今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価がなされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)



私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこうと思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む機会はないままでした。


しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。


私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。



その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前このブログでも取り上げた、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。



これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

 無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。




しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、 ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、 文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが 味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。


壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。


壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)



そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、「私」を保つことが出来ていたのでしょう。


一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、 あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。


そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、 あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。


もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。



「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                                                      『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。

                                                                    【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせてくれようとしているように思われます。


そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。


現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせることによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                                         【河合隼雄】



『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。





さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。