心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

私の思い

奇人変人ノススメ




昭和から平成にかけての時代をつぶさに見、風刺してきた、こんな人生、送ろうと思ったって
なかなか送れない。
その結果水木さんが得たのが「人生におけるけたはずれの経験値」である。
                                              【大泉実成(編者)】



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─

前回記事を書いたのが秋ですから、年末年始どころか、季節をひとつ飛び越してしまった感じですが、
その間に、とてもとても残念なニュースが飛び込んできました。
昨年11月末の 水木しげるさん の訃報です。

「心の有り様」の記事の続きもずっと書きたいと思っていたのですが(必ず書きます)、
でもやはり、今日は私の尊敬する水木しげるさんについて、お悔やみの気持ちも込めて、
"私の勝手な考えと思い"を綴っていきたいと思います。



ご逝去の一報を目にして、胸に込み上げてきたのは、
「ああ、これでまた、自己(Self)の体験者である方がひとり、お亡くなりになった・・・。」
という、何とも言えない寂しい気持ちでした。

もちろん、面識などあろうはずもない水木しげるさんに、私が敬意を込めた関心を持つようになった経緯は、5年以上も前にこのブログで書いたとおりです。

「ゲゲゲの女房」
「妖怪とは人の心の中にいる」
目には見えないもの
無為に過ごす


「妖怪とは人の心の中にいる」の中で、
「ご自分の深いところとのパイプを、水木しげるさんも(もしかしたら)持っていらっしゃるのかも
しれません・・・。」
と、当時書いたのですが、その後、水木しげるさんが残された"名言"を知るうちに、その思いは、
私の中で確信になっていきました。

また、ある番組を通じて知った、
水木しげるさんが出征先の現地で「ぬりかべ」に"命を助けて"もらった体験、
幼少期にも"妖怪を見た"ことがあるというエピソードや、
(それらの幻視は、水木しげるさんにとっては"現実"だったはずです)

そして、以前の記事でも少し書きましたが、戦争の混乱時、死を強く意識せざるを得ない中で、
ゲーテを始めとする哲学書や聖書、仏教書をむさぼるように読み、「生死」について真剣に
"悩み、考えられた"こと。

何より、実際に戦地に赴かれ、想像を絶する凄惨な状況を生きぬかれたその"ご体験"。


水木しげるさんのこのような"けたはずれの人生経験"や、残された"名言"を知るたびに、
私にとっての水木しげるさん像は、ご自身がそうおっしゃられたとおり、
「漫画家」から、漫画という表現を用いられた「哲学者」に変わってしまったのです。


わたしゃ、あんた、ベビィのころから哲学者でしたよ。

マンガ家というふうに見ると、水木さんの正体はわからんです。
マンガは、生活の手段であり、表現の手段なんです。
                                            





漫画を描くことを通じて、自分が"何をしているのか"・・・。

目に見えないものが、神から妖怪にいたるまで、どのようにつながってるか、目に見える形で、
レンガのように積み重ねていかないとならんわけです。

目に見えないものを形にするのはアボリジニと水木さんです。
あとはあんまりがんばっとらんです。
せっかく精霊たちが自分の形を欲しがっとるのに。

私は漫画を描くときに、半ば無意識になるわけです。
だから、何か外側の力に描かされているという感じが半分以上あるんです。
ただ、それを描くことによって非常に充実感があります。

私はいつも、私の書いたものの中に、いわゆる"霊"がふくまれているわけなのだが、
誰もそれに気づいてくれないので、不思議に思っている。



"偶然"のことも・・・。

水木さんが考えているよりも、偶然のほうが賢かったです。
偶然のほうが賢いんですよ、人間が考えているより(笑)。



"夢"のことも・・・。

いや、我々は夢の世界(無意識)からやってきて夢の世界に還る存在にすぎない。
夢の世界が故郷であり実在なのだ。いまは人間の世界に生きまた故郷にかえっていく。

夢現っていうのがあるようですね。
夢のときに明快な判断が与えられたりする。
夢は三分の一ぐらい現実に入ってるんじゃないでしょうか。

セノイ族は"夢"について、かなりくわしい民族らしいが、なんとそこに、ものすごく妖怪が
いたのには驚いた。
夢や無意識の状態というのは、精霊を感じる力が、覚醒時の五倍もあるらしい。

(前略)霊的なもの、神との交流点だと私は考えています。
(中略)夢で伝授されるんですよ。



"無為"の意味も・・・。

努力は、人を裏切る。
少年よ がんばるなかれ。
あわてずにゆっくりやれ。
なまけ者になりなさい。

("自己"を信じきることができないかぎり本当の実践は不可能です。安易な真似事はもちろん、ただの怠け者では、その先に待ち受けているものは失敗や転落です。「自然な流れに委ねる」)


そして"無意識"についても・・・。

(前略)賢くなってきて、いろんなことに気づくようになってきた。
・・・・・・人間は、無意識から生まれてきて、気がついてみると、自分があるでしょう。
そしてまた無意識にかえっていくという感じでしょう。
無意識から生まれて・・・・・・また無意識に・・・・・・
そしてまた無意識から生まれて来るわけで・・・・・・
だから子供が無意識から気がついた時は、自分があるでしょう。
さらにまた無意識に帰って・・・・・・そして無意識からまた生まれる・・・・・・。



水木しげるさんは、すべて"知っておられた"のだとしか思えません。
だからやっぱり、そのご正体は哲学者。
しかも"実践"を伴って生き抜かれた、ホンモノの哲学者(philosopher)。


闇も光も体験されたであろうその人生は、まさに、
「神から妖怪にいたるまで、どのようにつながっているか」
をご自身で体得された、"自己実現"の歩みであったのだろうと、私にはそう思えるのです。




そして、体得者の水木しげるさんは、このような言葉も残していらっしゃいます。


(自分の幼年時を振り返って)
それにしても、ベビィのころから変人だった。

水木サンが長年にわたって古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が
多いことがわかりました。

さあ、あなたも、奇人変人になりましょう。ワッハッハ。



私は幸せのことしか考えないからよかったのです。
今の人々は、わざと幸せにならないよう努力している。



生きている以上、「幸福」を求めない人はまずいないと思いますが、だからこそ、水木さんの言葉が
意味していることは何なのか。

なにより、水木さんご自身の人生の軌跡そのものが、私たちに何を物語ってくれているのか。

大マジメに"変人"を目指してみるのも、充分価値があることだという気がします。



(仮面を買いながら)
同じものはいらない。
同じものはいらない。
他人と同じような仮面を被っていたら、安全だし、安心です。
でもそれでは、"奇人変人"にはなれません。



意識という「常識」の世界で、自覚して"奇人変人"を生きることは、
その覚悟や勇気を持つことを必然的に求められるようになるはずです。

「出る杭は打たれる」のは世の常ですし、"変わった人"には、色々と風当たりも強くなって
くるのかもしれません。




でも、水木さんは、様々な困難にも妥協することなく「自分だけの道」を切り開かれました。

「誰が何と言おうと」、"自己を生きる"ことを貫かれたのだと思います。


(奇人変人について)
こうした人たちには、好奇心の塊のような、わが道を狂信的なまでに追及している人が多い。
つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、わがままに自分の楽しみを追い求めているのです。
だから幸せなのです。






西田幾多郎や夏目漱石も、同様の「幸福論」を語っています。


真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。                           
                                                【西田幾多郎】


我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
                                                 【夏目漱石】 
(夏目漱石のこの言葉は逆説的に、自己実現に伴う苦難を彷彿させます)



すべて、ユング派でいうところの「個性化」、「自己実現」の生き方です。






長い自我の旅を終えられ、ご自身がおっしゃられていたとおり、
「無意識から生まれてきて、そしてまた無意識にかえっていかれた」、水木しげるさん。

一ファンとして、たった一度でもいいからお会いしたかったです・・・。


心より、こころより、ご冥福をお祈り申し上げます。




【引用文献】
水木 しげる 『水木サンの迷言366日 (幻冬舎文庫) [文庫] 幻冬舎(2010-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
夏目漱石 『私の個人主義 (講談社学術文庫) [文庫] 』 講談社(1978-08-08)


鈴木大拙

またしても前回記事から数か月が経ってしまい、「ぜひ、また続きを書きたいな」との思いにずっと変わりはなかったのですが、今日は、以前書いた記事に疑義が生じてしまったので、備忘録の意味でしたためます。


ここ数年、読みたい本があとからあとから出てくるので、私の読書スタイルは常に数冊併読なのですが、そんな中、ゆーっくりと読み進めていた著作があります。

無心ということ (角川ソフィア文庫)
鈴木 大拙
角川学芸出版
2007-09-22



鈴木大拙は、ユング同様、私が敬慕している哲学者の西田幾多郎とは ”加賀の三太郎” と称され、生涯の友であった偉大なる仏教者です。

(最近偶然見つけたのですが、こんな逸話もあったようです ↓ )


さて、この名著。
『無心ということ』を、じっくりと読み込んでいく中で、孟子について書かれた非常に興味深い内容が出てきました。

それは、「深き宗教的体験の閃めきが窺われる」心学の祖、石田梅厳の「都鄙問答 惟理問答の段」の引用で、孟子と告子の相違について論じられており、「これは
梅厳の哲学の中心をなすものである。」と鈴木大拙は評価しています。

 
 曰、孟子の性善と、告子が性に無善無不善と言は同じかるべし。
(中略)
孟子は是とし告子は非とするは如何なることぞ。

 答、是汝が不得の所なり。先告子が無善不善と云は、是思慮なり。(中略)
孟子の性善は直に天地なり。如何となれば人の寝入りたる時にても無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息に非ず。天地の陰陽が我体に出入りし形の動くは天地浩然の気なり。我と天地と渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。(中略)
其無心の陰陽が一たび動き一たび静なり、是を継者が善なりとの玉ふことなり。
此微妙の所と告子が云思慮と、一列にいはるべきや、大に異る所なり。
孟子の性善は生死を離れて天道なり、(中略)此は易(やすき)に似て難知(しりがたき)所なり。思慮を以て知らるる所にあらず。(中略)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(略)書は読めども、書の意味を知らず。*1
却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。(中略)


 人は全体一個の小天地なり。(中略)告子は是を不知。生滅にあづかる思慮を以て我性と思ふ。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば思慮なき天理に異るゆへなり。(中略)

渾然たる一理の性に至れる孟子*2 には異る所なり。


これを読むと、このブログで前に紹介した、夏目漱石の孟子論とはその内容がまるで逆なのです。
無為を為す(夏目漱石の老子論)


大雑把にざっくり分類するとこんな感じです。
老子(夏目漱石評)=孟子(石田梅厳評)
孟子(   〃    )=告子(   〃    )


夏目漱石の「相対を脱却して絶対の見識を立てた」老子と、石田梅厳の「渾然たる一理の性に至れる」*2 孟子、それぞれの論評のその意味するところは、同義であると私には思われます。

そうだとすると、もしかしたら漱石が、少なくとも孟子に関しては、(石田梅厳の言うところの)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(中略)書は読めども、書の意味を知らず。」*1
ということになる可能性すらあります。
(・・・でも、私は夏目漱石も大好きです)


漱石は、実は老子についても、以下のような批判をしています。
「(無為への)その悟入したる点を挙げて人を導くべきに、去はなくして劈頭より無為を説き不言を重んず。(中略)ただ、その無為に至るの過程を明示せざるを惜むのみ。」

私はこの点については以前から、疑問を持っていました。
「無為に至るの過程を明示」なんて、「(
老子の)その悟入したる点を挙げて人(他者)を導く」なんて、果たしてできるのだろうかと・・・。
そして、こうつぶやきました。



話を戻すと、思いがけず触れた孟子についての(私にとっての)新たな説に、「
私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、」と先述してはいたものの、ここに来て本当に分からなくなってしまいました・・・。

やはり何でも、「受け売り」はダメということでしょうか。
孟子についてもふりだしに戻って、「自らきちんと読む」ことから始めたいと思っています。



ここからは少し話題が変わって、「西田幾多郎と鈴木大拙」について。

以前、NHKで西田幾多郎の特集番組が放送された際、その中で西田幾多郎のたしかお孫さんにあたる方が出演されて、鈴木大拙について語っておられました。
西田幾多郎が亡くなった際、鈴木大拙が傍らで号泣していたそうです。両者の結び付きの深さが感じられて、とても印象深く心に響きました。
西田幾多郎も鈴木大拙も、 それぞれの著作の中で共に「宗教的体験」の重要性について語っていますが、互いにそのような稀有な体験の、全てではなくても根本的な何かを共有できる
、本当に希少で貴重な存在だったのかもしれないと、勝手に想像が膨らみました。

私が「鈴木大拙」を知ったのは、西田幾多郎の著作を読み始めてからだったのですが、その後、鈴木大拙はユングとも親交があったと知り、僅かな驚きとともに、どこか深く納得もできました。

それぞれの入り口は違えども、その「体験」には共通する点があること。
偉人3名の著書に目を通せば、その発見に心躍る感動が得られるのではないかと思います。



そして最後に。
『無心ということ』の中で、鈴木大拙は次のようにも述べています。

何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
無心の理論は、実に仏教思想の全体系を構成しているといってよい。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の心理を、自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。


仏教者 鈴木大拙、哲学者 西田幾多郎、そして心理学者 ユング。
各々の分野で高い見識を持ちつつ、その根底には、言葉も要らぬような深い分かち合いで通じていた、本物の天才たちなのだと思います。


【参考文献】
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)

自然な流れに委ねる

アリとキリギリス~ドレの寓話集~
アリとキリギリス~ドレの寓話集~ [単行本]

前回のブログ記事を書いたのが2月なので、もうすっかり季節も変わってしまいました。

この3カ月の間で、「書きたい」と思っていたテーマも私の中でドンドン変転していまい、その流れで、自然と今日の記事になりました。
昔の私なら、その都度頭に浮かんだ「書きたいテーマ」を逐一記録し、それらを一つずつ整理していくという、マメというか、バカげているとさえ思える面倒なことをやっていたんだろうな(笑)、などと、ふと考えつつ、でも今日は「今、自然に思い浮かぶこと」をそのまま綴っていこうと思ったのです。

別に今日の記事に限らず、それこそ“自然”に任せていいものは、以前よりずっと任せられる。
「こうしなければ」という枠組みから、色んな事を手放せるようになってきました。

そして、そんな状態をそのまま「良し」と思えるようになって結局どうなったかというと、私自身がとっても楽になったのです。


「こうしなければならない」
「こうであらねばならない」

以前は、今現在の「〜ならない」だけではなく、まだ実際にはどうなるか分からない未来のあれやこれやも心配して、「〜ならない」に、今よりもずっと多くのことが縛られていたように思います。

でも、実は“縛られていた”のではなく、私自身が「そうだ」と思い込んで“縛っていた”ことが沢山あったのだと、今はつくづくそう感じるのです。


もちろん、縛ること→「規制や管理」は大切です。

自我(意識)の合理的な働きをしっかりと保ちながら、確実に堅実に計画的に、事に当たらなければならない場面は、現実社会を生きている中でいくらでも出てきます。
実際の利益や他者との信頼関係、自分の(外的な)能力や評価にも結びついてくることですから、「〜ならない」を軸に事を進めていくことは、ある意味当然の成り行きなのかもしれません。
時間も仕事も勉強も、もうなんでもかんでも、どれだけ確実に計画的に効率よく事を進められるかが重視されるのも、ITの普及と発展の上に成り立っていて、昔よりずっと「管理」が幅を利かせている今の社会では、致し方ないのかもしれません。


余談ですが、先日あるTV番組で、受験勉強も部活も頑張る、多忙な高校3年生の勉強時間をいかに確保するかという内容を放送していました。

いわゆるタイムテーブルの再構築に取り組むわけですが、印象に残ったのは、日々の洗髪後の「ドライヤーの10分も、単語カードで勉強をして時間を無駄にしない!」と、紹介している場面でした。

その他、あらゆる“一日の隙間時間”をかき集めて、こうすれば「1日で何分、10日で何時間、1カ月で何十時間活用できる!」と提案していて、それを観て単純に「なるほどね〜」と感心した半面、「高校生って大変だな。この提案どおりに実践するとなると、じゃあ、一日のなかで”ホッ”とか、”ボーッ”ってする時間は皆無ってこと?・・・」と思うと、どこかうすら寒い“ゾクッ”とするような感覚が湧き上がってくるのを抑えられませんでした。

生身の人間が、そんなロボットのように「隙間なくきっちり」出来るものなのかと・・・。
確かに本当に実行できれば、部活で大活躍しながら目指す難関大学にも入れて、自他共に賞賛され栄光を勝ち取るかもしれないけれど、それを勝ち取るために代償として何を犠牲にするのだろう、影の存在は・・・と、多分そっちを咄嗟に想像してしまったみたいです。
“ゾクッ”と感じたのは・・・。


話が脱線してしまいましたが、受験生はもちろんのこと、どんな場面でも、「人一倍能力を磨き実力をつける」ためには、原則「人一倍努力する」ことが不可欠となってきますから、限られた時間のなかで、どれだけ多くの事を為していけるかがポイントになるわけで、“自然に任せて”なんて悠長なことは言ってられません。

セルフマネジメント、タイムマネジメント、リスクマネジメント、ライフマネジメント・・・。

昔より、ずっとずっと色んなことが「管理社会」になっている世界のなかで、今では「マネジメント能力」の高さが様々な場面で求められ、評価の対象にもなっているような気がします。

確かに、きっちり管理してきっちり計画的に無駄なく物事を進められれば、自ずと見えやすくて分かりやすい結果はついてくるでしょうから、満足や安心も手に入れられるようになると思います。

未来への不安を払しょくするため、未来の幸せを手にするために、「現在を管理」する。
それは決して間違ったことではないと思います。


しかし一方、未来の満足を手に入れるために、じゃあ、「今はどうなのか」ということ。
未来のために、「今」をおざなりにしてはいないか。

前記の高校生にしても、自身が明確な目標とやりがいを持ったうえで、勉強や部活を頑張るのであればまだしも、ただ何となく、「高い地位やお金など、安心の未来を手にするため←良い仕事に就くため←良い大学に入るため←“今はとりあえずイヤでも受験勉強を頑張る”」だったとしたら。

「本当は今、自分はこれがやりたいんだけど」、その「今、やりたいこと」を手放してまで、未来のためや周りのために“イヤな今”を生きてはいないか。

どうしても、「“今の”自分はどうなのか」は後回しにされて、「どうなるか分からない未来のために、今を生きてしまう」ことに、私たちはなりがちなのかもしれません。


もしかしたら、「今」、あれもこれも我慢して、自分に(だけではなく、もしかしたら大事な家族にも)ムチ打つようなことをして、本当は辛いし逃げ出したいし苦しいのに、それでも「未来の安心を手に入れるために」頑張り続けているのではないか。
どうなるか分からない未来のために、「今、できることを手放していないか」、「しなくても済むことをしているのではないか」。

自然に任せてしまっていいことですら、“管理”に縛られているのではないか。
今の自分が、本当に“自分にとって”どうなのか。


童話の『ウサギとカメ』や『アリとキリギリス』のお話を思い浮かべると、ほとんどの人は、「カメやアリ」の生き方を模範として実行しているでしょうし、逆にウサギやキリギリスのような生き方をして、実際、後になって窮地に立たされるということも十分起り得るわけですから、と言うよりそう想定するのが普通ですから、「未来のために、今、頑張るのは当然」となるのでしょう。

しかし、同じ昔話のなかには、「ウサギやキリギリス」のような“怠け者”が成功するお話も、実はたくさんあるようです。

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫)
昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫) [文庫]

河合隼雄先生が、怠け者の成功話が世界の昔話に散見されることの意味について、深層心理の観点からアプローチして昔話に秘められている「怠け」の多義性について論じておられます。

どうも、「カメやアリ」の生き方が必ずしも「善」とは限らないこと、隠された真理を、昔話は密かに我々に語り継いでくれているようです。

常識の世界に忙しく働いている人は、天の声を聞くことができない。

怠け者の耳は天啓に対して開かれている。

このように言うと、私の心には現代の多くの「仕事にむかって逃避」している人たちのことが思い浮かんでくる。
これらの人は仕事を熱心にし、忙しくするという口実のもとに、自分の内面の声を聞くことを拒否しているのである。

私たちが生きる上で何を「成功」とするのか、という点についてまでは今日は触れませんが、でも、「自分の内面の声」を聞くためには、「怠け」は欠かせないもののようです。


そして、「内面の声」を聞くためには、「怠けること」への徹底的な覚悟が必要であり、「ただの怠け者」ではやはり、「失敗」に終わってしまう危険が大きいようです。

無精のため命を棄てるほどの者のみが王位継承に値したのであろう。

また昔話のなかの怠けの意味の追求は、相当な怠け者礼賛に到ったが、私は何も怠けの否定的な面を忘れているわけではない。
危険に立ちむかって成功するもの、逃げて成功するものなど、必ず相反する場合を探しだすことができる。この点について、フォン・フランツは「おとぎ話のなかから唯一の方策をひきだすことは絶対にできない」と確言している。
怠け者の場合も同様で、怠け者が失敗し、転落する話もすぐに見出すことができる。


「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること。」

一見すると低評価なこんな生き方が、もしかしたら大きな可能性を隠し持っているとしたら。
実は、実現すべき本当の生き方なのかもしれない「縛らず、管理せず、自然の流れに沿って生きる」ということに秘められるとても深い意味。

そんな生き方を、この管理社会の現代において実行することは、た易いことではないかもしれない。
だけどもし、それを目指すことができれば、私たちは自分の生に意味を感じることができるようになり、それが心の癒しや究極的な救いにも結びついてくるのかもしれない。


耐えたり努力したりするエネルギーを、管理のためではなく、管理を手放すことに向けることができれば、それまでとは全く違った道が開けてくることになるのかもしれません。

そこでは、「頑張るしんどさ」とは別の重圧を抱えなければなりませんから、決して完全に楽になるわけではないでしょうが、でも、偽りの?忍耐や努力からは解放されるはずで、それが「本当の安らぎ」を手に入れられることに繋がってくるのだと、私は思うのです。


今日の記事は後半、駆け足で書いてしまいました。

“計画的に(笑)”続きは次回。
もう少し詳しく考えてみたいと思っています。


□■□■□■□■□

Wikipediaで『アリとキリギリス』を参照したところ、いわゆる一般的に知られている内容とは違う解釈もあるのだという、面白い発見をしました。

まず、「二つ目の寓意」(目次の「教訓」)
せこせことためこんでいる“自分”は勿論のこと、餓死寸前の困窮者も“自分”だとすると、独善者のアリの勤勉さはやはり「独り善がり」であり、一方では本当の自分を見殺しにしているのかもしれない。
とても示唆的だと思います。

そして、「功利主義の観点からはキリギリスが善とされる」(目次の「教訓」)
“結果的にどうなるか”を委ねる、という意味で捉えると、「なるほど」と納得できる気がしました。「短絡的に」自らの快楽を追及し、というのではやはり“失敗”に終わりそうですが、「生を謳歌する」→自己実現を目指す覚悟を決めるのであれば、確かに「食料蓄積のみで生を終えたアリ」より、「キリギリスの方が善とされる」気がします。

『アリとキリギリス』も“深い”んですね・・・。

昔話は多くのパラドックスに満ちている。

昔話から常に勧善懲悪的な教訓を読みとろうとする人は、昔話のもつパラドックス性に、しばしば戸惑いを感じさせられるものである。  

                                              【河合隼雄】

               

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心理療法家の姿勢

ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)

まず、前回の記事について、言葉足らずの点がありました。
ユングの自伝の言葉を紹介しましたが、以下のとても重要な部分が抜け落ちていました。

「私は 患者たちを除いて 人々に対して辛抱強くはなかった。」

ザビーナとユングの出会いは、ザビーナが当時抱えていた重度の精神的疾患がきっかけですが、ユングの治療を受け始めたあと、その症状は劇的な回復をみせたそうです。
彼女は後に、自らが精神分析家となりますが、ユングとは、病院を退院した後も、学問的援助を受ける中でありつつ、恋愛関係にも発展したのです。

前回記事で引用したユング自伝の文面については、だからそれは、ユングの自身の“患者”
についての態度ではありませんし、また、自伝の中で、ザビーナの名前は一度も登場しませんので、ユングが誰を思いながらその文章を書いたのかも定かではありません。


どこまでが“患者”なのかも、心理的な分野ではその判断は大変難しいと思います。
余談ですが、ユングの著書の中には、ユングがある精神科医の夢を分析した際、(外的には)全く問題ないと主張していたその医師の内面(無意識の心理状態)は、破綻一歩寸前だったというある事例が紹介されています(内的現実はあとから外面に顕現してきます)。
自身も省みながら、心理的にみて「完全な健常者」などいるのかどうかさえ、私には疑問です。

ユングはこのように論じています。

精神病院にまで行くのは、いわゆる精神病質者のほんの一部にすぎない。
その圧倒的多数はいわゆる「正常」な人々の一部を成しているのである。
「正常」という概念は理想的な観念にすぎない。

正常の概念はある限界内で振れがあり、厳密な定義はできないのである。
その振れがある程度大きくなると、その心理的現象は異常の領域に入ったことになる。
こうした許容幅の逸脱は、きわめて頻繁に起るのだが、病的としか言えない現われ方をしない限り、気づかれずにすぎてしまう。

(精神病質の)軽いものは無数にあり、重症のものはまれである。
一時的であれ慢性的であれ、あれこれの面で正常の許容幅を、わずかながら踏み越える人間の数はきわめて多い。

(潜在的なケースは)なるほど発病に至ることは少ないが、その物の考え方や行ないは、いかに表面正常であっても、無意識の病的で倒錯的な影響に支配されている。
潜在的な精神病には、もちろん参考になるような医学的な統計などありはしない。


ユングとザビーナの関係に話を戻しますと、私の解釈では、2人の恋愛関係は破局に終わったものの、その後、それぞれが心理学者として自身の理論を構築していく際に、その「生きた体験」、「生々しい感情」を味わった“経験”が、大きな影響を与えたであろうと推察していたため、その部分を念頭に置き、前回の箇所を引用してしまいました。

ユングとザビーナの関係が、いつまで「医師と患者」だったのか、恋愛関係と並行していたのか、私には分かりませんが、ユングが同じ自伝のなかで先の一文を書いていることは、ここで改めてきちんと記しておきたいと思います。


ユングは偉大な心理学者であり精神科医でもありますが、例えどんな心理療法家であろうと、「こころのやりとり」をクライエントさんとしていくのであれば、その責任に重い軽いの差はないはずです。

どこまでの心の領域に踏み込んで行くのかという点で、浅い深いはあったとしても、それでも必然的に、面接を続けていくうちにどうしても無意識まで含めた2人の人間の人格のやりとりとなってくるはずですから、その関係性がどんなものであるか、外側から簡単に“優劣”がつけられるはずもありません。

だからこそ、「聴く側」に置かれている者は、クライエントとの関係を続ける間は、「相手にとって」一番ベストな態度を取り続けるべきですし、「カウンセリングをするということ」がどういうことであるのか、その意味のしっかりとした自覚が必要だと思います。

当たり前ですが、カウンセラーが、例えばクライエントに嫌われまいとして保身をはかったりしているようでは、適切なプロセスの妨げにはなっても、そこに目指すべき真の変容は臨めないはずです。

見えない「こころを癒す」、「こころのやりとり」をするということは、双方適度な距離を取りながらの、“当たり障りのない”人間関係とは、望む望まないにかかわらず、全く異なったものにならざるを得ません。
ペルソナという仮面を被った日常の他者とのやりとりとは、質が全く違ってくるのです。

そこにこそ、心理療法の価値が見いだされるはずで、そうでなければ、それを受ける意味自体がなくなってしまうのではないでしょうか。
そもそも、日常の人間関係だけで心の癒しや変革が起こり得るのであれば、カウンセリングなんて必要ないはずです。

表面だけではなく、心の深い部分でのやり取りも始まるわけですから、どうしても、心理療法家は自分自身を試されることになるのだと、ユングも語っています。

極端な話、クライエントの負の感情を呼び起こさせるようなことになっても、それが変容のプロセスとして必要なのであれば、そこから逃げずに一緒に居続けること。
そしてその強さを持っていることが、心理療法家の役目であり、ユング派で長時間にわたる“自身のこころのトレーニング”が重視されている理由でもあります。


長い間の苦痛に満ちた経験から学んだのですが、ある人をコンプレクスから救い出そうとすることは、その人の最良の資源を奪うことになるのです。

傍からできることは、本人がそのコンプレクスにはっきり気づき、彼の内部で意識的な葛藤が始まるように仕向けてやることくらいです。

そうするとコンプレクスは生の一つの焦点になります。              (C・G・ユング)



だいだいみんな(中略)しんどくて、脇道に行きたがるんです。その脇道のことを、みんな『何かよい方法はありませんか』と言われるんです。そのときにだいたいわれわれは『ありません』と非常にはっきり答えるわけです。つまり『この道を行きなさい』ということを言うわけです。

この道というのはいちばん苦しい道です。ただし、私も一緒に行きますからというのが、カウンセラーの仕事なんです。
                                                 (河合隼雄)


その苦しい道を一緒に行くカウンセラーが、「ただ話を聞いているだけ」では、きちんとした仕事ができていないことは明白です。
クライエントさんが苦しい思いをしているのに、自分はなにも感じない、カウンセラー側のこころが全然疲れないのであれば、同じ道を本当に歩けているかどうか疑わしい限りです。

そしてそれは、ただ共感するとか、同情するとかいった性質のものでもありません。
もっと深いところでの相互的関係によってもたらされる“感情”です。

河合隼雄さんほか、ユング派分析家の先生方が、転移・逆転移や布置、体験という言葉を使って、療法家のこころの動きについて説明されていますが、今日は次の一文だけを紹介しておきます。

自分のこころを通してしか、他人のこころを理解することはできないのである。  (織田尚生)
 

クライエントさんの苦しい道を一緒に進むカウンセラーが、自分のこころをきちんと道具として使えているのであれば、その道中で、“道具”にも少しずつ傷がついたりダメージを負ったりするのは、避けられないはずです。

だから、カウンセラー側は、自分の道具をメンテナンスする必要がありますし、道具の状態を常にチェックしておかなければならないのだと思います。
そしてそれは“見えない道具”だけに過信は禁物ですし、難しい作業でもあります。
カウンセラー側も、共に「自分の道」を歩んでくれる、他者の存在が必要となってくるのです。


今日は、自戒の記事となりました。
そして、最後に。

本当の自分の道を進み続けるか、脇道にそれてしまうのかを、最終的に選ぶのは「自分」しかありません。
そして、脇道はあくまでも脇道ですから、結局、元いた本道の場所からは一歩も進めていないことにもなりかねません。
苦しくても本当の道を少しずつ歩めば、それは確実な進歩となってくるはずです。


【参考文献】
C・G・ユング『現在と未来―ユングの文明論』平凡社(1996-11)
河合 隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社(1999-10-20)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


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辛いと幸せ

星野富弘詩画集カレンダー2012年版
星野富弘詩画集カレンダー2012年版


先日、とても胸に響く素敵な一文を見つけました。

「辛いという字がある。もう少しで、幸せになれそうな字である。 (星野富弘)」


この言葉を見つけたとき、「わー、本当だ」と、正直感動しました。

どちらも、今まで生きてきた中で、いろんな場面でよく目にした文字なのに、

こんなに似た形をしていたなんて、全く思いもしませんでした。

本当、「辛」に横線を一つ足しただけで、「幸」になるんですね。


「どうして今まで気づかなかったんだろう・・・」

少し考えてみました。

やはり、これら二つの漢字が意味する内容、受け取るイメージが真逆であることから、

この二文字の(字画という)類似点に、全くアンテナが立っていなかったんだと思います。

要するに、「意識したことがなかった。」

そういうことだと感じました。



カウンセリングやコーチングでも、結局目指しているのはこのような、

「気づけていないことに気づく」 「意識化する」

ということだと、私は考えています。


変わらぬ環境、変わらぬ状態の中でも、自分の気づけていないことに気づくことができれば、

その人の思いに大きな変化が現われます。

例え、「“辛くて”、八方ふさがりで、もう自分の力ではどうしようもない」と、

大きな絶望感に苛まれるような困難にぶつかっていたとしても、

ほんの少しのきっかけで、

「まだ希望が持てる。もしかしたら、“幸せ”にだってなれるかもしれない。」

と、全く新しい考え方を手にすることができるようになるんですね。


どんな人でも、その人特有の「メガネ」をかけて、世の中を見つめ、また捉えています。

そこには、親からの影響など、個人の成育歴が大きく作用していますし、

また今回の私の事例のように、いわゆる「先入観」のみで、

物事を判断してしまっている場合もあります。


「辛と幸」については、私が今まで、「意味」という先入見のみで捉えていたから、

二文字の共通点に気がつかずにいた。

見えていたのは一部、「全体は見ていなかった」ということです。



星野富弘さんの素敵な言葉は、

「少し見方を変えるだけで、思ってもみなかった新しい発見が出来る」

ということを、改めて私に教えてくれました。

そして「辛いという字がある。もう少しで、幸せになれそうな字である。」

この一文は、ただ形だけではない、とても奥の深い真実を秘めているような気が強くしました。

何故そう感じたのか。

そのお話はまた次回に・・・。


―といっても、(更新は)多分年明けになると思います。

皆さま、良いお年をお迎えください。



○●○●○●○●○

もう数十年前に亡くなった祖母の自宅には、いつも星野富弘さんのカレンダーがかかっていました。

「これは手足の不自由な画家さんが、筆を口に持って描いたものなんだよ。」

と私に説明しながら、

「手足が使えないのに、こんなに素晴らしい絵を描く人がいる。

この絵を見ていると、とても慰められる。」

と、普段は気丈な祖母が、しんみりと語っていたことを久しぶりに思い出しました。

・・・少し胸がジーンとしてしまいました。

          
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『蓮と鶏』


Lotus / Nelumbo / 蓮(ハス) /
TANAKA Juuyoh (田中十洋)


「泥のなかから 蓮が咲く。  それをするのは 蓮じゃない。

 卵のなかから 鶏が出る。 それをするのは 鶏じゃない。

 それに私は 気がついた。 それも私の せいじゃない。」

                                (金子みすゞ 『蓮と鶏』)



金子みすゞのこの詩。

つい最近、新聞に掲載されていたのを見て、初めて知りました。

そして、その記事には、

「目には見えないが、私たちに働き掛ける大きな力の存在を

(金子みすゞが)確信している様子がうかがえる」

と書かれてありました。



ユング心理学では、その「大きな力」というものを、いわゆる「Self」と呼び、

西田幾多郎は、「統一的自己」とか、「実在の無限なる統一力」、「神秘的或者」、「真の自己」と

いくつかの呼び方で表しています。


いわゆる表現の差はあれ、何か不可視の、そういった我々の意識を司る根本的存在を、

ユングも、西田幾多郎も、金子みすゞも、感じ取っていたと思われます。

そして、そのような大きな力を確信せざるを得ないような、揺るがし難い神秘的体験をした人は、

過去から現在に至るまで、決して少なくはないのだと、私は思います。



ユングが晩年に出演したテレビ番組で、インタビュアーに、

「あなたは神を信じますか?」 と問われ、暫し沈黙した後、「I know」 と答えた話は有名です。

ユングがこのように答えたのは、決して、神そのものを知っていたと言いたかったのではなく、

そういった存在を信じざるを得ないような現象を、数多くユングが経験していたことから出た言葉です。

しかし、このユングの発言には当時批判も多く寄せられたようですね・・・。

ちなみにユングは、

「神そのものを知り得ることは不可能で、近接することさえほとんど望みのないことである。」

と、言っています。

「神を知っているなんて傲慢だ!」と、ユングに対して向けられた非難が誤解、無理解であったことが、

よく分かります。



また西田幾多郎は、

「厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。」

「分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。」

直接経験の事実として感ぜられるのである。」

「善を求め善に遷るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。
(中略)しかし抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。
この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。」

というように、そのような存在は、「事実」として感じられるものであり、

決して、ただただ信ずるというような「頭での理解」ではなく、

逆に「体得の意味」でなければならないと述べています。


善の研究 (岩波文庫)善の研究 (岩波文庫)
著者:西田 幾多郎
岩波書店(1979-10)
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金子みすゞも、「(気がついたのは)それも私のせいじゃない。」と書いています。

自我という“小さな私”の頭の理解ではなく、

もしかしたら、決定的な“何か”を経験していたのかもしれませんね・・・。



今日はかなり?、スピリチュアルな内容になりましたが、

そもそも私たちは、“そういったもの”と完全に切り離して生きてはいけない

存在なのではないでしょうか。

先進国では科学がどんどん発達して、一昔前に比べて暮らしは格段に便利になったはずなのに、

一方ではメンタルの問題で苦しむ人が増えている現実が何を物語っているのか、

ユングや河合隼雄先生が述べておられることに、私は深く共感しています。



最後に。

でも、ユングも西田幾多郎も決して「唯心論者」ではありません。

こころも肉体(物)も、両方があってこそなのだと、そう言っています。

精神性も科学もどちらも必要。

やっぱり何事も「中庸」なのかもしれませんね。



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ユングと西田幾多郎

  善の研究 (岩波文庫)
  善の研究 (岩波文庫)
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日本を代表する哲学者である“西田幾多郎”の主著、『善の研究』


この作品に出会った経緯には、

実は自分でも“面白いなー”といういきさつがあるのですが、

それを書き始めると、とても私的な部分に触れることになってしまうので、

やはりブログでは“止めて”おきます。

(ニンジンだけぶらさげちゃってごめんなさい)


さて、ユングの何冊もの著作を読んだ上で、西田作品を開いてみると、

個人的には、とても興味深いと感じました。


もともとユングの思想は、幾人かの哲学者の影響も受けているのですが、

(というより、ユングの考えを裏付けするような哲学が過去に存在したということです)

西田幾多郎の哲学とも、深いつながりがあるように私には感じられました。


宗教の意義についてだの、私たち人間のこころとか意識、

もっと言えば「真理」についてだの、

表現の差こそあれ、ふたりが言っていることにそれほど大差はないような気がします。



例えば、

ユングの言う「Self」と西田幾多郎の言う「神秘的或者」は同義であると思われます。

そして、これらはともに、「直接に体験」できるものであり、

偉大なる芸術的作品や思想、そして真の宗教心はその個人の体験より生まれる。

と語っている点や、

有名なユングの「シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)」にも通じることを、

西田幾多郎は次のように記しています。

「宇宙の現象はいかに些細なる者であっても、

決して偶然に起り前後に全く何らの関係をもたぬものはない。

必ず起るべき理由を具して起るのである。

我らはこれを(ただの)偶然と見るのは単に知識の不足より来るのである。」

などなど・・・。



興味のある方は、二人の著書にぜひ直接目を通してみてください。

両者の考えに色んな共通項を見いだせて、楽しくなってくるかもしれません。

(同時代を世界の東西で生きた二人にみられるつながり。これもシンクロニシティ?)



最後に・・・。

ユングの命日:(1961年)6月6日

西田幾多郎の命日:(1945年)6月7日

と、日にちは1日違い。

この「つながり」もただの偶然ではないのかも?



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病気になって良かったこと


sunbeam./Matthew Hine


先日、4月1日発刊の雑誌に掲載された、俳優の萩原流行さんとの対談の中で、

記事では紹介されなかったお話について、今日は取り上げたいと思います。


流行さんとの対談では、本当に共感できるお話を色々とお聞かせいただいたのですが、

その中でも特に印象深く、今でも私の胸に響いている言葉があります。


うつ病に罹られての辛さ、そして失ったことなど。

思いを率直に語られた後、流行さんはこのように言われました。

「でも、悪いことばかりではなかった。“病気になったからこそ”分かったこともあった。

自分がうつになって初めて、それまで意識せずにしていた自分の言動で、

知らないうちにどれだけ周りの人を傷つけていたかということに気づいた。

自分が病気になり、その苦しさを思うように伝えられない中で、周りの無理解さに出会ったとき、

今までの自分のことも改めて振り返られるようになった。

このことは、この病気になったからこそ分かったこと。

だから病気になって悪いことばかりではなかった。

病気になって良かったこともあったんですよ。」


そのように、淡々と述べられた流行さんからは、その言葉の持つ深い重みのようなものが、

私には伝わってきました。



ユングは、大病を患い苦しい思いを体験した後に、

「存在するものにyesということ。あるがままに対して無条件にyesということを学んだ。

自分の運命にyesということがどれほど大切かを初めて理解した。」

と言っています。

これは、病を患い苦しんだ経験をしたからこその思いが、ユング自身にあったということです。


私自身も、その渦中にいたときには、

「なぜこんな思いをしなければならないのだろう」

と思い苦しんだ出来事も、時間が経って振り返ってみれば、その時の経験や思いがあればこそ、

少しは自分の成長につながったのではないのかと、過去を冷静に振り返られるようになりました。



どんなことも、後から振り返ってみると、少しずつ何かが見えてくるのかもしれません。

(以前にも同じような内容の記事を書いていますので、合わせてご覧ください。
 コンステレーション )



「病気になって良かったこと」

長年、うつ病と向き合っておられる萩原流行さんだからこその、静かに響いてくる言葉でした。



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人が言葉を失うとき

この度の大震災の様々な状況が、メディアを通じて伝わってくる中で、

色々と思うことがありました。

そして、被災者の方が味わった、地震・津波に襲われた当時のパニックとも言える

その場面がどんなものであったか、想像すると息が詰まるような思いがしました。


私は昔、母がまさに命の危機に瀕している場面に、突然向き合った経験があります。

その時は、今一体ここで何が起こっているのか理解できないパニック状態の中で、

とにかくその状況に自分なりに対処しようと、ただただ必死だったことしか覚えていません。

反面、今でもその時の一瞬一瞬の映像は、鮮明に記憶に残っています。


震災にあわれた方とは全く状況が違いますが、でも、突然予想もしない出来事に

出会った時の無我夢中ともいえる状態がどんなものであるかは、

自分の経験を通して想像すると、やはり胸が締め付けられる思いがしました。



昔、人は本当に恐怖を感じると、叫び声すらあげられない。ただただ言葉を失うしかない。

という話を、どこかで聞いたことがあります。


人間は、深いレベルで本当に感情が動く時、そこでは言葉は失われるのだと、

私も思いました。


恐怖だけではなく、嬉しいや悲しいはもちろん、

とにかくその感情がとても深いレベルのものである場合、

言葉で表現などできなくなるのだと思います。



カウンセリングでも、クライアントさんのとても深い感情に直面する場面があります。

そんな時は、こちらも何の言葉も出なくなってしまいます。

でも、私はそれで良いのだと思います。

下手な声がけをするより、その思いにこちらも真剣に向き合っていれば、

そこに言葉はなくてもいいのだと。



過酷な「現実」に立ち向かっている方々への言葉は、私にはやはり見つかりませんが、

その立場におられる方のお気持ちを、真面目に想像して、痛みのような何かを感じるだけでも、

深層心理学的には全くの無駄ではないのではと、勝手ながらそう考えています。




お見舞い申し上げます

この度の未曾有の震災では、多くの方が被災され、

今なお、過酷な状況下におられることと思います。

特に突然の惨事で、ご家族やお知り合いを亡くされた方の心情を思うと、

私自身、過去に身内を急に亡くした経験があるだけに、言葉もありません。

心からお悔やみ、お見舞い申し上げます。


私も自分にできることをやっていこうと思います。


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