昭和から平成にかけての時代をつぶさに見、風刺してきた、こんな人生、送ろうと思ったってなかなか送れない。
その結果水木さんが得たのが「人生におけるけたはずれの経験値」である。
                                                         【大泉実成(編者)】




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前回記事を書いたのが秋ですから、年末年始どころか、季節をひとつ飛び越してしまった感じですが、その間に、とてもとても残念なニュースが飛び込んできました。
昨年11月末の 水木しげるさん の訃報です。

「心の有り様」の記事の続きもずっと書きたいと思っていたのですが(必ず書きます)、
でもやはり、今日は私の尊敬する水木しげるさんについて、お悔やみの気持ちも込めて、
"私の勝手な考えと思い"を綴っていきたいと思います。




ご逝去の一報を目にして、胸に込み上げてきたのは、
「ああ、これでまた、自己(Self)の体験者である方がひとり、お亡くなりになった・・・。」
という、何とも言えない寂しい気持ちでした。

もちろん、面識などあろうはずもない水木しげるさんに、私が敬意を込めた関心を持つようになった経緯は、5年以上も前にこのブログで書いたとおりです。


「ゲゲゲの女房」
「妖怪とは人の心の中にいる」
目には見えないもの
無為に過ごす



「妖怪とは人の心の中にいる」の中で、
「ご自分の深いところとのパイプを、水木しげるさんも(もしかしたら)持っていらっしゃるのかもしれません・・・。」
と、当時書いたのですが、その後、水木しげるさんが残された"名言"を知るうちに、その思いは、私の中で確信になっていきました。


また、ある番組を通じて知った、
水木しげるさんが出征先の現地で「ぬりかべ」に"命を助けて"もらった体験、
幼少期にも"妖怪を見た"ことがあるというエピソードや、
(それらの幻視は、水木しげるさんにとっては"現実"だったはずです)


そして、以前の記事でも少し書きましたが、戦争の混乱時、死を強く意識せざるを得ない中で、ゲーテを始めとする哲学書や聖書、仏教書をむさぼるように読み、「生死」について真剣に "悩み、考えられた"こと。

何より、実際に戦地に赴かれ、想像を絶する凄惨な状況を生きぬかれたその"ご体験"。



水木しげるさんのこのような"けたはずれの人生経験"や、残された"名言"を知るたびに、
私にとっての水木しげるさん像は、ご自身がそうおっしゃられたとおり、
「漫画家」から、漫画という表現を用いられた「哲学者」に変わってしまったのです。



わたしゃ、あんた、ベビィのころから哲学者でしたよ。

マンガ家というふうに見ると、水木さんの正体はわからんです。
マンガは、生活の手段であり、表現の手段なんです。                         
                    





漫画を描くことを通じて、自分が"何をしているのか"・・・。

目に見えないものが、神から妖怪にいたるまで、どのようにつながってるか、目に見える形で、レンガのように積み重ねていかないとならんわけです。

目に見えないものを形にするのはアボリジニと水木さんです。
あとはあんまりがんばっとらんです。
せっかく精霊たちが自分の形を欲しがっとるのに。

私は漫画を描くときに、半ば無意識になるわけです。
だから、何か外側の力に描かされているという感じが半分以上あるんです。
ただ、それを描くことによって非常に充実感があります。

私はいつも、私の書いたものの中に、いわゆる"霊"がふくまれているわけなのだが、誰もそれに気づいてくれないので、不思議に思っている。




"偶然"のことも・・・。

水木さんが考えているよりも、偶然のほうが賢かったです。
偶然のほうが賢いんですよ、人間が考えているより(笑)。




"夢"のことも・・・。

いや、我々は夢の世界(無意識)からやってきて夢の世界に還る存在にすぎない。
夢の世界が故郷であり実在なのだ。いまは人間の世界に生きまた故郷にかえっていく。

夢現っていうのがあるようですね。
夢のときに明快な判断が与えられたりする。
夢は三分の一ぐらい現実に入ってるんじゃないでしょうか。

セノイ族は"夢"について、かなりくわしい民族らしいが、なんとそこに、ものすごく妖怪がいたのには驚いた。
夢や無意識の状態というのは、精霊を感じる力が、覚醒時の五倍もあるらしい。

(前略)霊的なもの、神との交流点だと私は考えています。
(中略)夢で伝授されるんですよ。




"無為"の意味も・・・。


努力は、人を裏切る。
少年よ がんばるなかれ。
あわてずにゆっくりやれ。
なまけ者になりなさい。


("自己"を信じきることができないかぎり本当の実践は不可能です。安易な真似事はもちろん、ただの怠け者では、その先に待ち受けているものは失敗や転落です。
自然な流れに委ねる」)



そして"無意識"についても・・・。

(前略)賢くなってきて、いろんなことに気づくようになってきた。
・・・・・・人間は、無意識から生まれてきて、気がついてみると、自分があるでしょう。
そしてまた無意識にかえっていくという感じでしょう。
無意識から生まれて・・・・・・また無意識に・・・・・・
そしてまた無意識から生まれて来るわけで・・・・・・
だから子供が無意識から気がついた時は、自分があるでしょう。
さらにまた無意識に帰って・・・・・・そして無意識からまた生まれる・・・・・・。



水木しげるさんは、すべて"知っておられた"のだとしか思えません。
だからやっぱり、そのご正体は哲学者。
しかも"実践"を伴って生き抜かれた、ホンモノの哲学者(philosopher)。



闇も光も体験されたであろうその人生は、まさに、
「神から妖怪にいたるまで、どのようにつながっているか」
をご自身で体得された、"自己実現"の歩みであったのだろうと、私にはそう思えるのです。





そして、体得者の水木しげるさんは、このような言葉も残していらっしゃいます。



(自分の幼年時を振り返って)
それにしても、ベビィのころから変人だった。

水木サンが長年にわたって古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が多いことがわかりました。

さあ、あなたも、奇人変人になりましょう。ワッハッハ。



私は幸せのことしか考えないからよかったのです。
今の人々は、わざと幸せにならないよう努力している。




生きている以上、「幸福」を求めない人はまずいないと思いますが、だからこそ、水木さんの言葉が意味していることは何なのか。

なにより、水木さんご自身の人生の軌跡そのものが、私たちに何を物語ってくれているのか。

大マジメに"変人"を目指してみるのも、充分価値があることだという気がします。




(仮面を買いながら)
同じものはいらない。
同じものはいらない。
他人と同じような仮面を被っていたら、安全だし、安心です。
でもそれでは、"奇人変人"にはなれません。




意識という「常識」の世界で、自覚して"奇人変人"を生きることは、
その覚悟や勇気を持つことを必然的に求められるようになるはずです。

「出る杭は打たれる」のは世の常ですし、"変わった人"には、色々と風当たりも強くなって
くるのかもしれません。





でも、水木さんは、様々な困難にも妥協することなく「自分だけの道」を切り開かれました。

「誰が何と言おうと」、"自己を生きる"ことを貫かれたのだと思います。



(奇人変人について)
こうした人たちには、好奇心の塊のような、わが道を狂信的なまでに追及している人が多い。
つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、わがままに自分の楽しみを追い求めているのです。
だから幸せなのです。







西田幾多郎や夏目漱石も、同様の「幸福論」を語っています。


真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。   


個人において絶対の満足を与える者は自己の個人性の実現である。
即ち他人に模倣のできない自家の特色を実行の上に発揮するのである。

而してこの実現は各人に無上の満足を与え、また宇宙進化の上に欠くべからざる一員とならしむるのである。                     
                                                         【西田幾多郎】



我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
                                                                 【夏目漱石】 

(夏目漱石のこの言葉は逆説的に、自己実現に伴う苦難を彷彿させます)



すべて、ユング派でいうところの「個性化」、「自己実現」の生き方です。







長い自我の旅を終えられ、ご自身がおっしゃられていたとおり、
「無意識から生まれてきて、そしてまた無意識にかえっていかれた」、水木しげるさん。

一ファンとして、たった一度でもいいからお会いしたかったです・・・。


心より、こころより、ご冥福をお祈り申し上げます。





【引用文献】
水木 しげる 『水木サンの迷言366日 (幻冬舎文庫) [文庫] 幻冬舎(2010-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
夏目漱石 『私の個人主義 (講談社学術文庫) [文庫] 』 講談社(1978-08-08)