Storm Clouds /

「潜在意識をコントロールする」とか、「無意識を積極的に活用する」といった言葉をたまに目にすることがあります。

私はそういった類の‟謳い文句”を見るたびに、どうしても違和感を覚えずにはいられません。

それは、私自身がユング派の分析を受ける中で、そしてそれ以前の体験も踏まえて、われわれ人(自我)にできることはせいぜい、
「無意識に完全にコントロールされないようにするぐらいのこと」
だと、常に強く感じているからです。



そういえば、河合隼雄先生の『無意識の構造』という著書の中に、ある男性の空想の中に現われた「無意識を象徴する像の図」が載っておりました。
(※興味のある方はぜひ、同書のP.41を直接ご覧になってみてください。)

このイメージ図は、自我と無意識の力関係が非常によく表現されているもので、河合先生もこのように書かれていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。




また、「無意識という世界」については、このように表現されています。

(前略)ここにいう内界は、すなわち無意識界である。
それは内省可能な領域を指しているのではないことに注意しなくてはならない。
自己をみつめるとか、内界に目を向けるということで、自分の感情をあれこれ表現したり、自分の心境をああでもない、こうでもないとひねくりまわすようなことをする人もあるが、そのようなことを言っているのではない。
われわれが問題としている内界は、自我によってコントロールできない、あちらの世界なのである。
この世界の存在は自ら体験したものでないかぎり、おそらく解らないであろう。




無意識とは本当に、「畏怖(畏敬よりやはり‟畏怖”という言葉がピッタリです)の念」を持つべき存在であり、決して、軽んじたり侮ってはいけない相手だと思います。


ユング派では、無意識(Self)は神的存在として位置づけられていますが、この辺は一部の哲学者の思想とも通じています。
特に、過去にブログでも取り上げた西田幾多郎やヘーゲルのそれとユングの論には、興味深い類似点が見出されます。



ここで、私が過去に見た夢の話に移りますが、その内容は簡単に言うと、「黒くて巨大な蛇が出てきた」というものでした。
そして、分析家との対話の中で、どうもこの蛇はウロボロスで、「無意識」の象徴として出てきたようだということが分かりました。

ちなみにその夢の中では、私は「特段大きな恐怖は感じなかったが、でもやはりそうすべきものとして、その大蛇から走って逃げて」いました。
それはとても、「面と向かって対峙できるような相手ではなかった」のです。
前述した『無意識の構造』のあの無意識像のイメージと重なります。




私たちは、無意識というその存在と相手の偉大さをしっかりと意識して、‟あちらからのメッセージ”にきちんと耳を傾け、せいぜい「自我をコントロールする」ことにより、間接的に無意識に影響を及ぼしていくことしかできないようです。

無意識は、私たち意識の「在り方」を常に視ていますから、その在り方によって、あちらも態度を変えてくれるわけで、それが「意識から無意識への作用」となるわけです。

私たちが積極的に無意識に関われることはそれぐらいのことなのかもしれません…。
でも「それぐらいのこと」でも、それを行う意義はとても大きいと思います。

確かユングが
「無意識はその存在を認めてもらいたがっている」と、どこかで書いていたと思います。


そして、そんな強大な無意識とやり取りをしていくとなると、自我に一定の強さがないと危険さえ伴うわけです。
だから、ユング派分析家の資格を得るためにはまず、自分自身が「300時間を超える分析を受ける」という、「無意識界を体験」しなければならないのです。
自分のこころの他界を体験できてない人が、他人の無意識界への旅をサポートすることは、やはりできないのではないでしょうか。

前述した河合隼雄先生の言葉も、その点の重要さを表していると思います。
この世界の存在は自ら体験したものでないかぎり、おそらく解らないであろう。



―無意識の偉大さを認め、それを敬う―
まずはそれが大切だと思います。
それだけでも、無意識に不用意に飲み込まれる可能性は減ってくるはずです。

もしわれわれが、見えないからといってその存在を「無視し続ける」とどうなるのか。
世の中で起こっている、個人的な、そして集団的な多くの混乱の陰に、その恐ろしさが潜んでいることを見てとることができるようになれば、私たちは自然、「ひざまずくよりほかなくなってくる」のかもしれません。


自我の思いどおりに無意識をコントロールできるぐらいなら、様々な精神疾患やその他の混乱でこれほどの人々が苦しむはずがない。

私はそう考えています。



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母の体験を間近で見たこと、また説明のつかない自分自身の体験があったことからも、昔から、今では無意識と呼んでいる‟何か”に、私は向き合わざるを得なかったような気がしています。
だから、誰に言われるでもなく、無意識への畏怖の念を抱くようになったのも、ユングや河合隼雄先生が残された言葉がすっと胸に入ってくるのも、そして、分析を受け始めるようになったことさえ、自然な流れのように感じています。