心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

心理学一般

人をつくる愛着

mother and child by gustav klimt
mother and child by gustav klimt./Kim+5

今日も『Dr.倫太郎』絡みです。
こころの病がテーマのドラマですから、当然ながら、あちらこちらに引っかかりどころ満載です。
(自分なりに咀嚼して)毎回、色んな意味で学べる点があります。


8話では、母親に「あんた、もう必要なくなった」と別れを告げられた明良が、「私を捨てないで」と激しく取り乱すシーンがありました。
そして感情のコントロールが利かなくなった夢乃(
明良)は、倫太郎の家に無断で入り込みお金を
探して荒らすという、常軌を逸した行動にまで及んでしまいました。

明良と夢乃という、分離した両方の人格が表に出てきてしまっている「解離性同一性障害」の根底に
あるものが、幼少期から何度となく繰り返された母親に置き去りにされる体験、大きな不安感に
あることが、はっきりと示された場面でした。



一方、そのひとつ前の7話は、明良親子とは対照的な、看護師の薫母子の心温まる物語でした。

息子の深也くんが、倫太郎の診察室で夢乃が散らかした箱庭アイテムの動物たちを並べるシーン。
どの動物も、親子対で一列に並べられていました。

そして、深也くんが外のベンチで、ピンクの象のおもちゃで遊んでいるところへ明良が来るシーン。
話しかけられた深也が指し示した草むらの先には、お母さん象が置かれていました。
小象が遊んでいる少し離れた場所から、ちゃんとお母さん象がその様子を見守っていて、そこには
「安心」がありました。


その他にも、倫太郎と薫の会話や、親子で倒れた自転車を起こすシーン、検査の申し出があったときの薫の(自身と)深也くんへの向き合い方など、全ての場面で、「明良親子」とはまさに相反する
母子関係が描かれていたように思います。

深也の検査が終わった後、倫太郎と薫が深也くんを見守りながら語り合っているシーン。
そこでも、深也くんはひとりで、倫太郎の診察室の外で動物のアイテムをベンチの上に並べていましたが、その親子の動物たちは全て、「きちんと向き合って」いました。

見えない心の部分での薫親子の関係性が、言語ではないところで(だからこそ)見事に表現されているその様子を見た倫太郎が、優しく微笑みながら「深也くんはしっかり成長しています」といった
言葉には、薫への敬意が含まれていたように私は感じました。



このドラマで、明良の解離性同一性障害の原因となったのが、母娘の関係性にあると設定されていることは誰の目にも明らかで、それはかなり「ドラマティック」な描かれ方をしていますし、明良の置かれた境遇は確かに“特殊”な例なのかもしれません。

しかし、根本の部分。
「親子の愛着の問題」として捉えた場合には、観ている側にとっても決して「他人事」ではない、
普遍的な意味を持ってくるのではないでしょうか。

従来、愛着の問題は、子どもの問題、それも特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かった。
しかし、近年は、一般の子どもにも当てはまるだけでなく、大人にも広くみられる問題だと
考えられるようになっている。

愛着の問題は、一部の人の特別な問題ではない。
ほとんどの人に広く当てはまる問題でもある。

愛着の安定性や様式は、対人関係のスタイルや親密さの求め方だけでなく、その人の生き方や関心、恋愛や子育ての仕方、ストレスに対する耐性や生涯の健康にまで関わっている。
意識しないところで、知らずしらずその人の心理と行動を支配しているのである。
                                        【岡田尊司】


「愛着障害」が人格形成に及ぼすマイナス面だけではなく「創造性」という部分、両義的な意味に
きちんと視点を充て、また克服のプロセスや人格成長についてなどにも触れられていて、
厳しさのみではなく希望も持てる内容なので、「自分や家族を振り返る」きっかけとしては
とても良い本だと思います。

(実際、よく売れているようです)


まさに、明良を思わせるこんな一文もありました。
どんな理不尽な仕打ちをされようと、子どもは親を愛し、求めようとする。
そのため、深く傷つきながらも、親を責めるのではなく、むしろ自分を責める方向に気持ちが
向かう。

自分がダメな子だから親は愛してくれないのだ―そう考えて納得しようとする。

「納得しようと」、頑張って自分の気持ちを抑えて抑えて、その挙句に出てきたのが、
夢乃という影の人格。
「私が明良を守っているのだ」と夢乃は言っていましたが、確かに、自分を守るためには致し方なかったのでしょう。

ひどく乖離してしまった二つの人格を統合していくことが、明良と夢乃の治療になってくるわけですが、実は私たちも、通常は無意識内に留まってくれている「もうひとり(いえ複数)の私」を、
自我の私に統合していくことで、こころの成長をはかることができます。




少し脱線してしまいましたが、もう一冊、こちらも同じく岡田尊司氏の著書です。


明良は解離性同一性障害ですが、近年では、この「境界性パーソナリティ障害」が、“時代の病”として急増しているようです。

ドラマの中でも、倫太郎に激しく執着する人物像として描かれて(登場して)いましたが、
このこころの病にも「愛着」の問題が強く絡んでいます。


子どもの数が減り、一人ひとりの子どもが、手厚く大切に育てられているはずの現代において、愛着の問題を抱えた子どもだけでなく、大人までも増えているという現実がある。

比較的マイルドな愛着の問題は、愛着スタイルが確立するとともに、自立への圧力が高まる
青年期以降にさまざまなトラブルとなって現れ始める。


大人にひそむ愛着障害の増加を間接的に示しているのは、たとえば、境界性パーソナリティ障害の増加であるし、依存症や過食症の増加である。
これらは、愛着不安の強いタイプの愛着障害が増えていることを示唆していると考えられる。
                                         『愛着障害』


『愛着障害』を読んで何か興味が湧いた方は、さらに『境界性パーソナリティ障害』に目を通されることで、更なる気づきや理解が得られる点があろうかと思います。

境界性パーソナリティ障害だけではなく他のパーソナリティ障害など、こころの病には併存する症状がみられる場合が少なくないので、その根底にあるものを知ることはもちろん、回復の過程についても、共通項として学べる内容が含まれていて理解が深まります。

境界性パーソナリティ障害は、一見、特殊で狭い問題のようでいて、実際は、さまざまな領域の幅広い問題に通じる普遍的なテーマを含んでいることに気づかれるだろう。

まさに、人が生きるとは何か、何によってそれが可能になるのかという、人間にとってのもっとも根本的な問題を突きつけてもいる。

                            『境界性パーソナリティ障害』




こちらは専門的にはなりますが、河合隼雄先生をはじめとする、錚々たる心理専門の先生方が執筆に加わっておられ非常に重厚な内容の著作です。






河合隼雄先生は境界性パーソナリティ障害という“時代の病”が、現代人の意識の拡大に関連して
いると、大きな視点から指摘されておられます。


(前略)必要なことは、片子の人間としての存在も、鬼としての存在も両方を許容すべきでは
ないだろうか。


近代自我を拒否するのではないが、それをよしとして、自我の強化のみを(中略)目標にするのではなく、近代自我とは異なる視点から−(中略)ものごとを見ようと試みることではないだろうか。

「現代に生きる」人間、あるいは、せめて生きようとしている人間であることを自覚すると、境界例の人たちが、そのためにわれわれに教えてくれる−教えるというよりは、きたえるというほうが
いいかもしれぬが−ことがわかるのである。


現代人は相当な意識の拡大を強いられており、それはそれ相当の苦しみを必要とするもので
ある。



半鬼半人という表現がどうしても気にいらない人に対しては、われわれは人間ではあるが、
鬼の世界との接触を保ち、それを切って棄ててしまわないように努力すべきだ、
と言い換えてもいいだろう。

そのような意識の拡大は現代人すべての課題であると思うのである。

                                           【河合隼雄】


「“時代の病”がわれわれに教えてくれる」こととは、
安易に片方に偏ってしまわないこと、「半鬼半人」のしんどさを抱え続けること、
「海と陸」の両方に立ち続けること、「自己も自我も」実現すること。


「中庸を生きる」意味を知り、それを自分のこととして自覚することにあるようです。

そしてそれは、「現代の子育て」の問題にも通じています。
親の生き方や子どもへの接し方が簡単に「偏ってしまうこと」によって、その影響を受けた子どもが、
否応なく境界に立たされる苦しみを抱えてしまうという、皮肉な結果につながる可能性があることが
示唆されています。




おわりに−愛着を軽視してきた合理主義社会の破綻
 
愛着障害は、多くの子どもだけでなく、大人にもひそんで、その行動を知らずしらず左右し、ときには自らを損なう危険な方向に、人生をゆがめている。
その人のもつ愛着スタイルは、対人関係だけでなく、生き方の根本の部分を含む、
さまざまな面に影響している。

それほど重要な問題であるにもかかわらず、一般の人だけでなく、専門家の認識も非常に
遅れており、むしろ、愛着の問題を軽視してきたとも言えるのである。


すなわち、なぜ、手厚く子どもを育ててきたはずの現代社会で愛着障害をベースとする問題が
増え続けるのか、ということにも関わってくる。


この数十年、社会環境が、愛着を守るよりも、それを軽視し、損なう方向に変化してきたということに尽きるのである。

愛着という要素は、効率主義に反するものとして、ないがしろにされ続けてきたのである。
合理的な考え方からすると、古臭く、本能的で、原始的とも言える仕組みは、もっと効率的で、
近代的な仕組みに取って代わられるべきものとみなされたのだ。



                                             『愛着障害』




女性の社会進出は、たいへんにけっこうです。それはどんどんやっていただいてかまいません。
それをやりながら、自分の子どもの本質的な幸福というものを考えてもらえたらいいわけです。
                                        【河合隼雄】




母性の機能を、今日は意識したうえで行わなければならない。すなわち、「母性の意識化」で
ある。

                                      【河合隼雄】




「自分自身を生きつつ、子どもとの愛着も固めていくこと」に、マニュアルも、合理的で効率的な方法もなく、道なき道を掻き分けてとにかくやっていくしかないようです。

その意味と大変さを自覚することがなにより大切で、迷いながらも真正面からそこにきちんと取り組む重要性を、実際の家庭問題に取り組んでこられた心理エキスパートの先生方が、もう何年も前から、
それぞれの言葉で伝えようとされているのだと、新しい表紙を開くたびに感じとれます。




倫太郎や明良がずっと向き合っている(引きずっている)のも、結局はその土台の部分ですが、
次回最終回では、ひとつのトンネルの出口が垣間見えるようなストーリーになっていればいいなと
思います。



こころの距離

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前回記事で触れた、『Dr.倫太郎』、続けて視聴しています。

TVドラマなのであくまでも“フィクション”として観ること、現実との相違があることは当たり前として、それでも、こういった内容の“物語”が今、多くの人の目に触れることはひとつの機会になるのではないかと、個人的にはそう感じながら毎回楽しみに観ています。

 

倫太郎の患者への関わり方など、たしかに色々と突っ込みどころはあるとしても、そういった見かけや設定という外枠のことではなく、本質的な部分で、観ている側の心に何か響いてくるものがあることが「良い物語」の条件であり、それは小説でも映画でもTVドラマでも、同じことなのだろうと思います。

(と言いつつ、一般的にはあまり気づかれないようなところで、実は緻密な作り方がされている場面も見受けられます。例えば、夢乃が一頭の馬を箱庭の中に置いたシーン。その解釈を倫太郎もドラマの中で語っていましたが、それがなぜ“馬”なのかという点にもきちんとした意味が含まれていると、私は思いました。

以前にこのサイトでご紹介した映画『危険なメソッド』の中でも、ユングが自分の夢に出てきた馬についてフロイトと語り合っているシーンがあります。余談ですが、私の夢にも馬が出てきたことがあります。

ユングは自身の論文、『夢分析の実践的使用』において、ある患者の夢の解釈をする上で、“馬”の象徴性について次のように論じています。

「馬」は神話や民話に広く流布する元型である。動物としての非・人間的なこころ、人間に近い動物的側面、つまり無意識を表象する。

これが、民話で馬がときどきヴィジョンを見たり、声を聞いたり、話をしたりする理由である。

家畜としては、馬は母親元型と近い関係にある。

人間よりも下等な動物として、それは身体のより本能的な領域とそこから生じる動物的衝動を表象する。
(後略)

(このドラマの監修に、専門的知識を持った先生方がきちんと携わっておられることが伝わってきます。)

 


上記のような点を読み解いたり再確認したりする面白さがあるのはもちろん、でも何より、このドラマを通じて、現実の臨床現場において新しく話題や議題が提起されたり、「こころの世界」を日頃全く意識していない人たちに、僅かでも何かの興味が生れるとしたら、“倫太郎の物語”はただのフィクションではなくなってくるのだろうと思います。


「こころの世界」は例外なく誰しもが自分の内に持っているものであり、そこを全く無視して生きるよりは、「興味を持つこと、知ること」により、生き方を根本から改善できる可能性が出てくるわけですが、でも実際には、「向き合わざるを得ない状況」に追い込まれてやっと、そこに目を向け始めるケースがほとんどではないでしょうか。

 

ユングや河合隼雄先生が言われている「時」のことを考えると、個々に自分の内に向き合う最適な「時」があって、それは確かに“自然にもたらされるもの”なのかもしれませんが、一方、のっぴきならない状態になって初めて自分の内側に目を向けたその時が、もう手遅れになっていることもあります。

若しくは、向き合うことすらないまま、最悪の結果を迎えることだって十分あり得ます。

追い込まれてから知るのでは、もう遅すぎる場合が実際にあるのです。

 

だから“今”、知っていこうとすることだって、それは、誰にとってもその人なりの意味が出てくるのだろうと思います。

“今”既に、「こころの世界」から大きな影響を知らず知らず受けていて、自分でも全く気付かないうちに、その影響によって何かしらの生きづらさを抱えている人も決して少なくはないはずです。

もっと言えば、無意識からの影響を全く受けずに生きている人なんて、この世には存在しないからです。


もちろん、闇雲に知ろうとする必要はないし、“面白半分”で続けられるようなものでもありませんから(倫太郎の言葉を借りるとすれば、遅かれ早かれ“覚悟”が必要になってくると思います。)、あえてそんなことをしなくても、平穏無事に毎日を送れているのであればそれに越したことはありません。

ただ、何かで行き詰っている場合、その原因が外側の世界ではなく、自分の内側にあるのかもしれないと気づくことによって、本当に「変わり始める」第一歩になる場合は少なくないのです。


 

ドラマを通して気になった点をもう一つ。

ここまでの放送で、夢乃にしろ、倫太郎にしろ、その他倫太郎の患者たちにしろ、良きにつけ悪しきにつけ、「母と子」の関わりが深く浅く、色んなパターンで描かれています。

人格が形成され、それが維持されるうえにおいて、母が子に与える(与えた)影響の大きさと深さが、暗喩的にドラマの中でも表現されています。


心理療法の世界では、「親子」の関係を無視して進むことはまず有り得ないわけですが、(来談した際の主訴が始めは全く違うことであっても、一定期間面接を続けていれば、どこかの時点で必ず“親”のことが出てきます。やはりそこが“ベース”なのです。)

ひとりの人が一生を生きていく上において、それほど、親(特に母親)から受けた影響は大きいのだと、学問的にはもちろん、自他の体験を通して、納得せずにはいられません。

そしてその影響の大きさと深さに、100%気づけている人はまずいないと思います。

河合隼雄先生曰く、「井戸掘り」をしなければ、それはなかなか気づけるようなものではないからです。

 


『Dr.倫太郎』を通じて、何か「こころの世界」に興味が湧いて、現実のケースなり心理学の知識なりを、個々が自分で色々と(是も非も含めて)探索していくきっかけになれば(心理学に関する良書も色々と出ていますから、その気になれば、自分の興味の度合に合わせて、いくらでも“知識”を取り入れていくことはできます。知識から、実際の「井戸掘り」に入っていく場合もあると思います。推薦図書については、改めて記事にしたいと思います。)、“日野先生”の功績は、フィクションの枠を超えたものになってくるのでしょう。



さて、倫太郎と夢乃の二人には、この先、さらに新たな展開が待っている感じですね。

転移は起こらない方がやりやすいと思います。起こってしまう場合にそれを取り扱うことは、なかなかむずかしいことです。よほどカウンセラーが体験と訓練をつんでいなければできないことです。


カウンセリングというのは厳しい関係です。クライエントは自分の力で立ち上がるといっていますが、自分の力で立ち上がることほど、人間にとって厳しいものはありません。


私は「あなたは他人の深い問題を聴いていながら、どうしてつきまとわれないのだ」と聞かれることがあります。(中略)強さがカウンセラーには必要です。

よほど自分を知っているつもりでも、転移と逆転移のなかに知らず知らずのうちに巻きこまれていくような事柄が起こるわけです。


いわば、素人の喜びそうな恋愛に似たような感情というものが、ほとんど愛と関係のないものだということを知れば知るほど、そういうこと(陽性転移)があまり嬉しくなくなります。端的にいって、深いけれど親しくない関係、親しくないが、それゆえにこそ深い関係に入りこめるという事実をよく知るべきです。


クライエントからの陽性の転移に喜んでしまって逆転移を起こし、そのために、そこから逃げ出るための無用の苦しみをクライエントに与えてしまうことは、カウンセラーとして厳しく自戒せねばならぬところです。


たしかに逆転移をあまりにも恐れていては、カウンセリングはできません。「傷つくことによって癒す」ことは治療の根本とさえいえます。しかし、カウンセラーとしても、自分を一人の生きた人間として、その弱さや力の限界を知るかぎり、限界を破ることの恐ろしさをあくまでも心にとめておくべきです。


われわれは限界を守ったためにうまくゆかないにしても、たかだかクライエントにしばらく恨まれる位がおちですが、限界を破ったために生じる誤ちはクライエントの命を奪うことにさえなりかねないのです。


クライエントとカウンセラーの深い関係が確立し、クライエントの力も強いときは、限界の問題に神経質になる必要はありません。少し位の限界を破っても、それによってクライエントが強い転移を起こすこともありませんから。


転移の問題は非常に複雑で困難なことです。カウンセリングにおいては、カウンセラー個人の人間としての限界があることは大切なことです。

カウンセラーは、(中略)自分の限界をよく心得ておくべきです。

                                             【河合隼雄】


「境界を超えても、自分は戻ってこれる」と言っていた倫太郎。

これからその実力の見せ場となるのか、自身への過信と無防備さを悔やむことになるのか。

学びにしつつ、見届けつつ。

これからの放送も楽しみです。


【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)

「よいことをするには時間がかかります」

(※ロジャーズ一番の代表作とのこと。未読だったので、今日をきっかけに読み始めたいと思っています。ちなみに今日の記事の講師の先生が翻訳されています。)


新年が明けて早一ヶ月。
昨年は結局、たった4度しか記事を書けません(書きません)でしたが、今年はもう少し、しっかりと整理していきたいと思っています。(あくまでも抱負です・・・)

さて、前回書いた老子や夏目漱石、無為、個性化については、まだまだ整理したいことがあるのですが、今日は全く違う内容にします。


昨年、ロジャーズ派の(某大学教授の)先生の講義を受ける機会がありました。

カール・ロジャーズ(Carl R.Rogers)といえば、今日のカウンセリングの3つの主要理論、精神分析療法(精神分析理論)、行動療法(学習理論)と並ぶ、「来談者中心理論(client-centered therapy)」の創始者として有名ですが、1940年当時のアメリカで、それまで主流であった指示的アプローチを批判し、非指示的方法を提唱したその背景には、「人は自分自身を発展・成長させる力を内在している」といった、技法よりも“人間中心”の人間観があり、また、カウンセラーとクライエントという2人の人の“心理的接触が人格変化の生起に必要な条件”とされている点、「潜在的な自己(potential self)を体験する」などの自己理論における体験を重視したその概念は、ユングの考え方に(かなり!と私は思います)通ずる点も感じられ、改めて、その共感できる興味深い理論に、受講中ワクワクしながら耳を傾け、ペンを走らせていました。

ロジャーズによる自己概念と生命体的体験の一致・不一致による人格の適応理論
「心理的適応とは、自己概念が、ある水準以上の象徴化において、生命体の知覚的・直感的な体験(sensory and visceral experience)の全体を自己概念と一致した関係の中に取り入れているか、あるいは取り入れることができるときに存在する。」(Rogers,1951)

やはり私たちの心の安定には、「適切な意識化」、「無意識と意識の適切な関係」が重要なのだと、つくづく考えさせられました。



たった1日の講義ではありましたが、ご存命のロジャーズの直弟子の談話についてなど、紙面ではなかなか伝わってこない、講義ならではの貴重な情報も得られて、もう、あれもこれもとこの場で取り上げたいことは沢山あるのですが、その中でもあえて今日は、カウンセリングに関するあるデータに的を絞って書いていきたいと思います。

下記は、そのデータです。

・カウンセリングに申し込んだだけで、セッションを一度も受けずに症状が消える人・・・14%
・セッションを2回目まで受ける人・・・3割超え
・ドロップアウト(カウンセリング中断)・・・46%(それ以外は長期継続となる傾向)
・一応の問題解決が出来たとクライエント本人が感じる・・・セッション60回前後(個人差あり)
                                  

上記データ分析が具体的にどのような統計を基にしているのかは、「ロジャーズ派のみならず、他のセラピー法でも大体共通しているデータ」としか聞かなかったので、私も詳細については分かりません。
しかし、流派を超えた“カウンセリング”におけるデータとして、このような数字が出ているのだということには、強い関心を持ちました。

まず、「申し込んだだけで」症状が消える人が1割もいることに、色々と考えさせられるところがありますし(本人がそう思っただけなのか、本当に問題症状が無くなったのか、その辺も詳しくは分かりませんし)、次のステップの2回目を受ける人が3割ほどというのも、ある意味、「なるほどな」と思いました。
(一度は受けたけれどそれっきり、の方のほうが多いという事ですね)

そして、数回受けたけれどドロップアウトする人は約半数。
このドロップアウトには、その後、またカウンセリングを再開する人は含まれていないのか、などについては不明ですし、厳密なことは確言できませんが、でも多分この半数とは上記の「3割」に係るものだと考えられるので、こうしてみると、「カウンセリングを続ける」ということだけでも、なかなか高いハードルなのだと、このデータは物語っているような気がしました。

なおかつ、「一応の問題解決が得られた」とクライエントさんご本人が感じるのは、「“セッションを60回前後”続けた時点において最も多い」というのですから、「カウンセリング」というものがいかに“お手軽”ではないか。
その事実だけは“分かりやすく”、数字が説明してくれているなと思いました。


多くの場合、「カウンセリングを受けよう」と実際にカウンセラーのところへ来られる方は、かなり切羽詰まった問題や辛い思いなどの早急な改善を求めておられると思います。

「今すぐに解決したい」
そう強く望まれているからこそ、手間やお金を使ってまでカウンセリングを受けてみようと思われるわけで、日常の中で多少感じているような問題であれば、あえて“そんなこと”をしなくても、何とかやり過ごしていけるはずですし、実際大抵みなさんそうしておられるのではないでしょうか。

「カウンセリングに行けばどうにかなるかもしれない」
そんな気持ちを抱えて相談に来られる方が多いにもかかわらず、でも残念ながら、“実際”はそう簡単ではないことを、先の「カウンセリングに関する統計データ」は明らかに示しています。
セッション60回となるとかなりの長期戦ですが、その時点においてやっと、「問題解決」に至ったと感じる方が一番多いわけですから、多くの方がカウンセリングに求めている(であろう)“早期解決”とのギャップは著しいものがあります。
これでは、「なんだ、こんなものなのか」と、多くの方が継続しなくなるのはある意味当然だとも思えますし、「カウンセリングなんてやっても意味ないよ」という意見が出てしまうのも致し方ないのでしょう。
でも私には、それはカウンセリングというものの「本当のスタート地点」にすら立ったことのない人の感想であるような気がするのです。
(ちなみに私が分析を受けている佳代先生に、「本当のスタートは(セッション)20回目ぐらいから」と、教えていただいたことがあります。)


河合隼雄先生も、「カウンセリングに対する批判」として、この「時間がかかりすぎる」点について解説されています。

カウンセリングに対する批判として、まず言われることは、「時間がかかりすぎる」ということです。
そんなのんきなことをしてはいられない。(略)すぐによくしたいのだ。
それに一週間に一時間会って・・・などとゆっくりしたことはしておられない。
(略)待ちきれない。もっと早く解決する方法はないかという批判です。

時間がかかりすぎるという批判に対して、もし正面から答えるとするならば、「よいことをするには時間がかかります」と言わねばなりません。よいことをするのに時間がかかったり、お金がかかったりするのは当たり前のことなのです。

われわれの第一のねらいとしている、クライエントの可能性に注目してゆこうとする仕事は、どうしても時間を必要とするのです。たしかに、時間がかかることは残念ですけれど、これはまったく仕方のないことなのです。
カウンセリングの実際問題
 
河合 隼雄
誠信書房
1970-08-10





なぜ、カウンセリングとは時間がかかるものなのか、「これはまったく仕方のないこと」なのか。
その点については、“こころ”についての深い意味合いが絡んでいますので、今日はとてもそこまでは触れられませんが、抱えている問題に取り組む際、“根っこからのホンモノ”の解決に至るためには、時間がかかるのはやはり「仕方がない」のです。

もちろん、「取りあえずの解決」という道もありますが、それでは、またいつか同じような問題に悩まされることになるとも限りません。

そのときは一見成功したように見えても、結局は発展させるべき可能性に目をつむることによって得た一時の安定にすぎないときもあるわけです。                    (河合隼雄)

“一時の安定”という早急な解決は往々にして、根本的には何も変わっていない、また同じような問題をくり返すことにもなりかねないのです。


「よいことをするには時間がかかる」カウンセリング。
進むスピードも様々ですし、時には休憩もOKなのだと、私は思います。
ゆっくりでも休みつつでも良い。
一度ドロップアウトして、環境や体調を整えて、また始めるのでも良い。
(カウンセリングを始めることによって、“状態が悪くなる”場合も十分あり得ます。しかしそれは、乗り越えなければならない道であることが多いのです。その点についても、またいつかこの場で書いてみたいと思っています。)
歩みを止めない限り、自らの秘められた可能性への扉は、ずっと開かれているはずです。

そしてゴールは、60回というデータが示すような、遠いものかもしれません。
でも、フィニッシュテープを切った者にしか分からないカウンセリングの醍醐味。
味わって後悔することはないと、個人的には強く、そう感じています。
そしてその味わいは、確実に新しい私の血肉となるものです。


※今日ご紹介したデータについては、根拠の出典はなにも明示できません。
あくまでも、私が講義のなかで聞いて書きとめたものを取り上げただけなので、その旨ご了解いただいて参考にしてくださればと思います。
(と言いつつ、個人的体験としては、私は“納得”しています)


心理学にも“萌えキャラ”?

先日、ある紙面からこんな“タイトルと背景のイラスト”が目に飛び込んできました。


新版 精神分析入門 上 (角川ソフィア文庫)
新版 精神分析入門 下 (角川ソフィア文庫)
新版 精神分析入門 上 (角川ソフィア文庫)  
新版 精神分析入門 下 (角川ソフィア文庫)


別の出版社から出ている、同じ、フロイトの「精神分析入門(上下巻)」の
表紙はこちら。


精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)精神分析入門 下 (新潮文庫 フ 7-4)
精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)
精神分析入門 下 (新潮文庫 フ 7-4)



ちなみに、私はどちらの著書も実際に手に取ったことはないので、
“中身”の訳文について書評を期待される方は、これ以上読まないでください(笑)。
(既に上記の本を読まれた方がおられましたら、逆にぜひレビューをお願いします)


あくまでも私が興味をひかれたのは、フロイトの「精神分析入門」という、
一般的には固いイメージのタイトル本の表紙には不釣り合い?とも思える、
いわゆる“萌えキャラ”的な、可愛くて美しい男女のイラストが描かれていた点です。

もちろんこれ、売り上げを伸ばすための戦略として、
出版社が意図的におこなっているわけですが、
確かに「おっ!?」と気を引かれますよね。

「“精神分析”だなんて、何だか固くて難しくて怪しそう・・・。」
というイメージを持っておられる方も、まずは本を手に取ってみようという気に
なるのではないでしょうか。

そして、その中のページをめくってみると、
「夢の顕在内容と潜在思想」などの言葉が並んでいるそうです。


夢やおとぎ話に出てくる、うっとりしてしまうほどの素敵な異性。
ユング心理学でいうところの、
男性であればアニマであり、女性であればアニムスという、
誰にでも存在する無意識内の重要な彼や彼女。

フロイトの本なのだけれど、表紙の“萌えキャラ”の二人が、
どうもそのお姫様や王子様像とも重なって見えてしまい、
上下本に対になって描かれている点にも、何かザワめいたものを
感じてしまうのは、私だけでしょうか・・・。


○●○●○●○●○

早速アマゾンで購入してみようかと検索したのですが、
こんな本も見つけてしまいました。

世界神話事典 創世神話と英雄伝説 (角川ソフィア文庫)
世界神話事典 創世神話と英雄伝説 (角川ソフィア文庫)
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気の多い私。
迷った挙句、結局この神話事典のほうを購入してしまいました。
楽しい内容がありましたら、またブログで綴りたいと思います。


最後に余談として。
今日ご紹介した「角川ソフィア文庫」からは、デカルトの「方法序説」や、
アランの「幸福論」といった哲学書も、“萌えキャラ”表紙で出版されているそうです。
心理学や哲学をはじめ、古典文学を扱っている文庫だそうですが、
その名称に使われている“ソフィア”とはギリシア語で「叡智」を意味し、
あの上智大学の「上智」もここから名づけられている、とても意味深い言葉です。
そして、ユングが大変興味を持ったといわれている、「グノーシス神話」に出てくる、
転落した女神の名前でもあります。
私たちのこころや精神というものに深いつながりのある“ソフィア”についても、
いつか書いてみたいと思っています。

                 
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悩みは自分が作っている


happiness in nature /
Madalena Pestana

先日、コーチングを縁に知り合った方から、
「新年のご挨拶を兼ねて」と、
ご丁寧にお電話をいただきました。

昨年、初めてお会いしたときに、
ご自身がその時に抱えておられる心配事について
お話をお聞かせいただくことになり、
私がコーチの資格を持っていることを知ると、
「ぜひ、コーチングしてみてください」と、
その時、一度限りのコーチングをさせていただきました。

その内容は勿論、ここではお伝えできませんが、
数時間じっくりとお話をお聞かせいただいたのです。


その方は、お友達などには、ご自身の悩みを打ち明けたことがあるとのことでしたが、
コーチングやカウンセリングを受けた経験はなかったとのことで、
話している途中に、
「あぁ、友だちに言うと、割と、
『こうしたらいいんじゃない』って
アドバイス的なことを言われることが多いけれど、
そのへんが(コーチングなどは)やはり違うんですね」
と、気づかれたように言われていました。

しかし、時間も迫ってきたのでそろそろ終わりに、
となったとき、最後に私にこう言われました。

「“コーチング”ではなく、あなたという一人の人間として、
どう思うか、意見を聞かせてくれませんか?」

私も、その時の二人の関係性を考え、
問題ないと思ったのでご要望にお応えして、
「これはあくまでも私見ですので、参考程度に受け止めてください」と言った上で、
自分の率直な考えをお伝えしました。

そして、お別れしたのですが、帰宅後にメールをいただき、
「最後の率直なご意見が、とても嬉しかったです」と、
書いてくださっていました。
(ちなみにその意見は、ご本人の選択に必ずしも添うものでは
なかったのですが・・・)


この件の他に、カウンセリングなどでも、
私自身の考えや意見を求められる場面が少なからずあります。

私は、一人ひとりのクライアントさんとの関係は、
とても個別的なものだと思っていますので、
その時の状況や、二人の関係性を考慮した上で、
誠実に自分自身の思いをお伝えすることもあります。

しかし本来、コーチングでもカウンセリングでも、
「答えはご本人が持っている」という前提で、
コーチやカウンセラー側の意見によって、
クライアントさんの自主性を阻むような関わり方は、
よくないとされています。

そして実際、「答えを持っているのはご本人」であることに、間違いはありません。
だからこそ、河合隼雄先生も、
「カウンセリングとは“何もしないことを一生懸命すること”」と言われています。
(そして、それを真の意味で行うことは、実はとても難しいのです)

ただ、迷っているご本人にとってみれば、
周囲の意見を聞いて、自分の考えがどうなのか、
その尺度を持ちたいという思いも、当然至極だと思います。

だからその方も、「コーチングってアドバイスしないんですね」と感心された反面、
最後には、“私自身”の意見を聞きたかったのでしょう。



そうして年が明け、お電話をいただいたのですが、
その日、挨拶もそこそこに、明るい声でこう話し始められました。

「私、分かりました。
やっぱり、私自身が悩みを作っていたんだってことが。
私の考え方一つで、悩みを作ることも、無くすこともできるんだって。
要は、私の受け取り方次第ってことですよね。
あの時、お話した心配事それ自体は、あれから何の進展もありません。
でも、切り替えて考えられるようになったので、気分は楽になりました。」

とてもすがすがしいお声で、口早に受話器の向こうからこのように言われたのです。


私を始め、お友達など、周りの方たちにお話をされ、
色んな意見を聞いたうえで、
でも最後には、ご自身で納得できる一定の結論を出されたのです。

現実には何の変化がなくても、その事実に対する「受け取り方」を変えることができ、
気分的には楽になられたのです。

そして、それはご自分で納得したからこそ、「変える」ことができたのではないのでしょうか。


また、このようにも言われました。

「生きている上で、悩みが出てくるのは、当たり前ですよね。
私の周りでも、傍から見ると幸せそうに見える方でも、実は色々と悩みを抱えているものです。
みんな、そうなのかもね・・・。
だったら、“そんなものだ”とふっ切ってしまった方が、気が楽ですものね。
やはりそう。悩みを作り出してしまうかは、自分次第。
どうしようもならないことで、あれこれ気をもんでもキリがないから、今は、為すがままで行きます。」


この日、思いがけなく頂いたお電話で、私自身が何より、とても温かいものをいただきました



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感情を抑え込んでいると・・・




前回の記事で“感情の抑圧”について書きましたが、
実は、私自身が過去に、かなり自分の気持ちを抑え込んでいる時期がありました。

もう何年も前のことで、今では、

「よく我慢できていたな。
今の私には、それだけの忍耐力はないな。」

などと、笑って振り返られるのですが、
当時は我慢しているのだということすら、明確に自覚できていない状態でした。


その時の私は、理不尽な無理解さの中で、
自分自身を見失いかけていました。

でも多分、表面的には、それほど不安定な状態であるようには
見えなかったかもしれません。

何より自分自身が、“問題がある”ということに、
あまり気づいていませんでしたし、
ただただ、忙しさの中で、流れていくように毎日を過ごしていて、
きちんと立ち止まって、自分の心や感情にしっかりと向き合うことなんてなかったからです。


でも思い返すと、あまり自覚できていなかったその頃から、
決して健康なこころの状態ではなかったのだと、今ではよく理解できます。

なぜそう思えるか、その理由の一つは、
主人が当時教えてくれたことにあります。


「最近、夜、寝言で、何だかいつも“怒ってるよ”」

ある休日、夫婦で朝食を摂っていた時、何気なくこんなことを言われました。

「え、そう?何だろう・・・。
怒ってるような夢見た記憶もないし・・・。
ホントにそんなにしょっちゅう、怒ってる?」

主人にそんな話を切り出されても、当の私自身、
キツネにつままれたようなもので、
なぜ寝言でそんなに怒っているのか、よく分かりませんでした。

そして、

「日中、怒れずに我慢していることがあるから、
変わりに寝言で怒っているのかもね。」

なんて、冗談で言っていたのです。

でも、その冗談は、どうも“本当”だったのだと、
後になって分かりました。


当時の私は、“夢”や“無意識”についての知識などありませんでした。

その時交わされた夫婦の会話も、ただの“おしゃべり”であって、
それが“意味ある”ことだったなんて、思いもしませんでした。


だけど、今になって考えてみると、睡眠時、意識が弱まり、
変わりに無意識が表出しやすくなっている時に、
そこで私は「怒っていた」のだと、自分なりに納得できました。

意識がなく、記憶もない眠りのときに、
私の無意識はそこに押しやられていた怒りを表現していたのだと・・・。


自我(意識)では、“理不尽さ”に、自分がどこまで怒りを感じていたかも、
よく分かっていませんでした。

ただ、辛くてもとにかく我慢している。当時はそんな状態でした。

でも、そこには確実に“怒り”があって、
それはきちんと私の意識に感じ取られないまま(表現なんてもってのほか!)、
そのまま無意識に押し込められていたようです。


今となっては、“寝言”でいくらかでもガス抜きをしてくれていて良かったと、
自分の無意識に感謝したいくらいです。
(主人には迷惑をかけましたが・・・(笑))

もし、ガス抜きをしてくれていなかったら、
目に見えて「不安定な状態」に陥ってしまっていたのかもしれません。



私はこの体験から、感情を抑圧することがどういうことなのかを、
少なからず理解できた気がしています。

また、“頭”で、道徳的態度にばかり固執することが、
自分の心の健康にとって果たして良いことなのか、
ということも、考えるようになりました。

そして、そういう視点で、ユング心理学を学ぶと、
その意味するところが、違和感なく「すーっ」と胸に入ってくるのです。

 
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湧きあがる感情は自然なもの


我が家には男の子の双子がいます。

もう4歳になり、日々、体も行動も話す言葉にも成長が見られます。

親としてはまだまだ大変な時もありますが、でもそれ以上に、
「そんなことする?」というような、子どもならではの仕草に大笑いすることもあり、
毎日とっても楽しませてもらっています。

大分、周りの状況や他の人の思いを察知できるようになってきたようで、
少しずつ自分を抑えることもできるようになってきましたが、
でもそこはまだ小さな子ども・・・。

感情が爆発することは、しょっちゅうです。

お互い年が一緒なだけに、興味の対象も同じレベルなので、
良い時はラブラブで(笑)遊んでいますが、
衝突することも多いのです。

親としては、
「またそんなことでー!!」
と、彼らのケンカにイライラ、げんなりしてしまうことは日常茶飯事ですが、
でもそんな中でもたまに、私自身の気持ちに余裕があるときなどは、
「こういった、素直な感情の表現を、大人も意識して見習うべきなのかなー」
などと思いながら、一歩離れて見つめていることがあります。


いわゆる、怒り、悲哀、不安、嫉妬などの負の感情は、
大人になると表現しにくくなります。

社会では、このような感情を表に出すことは、
一般的に受け入れられることではないですし、
対人関係にも大きな障害を及ぼすことになりかねないので、
誰しもが自然に抑えているものです。

でも、そのような負の感情を、
「そんなことを感じてはならない」
「そんなことを感じる自分はだめな人間だ」
と完全に否定し、その感情を亡きものとして殺そうとするのは、実はとても危険なことです。




「こんなにいろいろな感情が絶え間なく流れてくるのに、
私たちはよく処理しているものです。

しかし、こんな湧き出てくるものにいちいち責任を感じなければならないものでしょうか。

確かにオフィスで憤怒して椅子を投げつけたりするのはよくない。
他人が迷惑します。

しかし怒っているのが確かなら、それは怒ったままにしておいてはいけないのでしょうか?」

                                  【 斎藤学 (精神科医・医学博士)】




人間の感情は、「喜怒哀楽」が自然であり、それらは本来、
私たちが生まれながらに持っているものです。

決して、「喜」と「楽」だけでは生きていけないのです。

でも「怒」と「哀」は、完全に抑え込もうとしてしまう時が、
大人になった私たちにはないでしょうか。

それら負の感情を、表面的に抑えることに一時的に成功しても、
その認めたくなかった感情は、決して消え去ったわけではありません。

抑え込んだ分だけ、それらは、私たちの気づかない無意識の世界に留まり続けます。
そしてそこで、生き続けています。




「まずいのは、怒りや嫉妬を感じている自分に責任を感じて、
これを何とか抑え込もうと戦うことです。

怒りそのものでさえ辛いのに、それを感じる自分が許せないというのでは、
辛さが何倍にもなります。

「そのまま」にしておきましょう。
怒ったままでいいのです。

ただ何度もいうようですが、他人にとって迷惑なものは、あちこちに撒きちらさないでください。

怒りもそうですが、感情はやってきて、しばらくすると去って行きます。」





斎藤先生が言われるように、自分が感じている感情そのものと戦う必要はなく、
それが自然に過ぎ去るまで、そのままにしておけばいいということです。

「こんな思いを感じる私がいけない」
でも「こんな思い」は、必要だから“自然に”湧きあがってきたのです。

必要だから出てきたものを認めず、抑圧し続けていると、
いつか、それらが蓄積された無意識の世界から、
意識ではもはやコントロールできない、破壊的な形で表面化してくることもあります。

そのような例は、小さい事件も大きい事件も含めて、
たしかに、私たちの周りに存在しています。

決して「人ごと」で済ませられる話ではない。
私たちにだって起こり得ることだという自覚が大切だと思います。


だから・・・、

「こんな思い」を感じた自分にも優しく。

そして、他人に迷惑をかけないようにしながら、その認めたくない思いも殺さないように。


そういえば、今はエコが叫ばれる時代です。

“エコロジー”とは、
「人間も生態系の一員であるとの視点から、人間生活と自然との調和・共存をめざす考え方」
を意味します。

感情の“自然” も大切にし、自分のどんな感情とも“共存”していくことにも目を向けたいですね。


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他人本位ではなく自己本位

今日は、「夏目漱石の自己本位」の話に触れてみたいと思います。


夏目漱石は、その生涯の中で、幾度か「神経衰弱」に陥っています。

一説には、「5年の周期で悪化と回復を繰り返していた」とも言われています。

私はこの世に生まれた以上何かしなければならん、といって
何をして好いか少しも見当がつかない。
私はちょうど霧の中に閉じ込められた孤独の人間のように立ち竦んでしまったのです。
 
                                            『私の個人主義』

このような虚無感を、若いころから抱いていたのです。


そんな漱石は、明治33年、33歳の時に、文部省から突然、英語研究のためとして、
英国留学を命ぜられます。

当時、西洋の地へ降り立つ日本人はまだまだ少ない時代。

慣れない異国の地で、英国(西洋)の文化を日本に持ち帰る責務を負う一方で、
それに対する違和感が拭えない中、東洋人であるとの理由で差別も受けます。

そうしてついに、ひどい神経衰弱に陥ってしまいます。 


しかし、その苦しみの中から、漱石はあることに気づきます。

それが「自己本位」です。

今まではまったく他人本位で、根のない萍(うきぐさ)のように、
そこいらをでたらめにただよっていたから、駄目であったということにようやく気がついたのです。

私のここに他人本位というのは、自分の酒を人に飲んでもらって、後からその品評を聴いて、
それを理が非でもそうだとしてしまういわゆる人真似をさすのです。

私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。


夏目漱石は、「自分を主体にし、個性を大切にする」ことに気づいたことで、
後の、文豪への新たな一歩を踏み出したわけです。



「自己本位」も「自己中心」も決して自分勝手になるということではありません。

自己の個性の発展をし遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない。

自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならない。


自分を主体に生きるということは、自分に責任を負うということでもあります。


でも、漱石がそうだったように、「他人が主体」になっていると、
結局はそのことで自分自身が苦しむことになります。

自分の気づかない間は、自我(意識)で何とかやり過ごせていたとしても、
いつか自分の心の深い部分から、何かの形をとって(それが神経症だったりします)、
“気づき”を促されるようになります。


ユング心理学での究極の目的は、「個性化」といわれています。

これは、「自己化」「自己実現」ともいい換えられます。


ユングのいう「自己(self)」は、一般的に使われている「自己」とは意味合いが異なりますが、
どちらにしても、他人ではなく自分を主体にすること、の大切さに変わりはありません。


漱石が英国で苦しんだのも、大事な気づきを促すための必然の出来事だったのかもしれませんね。

苦しみが大きいほど、それを乗り越えたとき、人は大きく成長することができるのです。

ユング心理学研究で有名な山中康裕先生の言葉です。


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他人の評価はどこ吹く風


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先日の記事で、

「止める、手放す」

ことについて書きました。


今の私は意識的に、出来るだけ、

「やりたいことだけやる」

「やりたくないことはすぐ止める」

を心がけています。


と言っても現実は、人とのつながりの中で生きていて、しかも様々な制約がある中で、

「やりたいことだけやる」

というのは、正直不可能です。


果たさなければならない役割も持っていますし、

したい、したくないという気持ちとは関係なく、負うべき「義務」はもちろん、私にもあります。


でも、そんな中でも、気持ちの上では、

「やりたいことだけやる」

「やりたくないことはすぐ止める」

を心がけるようにしています。



私がそのように意識し始めたきっかけは、自身が受けている夢分析のセッションからでした。


今までの記事にも何度も書いてきましたが、無意識は夢を通して、色んな事を伝えてくれます。


自分の意識に何が欠けているとか、何に取り組んでいくべきかとか、その他にも、

不思議なことや、現時点では全く理解できないけれど何か意味があるんだろうなーということや、

分かりやすいことも、分からないことも含めて、とにかく色んなことを、

あちら(無意識)独特の“おもしろい”表現方法で伝えてくれます。

(これが、本当におもしろいんです。
こんな表現方法、自我でどんなに頭をひねっても浮かばないよねーというような形で、
見せてくれることがあります。
シンクロニシティなど、自分の知識の及ばない“偶然”の結びつきで表してくれる時もあります。
そんな感じなので、解読が難しくて意味が全く分からないことも間々ありますが、
でも分かった時は「わー、そういうことかー」と鳥肌が立っちゃうときすらあります。)


そんな無意識をとおして、私が感じたのは、

「自己中心を大切にする」

ということだったのです。


「自己中心」って、ジコチューのこと?

それって良くないんじゃない?

そう感じる方もいるかもしれません。


でもそれは決して「自分勝手」になるように、ということではないのです。



・第三者の評価を意識した生き方はしたくない。
 自分が納得した生き方をしたい。

・他人にどう見られても、まず、自分ありきでしょう。
 しあわせって、自分を大切にすることからなんじゃないかな。

                              【イチロー】


この数値社会、ブランド社会、比較社会の中で、
他人の評価をどこ吹く風と生きられるようになったら、相当の大物です。
                                 
                              【 斎藤学 (精神科医・医学博士)】
 
                       

ここで書いた、自己中心になるということは、

「自分の人生を人によって左右されるのではなく、自分のために生きる」

ということです。


斎藤学先生もご自身の著書で書かれていますが、

「他人の評価ばかり気にしていたら、それは『他人のために』生きているということになる」

のです。


他人からどう思われるかではなくて、自分が何をしたいか、どうしたいか。

自分の思いにそって行動したことに対して、周りの人がどう反応するかは「その人の」問題です。


他人が自分をどう評価するかではなくて、自分が自分をどう評価しているかが重要なのです。


極端な事を言うと、周りが「あいつはおかしい」とみんなが口をそろえて嘲笑したとしても、

それでおろおろすることもなく、ブレたりすることもなく、

自分自身で自分を認められていたら、精神的にその人は安定しているわけです。


今の社会の中で、そんな風に、一匹オオカミ的な側面を持って生きられる人がいたら、

斎藤先生の言われるとおり、まさに「大物」なわけですが、

でも、出来るだけ「自分が主体」になれるような生き方をすることは、

心理学的にみてもとても大切なことです。



周りを気にしすぎて、自分ではなく「相手の気持ち」を心配して、

自分自身の取るべき行動が左右されているとしたら、

これは自分が主体ではなく、相手が主体になってる。

ということになりますね。



確かに、あまりに協調性を欠いて周りに迷惑をかけてしまっては、

ただの「自分勝手」になってしまうかもしれませんが、

でもこれも、ユング心理学でいうところの、「バランス」が大事なんだと思います。



私は、自分では“まだまだ”だと思っていますが、でも、

「(自分は)本当はどうしたいのか」

をよく考えるようにはしています。


惰性で何かを続けてはいないか、続けているとしたらそれは“なぜ”か。

それは本当に自分がやりたいことなのか。


そんな風にじっくりと自分に問いかけてみると、

「本当のやりたいこと」が見えてきたりします。


そして見えたら、

「やりたいことだけやる」

ように“取り組む”こともできるようになります。



『他人の評価はどこ吹く風』

それを“本当の意味”でモノにできたら、人間関係で悩むことはなくなりそうですね。

確かに究極の“大物”になれそうです(^^)


***********************************

最近のブログで、イチロー選手の「名言」をいくつか引用させてもらっているのは、
実はこれも、私の“夢”が関連しています。

私は特にイチロー選手のファンだったわけではありません。
(ファンの方がいたら、ごめんなさい!)

でも、“夢”をきっかけにして、イチロー選手の名言集を見る機会があり、
すると、(私にとって)“響く言葉”を沢山見つけることができたんですね。

これも、自我の私が知らなかったことを、“夢”が教えてくれたと思っています。


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勇気を持って休むことも必要



前回の記事で、「努力は必要」と書きました。

 でも今日のテーマは、うって変わって「休むこと」についてです。
 
打てない時にこそ、勇気を持ってなるべくバットから離れるべきです。
勇気を持ってバットから離れないと、もっとこわくなるときがあります。
そういう時期にどうやって気分転換をするかは、すごく大事なことです。                                                                                                             (イチロー)

前回記事では、「こんなに苦しいのは自分だけか」というほど、見えないところで努力していると
ご紹介したイチロー選手。

でも一方、バットから勇気を持って離れること、「気分転換」の必要性もちゃんと心得ていて、
しかもそれが「すごく大事なこと」と言っています。


現実の世界で果敢に前に進むべき(努力すべき)時と、
内側の世界(こころ)にじっくりと向き合うべき時。

あれだけの選手ともなれば、どちらも必要だということを、
感覚的に理解しておられるような気がしました。


これは私の話ですが、外側の世界に意識が集中しているときは、比例するかのように、
夢をあまり見なく(覚えなく)なります。

かと思えば、寝ても寝ても眠くて、自分でもどうしたんだろう?と思えるほど、
体が休みたがるときに、思い切ってやるべきことを止めて、しっかり睡眠を取ると、
意味深い夢を立て続けに見ることもあります。


そういえば、河合隼雄先生も、ご自身の著書でこのように書かれていました。
 
私は、ふだん忙しくしているときにはほとんど夢を覚えていませんが、スイスへ行って
もう一度、分析を受けてみようかなと思っていると、不思議と夢をよく覚えているものです。

それは、ちょっと外的なことを捨てているからでしょう。
 
外のこともいろいろやりながら、さらに夢もみよう(覚えていよう)というのは、
なかなかむずかしい感じがします。                                                                                  【人の心はどこまでわかるか】


意識を、自分の内面に向けることによって、こころの世界のメッセージも受け取りやすくなるようです。

外的にバリバリやりながら、内面のワークもどんどん推し進めるというのは、
やはり少し難しいような気がします。


 私自身、寝ても寝ても眠い時などは、外的には「止まっている」ように見えていても、
「内面の世界」では色々と事が進んでいると感じられる場合もあります。

こういうときは、決して何にもしていないわけではなくて、
見えないところではすごくパワーを使っているのだと、佳代先生にもご指摘を受けました。


だから、こういう時は「休む時」と決めて、覚悟を決め腰を据えて、じっくりと休んだ方がいいのです。

そして、心のエネルギーが充電できれば、現実の世界でもパワーを
存分に発揮できるようになるでしょう。

この時こそ、思い切り努力する。

心が安定しているのだから、パワーもすぐに枯渇することなく、どんどん出てきます。

そして、思わぬアイデアやひらめきも浮かびやすくなっているはずです。


外側でどんどんアクションを起こしていくか、静かにじっくりと内側に向き合うか。

そのタイミングとバランスを的確に判断できれば、結果的に、現実の世界で、
本当の実りを手に入れることが実現しやすくなると思います。

 
まず、体をゆっくり休めて、野球がやりたくなるまで待ちます (イチロー)

抜きんでた成功者であり、ヒーローでもあるイチロー選手。

 肉体だけではなく、メンタルの自己管理も、素晴らしいようです。

それが自然に出来ているからこそ、あれだけの成績を維持し続けられるのではないのでしょうか。


「休むこと」「立ち止まること」

スピード社会ではついつい敬遠されがちだからこそ、あえて、
「やってみないと」いけないのかもしれませんね。


**************************

ブログのデザインを変えてみました。 少しのことでも、気分転換はできますね。                



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