心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

ユング心理学

葛藤の中に身を置く

fork in the road, loring park
fork in the road, loring park/Connie

「"葛藤保持力"の続きは改めて」と締めくくってから、なんと1年以上も経ってしまいました・・・。
(そして前回更新からは早5か月・・・

今年度は何かと重なってしまい、ブログの更新も例年よりさらに後回しになっている中、でも、その後の記事でも、続きを「きちんと書くつもり」「必ず書きます」と記した気持ちにウソはなく、ずーっとその思いを"保持"し続けていたのですが、さすがに我ながらその抱えている感に堪え難くなってきたので、やっと重い腰を上げることにしました。


今回は「心の有り様」続きを書きます。



さて、もう何年も前になりますが、(私の分析家の)藤南佳代先生に、「第三の道」について教えていただいたことがあります。

AとBの道がある。でもどちらも選べない。
だがその葛藤に堪えていると、Cという「第三の道」が自然に開けてくる。



AとB、という二つの道について、ここからは私の感覚で書き進めたいと思います。

目の前に、今まで歩んできたAという道とは違う、もう一本のBという道が見え始めたとします。
「私」はその分岐点に立っていて、前に進むためには、二つのうちどちらかの道を選ばなければならない。

ここで、迷わずAの道をそのまま進んで行けるのであれば、何の問題もありません。
でも、Bという新しい道を見つけてしまった時点で、その人は既に、Aの道を 何も感じずに そのまま進んで行くことができなくなっているはずです。

だからといって、そう簡単にBに進むわけにもいかない。

だって、どちらかの道を選んでしまったことで、何かを失うかもしれない。
でも、どちらかの道を諦めてしまったことで、自分の大事な本当の思いを殺してしまうことになるかもしれない。


どちらも簡単には選び取れない、どちらも簡単には棄て去れない。
二つの道のどちらに進んでも、自分にとって何かしらのダメージが想定される場合、私たちは分岐点に立ち尽くしたまま、身動きが取れなくなってしまうことがあります。

葛藤のはじまりです。



そもそも現状に(少なくとも自我が)満足しているのであれば、分岐点には立っていないはずです。
何の迷いも戸惑いもなく、今まで歩んできた「一本道」をそのまま進めばいいだけなのですから・・・。

でも、自分の現状に疑問や不満を抱いている人、自分の変化の必要性に気づいてしまった人には、 今日まで歩んできた道とは違う、「別の道」が見え始めることがあります。


だけど、別の道に進路を変えるには、それ相当の覚悟と痛みを伴うことが容易に想像される場合、 やはり、今まで歩んできた(そしてそれは往々にして、無難・安定だと本人が感じているであろう)道を 簡単に棄て去ることは、なかなかできないはずです。

ですが、その人にはもう「別の道」が見えてしまっているのですから、一度見えて(気づいて)しまった その道を、簡単に"なかったこと"にすることも、もうできない。




このようなどちらも簡単には選択できない、相容れない自分の欲求を感じる「葛藤」の状態について、心理学では次のように定義されています。

「人がもつ複数の欲求が対立して、一方の欲求を満たすと、他方の欲求が満たされないという状態」
だとして、レヴィン(心理学者)が葛藤(conflict)を3つの型に区別しています。

 \楸-接近型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに正の誘発性をもち、両方ないしはすべてを満足させたいが、同時にそれをかなえることができないような場合。

◆_麋-回避型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに負の誘発性をもち、どれをも避けがたいが、それが出来ないという場合。

 接近-回避型の葛藤
欲求の対象が同時に正と負の誘発性を有する場合。
また、負の領域を通過しなければ、正の領域に到達できない場合。


どのパターンにせよ、結局は、折り合いのつかない欲求の板挟みになるわけですが、その欲求を引き起こしているのはなにかというと、当然ながらそれは「自分のこころ」であり、しかも「自分自身で簡単にコントロールできないもの」(無意識から沸き起こって来た欲求であることが多い)であるからこそ、苦しみを伴うものとなります。



人はよく、「環境のせいで葛藤が生じている」と感じる場合がありますが、例えば、傍から見て恵まれた素晴らしい環境に置かれている人がいたとしても、その個人に葛藤が起らないとは限りません。
また、逆のパターンもあり得ます。

絶望的な環境に置かれても、
「ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。」
と、受難の体験者である心理学者フランクルは、あの有名な著作『夜と霧』の中でその事実を明らかにしています。

収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。
けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房
2002-11-06



『夜と霧』での環境は、厳しい制約の中での生命の維持という究極的な問題であり、たしかに極端な例ではありますが、でもそんな中ですら、フランクルは「内なる自由」を得ることができるとしています。

結局、どのような環境下であっても、自分の心が適合できている場合は心理的な不自由は生じませんし、それを無理にでも変化させようとする欲求も起きません。

逆に言えば、「欲求が満たされていない」と感じるのも、変化という「新たな欲求を呼び起こす」のも、あくまでも「自分のこころ」であり、それはとても主観的なものだということです。



ただし、葛藤を"感じられている"ということは苦しくはあっても、決して「悪いこと」ではなく、自分のこころの状態に何かしら"気づけているのだ"とも言えます。

自覚されない(ほぼ意識化されていない、言葉通り"無意識的な")欲求というものもあり、その場合は、神経症や行動の混乱、性格障害などで現われることも多いからです。
葛藤という、引き裂かれそうな感情に晒される代わりに、別の苦しみを背負わされることになるわけです。
(その事実を知らない当の本人に、気づきを促す、意識化していく作業が"心理療法"のひとつです。 前記の『夜と霧』に書かれている、「苦悩があってこそ可能な価値」を実現し、「完全な内なる自由」の状態を得るとは、その先にあるものです。)



河合隼雄先生は「葛藤」について次のように説明されています。

葛藤の存在は意識化の前提である。
葛藤を解決しようとして、われわれは無意識的な内容に直面し、それを意識化することになる。
葛藤を経過しない解決は、意識・無意識の区別があいまいなままで、全体として調和した状態にあることを示している。
                                          【河合隼雄】 




意識と無意識の状態に、まだ際立った摩擦が表面化していない場合は、「調和」という、自我にとっては楽な状態に置かれているのかもしれません。

でも、「自分」という存在は、常に一定ではいられません。
外的にも内的にも変わっていくし、自我と自己(意識と無意識)の関係性も変わっていかなければならないし、変わらざるを得ないものでもあります。




夏目漱石の小説、『それから』の中で、主人公の代助が、「昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべき筈である」のに、それを自認していない父について、このように表現しています。

もし双方をそのままに存在させようとすれば、これを敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。
もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。
夏目 漱石
新潮社
1985-09-15



矛盾に気づき、それを自認し、さらにその"分別"がついている代助は、この作品の中でさまざまな葛藤の苦悩を味わっています。

『それから』は、意識と無意識の対決、自己実現の苦しみの物語であると解釈すると、私にはとても納得、共感できる部分が多いのです。
(物語のその深い意味に気づいたのは、やっと、ここ数年のことです。気づけるたびに、漱石への敬意は高まります。)




どちらにせよ、「自分の気持ち」であっても、相反するものが存在し、自分でもどうにもならない状態に陥る「葛藤」は、大小の差はあっても、誰しもが経験することだと思います。

やろうと思っていることができなかったり、止めようと思ったことが止められなかったり、どうにもならない感情に苛まれて「頭では分かっていても」、気持ちは全然抑えられなかったり・・・。

いかに、「自分」という存在が、簡単にコントロールしきれるようなものでないか。
そのことを、一人ひとりがしっかりと掘り下げて考えてみるだけでも、自分や他者に対する考え方や感じ方が、少しは変わってくるのではないかと思います。




実際に誰しもが、こころの内側に自分の知らない大いなる己が存在していて、 決して逃れることのできない「心の有り様」を抱えて生きていますが、だからこそ、自覚してその己にきちんと向き合い、何とか折り合いをつけていくことができてこそ、「第三の道」が開けてくるのです。


そしてその「第三の道」とは、自我という小さな私が小手先で拵える様な「とりあえず」のものではなく、もっと決定的なものなのでしょう。

忍耐と不屈の精神を伴う葛藤のなかから、予想もしなかった運命的とも言える解決が 当事者の内に現われてくる。                                
                                        【C・G・ユング】



「第三の道」について書くつもりが、イントロダクションが長くなりすぎました。
本題は、今年中には更新できればと思っています。



選ばれたノア

noah












鑑賞からあっという間に1か月ほどが経ち、記憶はかなり曖昧になってしまいましたが、前回からの続きです・・・。

映画の題材である『旧約聖書』の〔創世記〕に記されている「ノアの洪水物語」でノアは、
「正義の人と神に認められて」います。
そのノアは、「地上に人の悪がはびこっているのを見た神」から、『わたしは彼らを地もろとも破滅させ
る。しかし、あなたは家族と共に箱舟に入るがよい』と、箱舟の制作を命じられました。
ノアは “神に選ばれ、その命令に従った” のです。




聖書で、神に正義の人と認められているノア。
映画でも、冒頭からノアは「正義の人」として登場します。
観ている側は、善人であるノアだからこそ神に選ばれたのだと、ストーリーの流れを自然に受け入れられます。
箱舟が完成し、ノアたち家族とつがいの動物たち(だけ)が乗り込むことにも、それ自体が「神の命令」であり、何より聖書にそう記述されているのですから、そもそも疑問を抱くことではありません。

「旧約聖書」は「掟」である

きわめて重要なことを指摘しておきます。
(略)
(「旧約聖書」は)「法律」「掟」のように権威あるものとして存在しているので、無視したり否定したりすることはできません。とするならば、
物語が「法律」「掟」とされていることの意味を考えて対処する、ということになります。
                                                                                                  【加藤 隆】         


アロノフスキー監督は、聖書の「掟」を守りつつ、その意味を考えられたのでしょう。
そして、現代のスクリーンでは、その掟には記されていないノアの葛藤の物語が展開し始めます。


次男ハムの恋人をはじめ、洪水に飲み込まれ叫び声をあげている大勢の人たちにも背を向け、誰ひとり助けようとはしないノア。
「地上にはびこった人の悪」を破滅させるのが神の御業なのですから、その命に従うと決めたノアは逆らうわけにはいかないのです。
その行為が、としての自分の思いと相反するものであっても、ノアは頑なに、ただただ神の宣告に従おうとします。
そしてついに、強いきずなで結ばれていた家族をも敵にまわし、生まれ出ようとしている、血を分けた自身の孫にさえ刃を向けようとします。

箱舟に乗りこみ、洪水の中を漂っている40日間のノアの行動は、人の側から見ると、善どころか悪です。
ノアは、自分の家族以外の人間を見殺しにし、いずれ、残ったその血さえも絶やそうとするのですから。

イラ(エマ・ワトソン)を助けた時のような、温かくて優しかった「正義の人」とはまるで別人のような、徹底した非情さを、そこでノアは露わにします。


しかしノアは、決して何も感じていないわけではありませんでした。
神の命令だからと全てを割り切れていたのではなく、自分の取っている行動に葛藤や疑念を抱え、苦しんでいたのです。
夫の人柄を誰よりも知っている妻のナーマが、ノアに静かに語り掛けるシーンがきちんとそれを物語っていました。


絶対的存在の神からの使命と自身の人間的感情との、まさに両極の狭間で、舟に乗っている40日の間、ノアはひとりで苦しみぬいていたはずです。
終盤のクライマックスを除いて、ノアの苦悩の場面が劇的に描かれることはありませんでしたが、神の命に淡々と従おうとするそのノアの姿が逆に、家族とすら分かち合えない孤独な苦しみを、巧みに表現しているように感じました。

他の人を見殺しにしても何も感じない、愛しい家族を苦しめても罪悪感を持たない生粋の悪人(なんてそもそもいないはずですが)ではなく、ノアは元来「正義の人」なのですから、その葛藤の大きさはそのまま苦の大きさと比例していたはずです。


しかしノアは、その苦難の40日間を耐え抜き、最後には「自分を見失わなかった」からこそ、家族と共に"新世界”に一歩を踏み出し、芽生えた自分の血を継ぐ新しい命を絶やすことなく腕に抱くことができました。



ここで、ユングが自身の著書『転移の心理学』で引用している、イギリスの神学者で錬金術師であるポーディジが錬金術の《作業(オプス)》との関連で残している記述を取り上げます。

ここで術師は、彼の仕事がすべて水泡に帰したのではないかと思う。

誘惑の40日が過ぎ去るまで、あなたの忍耐の日々が終わるまで、忍耐と我慢と沈黙のうちに内部に留めておかなければならない。

し かしこの作業は、人間の意志がそうした態度(人間の意志が委ねられあるいは放棄されて)を取れるようになるまでは、すなわちその眼前に火という火が放たれ あらゆる誘惑が襲いかかってくるときも泰然として冷静でいられるようになるまでは、人間の意志にとってなんと難しく、苦しく、辛いことであろうか。

つ まりそれは大勢の悪魔や誘惑しようとする多数の元素にぐるりと取り囲まれ攻めたてられるからである。しかしチンキがこの火=試練と強い誘惑に耐えて持ちこたえることができるなら、そして勝利を収めるなら、そのときあなたは地獄、罪、死と死すべき者の墓場からそれが復活し始めるのを(略)見るであろう。

いまや石は形を与えられ、生の秘薬が準備され、愛らしい子供あるいは愛の結晶が生まれる。

こうして新たな誕生が実現され、作業はすべて申し分なく成就される。

転移の心理学
C.G. ユング
みすず書房
2000-10




また、錬金術の書である『哲学者の薔薇園』には、このような記述があります。

数知れぬ苦しみと大いなる殉難を経しのち
われは蘇りたり、聖化され、あらゆる汚れを洗い浄められ。
  
心理学と錬金術 (2)
C・G・ユング
人文書院
1976-10-01

                               


ノアの存在する世界は、大洪水ののち「汚れを洗い浄められ」蘇りました。
ノアが(新しい)大地に再び立つことができたのは、彼が「数知れぬ苦しみと大いなる艱難を経しのち」でした。

ノアは、全ての陸地が沈んでしまうほどの洪水に飲み込まれた40日間の、艱難辛苦の道を渡りきる強靭さを持っていたからこそ、神に選ばれたのではないでしょうか。
そして、最後の決断の時に人としての自分を見失わなかったからこそ・・・。


今日は、ユングの聖書に関する次の文章で終わりたいと思います。
好意的な読者へ(という前置きがあります)

「物理的に」ということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
私は(略)、心理主義の嫌疑をかけられる危険を顧みず、聖書の記述をもこころの発言とみなす


ヨブへの答え
C.G. ユング
みすず書房
1988-03

(※、ユングは、「無意識と意識のドラマ」という心理学的な解釈によって、この著書を書き上げました)



私も"自分なり"に、そのような視点で映画を鑑賞し、感想を書きました。
「好意的な読者」の方々には、ご理解いただけるのではないかと思っております。


※映画では、「人はみな自分の中に悪を持っている」「(人殺しという悪を働いた次男セムに対して)これでお前も人になったな」というような、意味深いセリフもありました。
ぜひまた、続きを書きたいなと思っています。
(ただし我が家の、”熱い”40日の夏休みが終わった後になるかもしれません・・・)

『ノア 約束の舟』

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先日、公開中の映画『ノア 約束の舟』を鑑賞してきました。
旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語が映画として公開されると知ったとき、それだけでも内心ざわめき立ったのですが、それが、ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞に輝いた、あの『ブラック・スワン』のアロノフスキー監督がメガホンを取った作品だと分かって、私の「絶対に観る映画リスト」に即追加されました。

『ブラック・スワン』は、レビューなどで一部の人が指摘しているように、私も、ユング心理学の「影の統合」の問題に関連が深い作品だという感想を持っていました。
ですので、そのアロノフスキー監督が、『旧約聖書 創世記』のノアの物語をどのように描くのか、とても興味が湧いたのです。

そして観終わった感想は、「やっぱり」。
全くの個人的憶測ですが、私が気づいた部分だけでも(でもかなり細部にわたって)深意が含まれていました(と、私には感じられました)し、入念に練り上げて作られた作品だという印象でした。

『ブラック・スワン』のみならず『ノア』でも、どうにもユング心理学がチラついて、「深意」を漏らすまいと、集中して見入ってしまいました。


たとえば、作られた箱舟にまず最初に乗り込むのは「鳥たち」。
そして次にあらわれた大群は「蛇」でした。
まさに、天の象徴と地の象徴の両者(対立物)が、まず助けられるべき存在として、舟に乗り込んだわけです。

映画には登場しませんが、東西に古くから伝わる想像上の生き物である龍(Dragon)は、鳥と蛇の両方を兼ね備える対立物合一の象徴です。

龍はそれ自体としては一箇の怪物である。つまり蛇の地の原理と鳥の気の原理とが合体した一箇の象徴である。龍はしかし、(略)メルクリウス(対立物合一)の一変形である。
メルクリウスは原初の具有存在ヘルマプロディトスであり、一旦は二つに分れて(略)対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光 lumen novum」すなわち「賢者の石」という形態をとって光り輝く。
                                        (ユング)

堕落した人間を滅ぼし、新たな世界を創造するという神の意志に従うことを決めた、ノアが造った箱舟に、最初に乗り込む鳥。そして続く蛇。

ノア自身の結合、「新しい光」が輝くためには、当然の成り行きだったのかもしれません。


また、ノアの箱舟造りを手助けし、"神の裁き"が始まった混乱時に、ノアたち家族を守る役目を果たす者として岩の巨人「ウォッチャー(番人)」が登場しますが、彼らはもともと「光」だったものが、物質としての石に閉じ込められており、最期(物質としての石が崩壊した時)には「光」として天に帰っていきます。

ユングが、心的内容と深い関連があるとして研究した錬金術では、「石(ラピス)」が象徴的に重要な意味を含んでいます。

石(ラピス)には発端というものはなく、永遠そのものの内から出てきたところの「根源的本質」を持ち、それゆえまた決して終りを知らず、永遠に存在しつづけるということである。

この光は神がその太初において自然とわれわれの心とに点し給うたものなのだ。
                                          『賢者の水族館』

映画で岩の巨人の中に閉じ込められていた光。
実は「われわれ人間の中にも秘められている」ことを神話は密かに語り、(一部の)哲学者や錬金術師、そしてユングも、そのことに気づいていました。

哲学者たちの著作を研究することによって人間は秀れた術を身につけこの「賢者の石」を手に入れることができる。が、この「賢者の石」とはまたしても人間なのである。それゆえドルネウスは「汝らは死せる石から賢者の石に変身せよ」と叫び、この言葉によって、人間の内にひそむものと物質のうちにひそむものとの同一性を極めて明瞭に表現しているのである。 
                                                (ユング)
「(前略)これらの石こそ魂の真の火であり、賢者の光に他ならない。」
                        (ベルアルド・ドゥ・ヴェルヴィル 『暗号書写法選』)


「鳥と蛇」と同様、ノアが新しい世界にたどり着くためには、「ウォッチャー(番人)」との信頼関係と助けが必要でした。
巨人との関係が成り立っていなければ、箱舟を造ることも、箱舟を乗っ取ろうと襲ってくる暴徒たちを食い止めることもできなかったのですから・・・。
ノアの仕事は、(心理学的には)錬金術でいうところの「業(オプス)」であり、とてもひとりでやり遂げられるようなものではありません。

彼らの術は聖なるものにして神的なるものであるという点、そして彼らの作業(オプス)は神の助力によってのみ成就されるという点がそれである。
                                              (ユング)

そして、その後のノアの大業の結末を暗示するかのように、ノアを助けた岩の巨人たちは、自らも救済されて天に昇っていきます。
(グノーシス神話では、グノーシス(自己認識)に応えられた「光の粒子」「本来的自己」が、プレーローマ(上位世界)に帰還します。過去記事

人間は救済されるべき者であるとともに、また救済する者でもあるということを教えている。
                                              (ユング)

ノア(自我)と巨人との関係が同一だと仮定すると、発想がどんどん広がりました。


(引用はすべてこちらから)


とにかく随所に、寓意を感じる場面が散りばめられていて(そもそも聖書が題材なのですから当然とも言えますが)、長い上映時間があっという間に終わってしまいました。
この映画については、色々と書きたいことはまだあるのですが、自分でもイメージの収拾がつかなくなってきそうなので、今日はいったんここまで。
ノアのみならず次男ハムの存在など、ほかにも気になる点があったので、できれば後日続きを書きたいのですが・・・。


頭を一度リセットして、キャストについても少し。
ノアを「ラッセル・クロウ」が、その妻を「ジェニファー・コネリー」が演じています。
この配役を事前に知った時も、ちょっとした感慨でした。

二人は以前にも夫婦役を演じていますが、その作品は、私にとって忘れられない映画、『ビューティフル・マインド』です。
この映画を通して、初めて大事なことに気づきました・・・。

主人公は実在の天才数学者で、統合失調症を発症します。
本人にしかわからない幻覚や幻聴がどのようなものなのか、この映画を通して少なからず想像できますし、「無意識」についても、興味のある方は考えさせられることがあろうかと思います。

再び夫婦役を演じた、『ノア』の画面に映る二人の顔つきから感じられる年月と自分のそれが重なり、さらに二つの映画の内容も重なり、余計にしんみりとしてしまいました。


最後に。
アロノフスキー監督、シンクロニシティ?を体験されたみたいです。
「NOAH」についての"偶然"。しかも日本に関連しています。
ご自身も興味深く感じられたようで、わざわざtwitterでも紹介しておられますよ。
監督、やっぱりユング心理学に・・・・・?


※今日の記事は、映画『ノア 約束の舟』についての個人的感想です。

『危険なメソッド』

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寒中お見舞い申し上げます。
今年は、クライエントさんへの年賀状・年賀メールが出せませんでしたので、
この場で、年始のご挨拶に代えさせていただきます。
今年もよろしくお願いします。

さて、年初めの記事。
当初は、前回記事の続きで、「ムスビの御神像」について取り上げようかと思っていたのですが、
変更して、ゆるりと映画の話題など。

それにしても、いつも、後から後から書きたい話題が出てきて、アウトプットが全然追いついていない。
バランスを取る難しさを今年も抱えながら、多分、このブログも相変わらずのスローペースで続けていくことになりそうです・・・。


戯言はいいとして、
昨年暮れの休日、主人に子守を任せて、ひとりである映画を鑑賞に行きました。

『危険なメソッド』

    

キーワードは「ユング」と「ヴィゴ」。
個人的には、はずせないこの2人が絡んでいる映画がつくられていると知った時から、
日本での公開を待ちに待っていたのです。

当時つぶやいたTwitter記事を探してみると、この映画の存在を初めて知ったのは、
もう2年も前のことでした。
    ↓



『危険なメソッド』については、鑑賞された方には言わずもがな。
観ていない方も、関連サイトを見ていただければ分かるとおり、「ユング」が主人公の映画です。

複数のサイトで、レビューも色々と書かれていますので、ご興味のある方はそれらを読めば参考になると思います。

私の個人的感想としては、意外にも!?、過剰な脚色もなく真面目に作られていたという印象を受けました。

『危険なメソッド』の前に観ていた、(監督の)クローネンバーグの作品、『イースタン・プロミス』が
なかなか強烈だっただけに、重度の神経症を患っていたザビーナや、そのザビーナとユングの恋愛、
ユングとフロイトの関係など、曰く付きな内容がどのように描かれているのか、実際に観るまで少し気がかりではありました。

でも、史実とそれほどかけ離れた作られ方はしていなかったように感じましたし(もちろん私の浅い知識による評価ですが)、「フロイトの書棚事件」と呼ばれる、一歩間違えれば、“ただの怪しいオカルト”になってしまいかねないような場面も、悪意なく自然に描かれているように感じました。

ユングがフロイトの家を訪れ会話をしていた際、オカルト現象を批判したフロイトに対して苛立ちを覚え、横隔膜が熱くなってきたかと思うと、突然書棚から激しい音が鳴り響いた。この現象は自分のこころのエネルギーが引き起こしたと確信したユングは、そのことを信じようとしないフロイトに向かって、「同じことがもう一度起るでしょう」と言ったところ、本当に同じ現象が再度起ったという出来事。このときばかりは、さしものフロイトも返す言葉がなく、唖然とするしかなかったと伝えられている。)

あえて挙げるとすれば、ザビーナ(キーラ・ナイトレイ)の狂気ぶりには、「実際のところはどうだったのだろう」と、疑問符が頭に浮かんできましたが、他の場面について不信感をさほど感じなかっただけに、ザビーナの病状についても、事実をきちんと調べた上での演出だったのかも知れません。


映画を観たことによる収穫は、まず、ユングの生きた時代背景を動画によるリアルさで擬似体験できたこと。付随してさらに膨らむイメージ。

そして何より心に残ったのは、私が知らなかった、ユングが日常のなかで体験したシンクロニシティの場面が、いくつか描かれていた点でした。

それは、映画には描かれていない、記録にすら残っていないシンクロニシティを、他にももっとユングは体験していたかもしれない、いや間違いなくあったであろうと、私に強く思わせる発見でした。

どちらにせよ、活字でしか知らなかった、そして全く知らなかったエピソードも含め、それらを映像を通して体験できたことはやっぱり感動でした。


この映画の「はずせない」もう一方、「ヴィゴ・モーテンセン」についても、書きたいことがいっぱいあるのですが、完全に“自分の世界”になりそうなので、今日は控えめにしておきます・・・。

近年、ヴィゴが主演した映画、『ザ・ロード』や前記した『イースタン・プロミス』、『善き人』など、これらのどの作品の人物とも全くカラーの違う、そして今回は実在の偉大な心理学者“フロイト”を、違和感なくしっかり溶け込みながら演じていると感じました。
(また、体重も調整した模様・・・)

十年来、密かに(ここで公言したから、もう密かにではなくなりましたが)ヴィゴのファンを自認している私としては、“ユングの映画”で、フロイトとして登場するヴィゴの姿が観れると知った時、興奮せずにはいられませんでした。

ヴィゴの出演作品には、ほぼ目を通してきましたが、下積みが長かったヴィゴが、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルン役で大ブレークし、こうして今、フロイト役で画面に登場してくれるなんて、端役時代のビデオを借りまくって観ていた頃を思い出すと、それだけでも『危険なメソッド』は、私にとって“ごちそう”でした。

Viggo Mortensen Translation Archive

(残念ながらもう更新されていませんがヴィゴファンにお薦めのサイトです。)


さて、映画のほうに話を戻すと、この若き日のユングの恋愛話に、眉をひそめる方もいるかもしれません。

山中康裕氏監修の『ユング心理学』では、このように書かれています。

ユングはザビーナを不幸にした責任を痛感していたことでしょう。

のちに彼は倫理的な意味から逆転移の意識化を強調するようになりますが、その根本には、ザビーナに対する痛恨と贖罪の念があったにちがいありません。


そして、ユングの自伝には、このような一節があります。

私は多くの人々の感情を損ねた。
というのも、彼らが私を理解しないと見るや否や、もう話はすんだとして私がとり合わなかったからである。
私は先を急がねばならなかった。

私は自分に課せられた内的な法則に常に従わねばならず、選択の自由が残されていなかった。
もちろん、私は常にそれに従ったわけではない。
いったい誰が矛盾なしに生き得られるだろうか。

ある人たちにとって、彼らが私の内的世界に関係あるかぎり、私は常に近い存在としてあった。しかし、私を彼らに結びつけるものがなくなってしまうと、私はもはや彼らとともにいないということも生じた。

多くの人々が、生きた人間性の感情を私の中にひきおこした。


ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)


確かにザビーナとの関係は悲劇だったかもしれませんが、ユングにとって彼女との出会いが、大きな意味をもっていたであろうことは間違いないはずです。

そしてユングが、自己(Self)からの要請と自我との狭間で、重圧を抱えていたことも、上記の自伝からは読み取れます。

そのような視点でこの映画を観ると、フロイトとの関係も含め、また違った捉え方ができそうです。


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地に足をつけて生きる


Sea Lion Cove at Point Lobos./Don DeBold


前回まで、グノーシスやソフィアなどについて書いた流れで、このまま続けようかとも思ったのですが、
ふと、自分の中でストップがかかってしまいました。

ということで今日は、神話や女神のお話からはちょっと離れて、主観的に“現実目線”で書いてみたい
と思います。


ユング心理学(深層心理学)では、意識の背景に広がる無意識というこころの領域の存在を
前提としていること。
このブログを以前から読んでくださっている方、そしてユング心理学に通じている方は
ご承知のとおりだと思います。

我々が認知できている“自分”や世界の基盤に、より大きな知らない世界(無意識)があることを
認めており、それは、心的な病はもちろんのこと、「生き方」という人の根本的課題についても、
決して無視することのできない重要な存在として位置づけられています。


さて、ここからは“イメージ”も取り入れながら、話を進めていきたいと思いますが、
「無意識と意識」の象徴として、「海と陸」が、多くの人の夢などに登場するようです。

今までのブログ記事でも何度も書きましたが、私の夢にも実際、「海」がよく出てきます。
夢分析を受けることにより、言ってみれば無意識が活発になるわけですから、
それを表す“海”が頻繁に夢に出てくることはある意味当然とも言えますが、
とにかく「夢の意味」だけに焦点を当てて考えてみても、海が無意識を表していることには
納得せざるを得ません。
(無意識の象徴は“海”だけではありませんが、今日は割愛します)

一方、「現実の海」は、よく“生命の源”とも言われます。
私たちヒトの遠い祖先は、始めは海でしか生きられませんでした。
そして、進化の過程で陸に上がってきて、ようやくそこで、文明を持ち得る人類になったわけです。

外的現実でも心理学的にも、海から陸、無意識から意識において、
“発展”を遂げてきた人間という存在。


哲学者の西田幾多郎やヘーゲルも述べていますが、我々は、「意識」という場においてしか、
精神を発展させることはできないのです。

「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。」

「意識においては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。」
                                         西田幾多郎 『善の研究』

「自然の精神は隠れた精神である。それは精神の形をとっては現われない。
  それは認識する精神にとってのみ存在する。」             ヘーゲル 『精神現象学』


ユングも、『旧約聖書のヨブ記』を、そのような心的(神的)発展という観点から読み解いています。

ヨブへの答え
ヨブへの答え



自覚のあるなしに関わらず、私たちは今日でも、内外の世界で海から多大な影響を受けていますが、
でもその我々が生きられる場所はやはり、「陸」しかあり得ません。

しっかりと地に足をつけて「現実を」生きること。

足の裏に大地の感覚を感じ取りながら立ちづづけることは、心理学的にみても、自分を見失わない
ために、とても大切なことだと思われます。


無意識は、断じて無視すべき存在ではありませんが(このテーマだけでも色々書けそうです・・・)、
だからといって、現実・意識という立脚点を失って、あちらの世界に軸を移すようなことになって
しまっては、それは「生」の意味を放棄することになると言っても過言ではありません。

そして同時に、本来果たすべき正しい個性化への歩みを、閉ざしてしまうことにもなるのです。

だから、ただの神秘主義に陥ってしまわないための、「現実的感覚」をきちんと持ち続けることが、
まず、必要とされるわけです。


ユングはもちろんのこと、河合隼雄先生を始めとするユング派の方々は、無意識を相手にすることを
論じる際に、「自我の強さ」の重要性と、脆い自我で無意識に向き合う危険性という点について、
それぞれの言葉で次のように言明しています。

「無意識の統合は自我が持ちこたえるときにのみ可能である。」

「無意識は、それが盛んに働きかけてくるのでなければ、そっとしておくのが一番よい。」
                                               【C.G.ユング】


「クライエントの状況によっては、夢分析を行わないときもある。
 クライエントの自我があまりにも弱く危険な場合や、むしろ日常的な実際生活を整えることに
 重点を置くべきだと考えられるときなどである。」

「まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
 自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。」
                                               【河合隼雄】

(アクティブ・イマジネーションを実践する条件として)
*アクティブ・イマジネーションとは日本語で「能動的想像法」と呼ばれる、夢分析に並ぶ無意識に向き合うための
   手法のひとつ。

「ユング自身の示した条件は、分析プロセスの後半にあること、あるいは人生後半の課題に
 取り組んでいることである。
 『分析プロセスの後半にあること』についてだが、これは裏を返せば、そのアナリザンド
には少なくとも分析プロセスの前半で遭遇する試練に耐えるだけの強さがある、
ということである。
 分析プロセスの前半では、内的にも外的にもさまざまなことが起こり、自我は以前から抱えて
きた諸問題への直面と対決を迫られる。
 曲がりなりにも日常生活をこなしながらこの重圧をくぐり抜けたのだとすれば、自我にある
程度の
強さが備わっていることはまちがいない。」

自我はアクティブな態度を保つ必要がある
(無意識から沸き起こってくるイメージに)容易に圧倒されないだけの備えが要求されるので
ある。
 さもないとイマジナーは、現実を見失うなどの症状を呈したり、何度も同じパターンで敗れ
去ったり、イメージの内容と一致した現実での危険に共時的に巻き込まれたりするかも
しれない。」
                                               【老松克博】

「無意識に足をすくわれる危険があることも忘れてはならない。」
                                                【豊田園子】




ここで話は変わりますが、私はユング心理学に出会うまで、昔話の「浦島太郎」について、ずっと
疑問に思っていたことがありました。
善行によって竜宮城にまで招かれた浦島太郎が、なぜ、お話の最後にあんな理不尽な目にあうのか。
何の責めも負うはずのない人の良い浦島太郎が、なぜ、ひとりぽっちで老人になってしまった場面で、
話が終わってしまうのか。
“その後”(数ある「浦島太郎伝説」の中には、玉手箱を開け老人になったばかりでなく、そこで死を
迎えて話が終わるものもあるそうです)の浦島太郎を考えるとあまりにも不憫で、どうしても納得できずに、どこかでひっかかっていました。

しかし、ユング心理学から解釈した昔話の心理学的意味を知り、浦島太郎の謎についても、私のなかでやっと霧が晴れました。
浦島太郎は、「陸」から離れすぎたのです。海(あちら)の世界に浸かりすぎてしまったのです。

(詳しく知りたい方はこちらを)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
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無意識の世界に分け入ることの難しさと厳しさを、善人だからこその浦島太郎が、身を持って(?)
教えてくれていたのかもしれませんね。



前回までに書いた、グノーシス神話のプレローマ(上位世界)やアイオーン(超越神)についても、
それらが“本当に実在するか”どうか、そんな、神の存在自体に関わるようなあまりにも大きなこと、
逆立ちしても立証不可能なことを、いくら頭で考えたからといって答えなんて出せるはずがありません。

あくまでも“心理学的に見て”、それらの話がとても意味深い心的内容を物語っていると、
ユングは自らの臨床経験に基づいて考察したわけであり、そこで、どっぷりと神話の世界に
入り込んでしまうのではなく(でも、実はそれが必要な時もあるわけで、だから難しいのですが)、
論理的立場を崩さないこと、そこで持ちこたえることがやはり必要とされるわけです。

前記した『昔話と日本人の心』の著書の冒頭に、筆者である河合隼雄氏が引用している一文が、
その“関わり方”を端的に表しています。


むかし語ってきかせえ!―
さることのありしかなかりしか知らねども、あった
として聞かねばならぬぞよ―
                                 ―鹿児島県黒島―



どちらにせよ、「無意識に向き合う」ことは、我々の生き方を豊かにすることに間違いはないと
私は信じています。

そしてその豊かさとは、現代社会で一般的に多くの人が求める豊かさとは少し質の違うものかも
しれません。

だけどその質の違いこそが、実は「ホンモノ」なのかもしれないのです。

だからやはり、それぞれが“自分の竜宮城”を見つけられるよう、海に潜る価値はあると思います。
ただし、浦島太郎の二の舞を踏まないように、という条件付きであることを、くれぐれも忘れないように
したいものです。


【参考文献】
河合隼雄『ユング心理学入門培風館 (1967-10)
老松 克博『無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1』 
                トランスビュー (2004-05-05)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


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ソフィア (sophia)


Aya Sophia Interior /
Alastair Rae

「万学の祖」といわれた偉大な哲学者アリストテレス。
この名を聞いたことのない人はまずいないでしょう。

このアリストテレスが第一哲学と称する『形而上学』という著述があります。
そこでは、いわゆる「存在」に関するさまざまな問題が扱われているわけですが、
「形而上学(metaphysics)」という言葉は、アリストテレスの数々の著作を編集する際、
「自然学関係の諸巻(physica)」の後に置かれた諸巻という意味で作られたとされる
“metaphysica” がもとになっているようです。

meta は超越を意味しますので、“metaphysica” とは自然を超越したもの、「超自然学」を意味します。
自然の背後にあるもの、いわゆる“あちら”の世界についての学問。
(自然と訳される physis は、そもそも「生まれ出たもののすべて」を意味します)

深層心理学的に、ちょっと大胆に言ってしまうと、
“無意識”にあるものの探究、と言い換えることもできるのではないでしょうか。

この『形而上学』について、アリストテレスはまた、「ソフィアをあつかう学」とも称していますが、
ソフィア sophia とは、ギリシア語で「知恵」を意味することを鑑みますと、
ソフィアをあつかう学(第一哲学)とは、われわれの 「存在根本についての知恵に関する学」 であり、
「万物を動かす原理である不動の動者、神(と呼ばれる存在)を探究する学問」であるといえます。


西洋世界において意味深い「ソフィア」の存在について、ユングはあくまでも心理学の観点から、
男性の無意識に存在する、“高次のアニマ”であると述べています。
* アニマとは男性の無意識の中に存在しているとされる、普遍的な女らしさの元型。ソフィアは第四段階の叡智のアニマ。
(ゲーテの『ファウスト』における)「永遠にして女性的なるもの」(ソフィア)は
錬金術の≪智慧≫を具現化したものとして登場する。

ソフィアは、(中略)「楽園の」あるいは「神的な」人間、すなわち「自己」である。


転移の心理学
転移の心理学
著者:C.G. ユング
販売元:みすず書房
(2000-10)








また、前回記事で書いたグノーシス主義では、『旧約聖書』で「最初の人間」とされている
アダムとイブに、2人が“無知の闇”に閉じこめられていることを知らせるため、
智慧の女神ソフィアがヘビを遣わしたとされています。

『旧約聖書』において、知識の木の実を食べるようそそのかした悪魔の使いとされるヘビを、
グノーシス主義では礼拝の対象としていたのです。

(正統派キリスト教、異端派グノーシス主義における、“ヘビ”のこのアンビバレンスな捉え方も、
今日は触れませんが、非常に意味のあることです。
ちなみにユングは、自分の心の深層に導いてくれる存在として、緑のヘビを描いています。)


私たち人間は、自我が芽生えてこそ、他者の存在のみならず、自分の“存在”をも
認知できるようになります。
“無知の闇”(無意識)を抜け出してこそ、「人」となるわけです。
(赤ん坊が幼児に成長する過程を見ていると、それがよく分かります。)

闇を完全に光で満たすことはもちろん不可能ですが、そこに何があるのか、
少しずつ明かりを灯していくことこそ、「ソフィアをあつかう学」につながるのだと、
私には思われます。


「人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』『本来的自己』『光の粒子』」
である、グノーシス主義における女神ソフィアを、ユングが解釈したように、
私たちのこころの深くにある「自己」と考えると(この場合はあくまでも男性心理からの視点で、
ユングは、アニマとセルフを同一視している部分があることが研究者によって指摘されている)、
やはり、わたしたち人間一人ひとりが、
自身の“無意識の声”を聞いていくこと、“認識(グノーシス)”すること。
そして、“無知の知(闇)”の自覚を出発点に、“ソフィア(叡智)の救済”へ努めることは、
たとえそれが終わりのない道であっても、とても意味のあることなのです。

それは、以前のブログで書いた「ホントの自己実現」の生き方と同義です。



西洋のおとぎ話では、王子様が「閉じこめられたお姫様を救出する」お話がよく出てきますが、
そのようなテーマが古くから多くの人の心を揺さぶり、言い伝えられてきたことも、
深層心理学的に解釈すると、納得できそうですね。
それは、私たちの生の「本来の課題」を表しているわけですから・・・。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
筒井 賢治 グノーシス (講談社選書メチエ)』 講談社 (2004-10-09)
山中康裕監修 ユング心理学 (雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)
 PHP研究所 (2007-02)
        

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グノーシス主義のソフィア


Goddess /

暦ではとうに秋ですが、まだまだ残暑が厳しいですね。
でも、朝晩はかなり過ごしやすくなってきたように思います。
秋は私が一番好きな季節。
今年も、秋を堪能できる自然に包まれに、どこかへ行ってみたいなと考えてます。


さて今日は、
5月のブログ記事の最後で触れた“ソフィア”について。

まず、ユング関連の著作の数々を読んでいますと、「グノーシス」という言葉を
目にすることが度々あります。

ユングは、中国思想のタオや易、占星術、タロットなど、様々な分野に興味を示し、
その心理学的意味について考察していますが、古代「グノーシス主義」についても
その内容に深層心理学的に有意味な関連を見出し、たいへんな感銘を受けたようです。
グノーシスの一派である「バシレイデース」の名で、本まで出版しているのですから、
その関心ぶりの高さがうかがえます。
また、「個性化の過程」を考案した際にも、グノーシス主義の思想に影響を受けた
ことが指摘されています。

さて、この「グノーシス」についてですが、講談社選書メチエから出版されている
『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』にはこのように説明されています。

紀元二世紀後半、誕生して間もないキリスト教会では、総称的に「グノーシス」とか
「グノーシス主義」と呼ばれるさまざまな異端的流派が広がりを見せていた。

「グノーシス」とは、ただの単語として見るなら、「認識』や「知識」を意味する
古代ギリシア語の普遍名詞である。
ならば、キリスト教グノーシスとは、「知る」ということに特に重きをおくキリスト教
流派であったのだろうと想像することができるだろう。
事実、そう考えても間違いではない。
ただし、いったい何を「知る」というのか、この点で一定の方向性があった。
多くの場合、キリスト教グノーシスにおける「認識」の対象は、(中略)
人間もまた創造神の作品であるが、その中に、ごく一部だけ、至高神に由来する
要素(=「本来的自己」)が含まれているということ、救済とは、その本来的自己が
この世界から解き放たれて至高神のもとに戻ることなのだということ、
といった事柄である。

キリスト教の異端とされたグノーシス主義。
でもユングは、その思想の中に、人の心的過程に通ずるものを見出したわけです。

「グノーシス主義は何を信奉するのか。
それはこの世界の外、あるいはその上にあるいわば『上位世界』、
そしてそこに位置している『至高神』である。
そして人間の霊魂も、もともとはこの上位世界、別名『プレローマ』の出身であり、
現在はこの世界に幽閉されている形になっている。
(中略)
そこで、霊魂が身体を含むこの世界から解放され、故郷である上位世界に
戻ること、それがグノーシス主義者にとっての『救済』となる。」

「人間にとっては、自分自身のこのような本質に目覚めること、
それを『認識』することが、救われるための必須条件になる。」

一見するとあまりにも現実離れした話で、まさに遠い昔の“神話”であり、
あくまでも宗教的な事柄のようにも受け取れます。
しかしその内容を、人の(無意識の)心的成長のプロセスという切り口で捉えた
場合、それは私たちにとって、重要な意味を秘めていると理解できるのです。

そんな“グノーシス”。
深く多様な意味を含んでいるようです。
「グノーシス主義を筋道立てて総合的に解説するという課題は、きわめて複雑で
困難なものとなる。
むしろ、すべての側面を完全にフォローするのは、実際問題として不可能だと
いうべきであろう。」
“無意識世界”の説明にも同じことが言えるような気がします。

では、ここからは話を“ソフィア”に移してみたいと思います。
と言っても、まだグノーシスの話は終わりません。
なぜかというと、“ソフィア”とは、このグノーシス主義に登場する、
重要な役割を負う女神の名前だからです。

グノーシス主義では、プトレマイオスという人物による宇宙創成神話が有名ですが、
その内容について簡単に触れてみたいと思います。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

まず最初に、至高神(プロパトール)とエンノイアという女性神のペアから、
順次男女ペアの神が流出し、合計30の神々、アイオーンが成立し、
そして、その神々による「上位世界」、“プレーローマ”が完成される。

しかし、至高神を見知ることができるのは、至高神から直接流出した
“ヌース(叡智)”のみであって、他のアイオーン達には許されていない。

にも関わらず、最下位のアイオーンであった“ソフィア”が、大胆にも至高神を
直接に知ろうと企てるが、勿論そんな無謀は失敗に終わり、絶望したソフィアは
プレーローマから転落しそうになる。

しかし、ホロスという存在によって転落は食い止められ、過ちを悟ったソフィアは
自らの「情念」を切り離してプレーローマの外に捨て、自身は救われる。

その後、ヌースという高次のアイオーンから流出した「キリスト」が、
投げ捨てられたソフィアの「情念」を哀れに思い、それに形を与える。
これこそが、この世の創造神(デミウルゴス)と人間を含む「この世界」の起源と
なる。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

グノーシス主義では、「創造神デミウルゴス(=旧約聖書のヤハウェ)」の上に、
上位世界と至高神がいるとされているわけです。

「プトレマイオスの理論によれば、創造神とこの世界はソフィアの向こう見ずな
好奇心から―文字どおり―『生まれ落ちた』産物なのである。」


そしてここからが肝心です。

「ソフィアの『情念』はあくまでソフィアというプレーローマ構成員から出たもので
あり、そのため、わずかとはいえ、プレーローマの要素が混入していたのである。
これが、今でも人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』
『本来的自己』『光の粒子』にほかならないということになる。
その後、プレーローマからキリストが派遣されて覚醒ないし自己認識(グノーシス)
を呼びかけ、それに応えた霊魂たちがプレーローマに次々に帰還する。」



今日は、グノーシス一色で、どっぷりと“非現実的”な感じになってしまいましたが、
“ソフィア”について、そして「自己」やこころについて、次回以降、続きを書いて
いきたいと思います。
そして、グノーシス主義を始めとする様々な思想と無意識について、
“非現実”と“現実”について、結び付けていければな、と考えています。


―締めくくりに少し。
「哲学」の語源は、 philosophia(愛知) であり、その意味は、
「ソフィアを愛し求めること」というものです。
「哲学」という言葉の意味とグノーシス思想との繋がりが感じられますし、
人が“哲学する”ということが何を意味するのか。
その深さも表している気がします。


(今日の引用文は全てこちらの文献から)
グノーシス (講談社選書メチエ)
グノーシス (講談社選書メチエ)
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こころの土づくり

77 075
(植え替えの時にこぼれ落ちた花。玄関を彩ってくれました。)

春から少しずつ進めていた、
庭の植木鉢と花壇の花の植え替えがひと段落しました。

ガーデニングには以前から興味を持っていたものの、
今までなかなか“植物育て”にまでは手が回っていませんでしたし、
気分的にもそんなゆとりを持てずにいました。

「それより他にやるべきこと」が常にありました。
“庭いじりなんて”あくまでも余暇にすべきことだと、実質的なことだけではなく、
私自身が手放せていないもの、作り上げてしまっていたことによっても、
やるべきリストの優先順位の後ろに追いやってしまっていました。

今も気が向いたときに、思いたったように始める程度で、まだまだ知識も技術も
浅い初心者なのですが、でも、大分“手放せる”ようになったのか、
「土に触れたいな」と感じたときには、その気持ちを諸々の理由づけで抑える
のではなく、何だか自然に、帽子を被り軍手をはめて庭に出ている私がいます。


さて、そんなゆるーいガーデンニングなので、
いざやろうと思うと実際には、毎度、準備不足を痛感させられます。
生きている草花を相手に、こちらの都合だけで完璧に事を進められるわけもなく、
この春は、適切な時期に土づくりをしていなかったことを悔やむ羽目になりました。

今年は、“とりあえず”で何とか凌ぐことにしましたが、
来年は前もってきちんと準備しようと、土づくり専門のガイド本を購入しました。

よくわかる土・肥料・鉢 (別冊NHK趣味の園芸)
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さて、届いた本の表紙をあけてみると、
サブタイトルとして次の言葉が書かれてありました。

「植物が生き生きと育つための鍵、
それは、土・肥料・鉢をよく知ることにあります。」

また本文には、次の文章が続いていました。

「水を与えていても、肥料を施していても、それでも枯れたり、
花が咲かなかったり、思うように育たないことを、
やはり多くの方が経験していることと思います。

その原因はいろいろとありますが、(中略)
土・肥料・鉢に根本的な問題がある場合が多々あります。

また、土・肥料・鉢に関する知識の不足から、
管理・作業が適切さに欠けたことが原因となる場合も多いものです。

わたしたちが、とかく植物の見える部分ばかりに目がいき、
ふだん見えない土の中がどうなっているのか
意外に気にかけないことが多いせいでもあるでしょう。



まるで、私たち人間の「こころ」に、そのまま当てはめられるような気がして、
つぎのページをめくる手が止まってしまいました。

美しい花を咲かせたいと思い、土の外から色々とやってみても、
思うように育たないことが多い植物。
それは、「ふだん見えない土の中がどうなっているか」
気にかけていないことが原因かもしれない。

深層心理学的には、あまりにも象徴的な表現だと感じずにはいられませんでした。


以前の記事でもご紹介しましたが、夢やイメージに出てくる“地下”は、
“無意識世界”を表すものとしてしばしば登場します。

無意識の象徴として“水”が現われるのと同じくらい、“地下”もよく出てきます。
これは、多くの人に共通するイメージであることがユングによって指摘されて
いますし、私の夢にも色んな形で地下が出てきていて、その分析の流れからも、
ユングの説の妥当性は確信できます。



現実の庭でキレイで丈夫な花を咲かせるためには、
「土・肥料・鉢をよく知る」必要があります。

「水を与えていても、肥料を施していても、それでも枯れたり、
花が咲かなかったり、」するのは、
「土・肥料・鉢に根本的な問題がある場合が多々」あるからです。

人のこころの、見える世界(意識)と見えない世界(無意識)の関係にも、
これと同じことが言えるのではないでしょうか。

意識の私で、
「こうなりたい(育ちたい、咲きたい)」といくら望んでいても、
土の中(無意識)の状態を全く度外視しているようでは、
思うようにならなくてある意味当然なのかもしれません。


ユング心理学では、意識の基盤には無意識があるとされています。

見える草花の下には見えない土の世界が常に存在しているように、
私たちの知っている意識世界の下には、無意識の世界が広がっているのです。


植物が思うように育ってくれない原因が、
「とかく植物の見える部分ばかりに目がいき、ふだん見えない土の中が
どうなっているのか意外に気にかけないことが多いせいで」
あるように、
意識の“知っている私”だけでどれだけ色々とやってみようと、
「どうしても思うようにならない、変われない、良い状態にならない」
自分の状態があるとき、その原因は、無意識が握っている可能性が十分に
考えられるのではないでしょうか。


さて、庭仕事に話を戻しますと、ガーデニング初心者ながら、植物を健康に育て、
キレイな花を長く咲かせるためには、適切な時期にきちんと、地道な土づくりに
エネルギーを注がなければならないことが分かってきました。

土を掘り起こしてみると、日頃ほとんど目にすることのない虫たちにも出会います。
それらは大抵、ミミズや芋虫などの地味で気持ちの悪い生きもので(少なくとも
私にとっては・・・)、以前は何も考えず、脇に除けてしまっていたこともありました。

でも、土の状態を気にし始めたときからは、ミミズは良い土づくりには欠かせない
有り難い存在だし、様々な芋虫たちだって、いつかは外に出て自由に動き回れる
ようになるための大切な準備期間として、こうして暗い土の中で今は地味に
目立たずに生きているんだと思えるようになり、彼らをむやみに排除することは
なくなりました。
(でも、まだ触れませんが・・・)

そして、良い土づくりの適切な時期は「冬」だということも知りました。
寒い時期にしっかりと地味な作業にエネルギーを注いでおくことで、
春を迎えたとき、美しい花を長くたくさん咲かせることができるわけです。

一生懸命、良い土づくりをしても、冬に咲かせられる花の種類は限られています。
自然のサイクルを、人間が支配しコントロールすることなんてできませんから、
多くの花を愛でるには、春が来るのを待つしかありません。


こころの世界でも、いくら内面に目を向けたからといって、なかなか目に見える
変化は得られないかもしれない。
寒さに耐えながら、じっくりと土づくりをする時期は必要なのかもしれません。
でも明らかに、その見えない部分では培養が始まっているのですから、
外的に芽吹く時が来れば、自ずとその芽は見えてくるのではないでしょうか。

そう考えると、私たちを取り巻く自然とこころとは、やはりどこか繋がっている
気がしますね。


今日は「土」に焦点を当てて書きましたが、
本には「肥料・鉢」もよく知らなければならないと書かれていました。

このあたりも、“外的なこと”に置き換えて考えてみると、
なかなか示唆的な気もします。
 

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一番生きている「私」


焼き鳥で乾杯!(実際の写真でありません)


1カ月ほど前、十何年ぶりに昔の仲間と再会しました。
その仲間とは、私がまだ若かった時分に勤めていた職場の同僚で、
当時はよく飲みに行ったり(ホント、よく行った・・・)遊んだりして、
今考えると本当に楽しい時間を一緒に過ごした、気の置けない友人たちです。

みんなでワイワイやっていた数年後には、それぞれが自分たちの道を進むことに
なりましたが、職場で会うことがなくなっても、お互いの結婚式に出席したり(もちろん私の式にも参列してくれました)と、何かの節目には顔を合わせていました。

しかし、それもだんだんとなくなり、一部の友人を除いては、
ここ何年かは年賀状のやりとりだけになっていたのですが、
急遽、「飲みに行こう!」という話が持ち上がり、
トントントンと事が進んで、この度の再会となったのでした。


久しぶりのご対面。
「みんな、どんな感じになっているのかな」と、会う前は内心、少しそわそわしていましたが、実際に顔を合わせてみると、長い時が瞬く間に遡りました。

「相変わらず!」
「みんな変わってない!」
その一言に尽きました。

そして気づくと、昔の感覚のままで、飲んで食べておしゃべりして、
楽しんでいる私がそこに居て、多分それは、みんなも同じだったと思います。

また、色々と話し込んでいくうちに、お互い、それぞれに大きな出来事を経験し、
この会わなかった長い時を、決して順風満帆に過ごしてきたわけでは
ないこともよく分かりました。


そのような濃密な数時間を過ごし、みんなと別れて家路につく私の胸には、
色んな思いが交錯していました。

何より強かったのは、「人って、何年たっても変わらないものだなー」
という実感でした。
話すテンポやその口調、相手への気遣い方、優しさやユーモア。話し役と聞き役。
そんないわゆる“外側の人格”は、みんな昔とちっとも変わってないような気がしました。

そして、河合隼雄先生が、
「人が変わるということ、人格が変化するということは、並大抵のことではない」
というようなことを、何かの著書で書かれていたことを思い出し、
「この世で一番生きている主人格の“私”」について、頭の中でぐるぐると渦巻くものがありました。

友人たちも、いわゆる外側から受ける印象は、昔と全く変わっていませんでしたが、長い年月の間には、様々な経験をし、置かれている立場も変わり、確実にそこに“変化”はあったわけです。
でも、それぞれのキャラクターはやっぱり、変わっていない感じがした・・・。

その各々の“私”(自我)は、確かに、簡単に変わってしまうような軟弱なものであってはならないし、だからこそ、その“私”が変化していくという意味とその困難さについて、自分のことも省みながら、改めて考えさせられました。

また、私が感じ取れなかっただけで、内面的には大きく変わっていた友人も実際にはいたのかもしれません。
自我という主人格の自分が変わるということも含めて、その見える人格と見えない内面(こころ)を持つ「人」の深遠さというものを、久しぶりに会った友人たちを通して、実感を伴った何かとして、突き付けられたような気さえしました。


この現実世界で“一番生きている”主人格の「私」。
この「私」に決定的な変化をもたらすことは、やはりとんでもなくスゴイことなのかもしれません。
けれど、夢に出てくる色々な私たちも、無意識内には確実に存在しているわけですから、その様々な自分を、「私」として出来得る限り生かすこと。
た易いことではありませんが、それに取り組むことは人生に大きな意味づけを与えるものであり、その意味を実感できるようになると、外的な苦難に負けない強さを確実に「私」にもたらしてくれるようになります。


何年ものあいだ、年賀状では「今年こそ会おうね!」とお互い記しつつ、正直なところ、それが社交辞令の挨拶と変わってしまっていたにも関わらず、今年、スイッチが入ったかのようにあっという間に実現化したこと。
この度の再会は、多分、私の色々な“場所”において意味あることだったように思われます。

それにしても、今の私はみんなにどんなふうに映って見えたのでしょう。
私も何も変わってないように見えたのかもしれません・・・(笑)


○●○●○●○●○
分析を受け始めてこの数年の間、今日の記事の再会のほかに、もっと時間を遡る中学生時代の同級生たちとの再会もありました。そして、それに付随する新たな出来事も起こりました。
内的世界で色々と動き始めると、外的にも確実に動きが現われます。
ユング心理学で、布置であり共時性といわれるものを感じずにはいられません。


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心と哲学も「太陽中心説」


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今月始め、NHKのある番組を視聴しました。
それは
梅原猛さんがご出演され、「3.11」の東日本大震災について、
哲学者としてのお立場からお話になるというもので、
期待どおり、色々と考えさせられるとても深い内容でした。

ちなみに、梅原猛さんのお名前は、
河合隼雄さんの著作を読み進める中で知り得ていました。
生前の河合隼雄さんとは、哲学者と心理学者としての交流がおありなったようで、
それが、番組を見てみようと私が思った動機となりました。

さて、その内容については、あれもこれもと気になる点、
勉強になるお話がいくつもあったのですが、
その中でも私が一番興味をそそられたことはつぎのようなものでした。

梅原猛さんはこのように述べられていました。

□■□■□■□■□

「現代の科学技術の文明背後には、
自然を意のままに支配しようという人間中心の西洋哲学がある。」

とした上で、

「(過去、)自然科学において、天動説は誤りで地動説になった。
(でも)哲学においては、天動説じゃないかと。
自然科学は地動説を取ったけれど、
近代哲学は寧ろ天動説を唱えたのではないかと。
もう一度哲学においても、地動説に戻さなあかんという、
そういう太陽の恩恵を考える、そういう哲学になるべきだと思うんだけどね。」 

3.11の大震災を契機に、梅原猛さんは哲学者として、
「自然を意のままに支配しようという人間中心の」西洋哲学や合理主義の限界を、
改めて思い知らされたとのことでした。


『こころの時代〜宗教・人生〜 シリーズ 私にとっての「3.11」』 (NHK Eテレ 3/4(日))

□■□■□■□■□


「地動説」とはご存じのとおり、太陽の周りを地球が公転しているという、
現代では常識となっている天文学説です。
「太陽中心説」ともいいます。

自然科学においては、コペルニクスにおいて地動説が定説となっていきました。

しかし近代哲学においては「天動説」であり続け、人類は科学技術を発達させ、
「人間中心」の考え方により、自然すら支配下に置こうとしてきた。
しかしその自然とは、穏やかに恵みを与えてくれる存在であると同時に、
もう一方では、非常に恐ろしい面を隠し持っている。
そして、その脅威を見せつけられた時、
人は自らの存在の脆弱さを思い知らされる。

梅原猛さんは、そのような人類全体の自然に対する驕りの危険性と限界について語り、


「今まで、自然を支配する道具として、科学技術が使われていた。
今度(これから)は、自然と共存できる科学技術に変貌する、
というふうに私は思いますね。」

とも言われていました。


私はその放送内容を聞きながら、心に関するユングの説も思い出し、
胸に深く響くものを感じていました。

次に挙げるのはユングの言葉です。
 
「自己が何か不合理なもの、定義不可能なものであって、
自我はそれに敵対するわけでも隷属しているわけでもなく、
それに依存しつつ、ちょうど太陽のまわりをまわる地球のように、
そのまわりをまわっていると感じ取られたとき、
個体化の目標は達せられたことになる。
・・・個体化された自我は、自らが、上位に位置する知られざる主体の
客体であると感じるようになる。」

ユングにおける心と体験世界 (南山大学学術叢書)


私たちは、現実の生き方、思想、という外界においても、
こころという内界においても、
やはり「太陽中心説」であると認識すべきなのではないかと思いました。

外界においても、内界においても、「私」が中心で絶対的な存在ではないとする
思想は重要なのではないのか。
「哲学において、地動説に戻さなあかん」ように、
心理学においても、地動説が広く認知されるべきなのではないかと、
私はそう思います。


最後に・・・。
西田幾多郎は『善の研究』にこのように書いています。

「意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、
個人とは意識の中の一小体系にすぎない。
我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、
もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、
この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意思実現である。」

哲学者の中にも、地動説(太陽中心説)を唱えていた人物が
ちゃんといたんですよね。

また今度、続きを書きたいと思います・・・。


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