またしても前回記事から数か月が経ってしまい、「ぜひ、また続きを書きたいな」との思いにずっと変わりはなかったのですが、今日は、以前書いた記事に疑義が生じてしまったので、備忘録の意味でしたためます。


ここ数年、読みたい本があとからあとから出てくるので、私の読書スタイルは常に数冊併読なのですが、そんな中、ゆーっくりと読み進めていた著作があります。

無心ということ (角川ソフィア文庫)
鈴木 大拙
角川学芸出版
2007-09-22



鈴木大拙は、ユング同様、私が敬慕している哲学者の西田幾多郎とは ”加賀の三太郎” と称され、生涯の友であった偉大なる仏教者です。

(最近偶然見つけたのですが、こんな逸話もあったようです ↓ )


さて、この名著。
『無心ということ』を、じっくりと読み込んでいく中で、孟子について書かれた非常に興味深い内容が出てきました。

それは、「深き宗教的体験の閃めきが窺われる」心学の祖、石田梅厳の「都鄙問答 惟理問答の段」の引用で、孟子と告子の相違について論じられており、「これは
梅厳の哲学の中心をなすものである。」と鈴木大拙は評価しています。

 
 曰、孟子の性善と、告子が性に無善無不善と言は同じかるべし。
(中略)
孟子は是とし告子は非とするは如何なることぞ。

 答、是汝が不得の所なり。先告子が無善不善と云は、是思慮なり。(中略)
孟子の性善は直に天地なり。如何となれば人の寝入りたる時にても無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息に非ず。天地の陰陽が我体に出入りし形の動くは天地浩然の気なり。我と天地と渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。(中略)
其無心の陰陽が一たび動き一たび静なり、是を継者が善なりとの玉ふことなり。
此微妙の所と告子が云思慮と、一列にいはるべきや、大に異る所なり。
孟子の性善は生死を離れて天道なり、(中略)此は易(やすき)に似て難知(しりがたき)所なり。思慮を以て知らるる所にあらず。(中略)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(略)書は読めども、書の意味を知らず。*1
却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。(中略)


 人は全体一個の小天地なり。(中略)告子は是を不知。生滅にあづかる思慮を以て我性と思ふ。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば思慮なき天理に異るゆへなり。(中略)

渾然たる一理の性に至れる孟子*2 には異る所なり。


これを読むと、このブログで前に紹介した、夏目漱石の孟子論とはその内容がまるで逆なのです。
無為を為す(夏目漱石の老子論)


大雑把にざっくり分類するとこんな感じです。
老子(夏目漱石評)=孟子(石田梅厳評)
孟子(   〃    )=告子(   〃    )


夏目漱石の「相対を脱却して絶対の見識を立てた」老子と、石田梅厳の「渾然たる一理の性に至れる」*2 孟子、それぞれの論評のその意味するところは、同義であると私には思われます。

そうだとすると、もしかしたら漱石が、少なくとも孟子に関しては、(石田梅厳の言うところの)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(中略)書は読めども、書の意味を知らず。」*1
ということになる可能性すらあります。
(・・・でも、私は夏目漱石も大好きです)


漱石は、実は老子についても、以下のような批判をしています。
「(無為への)その悟入したる点を挙げて人を導くべきに、去はなくして劈頭より無為を説き不言を重んず。(中略)ただ、その無為に至るの過程を明示せざるを惜むのみ。」

私はこの点については以前から、疑問を持っていました。
「無為に至るの過程を明示」なんて、「(
老子の)その悟入したる点を挙げて人(他者)を導く」なんて、果たしてできるのだろうかと・・・。
そして、こうつぶやきました。



話を戻すと、思いがけず触れた孟子についての(私にとっての)新たな説に、「
私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、」と先述してはいたものの、ここに来て本当に分からなくなってしまいました・・・。

やはり何でも、「受け売り」はダメということでしょうか。
孟子についてもふりだしに戻って、「自らきちんと読む」ことから始めたいと思っています。



ここからは少し話題が変わって、「西田幾多郎と鈴木大拙」について。

以前、NHKで西田幾多郎の特集番組が放送された際、その中で西田幾多郎のたしかお孫さんにあたる方が出演されて、鈴木大拙について語っておられました。
西田幾多郎が亡くなった際、鈴木大拙が傍らで号泣していたそうです。両者の結び付きの深さが感じられて、とても印象深く心に響きました。
西田幾多郎も鈴木大拙も、 それぞれの著作の中で共に「宗教的体験」の重要性について語っていますが、互いにそのような稀有な体験の、全てではなくても根本的な何かを共有できる
、本当に希少で貴重な存在だったのかもしれないと、勝手に想像が膨らみました。

私が「鈴木大拙」を知ったのは、西田幾多郎の著作を読み始めてからだったのですが、その後、鈴木大拙はユングとも親交があったと知り、僅かな驚きとともに、どこか深く納得もできました。

それぞれの入り口は違えども、その「体験」には共通する点があること。
偉人3名の著書に目を通せば、その発見に心躍る感動が得られるのではないかと思います。



そして最後に。
『無心ということ』の中で、鈴木大拙は次のようにも述べています。

何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
無心の理論は、実に仏教思想の全体系を構成しているといってよい。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の心理を、自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。


仏教者 鈴木大拙、哲学者 西田幾多郎、そして心理学者 ユング。
各々の分野で高い見識を持ちつつ、その根底には、言葉も要らぬような深い分かち合いで通じていた、本物の天才たちなのだと思います。


【参考文献】
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)