アリとキリギリス~ドレの寓話集~
アリとキリギリス~ドレの寓話集~ [単行本]

前回のブログ記事を書いたのが2月なので、もうすっかり季節も変わってしまいました。

この3カ月の間で、「書きたい」と思っていたテーマも私の中でドンドン変転していまい、その流れで、自然と今日の記事になりました。
昔の私なら、その都度頭に浮かんだ「書きたいテーマ」を逐一記録し、それらを一つずつ整理していくという、マメというか、バカげているとさえ思える面倒なことをやっていたんだろうな(笑)、などと、ふと考えつつ、でも今日は「今、自然に思い浮かぶこと」をそのまま綴っていこうと思ったのです。

別に今日の記事に限らず、それこそ“自然”に任せていいものは、以前よりずっと任せられる。
「こうしなければ」という枠組みから、色んな事を手放せるようになってきました。

そして、そんな状態をそのまま「良し」と思えるようになって結局どうなったかというと、私自身がとっても楽になったのです。


「こうしなければならない」
「こうであらねばならない」

以前は、今現在の「〜ならない」だけではなく、まだ実際にはどうなるか分からない未来のあれやこれやも心配して、「〜ならない」に、今よりもずっと多くのことが縛られていたように思います。

でも、実は“縛られていた”のではなく、私自身が「そうだ」と思い込んで“縛っていた”ことが沢山あったのだと、今はつくづくそう感じるのです。


もちろん、縛ること→「規制や管理」は大切です。

自我(意識)の合理的な働きをしっかりと保ちながら、確実に堅実に計画的に、事に当たらなければならない場面は、現実社会を生きている中でいくらでも出てきます。
実際の利益や他者との信頼関係、自分の(外的な)能力や評価にも結びついてくることですから、「〜ならない」を軸に事を進めていくことは、ある意味当然の成り行きなのかもしれません。
時間も仕事も勉強も、もうなんでもかんでも、どれだけ確実に計画的に効率よく事を進められるかが重視されるのも、ITの普及と発展の上に成り立っていて、昔よりずっと「管理」が幅を利かせている今の社会では、致し方ないのかもしれません。


余談ですが、先日あるTV番組で、受験勉強も部活も頑張る、多忙な高校3年生の勉強時間をいかに確保するかという内容を放送していました。

いわゆるタイムテーブルの再構築に取り組むわけですが、印象に残ったのは、日々の洗髪後の「ドライヤーの10分も、単語カードで勉強をして時間を無駄にしない!」と、紹介している場面でした。

その他、あらゆる“一日の隙間時間”をかき集めて、こうすれば「1日で何分、10日で何時間、1カ月で何十時間活用できる!」と提案していて、それを観て単純に「なるほどね〜」と感心した半面、「高校生って大変だな。この提案どおりに実践するとなると、じゃあ、一日のなかで”ホッ”とか、”ボーッ”ってする時間は皆無ってこと?・・・」と思うと、どこかうすら寒い“ゾクッ”とするような感覚が湧き上がってくるのを抑えられませんでした。

生身の人間が、そんなロボットのように「隙間なくきっちり」出来るものなのかと・・・。
確かに本当に実行できれば、部活で大活躍しながら目指す難関大学にも入れて、自他共に賞賛され栄光を勝ち取るかもしれないけれど、それを勝ち取るために代償として何を犠牲にするのだろう、影の存在は・・・と、多分そっちを咄嗟に想像してしまったみたいです。
“ゾクッ”と感じたのは・・・。


話が脱線してしまいましたが、受験生はもちろんのこと、どんな場面でも、「人一倍能力を磨き実力をつける」ためには、原則「人一倍努力する」ことが不可欠となってきますから、限られた時間のなかで、どれだけ多くの事を為していけるかがポイントになるわけで、“自然に任せて”なんて悠長なことは言ってられません。

セルフマネジメント、タイムマネジメント、リスクマネジメント、ライフマネジメント・・・。

昔より、ずっとずっと色んなことが「管理社会」になっている世界のなかで、今では「マネジメント能力」の高さが様々な場面で求められ、評価の対象にもなっているような気がします。

確かに、きっちり管理してきっちり計画的に無駄なく物事を進められれば、自ずと見えやすくて分かりやすい結果はついてくるでしょうから、満足や安心も手に入れられるようになると思います。

未来への不安を払しょくするため、未来の幸せを手にするために、「現在を管理」する。
それは決して間違ったことではないと思います。


しかし一方、未来の満足を手に入れるために、じゃあ、「今はどうなのか」ということ。
未来のために、「今」をおざなりにしてはいないか。

前記の高校生にしても、自身が明確な目標とやりがいを持ったうえで、勉強や部活を頑張るのであればまだしも、ただ何となく、「高い地位やお金など、安心の未来を手にするため←良い仕事に就くため←良い大学に入るため←“今はとりあえずイヤでも受験勉強を頑張る”」だったとしたら。

「本当は今、自分はこれがやりたいんだけど」、その「今、やりたいこと」を手放してまで、未来のためや周りのために“イヤな今”を生きてはいないか。

どうしても、「“今の”自分はどうなのか」は後回しにされて、「どうなるか分からない未来のために、今を生きてしまう」ことに、私たちはなりがちなのかもしれません。


もしかしたら、「今」、あれもこれも我慢して、自分に(だけではなく、もしかしたら大事な家族にも)ムチ打つようなことをして、本当は辛いし逃げ出したいし苦しいのに、それでも「未来の安心を手に入れるために」頑張り続けているのではないか。
どうなるか分からない未来のために、「今、できることを手放していないか」、「しなくても済むことをしているのではないか」。

自然に任せてしまっていいことですら、“管理”に縛られているのではないか。
今の自分が、本当に“自分にとって”どうなのか。


童話の『ウサギとカメ』や『アリとキリギリス』のお話を思い浮かべると、ほとんどの人は、「カメやアリ」の生き方を模範として実行しているでしょうし、逆にウサギやキリギリスのような生き方をして、実際、後になって窮地に立たされるということも十分起り得るわけですから、と言うよりそう想定するのが普通ですから、「未来のために、今、頑張るのは当然」となるのでしょう。

しかし、同じ昔話のなかには、「ウサギやキリギリス」のような“怠け者”が成功するお話も、実はたくさんあるようです。

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫)
昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫) [文庫]

河合隼雄先生が、怠け者の成功話が世界の昔話に散見されることの意味について、深層心理の観点からアプローチして昔話に秘められている「怠け」の多義性について論じておられます。

どうも、「カメやアリ」の生き方が必ずしも「善」とは限らないこと、隠された真理を、昔話は密かに我々に語り継いでくれているようです。

常識の世界に忙しく働いている人は、天の声を聞くことができない。

怠け者の耳は天啓に対して開かれている。

このように言うと、私の心には現代の多くの「仕事にむかって逃避」している人たちのことが思い浮かんでくる。
これらの人は仕事を熱心にし、忙しくするという口実のもとに、自分の内面の声を聞くことを拒否しているのである。

私たちが生きる上で何を「成功」とするのか、という点についてまでは今日は触れませんが、でも、「自分の内面の声」を聞くためには、「怠け」は欠かせないもののようです。


そして、「内面の声」を聞くためには、「怠けること」への徹底的な覚悟が必要であり、「ただの怠け者」ではやはり、「失敗」に終わってしまう危険が大きいようです。

無精のため命を棄てるほどの者のみが王位継承に値したのであろう。

また昔話のなかの怠けの意味の追求は、相当な怠け者礼賛に到ったが、私は何も怠けの否定的な面を忘れているわけではない。
危険に立ちむかって成功するもの、逃げて成功するものなど、必ず相反する場合を探しだすことができる。この点について、フォン・フランツは「おとぎ話のなかから唯一の方策をひきだすことは絶対にできない」と確言している。
怠け者の場合も同様で、怠け者が失敗し、転落する話もすぐに見出すことができる。


「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること。」

一見すると低評価なこんな生き方が、もしかしたら大きな可能性を隠し持っているとしたら。
実は、実現すべき本当の生き方なのかもしれない「縛らず、管理せず、自然の流れに沿って生きる」ということに秘められるとても深い意味。

そんな生き方を、この管理社会の現代において実行することは、た易いことではないかもしれない。
だけどもし、それを目指すことができれば、私たちは自分の生に意味を感じることができるようになり、それが心の癒しや究極的な救いにも結びついてくるのかもしれない。


耐えたり努力したりするエネルギーを、管理のためではなく、管理を手放すことに向けることができれば、それまでとは全く違った道が開けてくることになるのかもしれません。

そこでは、「頑張るしんどさ」とは別の重圧を抱えなければなりませんから、決して完全に楽になるわけではないでしょうが、でも、偽りの?忍耐や努力からは解放されるはずで、それが「本当の安らぎ」を手に入れられることに繋がってくるのだと、私は思うのです。


今日の記事は後半、駆け足で書いてしまいました。

“計画的に(笑)”続きは次回。
もう少し詳しく考えてみたいと思っています。


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Wikipediaで『アリとキリギリス』を参照したところ、いわゆる一般的に知られている内容とは違う解釈もあるのだという、面白い発見をしました。

まず、「二つ目の寓意」(目次の「教訓」)
せこせことためこんでいる“自分”は勿論のこと、餓死寸前の困窮者も“自分”だとすると、独善者のアリの勤勉さはやはり「独り善がり」であり、一方では本当の自分を見殺しにしているのかもしれない。
とても示唆的だと思います。

そして、「功利主義の観点からはキリギリスが善とされる」(目次の「教訓」)
“結果的にどうなるか”を委ねる、という意味で捉えると、「なるほど」と納得できる気がしました。「短絡的に」自らの快楽を追及し、というのではやはり“失敗”に終わりそうですが、「生を謳歌する」→自己実現を目指す覚悟を決めるのであれば、確かに「食料蓄積のみで生を終えたアリ」より、「キリギリスの方が善とされる」気がします。

『アリとキリギリス』も“深い”んですね・・・。

昔話は多くのパラドックスに満ちている。

昔話から常に勧善懲悪的な教訓を読みとろうとする人は、昔話のもつパラドックス性に、しばしば戸惑いを感じさせられるものである。  

                                              【河合隼雄】

               

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