶりに手を合わせよう」と、銅鳥居手前、参道右手に
御座する「ムスビの御神像」に立ち寄ってみました。

そして、像の前にあった由来碑に書かれている文章に目を通してみると、私の心の中で小さな
感動が起こりました。

また、記事にしたいと思っています。


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