心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

大切なこと

葛藤の中に身を置く

fork in the road, loring park
fork in the road, loring park/Connie

「"葛藤保持力"の続きは改めて」と締めくくってから、なんと1年以上も経ってしまいました・・・。
(そして前回更新からは早5か月・・・

今年度は何かと重なってしまい、ブログの更新も例年よりさらに後回しになっている中、でも、その後の記事でも、続きを「きちんと書くつもり」「必ず書きます」と記した気持ちにウソはなく、ずーっとその思いを"保持"し続けていたのですが、さすがに我ながらその抱えている感に堪え難くなってきたので、やっと重い腰を上げることにしました。


今回は「心の有り様」続きを書きます。



さて、もう何年も前になりますが、(私の分析家の)藤南佳代先生に、「第三の道」について教えていただいたことがあります。

AとBの道がある。でもどちらも選べない。
だがその葛藤に堪えていると、Cという「第三の道」が自然に開けてくる。



AとB、という二つの道について、ここからは私の感覚で書き進めたいと思います。

目の前に、今まで歩んできたAという道とは違う、もう一本のBという道が見え始めたとします。
「私」はその分岐点に立っていて、前に進むためには、二つのうちどちらかの道を選ばなければならない。

ここで、迷わずAの道をそのまま進んで行けるのであれば、何の問題もありません。
でも、Bという新しい道を見つけてしまった時点で、その人は既に、Aの道を 何も感じずに そのまま進んで行くことができなくなっているはずです。

だからといって、そう簡単にBに進むわけにもいかない。

だって、どちらかの道を選んでしまったことで、何かを失うかもしれない。
でも、どちらかの道を諦めてしまったことで、自分の大事な本当の思いを殺してしまうことになるかもしれない。


どちらも簡単には選び取れない、どちらも簡単には棄て去れない。
二つの道のどちらに進んでも、自分にとって何かしらのダメージが想定される場合、私たちは分岐点に立ち尽くしたまま、身動きが取れなくなってしまうことがあります。

葛藤のはじまりです。



そもそも現状に(少なくとも自我が)満足しているのであれば、分岐点には立っていないはずです。
何の迷いも戸惑いもなく、今まで歩んできた「一本道」をそのまま進めばいいだけなのですから・・・。

でも、自分の現状に疑問や不満を抱いている人、自分の変化の必要性に気づいてしまった人には、 今日まで歩んできた道とは違う、「別の道」が見え始めることがあります。


だけど、別の道に進路を変えるには、それ相当の覚悟と痛みを伴うことが容易に想像される場合、 やはり、今まで歩んできた(そしてそれは往々にして、無難・安定だと本人が感じているであろう)道を 簡単に棄て去ることは、なかなかできないはずです。

ですが、その人にはもう「別の道」が見えてしまっているのですから、一度見えて(気づいて)しまった その道を、簡単に"なかったこと"にすることも、もうできない。




このようなどちらも簡単には選択できない、相容れない自分の欲求を感じる「葛藤」の状態について、心理学では次のように定義されています。

「人がもつ複数の欲求が対立して、一方の欲求を満たすと、他方の欲求が満たされないという状態」
だとして、レヴィン(心理学者)が葛藤(conflict)を3つの型に区別しています。

 \楸-接近型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに正の誘発性をもち、両方ないしはすべてを満足させたいが、同時にそれをかなえることができないような場合。

◆_麋-回避型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに負の誘発性をもち、どれをも避けがたいが、それが出来ないという場合。

 接近-回避型の葛藤
欲求の対象が同時に正と負の誘発性を有する場合。
また、負の領域を通過しなければ、正の領域に到達できない場合。


どのパターンにせよ、結局は、折り合いのつかない欲求の板挟みになるわけですが、その欲求を引き起こしているのはなにかというと、当然ながらそれは「自分のこころ」であり、しかも「自分自身で簡単にコントロールできないもの」(無意識から沸き起こって来た欲求であることが多い)であるからこそ、苦しみを伴うものとなります。



人はよく、「環境のせいで葛藤が生じている」と感じる場合がありますが、例えば、傍から見て恵まれた素晴らしい環境に置かれている人がいたとしても、その個人に葛藤が起らないとは限りません。
また、逆のパターンもあり得ます。

絶望的な環境に置かれても、
「ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。」
と、受難の体験者である心理学者フランクルは、あの有名な著作『夜と霧』の中でその事実を明らかにしています。

収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。
けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房
2002-11-06



『夜と霧』での環境は、厳しい制約の中での生命の維持という究極的な問題であり、たしかに極端な例ではありますが、でもそんな中ですら、フランクルは「内なる自由」を得ることができるとしています。

結局、どのような環境下であっても、自分の心が適合できている場合は心理的な不自由は生じませんし、それを無理にでも変化させようとする欲求も起きません。

逆に言えば、「欲求が満たされていない」と感じるのも、変化という「新たな欲求を呼び起こす」のも、あくまでも「自分のこころ」であり、それはとても主観的なものだということです。



ただし、葛藤を"感じられている"ということは苦しくはあっても、決して「悪いこと」ではなく、自分のこころの状態に何かしら"気づけているのだ"とも言えます。

自覚されない(ほぼ意識化されていない、言葉通り"無意識的な")欲求というものもあり、その場合は、神経症や行動の混乱、性格障害などで現われることも多いからです。
葛藤という、引き裂かれそうな感情に晒される代わりに、別の苦しみを背負わされることになるわけです。
(その事実を知らない当の本人に、気づきを促す、意識化していく作業が"心理療法"のひとつです。 前記の『夜と霧』に書かれている、「苦悩があってこそ可能な価値」を実現し、「完全な内なる自由」の状態を得るとは、その先にあるものです。)



河合隼雄先生は「葛藤」について次のように説明されています。

葛藤の存在は意識化の前提である。
葛藤を解決しようとして、われわれは無意識的な内容に直面し、それを意識化することになる。
葛藤を経過しない解決は、意識・無意識の区別があいまいなままで、全体として調和した状態にあることを示している。
                                          【河合隼雄】 




意識と無意識の状態に、まだ際立った摩擦が表面化していない場合は、「調和」という、自我にとっては楽な状態に置かれているのかもしれません。

でも、「自分」という存在は、常に一定ではいられません。
外的にも内的にも変わっていくし、自我と自己(意識と無意識)の関係性も変わっていかなければならないし、変わらざるを得ないものでもあります。




夏目漱石の小説、『それから』の中で、主人公の代助が、「昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべき筈である」のに、それを自認していない父について、このように表現しています。

もし双方をそのままに存在させようとすれば、これを敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。
もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。
夏目 漱石
新潮社
1985-09-15



矛盾に気づき、それを自認し、さらにその"分別"がついている代助は、この作品の中でさまざまな葛藤の苦悩を味わっています。

『それから』は、意識と無意識の対決、自己実現の苦しみの物語であると解釈すると、私にはとても納得、共感できる部分が多いのです。
(物語のその深い意味に気づいたのは、やっと、ここ数年のことです。気づけるたびに、漱石への敬意は高まります。)




どちらにせよ、「自分の気持ち」であっても、相反するものが存在し、自分でもどうにもならない状態に陥る「葛藤」は、大小の差はあっても、誰しもが経験することだと思います。

やろうと思っていることができなかったり、止めようと思ったことが止められなかったり、どうにもならない感情に苛まれて「頭では分かっていても」、気持ちは全然抑えられなかったり・・・。

いかに、「自分」という存在が、簡単にコントロールしきれるようなものでないか。
そのことを、一人ひとりがしっかりと掘り下げて考えてみるだけでも、自分や他者に対する考え方や感じ方が、少しは変わってくるのではないかと思います。




実際に誰しもが、こころの内側に自分の知らない大いなる己が存在していて、 決して逃れることのできない「心の有り様」を抱えて生きていますが、だからこそ、自覚してその己にきちんと向き合い、何とか折り合いをつけていくことができてこそ、「第三の道」が開けてくるのです。


そしてその「第三の道」とは、自我という小さな私が小手先で拵える様な「とりあえず」のものではなく、もっと決定的なものなのでしょう。

忍耐と不屈の精神を伴う葛藤のなかから、予想もしなかった運命的とも言える解決が 当事者の内に現われてくる。                                
                                        【C・G・ユング】



「第三の道」について書くつもりが、イントロダクションが長くなりすぎました。
本題は、今年中には更新できればと思っています。



自然な流れに委ねる

アリとキリギリス~ドレの寓話集~
アリとキリギリス~ドレの寓話集~ [単行本]

前回のブログ記事を書いたのが2月なので、もうすっかり季節も変わってしまいました。

この3カ月の間で、「書きたい」と思っていたテーマも私の中でドンドン変転していまい、その流れで、自然と今日の記事になりました。
昔の私なら、その都度頭に浮かんだ「書きたいテーマ」を逐一記録し、それらを一つずつ整理していくという、マメというか、バカげているとさえ思える面倒なことをやっていたんだろうな(笑)、などと、ふと考えつつ、でも今日は「今、自然に思い浮かぶこと」をそのまま綴っていこうと思ったのです。

別に今日の記事に限らず、それこそ“自然”に任せていいものは、以前よりずっと任せられる。
「こうしなければ」という枠組みから、色んな事を手放せるようになってきました。

そして、そんな状態をそのまま「良し」と思えるようになって結局どうなったかというと、私自身がとっても楽になったのです。


「こうしなければならない」
「こうであらねばならない」

以前は、今現在の「〜ならない」だけではなく、まだ実際にはどうなるか分からない未来のあれやこれやも心配して、「〜ならない」に、今よりもずっと多くのことが縛られていたように思います。

でも、実は“縛られていた”のではなく、私自身が「そうだ」と思い込んで“縛っていた”ことが沢山あったのだと、今はつくづくそう感じるのです。


もちろん、縛ること→「規制や管理」は大切です。

自我(意識)の合理的な働きをしっかりと保ちながら、確実に堅実に計画的に、事に当たらなければならない場面は、現実社会を生きている中でいくらでも出てきます。
実際の利益や他者との信頼関係、自分の(外的な)能力や評価にも結びついてくることですから、「〜ならない」を軸に事を進めていくことは、ある意味当然の成り行きなのかもしれません。
時間も仕事も勉強も、もうなんでもかんでも、どれだけ確実に計画的に効率よく事を進められるかが重視されるのも、ITの普及と発展の上に成り立っていて、昔よりずっと「管理」が幅を利かせている今の社会では、致し方ないのかもしれません。


余談ですが、先日あるTV番組で、受験勉強も部活も頑張る、多忙な高校3年生の勉強時間をいかに確保するかという内容を放送していました。

いわゆるタイムテーブルの再構築に取り組むわけですが、印象に残ったのは、日々の洗髪後の「ドライヤーの10分も、単語カードで勉強をして時間を無駄にしない!」と、紹介している場面でした。

その他、あらゆる“一日の隙間時間”をかき集めて、こうすれば「1日で何分、10日で何時間、1カ月で何十時間活用できる!」と提案していて、それを観て単純に「なるほどね〜」と感心した半面、「高校生って大変だな。この提案どおりに実践するとなると、じゃあ、一日のなかで”ホッ”とか、”ボーッ”ってする時間は皆無ってこと?・・・」と思うと、どこかうすら寒い“ゾクッ”とするような感覚が湧き上がってくるのを抑えられませんでした。

生身の人間が、そんなロボットのように「隙間なくきっちり」出来るものなのかと・・・。
確かに本当に実行できれば、部活で大活躍しながら目指す難関大学にも入れて、自他共に賞賛され栄光を勝ち取るかもしれないけれど、それを勝ち取るために代償として何を犠牲にするのだろう、影の存在は・・・と、多分そっちを咄嗟に想像してしまったみたいです。
“ゾクッ”と感じたのは・・・。


話が脱線してしまいましたが、受験生はもちろんのこと、どんな場面でも、「人一倍能力を磨き実力をつける」ためには、原則「人一倍努力する」ことが不可欠となってきますから、限られた時間のなかで、どれだけ多くの事を為していけるかがポイントになるわけで、“自然に任せて”なんて悠長なことは言ってられません。

セルフマネジメント、タイムマネジメント、リスクマネジメント、ライフマネジメント・・・。

昔より、ずっとずっと色んなことが「管理社会」になっている世界のなかで、今では「マネジメント能力」の高さが様々な場面で求められ、評価の対象にもなっているような気がします。

確かに、きっちり管理してきっちり計画的に無駄なく物事を進められれば、自ずと見えやすくて分かりやすい結果はついてくるでしょうから、満足や安心も手に入れられるようになると思います。

未来への不安を払しょくするため、未来の幸せを手にするために、「現在を管理」する。
それは決して間違ったことではないと思います。


しかし一方、未来の満足を手に入れるために、じゃあ、「今はどうなのか」ということ。
未来のために、「今」をおざなりにしてはいないか。

前記の高校生にしても、自身が明確な目標とやりがいを持ったうえで、勉強や部活を頑張るのであればまだしも、ただ何となく、「高い地位やお金など、安心の未来を手にするため←良い仕事に就くため←良い大学に入るため←“今はとりあえずイヤでも受験勉強を頑張る”」だったとしたら。

「本当は今、自分はこれがやりたいんだけど」、その「今、やりたいこと」を手放してまで、未来のためや周りのために“イヤな今”を生きてはいないか。

どうしても、「“今の”自分はどうなのか」は後回しにされて、「どうなるか分からない未来のために、今を生きてしまう」ことに、私たちはなりがちなのかもしれません。


もしかしたら、「今」、あれもこれも我慢して、自分に(だけではなく、もしかしたら大事な家族にも)ムチ打つようなことをして、本当は辛いし逃げ出したいし苦しいのに、それでも「未来の安心を手に入れるために」頑張り続けているのではないか。
どうなるか分からない未来のために、「今、できることを手放していないか」、「しなくても済むことをしているのではないか」。

自然に任せてしまっていいことですら、“管理”に縛られているのではないか。
今の自分が、本当に“自分にとって”どうなのか。


童話の『ウサギとカメ』や『アリとキリギリス』のお話を思い浮かべると、ほとんどの人は、「カメやアリ」の生き方を模範として実行しているでしょうし、逆にウサギやキリギリスのような生き方をして、実際、後になって窮地に立たされるということも十分起り得るわけですから、と言うよりそう想定するのが普通ですから、「未来のために、今、頑張るのは当然」となるのでしょう。

しかし、同じ昔話のなかには、「ウサギやキリギリス」のような“怠け者”が成功するお話も、実はたくさんあるようです。

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫)
昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫) [文庫]

河合隼雄先生が、怠け者の成功話が世界の昔話に散見されることの意味について、深層心理の観点からアプローチして昔話に秘められている「怠け」の多義性について論じておられます。

どうも、「カメやアリ」の生き方が必ずしも「善」とは限らないこと、隠された真理を、昔話は密かに我々に語り継いでくれているようです。

常識の世界に忙しく働いている人は、天の声を聞くことができない。

怠け者の耳は天啓に対して開かれている。

このように言うと、私の心には現代の多くの「仕事にむかって逃避」している人たちのことが思い浮かんでくる。
これらの人は仕事を熱心にし、忙しくするという口実のもとに、自分の内面の声を聞くことを拒否しているのである。

私たちが生きる上で何を「成功」とするのか、という点についてまでは今日は触れませんが、でも、「自分の内面の声」を聞くためには、「怠け」は欠かせないもののようです。


そして、「内面の声」を聞くためには、「怠けること」への徹底的な覚悟が必要であり、「ただの怠け者」ではやはり、「失敗」に終わってしまう危険が大きいようです。

無精のため命を棄てるほどの者のみが王位継承に値したのであろう。

また昔話のなかの怠けの意味の追求は、相当な怠け者礼賛に到ったが、私は何も怠けの否定的な面を忘れているわけではない。
危険に立ちむかって成功するもの、逃げて成功するものなど、必ず相反する場合を探しだすことができる。この点について、フォン・フランツは「おとぎ話のなかから唯一の方策をひきだすことは絶対にできない」と確言している。
怠け者の場合も同様で、怠け者が失敗し、転落する話もすぐに見出すことができる。


「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること。」

一見すると低評価なこんな生き方が、もしかしたら大きな可能性を隠し持っているとしたら。
実は、実現すべき本当の生き方なのかもしれない「縛らず、管理せず、自然の流れに沿って生きる」ということに秘められるとても深い意味。

そんな生き方を、この管理社会の現代において実行することは、た易いことではないかもしれない。
だけどもし、それを目指すことができれば、私たちは自分の生に意味を感じることができるようになり、それが心の癒しや究極的な救いにも結びついてくるのかもしれない。


耐えたり努力したりするエネルギーを、管理のためではなく、管理を手放すことに向けることができれば、それまでとは全く違った道が開けてくることになるのかもしれません。

そこでは、「頑張るしんどさ」とは別の重圧を抱えなければなりませんから、決して完全に楽になるわけではないでしょうが、でも、偽りの?忍耐や努力からは解放されるはずで、それが「本当の安らぎ」を手に入れられることに繋がってくるのだと、私は思うのです。


今日の記事は後半、駆け足で書いてしまいました。

“計画的に(笑)”続きは次回。
もう少し詳しく考えてみたいと思っています。


□■□■□■□■□

Wikipediaで『アリとキリギリス』を参照したところ、いわゆる一般的に知られている内容とは違う解釈もあるのだという、面白い発見をしました。

まず、「二つ目の寓意」(目次の「教訓」)
せこせことためこんでいる“自分”は勿論のこと、餓死寸前の困窮者も“自分”だとすると、独善者のアリの勤勉さはやはり「独り善がり」であり、一方では本当の自分を見殺しにしているのかもしれない。
とても示唆的だと思います。

そして、「功利主義の観点からはキリギリスが善とされる」(目次の「教訓」)
“結果的にどうなるか”を委ねる、という意味で捉えると、「なるほど」と納得できる気がしました。「短絡的に」自らの快楽を追及し、というのではやはり“失敗”に終わりそうですが、「生を謳歌する」→自己実現を目指す覚悟を決めるのであれば、確かに「食料蓄積のみで生を終えたアリ」より、「キリギリスの方が善とされる」気がします。

『アリとキリギリス』も“深い”んですね・・・。

昔話は多くのパラドックスに満ちている。

昔話から常に勧善懲悪的な教訓を読みとろうとする人は、昔話のもつパラドックス性に、しばしば戸惑いを感じさせられるものである。  

                                              【河合隼雄】

               

                  にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ                                           

地に足をつけて生きる


Sea Lion Cove at Point Lobos./Don DeBold


前回まで、グノーシスやソフィアなどについて書いた流れで、このまま続けようかとも思ったのですが、
ふと、自分の中でストップがかかってしまいました。

ということで今日は、神話や女神のお話からはちょっと離れて、主観的に“現実目線”で書いてみたい
と思います。


ユング心理学(深層心理学)では、意識の背景に広がる無意識というこころの領域の存在を
前提としていること。
このブログを以前から読んでくださっている方、そしてユング心理学に通じている方は
ご承知のとおりだと思います。

我々が認知できている“自分”や世界の基盤に、より大きな知らない世界(無意識)があることを
認めており、それは、心的な病はもちろんのこと、「生き方」という人の根本的課題についても、
決して無視することのできない重要な存在として位置づけられています。


さて、ここからは“イメージ”も取り入れながら、話を進めていきたいと思いますが、
「無意識と意識」の象徴として、「海と陸」が、多くの人の夢などに登場するようです。

今までのブログ記事でも何度も書きましたが、私の夢にも実際、「海」がよく出てきます。
夢分析を受けることにより、言ってみれば無意識が活発になるわけですから、
それを表す“海”が頻繁に夢に出てくることはある意味当然とも言えますが、
とにかく「夢の意味」だけに焦点を当てて考えてみても、海が無意識を表していることには
納得せざるを得ません。
(無意識の象徴は“海”だけではありませんが、今日は割愛します)

一方、「現実の海」は、よく“生命の源”とも言われます。
私たちヒトの遠い祖先は、始めは海でしか生きられませんでした。
そして、進化の過程で陸に上がってきて、ようやくそこで、文明を持ち得る人類になったわけです。

外的現実でも心理学的にも、海から陸、無意識から意識において、
“発展”を遂げてきた人間という存在。


哲学者の西田幾多郎やヘーゲルも述べていますが、我々は、「意識」という場においてしか、
精神を発展させることはできないのです。

「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。」

「意識においては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。」
                                         西田幾多郎 『善の研究』

「自然の精神は隠れた精神である。それは精神の形をとっては現われない。
  それは認識する精神にとってのみ存在する。」             ヘーゲル 『精神現象学』


ユングも、『旧約聖書のヨブ記』を、そのような心的(神的)発展という観点から読み解いています。

ヨブへの答え
ヨブへの答え



自覚のあるなしに関わらず、私たちは今日でも、内外の世界で海から多大な影響を受けていますが、
でもその我々が生きられる場所はやはり、「陸」しかあり得ません。

しっかりと地に足をつけて「現実を」生きること。

足の裏に大地の感覚を感じ取りながら立ちづづけることは、心理学的にみても、自分を見失わない
ために、とても大切なことだと思われます。


無意識は、断じて無視すべき存在ではありませんが(このテーマだけでも色々書けそうです・・・)、
だからといって、現実・意識という立脚点を失って、あちらの世界に軸を移すようなことになって
しまっては、それは「生」の意味を放棄することになると言っても過言ではありません。

そして同時に、本来果たすべき正しい個性化への歩みを、閉ざしてしまうことにもなるのです。

だから、ただの神秘主義に陥ってしまわないための、「現実的感覚」をきちんと持ち続けることが、
まず、必要とされるわけです。


ユングはもちろんのこと、河合隼雄先生を始めとするユング派の方々は、無意識を相手にすることを
論じる際に、「自我の強さ」の重要性と、脆い自我で無意識に向き合う危険性という点について、
それぞれの言葉で次のように言明しています。

「無意識の統合は自我が持ちこたえるときにのみ可能である。」

「無意識は、それが盛んに働きかけてくるのでなければ、そっとしておくのが一番よい。」
                                               【C.G.ユング】


「クライエントの状況によっては、夢分析を行わないときもある。
 クライエントの自我があまりにも弱く危険な場合や、むしろ日常的な実際生活を整えることに
 重点を置くべきだと考えられるときなどである。」

「まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
 自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。」
                                               【河合隼雄】

(アクティブ・イマジネーションを実践する条件として)
*アクティブ・イマジネーションとは日本語で「能動的想像法」と呼ばれる、夢分析に並ぶ無意識に向き合うための
   手法のひとつ。

「ユング自身の示した条件は、分析プロセスの後半にあること、あるいは人生後半の課題に
 取り組んでいることである。
 『分析プロセスの後半にあること』についてだが、これは裏を返せば、そのアナリザンド
には少なくとも分析プロセスの前半で遭遇する試練に耐えるだけの強さがある、
ということである。
 分析プロセスの前半では、内的にも外的にもさまざまなことが起こり、自我は以前から抱えて
きた諸問題への直面と対決を迫られる。
 曲がりなりにも日常生活をこなしながらこの重圧をくぐり抜けたのだとすれば、自我にある
程度の
強さが備わっていることはまちがいない。」

自我はアクティブな態度を保つ必要がある
(無意識から沸き起こってくるイメージに)容易に圧倒されないだけの備えが要求されるので
ある。
 さもないとイマジナーは、現実を見失うなどの症状を呈したり、何度も同じパターンで敗れ
去ったり、イメージの内容と一致した現実での危険に共時的に巻き込まれたりするかも
しれない。」
                                               【老松克博】

「無意識に足をすくわれる危険があることも忘れてはならない。」
                                                【豊田園子】




ここで話は変わりますが、私はユング心理学に出会うまで、昔話の「浦島太郎」について、ずっと
疑問に思っていたことがありました。
善行によって竜宮城にまで招かれた浦島太郎が、なぜ、お話の最後にあんな理不尽な目にあうのか。
何の責めも負うはずのない人の良い浦島太郎が、なぜ、ひとりぽっちで老人になってしまった場面で、
話が終わってしまうのか。
“その後”(数ある「浦島太郎伝説」の中には、玉手箱を開け老人になったばかりでなく、そこで死を
迎えて話が終わるものもあるそうです)の浦島太郎を考えるとあまりにも不憫で、どうしても納得できずに、どこかでひっかかっていました。

しかし、ユング心理学から解釈した昔話の心理学的意味を知り、浦島太郎の謎についても、私のなかでやっと霧が晴れました。
浦島太郎は、「陸」から離れすぎたのです。海(あちら)の世界に浸かりすぎてしまったのです。

(詳しく知りたい方はこちらを)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
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無意識の世界に分け入ることの難しさと厳しさを、善人だからこその浦島太郎が、身を持って(?)
教えてくれていたのかもしれませんね。



前回までに書いた、グノーシス神話のプレローマ(上位世界)やアイオーン(超越神)についても、
それらが“本当に実在するか”どうか、そんな、神の存在自体に関わるようなあまりにも大きなこと、
逆立ちしても立証不可能なことを、いくら頭で考えたからといって答えなんて出せるはずがありません。

あくまでも“心理学的に見て”、それらの話がとても意味深い心的内容を物語っていると、
ユングは自らの臨床経験に基づいて考察したわけであり、そこで、どっぷりと神話の世界に
入り込んでしまうのではなく(でも、実はそれが必要な時もあるわけで、だから難しいのですが)、
論理的立場を崩さないこと、そこで持ちこたえることがやはり必要とされるわけです。

前記した『昔話と日本人の心』の著書の冒頭に、筆者である河合隼雄氏が引用している一文が、
その“関わり方”を端的に表しています。


むかし語ってきかせえ!―
さることのありしかなかりしか知らねども、あった
として聞かねばならぬぞよ―
                                 ―鹿児島県黒島―



どちらにせよ、「無意識に向き合う」ことは、我々の生き方を豊かにすることに間違いはないと
私は信じています。

そしてその豊かさとは、現代社会で一般的に多くの人が求める豊かさとは少し質の違うものかも
しれません。

だけどその質の違いこそが、実は「ホンモノ」なのかもしれないのです。

だからやはり、それぞれが“自分の竜宮城”を見つけられるよう、海に潜る価値はあると思います。
ただし、浦島太郎の二の舞を踏まないように、という条件付きであることを、くれぐれも忘れないように
したいものです。


【参考文献】
河合隼雄『ユング心理学入門培風館 (1967-10)
老松 克博『無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1』 
                トランスビュー (2004-05-05)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


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「知らないこと」を知る


Underground /


5月に入りました。そしてGW。
ゆっくりと休暇を取っていらっしゃる方、「いやいや、仕事だよ」という方も
いらっしゃるでしょう。

記したいテーマはたくさんあるにも関わらず、更新が滞っているこのブログ。
「せめて1カ月に一度は」と思っていたのに、とうとう4月はひとつも記事を
書きませんでした。

実はツインズが今春から小学生になり、私も生活のペースが変わりました。
子どもの成長は、振り返ってみると本当に早いなと感じます。
彼らの成長、変化に合わせて、私も色んな刺激を受けながら、親としての成長も
促されているような気がしています。
河合隼雄さん、そして佳代先生も、
「(親が)子どもからもらうものは、どれほど深くて大きいか」というようなことを
述べられていましたが、本当にそうだなと思います。
深いレベルでの癒しを与えてくれる存在です・・・。

私は一時期、子供を授かることは無理なのかなと諦めかけていたことが
あるのですが、今となっては、産まれてきてくれるべき「時」に、
ちゃんと彼らと出会えたような気がしています。

ユングや河合隼雄さんは「時」についても述べられていますが、やはり私たちは、
「カイロス」という見えない時間においても、生かされているのだと感じます。



プライベートな話題はさておき、今日の本題です。

― ソクラテスの「無知の知」
― 孔子の「知るを知るとなし 知らざるを知らずとなす これ知るなり」

洋の東西に伝わる有名な格言です。

簡単に言うと、
「“知らないことを”知っている。」 という意味です。

でも、「自分にはまだまだ知らないことがあるなー」と謙遜することが大事。
というだけではない、これらの言葉にも奥深い意味が秘められているようです。
(格言とは、そもそも字義どおりに受け取るべきものではないような気がします)


賢者たちが述べたこれら「知る」の意味とは、
自我レベルでの知識や技術の習得度についてではなく、
自我の“私”では把握・説明しきれない何か大きなもの。
それをはっきりと認めるということを指しているのではないでしょうか。

深層心理学的にいえば、それは「自我と無意識」の関係性であり、
前回記事に書いた、「外界、内界における“地動説”をはっきりと認識する」
ということと、同じような意味なのではないかと、私には考えられます。


私たち人間が、全てを掌握しそれを意のままにコントロールできるとするのは、
やはり大変な傲慢であり、そのような考え方には危険な「落とし穴」が潜んでいると
思われます。
そして、それは見えにくい気づきにくい「落とし穴」だけに、
いつなんどき足を取られてしまうかは、非常に予測しにくいわけです。

見える景色にばかり目を取られていると、ある日突然、
隠されていた穴にストンと足を取られ、体ごと捉えられてしまうかもしれない。

「知っている」、見える空間にあるものだけが全てではない。
日頃は全く見えていない地下のような、「知らない」何かがあることを、
私たちは「知らなければならない」。

それをはっきりと自覚することこそ、
「無知の知」
「知るを知るとなし 知らざるを知らずとなす これ知るなり」
なのではないでしょうか。


もうひと月前になりますが、深夜たまたま目にしたテレビ番組がありました。
それは、3.11の大震災の約一年前に放送されていたらしい、
地震に関する番組の再放送でした。

その番組の終盤あたりで、
【メキシコ自治国立大学 シーナ・ロムニッツ名誉教授】が語られていた、
次の言葉が、とても印象に残りました。

「地震は毎回、姿かたちを変えて襲ってきます。
私たちは新たな震災に対して備えていかなければなりません。
大切なのは、自然の力に対して畏敬の念を抱き、
いつも謙虚さを忘れないことなのです
。」

『NHKスペシャル MEGAQUAKE 巨大地震 第三回「長周期地震動の脅威」』 
(NHK総合 4/1(日)AM0:30〜1:20)


地下や宇宙も含めた大自然という外側の世界にも、無意識という内側の世界にも、
我々には計り知れない未知の領域があるとまずは自覚し、
その自分より大きな何かに頭を垂れるような姿勢をどこかに持っておくことは、
やはりとても大切なことなのではないかと思います。

「無知の知」を常に意識しておくこと。
過去の東西の偉人たちが残した言葉に含まれるその深い意味に、
私たちは真正面から向き合わなければいけない時代に
来ているのかもしれません。


○●○●○●○●○

これは、河合隼雄さんがご自身の講義でも用いられておられたそうで、
お気に入りだったという絵本です。
私も子どもたちと一緒に読みました。

目の前を飛ぶチョウチョ取りに夢中で、背後から次々と迫り来る大きな存在に、
「ブタヤマさん」は全く気付いていません。
見えていないもの、意識できていないものを知ることは、
やはり簡単ではないのかもしれませんね・・・。

それにしても、「ブタヤマさん」のすぐ後ろに近づいている生き物たちは、
通常のそれと比べたらとてつもなく大きいのです。
「普通の生き物」ではない感じが、よく出ているなと思います。

ブタヤマさんたらブタヤマさん (えほんのもり 9)
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エナンティオドロミア(enantiodromia)


Green shoots(芽吹き) /
Osamu Uchida

2012年の幕が開け、あっという間にひと月ほどが経ちました。
ブログを書くたびに思うのですが、日々が過ぎ去っていくのが本当に早い。
それだけ、やりたいこと、やらなければならないことがあるということは、有り難いことなのかもしれませんが・・・。

新年の挨拶には時期を逸してしまいましたが、改めまして、
超ゆっくりペースのこのブログに、いつもお越し下さっているみなさま。
感謝もこめて、今年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、では今日の本題です。
前回の記事で、「辛と幸」の漢字について書きましたが、
私は、この二文字の形が似ているというのは、「単なる」というだけではなく、
そこには、何か奥の深い「意味」も隠されているような気がしました。

ちなみに、私はこの二つの漢字の成り立ちについては全く知り得ていませんし、
そういった学術的な根拠については、(少なくともこの件については)正直あまり興味はありません。
(ので、調べてもいません・・・。)


とにかく、「辛と幸」の字が非常に似ているということを認識した時点で、
すぐに頭に浮かんできたのは、「エナンティオドロミア」という言葉でした。

「エナンティオドロミア」について、ユング派分析家で現大阪大学教授の老松克博先生は、
このように説明されておられます。

「『エナンティオドロミア』について説明しておく。
これは古代ギリシアの哲人、ヘラクレイトスの術語で、文字どおりには「逆転」「反転」を意味する。
万物の生々流転の原理を表わすもので、中国の陰陽思想に近い。
陰陽の言葉を用いて説明するならば、陰の極まるところおのずから陽が現われ、
陽の極まるところおのずから陰が現われる、ということである。
状況は極端になると反転する。
宇宙のいっさいは、そのようにして変転していく。
この原理は、心という宇宙で起こる諸現象にも当てはまる。
無意識は極端を嫌う。
意識のなかで偏りがひどくなってくると、反対のものが無意識からおのずと現われてきて補償しようとするのである。」

無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1
無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1



また、ユングがエナンティオドロミアの言葉を使って、このようなことも述べています。

「こころの無意識的な活動を組み立てている壮大な計画というものが、
われわれの理解をあまりにも超えているので、
どんな悪がエナンチオドロミアによって善に招くのに不要なのか、
そしてどんな善が悪にしばしばつながっていくのか、決して知りえないということである。
ヨハネが薦めた〈汝、霊を定めよ〉ということも、もっとも好意的にとったとしても、
事態が最終的にどうなるか、
注意深くそして根気よく待って見守るということにほかならない。」

エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学
エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学


「どんな悪がエナンチオドロミアによって善に招くのに不要なのか
ということは、言い換えれば、
「どんな悪がエナンチオドロミアによって善に招くのに
必要なのか」
とも受け取れるのではないでしょうか。

そして、老松先生が説明されていた陰陽思想。
「陰の極まるところおのずから陽が現われ」。



辛い辛い状況の中では、人はなかなか未来の幸せを想像することはできません。
不安や絶望に苛まれて、一切の希望が打ち砕かれ、一筋の光すら見つけられないときもあるかもしれない。

でも、もしかしたら、その「陰が極ま」ったときにこそ、
「おのずから陽が現れて」くるのかもしれません。

「辛い」も、それが極まった時に、自然と「幸せ」につながっていく道が開けてくるのかもしれない。
だから二つの字が、意味は正反対なのにも関わらず、こんなに似ているのではないか。
そんな風に考えることができると、とても素敵だと思うのです。

星野富弘さんの、
「辛いという字がある。もう少しで、幸せになれそうな字である。」
という言葉が、真実味をおびてきませんか?

「辛い」渦中にいても、未来につながる望みが見出せそうですし、そうして望みを持つことができれば、
人は、力強く困難に立ち向かっていけるようになるのだと思います。

・・・未来のことはだれにも分かりません。
ユングが言うとおり、「善に招くのに不要な悪」もあるかもしれない。
辛いが必ず幸せにつながる保証はありませんが、でも投げ出さずに諦めずに、
「事態が最終的にどうなるか、注意深くそして根気よく待って見守る」
“エナンティオドロミア”が起るのを待つ価値は充分にあるのではないでしょうか。


今日は最後に、佳代先生が翻訳された『ミドル・パッセージ』から。
やっぱり“希望を持って”。

「激しい苦しみの中にある、たましいの暗闇にいる人にとって、(中略)
その痛みが自分にとってよいものであるなどというのは、非常に受け入れがたい真実である。
しかし、先へ向かう道は苦しみの中に見つけられるといってもよい。
人生は病ではないし、死は罰ではないのだから、そこには本来治療というものはない。
しかし、そこにはもっと意味のある、もっと豊かな人生へと向かう道があるのである。」

ミドル・パッセージ―生きる意味の再発見
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『蓮と鶏』


Lotus / Nelumbo / 蓮(ハス) /
TANAKA Juuyoh (田中十洋)


「泥のなかから 蓮が咲く。  それをするのは 蓮じゃない。

 卵のなかから 鶏が出る。 それをするのは 鶏じゃない。

 それに私は 気がついた。 それも私の せいじゃない。」

                                (金子みすゞ 『蓮と鶏』)



金子みすゞのこの詩。

つい最近、新聞に掲載されていたのを見て、初めて知りました。

そして、その記事には、

「目には見えないが、私たちに働き掛ける大きな力の存在を

(金子みすゞが)確信している様子がうかがえる」

と書かれてありました。



ユング心理学では、その「大きな力」というものを、いわゆる「Self」と呼び、

西田幾多郎は、「統一的自己」とか、「実在の無限なる統一力」、「神秘的或者」、「真の自己」と

いくつかの呼び方で表しています。


いわゆる表現の差はあれ、何か不可視の、そういった我々の意識を司る根本的存在を、

ユングも、西田幾多郎も、金子みすゞも、感じ取っていたと思われます。

そして、そのような大きな力を確信せざるを得ないような、揺るがし難い神秘的体験をした人は、

過去から現在に至るまで、決して少なくはないのだと、私は思います。



ユングが晩年に出演したテレビ番組で、インタビュアーに、

「あなたは神を信じますか?」 と問われ、暫し沈黙した後、「I know」 と答えた話は有名です。

ユングがこのように答えたのは、決して、神そのものを知っていたと言いたかったのではなく、

そういった存在を信じざるを得ないような現象を、数多くユングが経験していたことから出た言葉です。

しかし、このユングの発言には当時批判も多く寄せられたようですね・・・。

ちなみにユングは、

「神そのものを知り得ることは不可能で、近接することさえほとんど望みのないことである。」

と、言っています。

「神を知っているなんて傲慢だ!」と、ユングに対して向けられた非難が誤解、無理解であったことが、

よく分かります。



また西田幾多郎は、

「厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。」

「分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。」

直接経験の事実として感ぜられるのである。」

「善を求め善に遷るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。
(中略)しかし抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。
この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。」

というように、そのような存在は、「事実」として感じられるものであり、

決して、ただただ信ずるというような「頭での理解」ではなく、

逆に「体得の意味」でなければならないと述べています。


善の研究 (岩波文庫)善の研究 (岩波文庫)
著者:西田 幾多郎
岩波書店(1979-10)
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金子みすゞも、「(気がついたのは)それも私のせいじゃない。」と書いています。

自我という“小さな私”の頭の理解ではなく、

もしかしたら、決定的な“何か”を経験していたのかもしれませんね・・・。



今日はかなり?、スピリチュアルな内容になりましたが、

そもそも私たちは、“そういったもの”と完全に切り離して生きてはいけない

存在なのではないでしょうか。

先進国では科学がどんどん発達して、一昔前に比べて暮らしは格段に便利になったはずなのに、

一方ではメンタルの問題で苦しむ人が増えている現実が何を物語っているのか、

ユングや河合隼雄先生が述べておられることに、私は深く共感しています。



最後に。

でも、ユングも西田幾多郎も決して「唯心論者」ではありません。

こころも肉体(物)も、両方があってこそなのだと、そう言っています。

精神性も科学もどちらも必要。

やっぱり何事も「中庸」なのかもしれませんね。



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ホントの自己実現

今日は、ホントに“思いつき”で書き始めています。


先程、Twitterの中で、河合隼雄先生の言葉を見つけました。

それは次のようなものです。

自己なんて実現しようと思ったら、途方もないことがいっぱい起こる。

それをぜんぜんわかってない。

だからぼくは、「『自己実現』は『他己実現』や」言うてるんです。

「他人が素晴らしいと思うことをやってるだけや」って。



ここで、文の始めの“自己”と、中ほどの『自己実現』の“自己”を

混同してしまっては、河合隼雄さんの真意は伝わってこないと思いました。


最初の自己は、ユング心理学でいうところの「Self」です。

そして、中ほどの自己は、いわゆる一般的に使われている意味での「自己」です。


だから、河合先生が言いたかったことは、

本当の自己(Self)を実現しようとすることは、並大抵のことではない。

一般的に言われているところの「自己実現」は、決してユングがいったところの

自己実現(個性化)ではなく、「他己実現」なのだと。


・・・他己実現とは“自我”実現とも言えるかもしれませんね。

「他人が素晴らしいと思うことをやっている」と思っているのは、あくまでも自我ですから。


ユングも西田幾多郎も、(ホントの)自己実現とはこの“自我”を滅してこそ為せるのだと言っています。

だからこそ河合先生は、

「自己なんて実現しようと思ったら、途方もないことがいっぱい起こる。」と

表現されたのだと思います。

              
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「無為に過ごす」




前回の記事まで数回にわたり、「ゲゲゲの女房」を題材にしてきました。
他にも書きたい“材料”はあるし、そろそろ“ゲゲゲ”は卒業を・・・、と思っていたのですが、
今日も援用させていただくことにしました。
やはり、私にとっては“引っかかる”点が多いようです(笑)


3週間ほど前の“朝のテレビ小説”で、
「無為に過ごす」と書かれた張り紙が、(村井家の)家中の至る所で目についたのを、
ドラマをご覧になった方は気づかれたことと思います。

かなり「強調」されていましたよね。

そして、その後の放送でも、この言葉が、画面の隅にチラリと見えたことが幾度かありました。


さて、この「無為」ですが、その意味について、辞書を見るとこのように説明されています。

自然にまかせて、人為を加えないこと。また、そのさま。むい。

一方、中国の思想においては、非常に重要な概念であった、意味深い言葉でもあります。

中国思想における「無為」



ここで少し話は変わりますが、ユングは、中国哲学における“道(Tao)”について興味を示し、
自身が打ち出した「個性化」の概念に通じるところがあると考えていました。


この“道(Tao)”に関して、『分析心理学(みすず書房)』の訳注で、
訳者の小川捷之氏がこのように書かれています。
道とは本来、人の通る路を表わすものであるが、転じて人の道とか芸の道などと、
人の踏むおこなうべき道筋とか、人の拠るべき道理、教え、などを指すようになった。
この「道」の考え方は古来より中国思想の根本的なものをなしている。
特に道家の思想では、天地万物の根源を「道 Tao」と呼び、これが天地に先立って生じ、
すべてのものをあらしめ成り立たせていると考えている。


また、“無為≒道”については、次のように注釈されています。
「道」は「常に無為にしてなさざるはなし」とあるように、人為的なことはせずに、
自然のままにあるその「無為自然」な「道」のあり方が人間や社会のあるべき姿とされる(老子)。
荘子では、この立場がさらに徹底されて、現象や生死を超越して無為自然の道そのものと
神秘的に合一することが理想とされた。


人としての究極の生き方は、「無為自然な道のあり方」であると老子は説き、
そして荘子は、その、「無為自然の道そのものと合一すること」が理想であると説いています。


また、ユングは、荘子の言う“無為自然の道そのもの”について、次のように表現しています。

「正反対なものの完全な結合」
「物事が原初的な状態であると同時に、最も理想的に物事を達成すること」
「永遠に対立し続ける要素の結合」
「葛藤がおさまり、あらゆるものが静止し、もう一度、識別不能なまでの調和した原初的な状態」


「道(Tao)」は、よく陰陽の思想で説明され、それらがひとつになったものであるとされていますが、
これは、ユング心理学でいう「自我と自己の統合」という、究極の目的である
「個性化」の概念に通じるところがあるのです。

  (陰陽対極図)



どちらにせよ、「道(Tao)」も「個性化」も、これは生き方の究極の目的であって、
そこに到達することは、まず無理のようです・・・。
(そこに到達するということは、仏教でいうところの“如来”の境地に至るということです)

でもユングは、「個性化へ向かっていく過程こそが何よりも大切なのだ」といっています。



ここで話を最初に戻して、水木しげるさんが実際に仕事場に貼られていたのであろう、
「無為に過ごす」の言葉。

仕事に追われ、時間に追われていた毎日の中で、忙しさに自分自身を見失わないために、
“あるがまま”の大切さを忘れないよう、その言葉を“目につくように”されていたのかもしれませんね。



今日は最後に、斎藤学先生 の“ツイート”をご紹介します。

「あるがまま」というと容易にわかったつもりになってしまいますが、これが本当に難しいのです。自分の欠点や時には「病気」までそのまま受け入れるということですから。難しい課題で、私もまだ修行中の身ですが、一緒にがんばりましょう。斎藤学


“あるがまま”
本当に難しいことですが、自身の「こころのワーク」を続けながら、
私も頑張っていきたいと思っています。


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「ゲゲゲの女房」

ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房
著者:武良布枝
販売元:実業之日本社
発売日:2008-03-07
おすすめ度:4.5
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「ゲゲゲの女房」とは、ご存じのとおり、
今、NHKの朝の連続テレビ小説で放映されているドラマのタイトルです。

私は2週間ほど前から、あることがきっかけで(これも私の“無意識とのつながり”が関係しています)
観始めたのですが、今ではこの15分間のドラマを視聴することが、
毎日のささやかな楽しみになっています。
(連続ドラマを欠かさず観ようとするなんて何年ぶり


水木しげるさんと言えば、「ゲゲゲの鬼太郎」ですが、
このTVアニメが、ちょうど私が子どもの頃に放映されていました。
(時期的にこれは多分、“第2シリーズ”の、しかも再放送だったのかもしれません)

でも当時は、やはりその“雰囲気自体”がとても怖くて、結局は観れなかったことを覚えています。

子どもの敏感な感受性には、訴えかけてくるものが大きかったのかもしれません。


そして実際、妖怪ものの「ゲゲゲの鬼太郎」をTVアニメ化するまでには、
大変なご苦労があったのだと、この度ドラマを通じて知り、
自分の子供時代を思い出しながら、感じ入るところがありました。

ドラマ内でも表現されていましたが、マンガがなかなか売れず、どん底の貧乏を経験される中でも、
水木しげるさんは、漫画家としてのその強烈な「個性」を最後まで捨てずに、
信念を持って仕事に取り組み続けていました。 

そして、その時は来ます。
漫画家として世間から認められ、その後大成していく、「来るべき時が来た!」のです。
(「来るべき時が来た!」はドラマと原作本のサブタイトルにも使われている言葉です)

1965年、講談社児童漫画賞という権威のある賞を受賞したことがきっかけで、
その後、どんどん仕事の話が入り始め、誰もが知る漫画家の巨匠になっていったのです。


そういえば、「アンパンマン」の原作者の、“やなせたかし”さんも、
漫画家として大成されたのは晩年に入られてからですが、
何かでこのように言われていたのを聞いたことがあります。


私が漫画家として世に認められたのは、70に入ろうかという頃です。

それまでは色々とやりました。
よく、『成功の秘訣は?』と聞かれることも多くなりましたが、
その時出来ることを、ただただ一生懸命やる。
私はそうしていましたし、それでいいんだと思います。
時期が来れば、自然とうまくいくようになります。




水木しげるさんは、後年、
「なまけ者になりなさい!」「がんばるなかれ!」「のんきに暮らしなさい」
というようになったそうです。

でも始めは、その言葉を「おかしい」と奥様は思われていたそうです。


水木は、なまけ者どころか、誰よりも一生懸命生きている人だからです。

誰よりも働き、誰よりも努力してきた人だと思います。

                                   『ゲゲゲの女房』

しかし後には、

(水木しげるさんは)人が本来持っている生きるための知恵や本能みたいなものを
働かせたからこそ、生き抜いてこられたわけです。
「現代人も、そうした『生きる力』を取り戻すべきだ」と水木は伝えたいのでしょう。

と、水木さんが言われる言葉の意味が、なんとなくわかったような気がしてきたということです。




そして、著書のあとがきにはこのようにも書かれていました。

(奥様は)「すべてを受け入れる」だけの人生でした。
あの洗うがごとき赤貧の日々も、たしかに辛かったけれど、私は不幸ではありませんでした。
もちろん、惨めだったこと、寂しかったこと、いまも納得できない理不尽なことが、
数え上げればキリがないほどにあります。
(中略)
人生の入り口での状態は、といえば、水木も私も、お世辞にも、幸運だったとはいえないでしょう。
でも、「いろいろなことがあったけれど、幸せだ」と素直にいえるのは、
「水木が自分自身を信じ続け、私も水木を信じ続けてきた」からだと思います。
自分が選んだ道をひたむきに生きていれば、
「来たるべきときが必ず来る」
とふたりとも信じていたのです。



ユングも、

「あるがままに対して、無条件にyesということ」
「自分の運命にyesということがどれほど大切か」

と言っています。


自分が今置かれている状況を受け入れられない。
(自分の力で)どうにかしようとするけれど、どうにもならないことを、納得できない。

このような葛藤を抱え続けるからこそ、延々と悩みが続きます。

そしていつしか、悩み続けることに心が悲鳴を上げ、
様々な症状が表面化してくることにもなりかねないのです。


「今この受け入れがたい状況に、苦しんでいる自分がいるんだな」

と、その苦しんでいる自分を客観的に受け入れられるようになれば、
心の病にかかることはなくなります。


水木しげるさんも奥様も、
「全てを受け入れ、自分を信じ続けられた」からこそ、
苦労の時代にも、自らを見失うことなく、その時を乗り越えられたのではないのでしょうか。


今日のブログの冒頭にご紹介した著書。

水木しげるさんの奥様である“武良布枝さん”が書かれた、
この、ドラマ『ゲゲゲの女房』の原案本には、実話に基づいた心に響く言葉が沢山ありました。


最後に、水木しげるさんが「オレの生き方の礎になっている」と語られた“ゲーテ”の言葉を。

「精神の意思の力で成功しないような場合には、好機の到来を待つほかない」

(これも、著書に、そしてTVドラマ内でも取り上げられていた言葉です)


自分の運命を受け入れられるようになれば、心に平安が戻ってくるはずです。



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しなくても済むことはすぐ止める



少し前に、私は思い切って“止めた”ことがあります。

この決断を自分で下すまでには、数日間どうしようかと色々考えました。


私が止めた「それ」は、条件さえ整っていれば、出来れば続けたいことでした。

でも、

・その条件が満たされなくなった。

・「それ」よりもっと自分にとって大切なことがある。

・「それ」に時間やお金を使ってしまったら、もっと大切なことに集中できなくなる。

これらの理由で、私は「それ」をやはり今は手放すべきと、自分で“断ち切った”のです。


元来、私は好奇心が旺盛、あれもこれもと手を出したくなるタチで、

自分の興味のあることに関しては、「手放す」ことが苦手でした。


しかも、それが「相手」のあることだったらなおさらでした。

「“断ったら”申し訳ないかな」

「ある程度お付き合いもしなければ・・・」

このように、自分の本当の気持ちをじっくり考えることなく、

相手との仲をより良く保とうと、ズルズルと続けてしまっている事もありました。



実は、今回止めた「それ」も、私一人の都合だけでは済まない、

私以外の他人に影響を与えることでした。


昔の私なら、“相手への遠慮”もあって、

今回のようにすぐには手放すことができなかったかもしれません。


自分の本意を切り出した時の相手の反応を心配したり、

見栄や体裁を気にして、本当の思いを脇に押しやっていたかもしれません。


でも、今回は数日迷っただけで、すぐに止める決断をして、

そして、そう決めたら“行動”も迅速でした。




私たちに与えられた時間は、みんな平等 1日24時間です。


その限られた時間の中で、自分が一番したいこと、しなければならないことを明確にし、

それ以外のものは削っていく作業も大切だと思います。


惰性で、不要なものに、時間とエネルギーを注ぐほど「もったいない」ことはありません。


時間は刻々と過ぎていき、私たちに与えられた人生の限られた時は、

どんどん削られていっているのですから・・・。



あなたは今、手放せていないことがありますか?

それは、あなたにとって本当に必要なものですか?


忙しい中でも、あえてじっくりと自分の心に向き合う時間を作り、

何が自分にとって必要なのかを見極めることに取り組んでみること。

自分の「ヴィジョン」を明確にすること。


現状を棚卸しして、目指すべき目標に向けて「不要なものを取り除いていく」ことは、

コーチングやカウンセリング、キャリアコンサルティンでよく扱う重要なテーマでもあります。



今日は最後にイチロー選手の言葉を。

「大事なのは自分以外のことで、自分のペースを乱されないこと」

自分のペース、きちんとつかめていますか?


***************************************

昨夜は、佳代先生(ユング派分析家)との教育分析のセッションがありました。

そしてその後、眠りについて見た夢には、早速“セッションの効果”が表れていました。


無意識に直接手を出して、その内容を変えることは不可能ですが、

無意識に目を向けることで意識を変化させることにより、

間接的に無意識の内容を変えていくことはできます。


私がセッションで得た「意識の気づき」が、呼応するかのごとく、

夢(無意識)の内容に表れてくる。

意識の変化が、きちんと無意識にも届いているのだなと実感できるわけです。


ちなみに、今日の記事で書いたように、私が“変われた”大きな要因は、

自身の「こころのワーク」にずっと取り組み続けているおかげです。


「流される生き方」から脱するためには、覚悟を持って自分に向き合うこと。

とても大切なことだと思います。 



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