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ある出来事で‟反作用”が起ってしまい、懸案の箱作りそっちのけで、
固まっていたブログ記事をタイプする指が久しぶりに動きはじめています。

そのある出来事とは。



このブログを以前から読んだくださっている方はご存知だと思いますが、西田幾多郎『善の研究』も、NHK Eテレの『100分 de 名著』も、ブログ内で何度も取り上げている、私にとっては思い入れの深い両者なのです。

昨年の『100分de名著』で「河合隼雄スペシャル」の放送を知った時も、嬉しさの興奮を記事に表わしました。
「100分de名著 河合隼雄スペシャル」


そして、今月とうとう西田幾多郎が取り上げられることになったと知り、ワクワクと共にテキストも早速手にいれ、時間の関係上拾い読みではありますが全体に目を通しました。



過去、このブログで書いた内容に共通のものが散見され、ざわめきを感じずにはいられませんでした。

鈴木大拙が取り上げらていることは充分想定内でしたが、ユングの名やSelf(自己)、普遍的無意識(集合的無意識)、「一なるもの(ウ−ヌス・ムンドゥス)」への言及までされていたことには、「えっ!」と思わず小さな声がもれてしまいました。

その他、色々と共鳴するような内容。
グノーシス主義のソフィア


これも「一なるもの」から派生する‟シンクロニシティ”なのかな、と思ってみたり。
(今までの自身の個人的なシンクロニシティの体験とは趣が違いますが)




読後の今、テキストには載っていなかった、『善の研究』で重要なポイントの一つであるはずの「偽醜悪」が番組でどう取り扱われるかに興味があります。
テキスト内では、西田幾多郎が親鸞の『歎異抄』を愛読していたことには触れられていました。
『歎異抄』といえば、有名な「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや」です。


西田幾多郎がなぜ『歎異抄』を、悪人正機説を重要視し、自身の言葉で「偽醜悪」を語ったかについて、私の中ではつながっていました。

悪は宇宙を構成する一要素といってもよいのである。

一面より見れば偽醜悪は実在成立に必要である、いわゆる対立的原理より生ずるのである。

罪悪、不満、苦悩は我々人間が精神的向上の要件である。されば真の宗教家はこれらの者において神の矛盾を見ずしてかえって深き神の恩寵を感ずるのである。
これらの者あるが為に世界はそれだけ不完全となるのではなく、かえって豊富深遠となるのである。
                  【西田幾多郎】『善の研究』


河合隼雄先生もこのように言っておられます。
(略)キリスト教の使徒のパウロの有名なことばですが、
「なぜ自分の欲している善は行わずに、欲していない悪を行うんだろう」*
というパウロの嘆きというのがありますね。
これはすごい名言ですね。

私が感心するのは、パウロのようなすごい聖人が、そういうことをはっきり聖書に書いていることです。
パウロでさえそうなんですから、われわれ普通の人間は、悪をどうしてもやらざるを得ない。
(略)その悪というのを、われわれよく見てみますと、それがやっぱり宗教体験への入口になっている。あるいは、その背後に宗教というのが動いているというのを、すごく感じます。
                 『カウンセリングを語る(下)』

*パウロが嘆いたように「欲していない悪」を行うこと、‟無意識であること”によって引き起こされる「悪」について、ユングは指摘しています。
上記の「われわれ普通の人間は、悪をどうしてもやらざるを得ない」という河合先生の言葉はそのような意味も含んでいます。
そのことに気づき嘆いたパウロは、だからこそ聖人なのです。

「普遍的無意識」「大いなる自己」「一なるもの」を語る時に、どうしてもそれらを避けては通れないからです。
どんなに嫌で辛くても、どうしてもその要素と対決、向き合わざるを得ないからです。


今日は詳細に踏み入って書くことはできませんが、鈴木大拙の言葉も紹介しておきます。

心理的体験を話すると、非常な苦しみということを考えなければいけないのです。
対立の世界を、非常な束縛だと感ずることがなければいかん。
それを感ずることすなわち業という考えを有することになるのです。
浄土の方の見方では罪業ということを非常に強く感じさせるように仕組んである。
              【鈴木大拙】『無心ということ』

あと河合隼雄先生のこちらの著作。

影の現象学 (講談社学術文庫)
河合 隼雄
講談社
1987-12-10





関連してもう一つ。
(我を手放す)
「他力」のちからをもってこそ「主客の合一」の奥にある、「最深の統一」、「知意未分以前の統一」の境地を経験することになる、というのです。
   【若松英輔】『西田幾多郎  善の研究  (NHK100分de名著)』


その体験が‟実際に何を伴うのか”、その点についてもしっかりと触れてほしいのです。

何らの罪悪もなく不満もなき平穏無事なる世界は極めて平凡であって且つ浅薄なる世界といわねばならぬ。
罪を知らざる者は真に神の愛を知ることはできない。
不満なく苦悩なき者は深き精神的趣味を解することはできぬ。

矛盾衝突の場合には常に苦痛である。
無限なる統一的活動は直にこの矛盾衝突を脱して更に一層大なる統一に達せんとするのである。
                   【西田幾多郎】
『善の研究』

内なる声にたいして、たいていの人が普通抱く恐怖というのは、想像されるほど子どもじみたものではない。
限局された意識のなかに立ち現われ、直面してくる内容は、決して無害なものではない。

一般に、関係する当の個人にとっては、圧倒されるような特別な危険をそれは意味している。
内なる声がわれわれに囁くのは、普通、悪そのものではないにせよ、何か否定的なことである。

人格*の発展というのは、高価な代償を伴う恩寵なのである。
しかし、人格の発展について声高に語る人ほど、その結果については考えないものである。
その結果を聞かされたなら、気の弱い人はぎょっとして怯えることだろう。
                   【C.G.ユング】『人格の発展』


*西田幾多郎も『善の研究』の中で「人格」という言葉を使っている。
例えば、「人格とは(略)意識の統一力である。」などであり、それは自我のみの意味ではない。

自分の影を見失っては、およそ得るところがないのである。
罪の自覚があってこそ、それを改め善くすることもできる。
無意識のなかにとどまっているものは、言うまでもなく変わりようがない。
意識のうちにおいてのみ、心理上の修正もきくのである。
〈ノイローゼの治療でも、つねに影を探し出さねばならない。
そうしない限り何も変えられはしないのだ。〉

罪なくしては、残念ながら心の成熟も精神の地平の拡大もありえない。
マイスター・エックハルトはこう言っているではないか。
「だからこそ神も、大成すべく定められた人間にかぎって罪の悲惨をことさらに味わわせるのである。
使徒たち以上に神に愛され心許された者があるだろうか。しかも彼らは一人として罪に堕ちずにはいなかった。」
こうした体験こそが内面の変化をもたらすが、これは政治や社会改革などとはくらべものにならないくらい重要なことである。
外部のどんな改革も、自分自身と正しく対決していない人間の手によるのでは、何の役にも立たないのだ。

(心理的)影を背負ってどう生きていけばよいのかという疑問に答えねばならない。
悪を担ってしかも生きつづけるためには、どういう心構えがいるのだろうか?
この疑問に対する正しい答えを見出すには、徹底的な精神の入れかえが必要だが、それも外から与えられるわけはなく、各自が努力して達成するほかない。
さらにまた、かつては効果のあった古い公式をそのまま踏襲しようとしてもだめである。
なぜなら永遠の真理とは、機械的に承け継がれるものではなく、それぞれの時代に人々の心から新たに生まれるものだからである。
               
                   【C.G.ユング】『現在と未来』


心理的に言うと、非常な苦しい世界、その世界の中を抜け出して、楽しい処に住かしめるため、祖師方はいろんな方便でわれらを救おうとする。
罪業の苦しみ、対立的の存在の苦しみなどを指摘する。

本当に苦しみを痛切に感じだすと、その極に思わぬ力が出てきて、今まで飛べぬと考えていたところを飛ぶということができるのである。
                        【鈴木大拙】

無心ということを正面から打ち出す大拙は、「危険だから、また普通にあまり大っぴらに見せちゃいかん」というところを大胆に、思う存分に提示する。
            (解説)【末木文美士】 『無心ということ』

恵果には1000人を超える弟子がいました。しかし、自分の後継者として認定したのは、空海をふくめ、わずか6人にすぎません。これは、法の伝授はそれくらい厳密だったということをしめしています。
                【正木晃】『マンダラと生きる』

「自己実現」の方は、無意識というわけのわからない要素も含めてのことですから、一般的に評価されることとは違う、場合によると途方もないことが起こってくる可能性がある。
つまり自己実現というものは、つねに自我の崩壊とスレスレのところにあるんです。
自我が築いたものの延長だったら、それは自我実現でしかない。
それとはまったく違うことが起こってきて、自我を破壊するような力がどこかで働く。

できることならやめたいというくらいのものが「自己実現」なんです。

                  【河合隼雄】『こころの子育て』
われわれが注目することは、一つの段階の自我が次の高い次元の自我へと発展してゆくとき、その発展というのは、必ずそのうらに危険性をもっているということです。
「可能性の世界」という表現をしましたが、可能性の世界はプラスもマイナスも含んでいる。
可能性の方が、プラスもマイナスも含んでいてあまりにも力強くて、クライエントの自我が耐えきれぬときは大変なことになってしまいます。
          【河合隼雄】『カウンセリングの実際問題』








村上春樹さんの小説が、ユング派の「能動的想像法」によって生み出されていることは兼ね兼ね言われていることですが、そこでは醜く辛く不条理で不可解な物語が、当然の如く描かれています。
「大いなる自己」、無意識世界を語る時、その危険な部分について見過ごして語ることはできないのではないかと思います。


テキストでは次のように書かれていました。
西田哲学は「悲しみ」と「苦しみ」という二つのレンズによって世界の深みを見つめながら築き上げられたといっても過言ではないと思います。
『無の自覚的限定』という著作の中でも西田は「哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」と書いています。

ユングはその『「悲しみ」と「苦しみ」』は避けられない運命のように当人にふりかかってくると言っています。
「深い人生の悲哀」という西田幾多郎の言葉と合わせ、その重たさは実際に背中にずっしりと乗りかかってくるようです。

そしてそのプロセスを経ないと、「大いなる自己」を体得する本当の救済には至らないと語られているのが『善の研究』であり、ユング心理学でも、仏教をはじめとする宗教学でも、それは同様に説かれている深くて重い厳格な意味です。




さて、私的なこととしては、テキスト著者の若松氏が書かれていたこの言葉に心が動かされました。
「論究」するためにまずは、どんな文章でもかまわないので、書いてみることをおすすめします。詩やエッセイ、小説といった決まったかたちでなくてもよいのです。西田がそうしたように、自分の切実な経験、切なるおもいを言葉にしてみる。
むしろ、これまで私たちは、この本(『善の研究』)を「読みすぎ」たのかもしれません。「読みすぎ」ることで、「書く」ことによって初めて開かれる意味の次元を見過ごしてきたのかもしれないのです。
                       【若松英輔】

「私の話」ですが、ある夢分析の内容と個性化過程のステップが思い出されました。

「水槽の魚をどうにかしなければならない」
夢に突き付けられている自身の課題です。




放送は今晩から始まります!
ブログパーツの「ブグログ」内で記載しているとおり、私にとって『善の研究』は偉大なる書であり、何より、ユングや夏目漱石と並んで、西田幾多郎もとにかく大好きなのです。
大いなる期待を寄せて、ドキドキワクワク、視聴します。




【引用文献】
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
河合隼雄 『カウンセリングを語る(下) (講談社+α文庫) [文庫]』 講談社(1999-10-20)
鈴木大拙 『無心ということ (角川ソフィア文庫) [文庫] 』  角川学芸出版(2007-09-22)
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
カール・グスタフ・ ユング『現在と未来―ユングの文明論 (平凡社ライブラリー) [新書]』平凡社
(2018-03-26)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)