かなり時間が経過してしまったのですが、数か月前に子どもの授業参観に出席したときのこと。
それは道徳の授業だったのですが、教材として取り上げられていたのが、今日の記事のトップ画像に据えた『100万回生きたねこ』という絵本でした。


私は数年前に、河合隼雄先生の著書『猫だましい』を通じてこの絵本を知り、すぐに買い求め、目を通していました。

猫だましい (新潮文庫)
河合 隼雄
新潮社
2002-11-28



親子で何度か読んだ後は、当分の間、我が家の本棚の片隅で静かに眠っていたのですが、この度の授業参観をきっかけに久しぶりにこの絵本のページを開き、授業内容や『猫だましい』での河合先生の論説に刺激を受け、改めて色々と考えを巡らせることとなりました。


それから、このブログの記事を書き始めていたのですが、同時期に、高畑勲監督逝去に伴う追悼番組として放映された『かぐや姫の物語』を鑑賞しました。
『100万回生きたねこ』で感じていたことと相俟って、缶の中でぶつかり合う色とりどりのドロップ飴のように、さらに私の頭と胸の中が揺さぶられることとなりました。


そのような経緯から、当初書こうとしていた内容からさらに膨らみ、一回の記事ではまとめきれなくなってしまったのですが、今日は『100万回生きたねこ』の内容から書いていきたいと思います。


河合隼雄先生は『猫だましい』の中で、この絵本を最大級の賛辞でもって次のように称え、ページを割いて粗筋についても紹介されています。

これは猫の絵本というよりは、すべての絵本のなかでも傑作というべき作品である。
(略)
多くの人が、静かで深い感動を味わうであろう。
そして
これに解説をつけるのはヤボであろう。
解説などではなく、私の感じたことを少し述べてみよう。

このように前置きをされたうえで、「深い読み」を語っておられます。


『猫だましい』には、魂の仕事をされた河合先生ならではの、‟猫とたましい”の話がほかにも沢山取り上げられていますので、興味のある方は実際にお手に取っていただくこととして、私個人としては、そこに書かれていた「悪しき生」と「生と死のパラドックス」の言葉が胸に刺さりました。



『100万回生きたねこ』を読み終わったときに去来した、あのなんとも言葉にし難い「安堵と悲しみ」。

それはまさに「生と死のパラドックス」であり、読者に両義的な感情をもたらすこの絵本の不可思議な深さであり、長年多くの人に読み伝えられ、現在においてもその存在が霞むことのない、これがいわゆる「人のこころの根本的なものに響く普遍的な何か」が表現された物語なのだろう、と納得せずにはいられませんでした。




ここからは、そんな『100万回生きたねこ』のストーリーについて、概略をネタバレしますので、読みたくない方は飛ばしてください。
     ↓          ↓          ↓


主人公のねこは、100万回死に、そして生き返り、100万人の人に可愛がられ、死を迎えた時には飼い主などの人間たちはみななくのですが、ねこ自身は100万年の間、一回もないたことがありませんでした。
ねこはいつも飼い主が嫌いで、自分が「しぬのなんか へいきだったのです。」

でもある時、初めて、だれのねこでもないのらねことして「ねこははじめて自分のねこになりました。」
そして「ねこは自分がだいすきでした。ねこは,だれよりも自分がすきだったのです。」

そのようにはじめて「自分がだいすき」になったねこは、雌猫の「白いねこ」や「子ねこ」を愛することもできるようになりました。
そして子ねこたちが巣立った後は、「白いねこといっしょに、いつまでも生きていたいと思いました。」

その後、やがてうごかなくなった白いねこのために、「ねこは、はじめてなきました。」
100万回も泣いたのです。

そうやって、「はじめて自分のねこ」としての生を生き、自分と白いねこを愛し、「いつまでも生きていたい」と思い、100万回も泣いたねこは、「もう、けっして生きかえりませんでした」


     ↑           ↑           ↑


100万回生きたねこは、「誰かのねこ」である限り、100万回生きても死んでも、その自らの生死についてすら何も感じませんでした。
でも最後の生で、初めて自分自身を生き、自分のことが大好きになり、他者を愛することもできるようになりました。
自分の内にある感情ときちんと繋がり、楽しみも悲しみも味わったうえで、最後はやっと、きちんと死ぬこともできました。



さて、冒頭で触れた『かぐや姫の物語』の作中では、かぐや姫がこのように言っているシーンがあります。
私がなぜ、何のために、この地へ降り立ったのか。

ああ、そうなのです。
私は生きるために生まれてきたのに。

生きている手ごたえがあれば、きっと幸せになれた。


100万回目の生において、初めて「自分自身を生きるために生まれてくることができた」ねこは、「生きている手ごたえ」をしっかりと感じ取り、初めて生き抜くことができたのかもしれません。

だからこそ、初めて「しぬのなんかへいき」ではなくなり(生への本当の執着心が芽生え)、でもそれゆえに「もうけっして生きかえ」らなくなってしまったのかもしれません。

(前略)とらねこは、自分の生活を嫌ってばかりいたが、最後になって、「いつまでも 生きていたい」と思う。
そして、それ以後、彼は生きかえらなくなるのだ。
生と死のパラドックスを深く感じさせる終結である。
                        【河合隼雄】
そして、河合先生は「これは人間にとっての永遠のテーマである…」と続けておられます。



『かぐや姫の物語』でも、月からのお迎えが来ると分かったとき、かぐや姫は初めて自分が生きている意味に気づき(思い出し)、「このまま死にたくない」と願います。
ですが時すでに遅く、十五夜の晩には否応なくあちらの世界へ連れ戻されてしまいます。

こちらでも同じく「生と死のパラドックス」が描かれていると同時に、‟人”である(しかも元々月との関わりが深い)かぐや姫は、「自分が(この世で)生きている」意味について、ねこよりも明らかに理解が進んでいたようです。




『100万回生きたねこ』からも『かぐや姫の物語』からも、簡単に割り切ることのできない「生と死のパラドックス」という、複雑な、「人間にとっての永遠のテーマ」が語られていて、そしてそこに秘められた意味は、今を生きる私たちの「自分の生」においても目を背けてはいけないことについて、静かに鋭く、大事ななにかを問いかけてきている気がしました。




河合隼雄先生は、『猫だましい』の出だしでこのように書かれています。
「猫だましい」とは変テコな題の本だと思われるだろう。
読者は「なぜ猫なの?」とか「だましいとは何?」という疑問を持たれるかもしれない。
「だましい」は「たましい」と「だまし」を掛けた詞であるのは、まず誰にもわかるのではないだろうか。

そして「猫」について。
犬よりは猫の方が、たましいの不可解さ、とらえどころのなさをはるかに感じさせるように思われる。
(略)
猫というのは、何か不可解さ、信頼し難いような感じを与える。
人間に対して、犬よりはるかに‟独立”の立場をとっているようにも見える。
たましいというのは、人間の内にあると言えばあるのだ。
だからと言って人間の思うままになるのではない。
むしろ、それとは‟独立”に途方もないはたらきかけをしてくるものである。
(略)
(夢や箱庭づくりや絵などに、極めて重要な役割をもって猫が登場してくることもあり)猫を「たましいの顕現」と呼びたいほどに感じるときもある。


また、「たましい」について、別の著作ではこのようにも述べられています。
(前略)「子どもだまし」の話は駄目だと言うが、それは大人の常識という「大人だまし」にいかれてしまって、たましいと切れてしまっていることを示している。
とりかへばや、男と女(新潮選書)
河合 隼雄
新潮社
2013-08-02





『100万回生きたねこ』における、ねこを取り囲む人間たち。
『かぐや姫の物語』における、お父様をはじめとする周りの人間たち。

私たちが、あまりにも「大人だまし」にいかれてしまうと、どうなってしまうのか。



河合先生は「関係性の喪失、たましいの喪失」に悩む現代人についても言及されていますが、ねこやかぐや姫が何を訴えたかったのかに耳を傾ける事こそ、たましいとつながり、「生きている手ごたえがあれば、きっと幸せになれた。」というかぐや姫の言葉とも、つながってくるのではないかと思うのです。



次回は、『かぐや姫の物語』について、かぐや姫が自分の生を通じて理解したこと、「私たちに問いかけてくれていること」について、書いていきたいと思います。