fork in the road, loring park
fork in the road, loring park/Connie

「"葛藤保持力"の続きは改めて」と締めくくってから、なんと1年以上も経ってしまいました・・・。
(そして前回更新からは早5か月・・・

今年度は何かと重なってしまい、ブログの更新も例年よりさらに後回しになっている中、でも、その後の記事でも、続きを「きちんと書くつもり」「必ず書きます」と記した気持ちにウソはなく、ずーっとその思いを"保持"し続けていたのですが、さすがに我ながらその抱えている感に堪え難くなってきたので、やっと重い腰を上げることにしました。


今回は「心の有り様」続きを書きます。



さて、もう何年も前になりますが、(私の分析家の)藤南佳代先生に、「第三の道」について教えていただいたことがあります。

AとBの道がある。でもどちらも選べない。
だがその葛藤に堪えていると、Cという「第三の道」が自然に開けてくる。



AとB、という二つの道について、ここからは私の感覚で書き進めたいと思います。

目の前に、今まで歩んできたAという道とは違う、もう一本のBという道が見え始めたとします。
「私」はその分岐点に立っていて、前に進むためには、二つのうちどちらかの道を選ばなければならない。

ここで、迷わずAの道をそのまま進んで行けるのであれば、何の問題もありません。
でも、Bという新しい道を見つけてしまった時点で、その人は既に、Aの道を 何も感じずに そのまま進んで行くことができなくなっているはずです。

だからといって、そう簡単にBに進むわけにもいかない。

だって、どちらかの道を選んでしまったことで、何かを失うかもしれない。
でも、どちらかの道を諦めてしまったことで、自分の大事な本当の思いを殺してしまうことになるかもしれない。


どちらも簡単には選び取れない、どちらも簡単には棄て去れない。
二つの道のどちらに進んでも、自分にとって何かしらのダメージが想定される場合、私たちは分岐点に立ち尽くしたまま、身動きが取れなくなってしまうことがあります。

葛藤のはじまりです。



そもそも現状に(少なくとも自我が)満足しているのであれば、分岐点には立っていないはずです。
何の迷いも戸惑いもなく、今まで歩んできた「一本道」をそのまま進めばいいだけなのですから・・・。

でも、自分の現状に疑問や不満を抱いている人、自分の変化の必要性に気づいてしまった人には、 今日まで歩んできた道とは違う、「別の道」が見え始めることがあります。


だけど、別の道に進路を変えるには、それ相当の覚悟と痛みを伴うことが容易に想像される場合、 やはり、今まで歩んできた(そしてそれは往々にして、無難・安定だと本人が感じているであろう)道を 簡単に棄て去ることは、なかなかできないはずです。

ですが、その人にはもう「別の道」が見えてしまっているのですから、一度見えて(気づいて)しまった その道を、簡単に"なかったこと"にすることも、もうできない。




このようなどちらも簡単には選択できない、相容れない自分の欲求を感じる「葛藤」の状態について、心理学では次のように定義されています。

「人がもつ複数の欲求が対立して、一方の欲求を満たすと、他方の欲求が満たされないという状態」
だとして、レヴィン(心理学者)が葛藤(conflict)を3つの型に区別しています。

 \楸-接近型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに正の誘発性をもち、両方ないしはすべてを満足させたいが、同時にそれをかなえることができないような場合。

◆_麋-回避型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに負の誘発性をもち、どれをも避けがたいが、それが出来ないという場合。

 接近-回避型の葛藤
欲求の対象が同時に正と負の誘発性を有する場合。
また、負の領域を通過しなければ、正の領域に到達できない場合。


どのパターンにせよ、結局は、折り合いのつかない欲求の板挟みになるわけですが、その欲求を引き起こしているのはなにかというと、当然ながらそれは「自分のこころ」であり、しかも「自分自身で簡単にコントロールできないもの」(無意識から沸き起こって来た欲求であることが多い)であるからこそ、苦しみを伴うものとなります。



人はよく、「環境のせいで葛藤が生じている」と感じる場合がありますが、例えば、傍から見て恵まれた素晴らしい環境に置かれている人がいたとしても、その個人に葛藤が起らないとは限りません。
また、逆のパターンもあり得ます。

絶望的な環境に置かれても、
「ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。」
と、受難の体験者である心理学者フランクルは、あの有名な著作『夜と霧』の中でその事実を明らかにしています。

収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。
けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房
2002-11-06



『夜と霧』での環境は、厳しい制約の中での生命の維持という究極的な問題であり、たしかに極端な例ではありますが、でもそんな中ですら、フランクルは「内なる自由」を得ることができるとしています。

結局、どのような環境下であっても、自分の心が適合できている場合は心理的な不自由は生じませんし、それを無理にでも変化させようとする欲求も起きません。

逆に言えば、「欲求が満たされていない」と感じるのも、変化という「新たな欲求を呼び起こす」のも、あくまでも「自分のこころ」であり、それはとても主観的なものだということです。



ただし、葛藤を"感じられている"ということは苦しくはあっても、決して「悪いこと」ではなく、自分のこころの状態に何かしら"気づけているのだ"とも言えます。

自覚されない(ほぼ意識化されていない、言葉通り"無意識的な")欲求というものもあり、その場合は、神経症や行動の混乱、性格障害などで現われることも多いからです。
葛藤という、引き裂かれそうな感情に晒される代わりに、別の苦しみを背負わされることになるわけです。
(その事実を知らない当の本人に、気づきを促す、意識化していく作業が"心理療法"のひとつです。 前記の『夜と霧』に書かれている、「苦悩があってこそ可能な価値」を実現し、「完全な内なる自由」の状態を得るとは、その先にあるものです。)



河合隼雄先生は「葛藤」について次のように説明されています。

葛藤の存在は意識化の前提である。
葛藤を解決しようとして、われわれは無意識的な内容に直面し、それを意識化することになる。
葛藤を経過しない解決は、意識・無意識の区別があいまいなままで、全体として調和した状態にあることを示している。
                                          【河合隼雄】 




意識と無意識の状態に、まだ際立った摩擦が表面化していない場合は、「調和」という、自我にとっては楽な状態に置かれているのかもしれません。

でも、「自分」という存在は、常に一定ではいられません。
外的にも内的にも変わっていくし、自我と自己(意識と無意識)の関係性も変わっていかなければならないし、変わらざるを得ないものでもあります。




夏目漱石の小説、『それから』の中で、主人公の代助が、「昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべき筈である」のに、それを自認していない父について、このように表現しています。

もし双方をそのままに存在させようとすれば、これを敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。
もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。
夏目 漱石
新潮社
1985-09-15



矛盾に気づき、それを自認し、さらにその"分別"がついている代助は、この作品の中でさまざまな葛藤の苦悩を味わっています。

『それから』は、意識と無意識の対決、自己実現の苦しみの物語であると解釈すると、私にはとても納得、共感できる部分が多いのです。
(物語のその深い意味に気づいたのは、やっと、ここ数年のことです。気づけるたびに、漱石への敬意は高まります。)




どちらにせよ、「自分の気持ち」であっても、相反するものが存在し、自分でもどうにもならない状態に陥る「葛藤」は、大小の差はあっても、誰しもが経験することだと思います。

やろうと思っていることができなかったり、止めようと思ったことが止められなかったり、どうにもならない感情に苛まれて「頭では分かっていても」、気持ちは全然抑えられなかったり・・・。

いかに、「自分」という存在が、簡単にコントロールしきれるようなものでないか。
そのことを、一人ひとりがしっかりと掘り下げて考えてみるだけでも、自分や他者に対する考え方や感じ方が、少しは変わってくるのではないかと思います。




実際に誰しもが、こころの内側に自分の知らない大いなる己が存在していて、 決して逃れることのできない「心の有り様」を抱えて生きていますが、だからこそ、自覚してその己にきちんと向き合い、何とか折り合いをつけていくことができてこそ、「第三の道」が開けてくるのです。


そしてその「第三の道」とは、自我という小さな私が小手先で拵える様な「とりあえず」のものではなく、もっと決定的なものなのでしょう。

忍耐と不屈の精神を伴う葛藤のなかから、予想もしなかった運命的とも言える解決が 当事者の内に現われてくる。                                
                                        【C・G・ユング】



「第三の道」について書くつもりが、イントロダクションが長くなりすぎました。
本題は、今年中には更新できればと思っています。