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クーパーはマーフとその場所でその時間に通じ合った。
クーパーはそれを知っていた。
マーフはそれを知っていた。



前回記事で取り上げた映画 『インターステラー』
かなり時機を逸した、そして鑑賞した方にしか分からない内容となってしまいますが、今日は前回に引き続きこの映画を題材に書いていこうと思います。


主人公クーパーの生死にかかわるクライマックスの場面。
それは突如、クーパーと娘のマーフそれぞれが違う時空間に居ながら接触するという、(私は)想定していなかったシーンへと進んでいきます。


そしてそこで、クーパーによってマーフに伝えられた情報を、マーフが理論化、さらに実用化することによって、結果的に人類は救われました。

『インターステラー』での世界(時空)は、いわゆる通常の時系列の枠を大きく逸脱しているので、鑑賞している側も、描かれたシーンの因果関係を頭の中で整理することを要求されますが、バラバラになっていたピースがきちんとはまった瞬間、マーフの子ども時代の"奇妙なオカルト現象"のその意味と、父娘のまさに時空を超えた絆、愛情が、胸に自然な感動を呼び起こしてくれます。

それは、その体験が特殊なものであるからこその「特別な感動」で、マーフの(一連の)体験を"想像できればできるほど"、自分の中で強烈なものとなってくると思います。



ラストシーン。
父と(より年老いた)娘がこっそりと語り合う場面で、人類の危機を救ったマーフは、その智慧をどこから授かったか周りの人たちにいくら訴えても信じてもらえなかったこと、そして結果的に「"私"の功績に なったわ」と、苦笑いしながら語っていました。

その"体験"は、クーパーとマーフという"当事者たち"にしか分かり合えない「秘め事」となりました。
(そうならざるを得ませんでした)
しかしその「二人だけの秘め事」により、物語の中では、人類全体が救われることとなったのです。




マーフとクーパーの体験を理解してくれる人は誰もいませんでしたが(その出来事を再現するという科学的証明は不可能でしたが)、それが人類救済につながったことは、(映画の物語としては)事実でした。





普遍的真理が非常に「限定的に」「個別的に」もたらされることについては、ユングも西田幾多郎も、そして、(哲学者の)ホワイトヘッドやヘーゲルも指摘しています。


それは、ユング心理学の概念である「シンクロニシティ」にも非常に深い関連があり、因果律では説明ができない、(われわれの意識が作り上げた)一般的な「時間と空間」の捉え方では理解できない、そのような「心的真理があるのだ」とユングは述べています。



哲学者のホワイトヘッドは次のように語っています。

われわれが直接経験の事柄を表現しようとするたびに見出すのは、
その理解は、それ自身を越えて、その同時的なものに、その過去に、その未来に、そして その限定性を示す種々の普遍的なものに、われわれを導いていく ということである。
しかしこれらの普遍的なものは、まさしくその普遍性によって、

さまざまなタイプの限定性を伴った 他の事実の潜勢態を体現している。

科学が情緒を問題にするとき、当の情緒は知覚対象であって、直接的な情念ではない。
他人の情緒であって、われわれ自身のものではない。
少なくとも回想におけるわれわれ自身の情緒であって、直接性におけるそれではない。

強調されるべき点は、経験される事物の、そして経験の働きの、

執拗な特殊性 である。

「その狼がその羊をその場所でその時間に喰い殺した。
 狼はそれを知っていた。
 羊はそれを知っていた。
 そして黒禿鷹はそれを知っていた。」     
                    【 A.N.ホワイドヘッド】

「われわれ自身のものではない」「他人の情緒」を、直接的に100%知ることは不可能ですが、当人にしかわからないというその「限定的経験」という「特殊性」こそが、実は「普遍的なものに、われわれを導いていく」のだということ。
パラドックス。

「その場所でその時間にいた"狼と羊とそれを見ていた黒禿鷹"」にしか、知り得ない
「直接経験の事柄」というものがある。
それは主客合一、一般的な時空の概念を越えた、古今東西の先人たちがさまざまな表現で表している状態、特殊的な体験です。




ホワイトヘッドが「直接経験」と現わした内容を、西田幾多郎も同じく、
「直接経験」「純粋経験」 などと表現しています。

まず、「時間」について、前回記事に書いた、ユングの時空間に関する考え方、
ひいては相対性理論にも通じる考えを次のように記しています。

時間というのは我々の経験の内容を整頓する形式にすぎないので、時間という考の起るには先ず意識内容が結合せられ統一せられて一となることができねばならぬ。
然らざれば前後を連合配列して時間的に考えることはできない。
されば意識の統一作用は時間の支配を受けるのではなく、かえって時間はこの統一作用に由って成立するのである。


意識の根柢には時間の外に超越せる不変的或者があるといわねばならぬことになる。
                                                      【西田幾多郎】



さらに「物理と心理」についても、次のように論及しています。


(一般的な)物理学者のいう如き世界は、幅なき線、厚さなき平面と同じく、実際に存在するものではない。

統一的或者が物体現象ではこれを外界に存する物力となし、精神現象ではこれを意識の統一力に帰するのであるが、(略)物体現象といい精神現象というも純粋経験の上においては同一であるから、この二種の統一作用は元来、同一種に属すべきものである。
(ユングの類心的元型に通ずる)

我々の直覚的事実としている物も心も単に類似せる意識現象の不変的結合というにすぎぬ。
ただ我々をして物理其物の存在を信ぜしむるのは因果律の要求である。

識外の存在を推すことができるかどうか、これが先ず究明すべき問題である。

                      
         【西田幾多郎】

先ずは「無知の知」の自覚が必要のようです。



そして、"普遍と個別"については"精神の発展"であるとしています。


今日の進化論において無機物、植物、動物、人間というように進化するというのは、実在が漸々その隠れたる本質を現実として現わし来るのであるということができる。

精神の発展において始めて事実成立の根本的性質が現れてくるのである。
ライプニッツのいったように発展 evolution は内展 involution である。

合目的なる自然が個々の分立により統合にすすみ、階段を踏んで己が真意を発揮すると見るのが至当である。

我々の真の自己は宇宙の本体である、真の自己を知れば啻に人類一般の善と合するばかりでなく、宇宙の本体と融合し神意と冥合するのである。
                                                          【西田幾多郎】



個々の人間が、「真の自己を知れば」「神意と冥合する」というのです。
前記のホワイトヘッドの「直接経験の事柄」も、同じと見るのが妥当なようです。




そしてヘーゲルは、"精神の発展"、 "普遍と個別"について 、『精神現象学』の中で延々と 論じていますが、今日は関連する部分の一つを挙げてみます。


個人の行為の結果は、現実としては、一般者のものであるけれども、その内容から言えば、個人自身の個別性であり、この個別性は、一般者に対立したこの個々の個別性として、自らを保とうとしている。

この行為は、そのままで一般者として通用すべきだという。
すなわち、ほんとうのことを言えば、行為の結果は特殊なものであり、ただ一般性という形式をもっているにすぎない。
つまり、その特殊な内容が、そのままで一般的なものと認めらるべきである、というのである。

だから
この内容のうちに、他人たちは、自分たちのこころの法則を見つけはしない。
むしろ、自分たちとは別の人のこころが、実現されていることに気がつく。

(略)
意識は、この秩序がむしろ万人の意識によって命を与えられており、万人のこころの法則であることに気づく。

意識は、現実が命のある秩序であることを、経験すると同時に実際には、意識が自分のこころの法則を実現することによってこそ、そうなるのだと経験する。

                                 
  【ヘーゲル】




最後にユングの主張についてです。

前回記事で取り上げたとおり、ユングは、空間と時間について、それらは「物体の単なる見かけ上の属性にすぎず」、「心的条件によってそれらが相対化される」可能性は有るとし、それは「心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる」と考えました。

そして、ユングの概念として有名な共時性について、その現象の基本的な要素は、
「非因果性、相対的な同時性、意味の一致」の三つであるとし、この原理を心理的なものと物理的なものとの間の第三のものとすることによって説明ができるとしました。

私は根底的な元型の本性を確立できるような、きわめて多くの共時的出来事を個人的に見てきました。
元型それ自体は、類心的、つまり、先験的であり、こうして、数や空間や時間のカテゴリーを超えています。

つまり、それは統一性と不変性に近づくのです。
意識のカテゴリーから解放された場合、元型は、意味深い暗号(偶然の一致)の基盤になりうるといえるでしょう。 
                                                            【C.G.ユング】

共時性は物理学における非連続性ほどにはわけのわからぬ、ないしは神秘的なものではない。ただ、因果律の卓越した力に対する深い信仰心によって、知的な困難が生じ、原因のない事象が存在し、また存在したということを考えられないこととしてしまうのである。

因果的な説明の欠如のために、意味のある配列として考えねばならなくなる。
しかしながら、(略)それらの「説明不可能性」は、その原因がわからないという事実によるのではなく、原因が知的な言葉では考えることすらできないことによる。

このことは、必然的に、空間と時間がその意味を失うか相対的なものになった場合のことである。というのは、そういう状況のもとでは空間と時間を連続体として前提している因果性がもはや存在するとはいえなく、まったく考えられないものになるからである。

共時的現象を自然事象における特殊な部類として理解することを可能にするばかりでなく、偶発性を、一部には永遠の昔から存在する普遍的な要因として、また 一部には、時間とともに生ずる無数の個人的な創造行為の総計として、理解するのである。 
                                  
                           【C.G.ユング】
     

狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。

狭義の共時性は一般の非因果的秩序性―すなわち観測者は一致の仲介者を認識できる幸運な位置にある心的ならびに物理的過程における等価性―であるにすぎないという観点に、私は実のところ傾いている。
                                                           【C.G.ユング】





クーパーとマーフが体験したことを、他者に説明できず、よって理解もされなかったことは、それ自体ひとつの「法則」だったのかもしれません。

科学者の説明法は知識の一方に偏したるものである。 

真の一般と個性とは相反する者でない、

個性的限定に由りてかえって真の一般を現わすことができる、
                                 
 【西田幾多郎】

物理的にということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
                                                          【C.G.ユング】 



でもそれが科学的に証明できない出来事であったにせよ、二人にとってはまぎれもない真実で、結果的にそれは世界を変えることに繋がり、他者にも多大な影響を与えました。

そしてその物語は、けっして"ただのファンタジー"などではないのだと、私はそう感じました。


クーパーとマーフは、お互い(特にマーフは)長くて辛い時を経て再び繋がり、マーフは子供時代の「あの出来事の意味」をやっと知ることができました。
大事なものが始めから布置されていたんですね。
マーフの“その時”の感動が伝わってくるようでした。




『インターステラー』
本当に色々と感じさせ、考えさせてくれる意味深い映画でした。

そして一見、荒唐無稽で私たちの日々の暮らしとは全くかけ離れた別世界のお話のようでありながら、でも実は、映画で"体現された"クーパーやマーフの生き方は、現実を生きる 私たちの課題でもある「自己実現」、ユングのいう「個性化」について、(多くを)示唆してくれているようにも感じました。




最後に。
今日の記事を書いていて、こちらの映画の言葉が浮かんできました。


  生きねば。 
                      
宮崎駿監督作品 『風立ちぬ』

意識を持ち世界を認知できている、「存在している」ことの意味、「自己実現」。
短い言葉に秘められた重みを、改めて考えずにはいられません。




【参考文献】
A.N.ホワイトヘッド 『ホワイトヘッド著作集 第10巻 過程と実在 (上) [単行本]』 松籟社(1984-08)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)