ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)

まず、前回の記事について、言葉足らずの点がありました。
ユングの自伝の言葉を紹介しましたが、以下のとても重要な部分が抜け落ちていました。

「私は 患者たちを除いて 人々に対して辛抱強くはなかった。」

ザビーナとユングの出会いは、ザビーナが当時抱えていた重度の精神的疾患がきっかけですが、ユングの治療を受け始めたあと、その症状は劇的な回復をみせたそうです。
彼女は後に、自らが精神分析家となりますが、ユングとは、病院を退院した後も、学問的援助を受ける中でありつつ、恋愛関係にも発展したのです。

前回記事で引用したユング自伝の文面については、だからそれは、ユングの自身の“患者”
についての態度ではありませんし、また、自伝の中で、ザビーナの名前は一度も登場しませんので、ユングが誰を思いながらその文章を書いたのかも定かではありません。


どこまでが“患者”なのかも、心理的な分野ではその判断は大変難しいと思います。
余談ですが、ユングの著書の中には、ユングがある精神科医の夢を分析した際、(外的には)全く問題ないと主張していたその医師の内面(無意識の心理状態)は、破綻一歩寸前だったというある事例が紹介されています(内的現実はあとから外面に顕現してきます)。
自身も省みながら、心理的にみて「完全な健常者」などいるのかどうかさえ、私には疑問です。

ユングはこのように論じています。

精神病院にまで行くのは、いわゆる精神病質者のほんの一部にすぎない。
その圧倒的多数はいわゆる「正常」な人々の一部を成しているのである。
「正常」という概念は理想的な観念にすぎない。

正常の概念はある限界内で振れがあり、厳密な定義はできないのである。
その振れがある程度大きくなると、その心理的現象は異常の領域に入ったことになる。
こうした許容幅の逸脱は、きわめて頻繁に起るのだが、病的としか言えない現われ方をしない限り、気づかれずにすぎてしまう。

(精神病質の)軽いものは無数にあり、重症のものはまれである。
一時的であれ慢性的であれ、あれこれの面で正常の許容幅を、わずかながら踏み越える人間の数はきわめて多い。

(潜在的なケースは)なるほど発病に至ることは少ないが、その物の考え方や行ないは、いかに表面正常であっても、無意識の病的で倒錯的な影響に支配されている。
潜在的な精神病には、もちろん参考になるような医学的な統計などありはしない。


ユングとザビーナの関係に話を戻しますと、私の解釈では、2人の恋愛関係は破局に終わったものの、その後、それぞれが心理学者として自身の理論を構築していく際に、その「生きた体験」、「生々しい感情」を味わった“経験”が、大きな影響を与えたであろうと推察していたため、その部分を念頭に置き、前回の箇所を引用してしまいました。

ユングとザビーナの関係が、いつまで「医師と患者」だったのか、恋愛関係と並行していたのか、私には分かりませんが、ユングが同じ自伝のなかで先の一文を書いていることは、ここで改めてきちんと記しておきたいと思います。


ユングは偉大な心理学者であり精神科医でもありますが、例えどんな心理療法家であろうと、「こころのやりとり」をクライエントさんとしていくのであれば、その責任に重い軽いの差はないはずです。

どこまでの心の領域に踏み込んで行くのかという点で、浅い深いはあったとしても、それでも必然的に、面接を続けていくうちにどうしても無意識まで含めた2人の人間の人格のやりとりとなってくるはずですから、その関係性がどんなものであるか、外側から簡単に“優劣”がつけられるはずもありません。

だからこそ、「聴く側」に置かれている者は、クライエントとの関係を続ける間は、「相手にとって」一番ベストな態度を取り続けるべきですし、「カウンセリングをするということ」がどういうことであるのか、その意味のしっかりとした自覚が必要だと思います。

当たり前ですが、カウンセラーが、例えばクライエントに嫌われまいとして保身をはかったりしているようでは、適切なプロセスの妨げにはなっても、そこに目指すべき真の変容は臨めないはずです。

見えない「こころを癒す」、「こころのやりとり」をするということは、双方適度な距離を取りながらの、“当たり障りのない”人間関係とは、望む望まないにかかわらず、全く異なったものにならざるを得ません。
ペルソナという仮面を被った日常の他者とのやりとりとは、質が全く違ってくるのです。

そこにこそ、心理療法の価値が見いだされるはずで、そうでなければ、それを受ける意味自体がなくなってしまうのではないでしょうか。
そもそも、日常の人間関係だけで心の癒しや変革が起こり得るのであれば、カウンセリングなんて必要ないはずです。

表面だけではなく、心の深い部分でのやり取りも始まるわけですから、どうしても、心理療法家は自分自身を試されることになるのだと、ユングも語っています。

極端な話、クライエントの負の感情を呼び起こさせるようなことになっても、それが変容のプロセスとして必要なのであれば、そこから逃げずに一緒に居続けること。
そしてその強さを持っていることが、心理療法家の役目であり、ユング派で長時間にわたる“自身のこころのトレーニング”が重視されている理由でもあります。


長い間の苦痛に満ちた経験から学んだのですが、ある人をコンプレクスから救い出そうとすることは、その人の最良の資源を奪うことになるのです。

傍からできることは、本人がそのコンプレクスにはっきり気づき、彼の内部で意識的な葛藤が始まるように仕向けてやることくらいです。

そうするとコンプレクスは生の一つの焦点になります。              (C・G・ユング)



だいだいみんな(中略)しんどくて、脇道に行きたがるんです。その脇道のことを、みんな『何かよい方法はありませんか』と言われるんです。そのときにだいたいわれわれは『ありません』と非常にはっきり答えるわけです。つまり『この道を行きなさい』ということを言うわけです。

この道というのはいちばん苦しい道です。ただし、私も一緒に行きますからというのが、カウンセラーの仕事なんです。
                                                 (河合隼雄)


その苦しい道を一緒に行くカウンセラーが、「ただ話を聞いているだけ」では、きちんとした仕事ができていないことは明白です。
クライエントさんが苦しい思いをしているのに、自分はなにも感じない、カウンセラー側のこころが全然疲れないのであれば、同じ道を本当に歩けているかどうか疑わしい限りです。

そしてそれは、ただ共感するとか、同情するとかいった性質のものでもありません。
もっと深いところでの相互的関係によってもたらされる“感情”です。

河合隼雄さんほか、ユング派分析家の先生方が、転移・逆転移や布置、体験という言葉を使って、療法家のこころの動きについて説明されていますが、今日は次の一文だけを紹介しておきます。

自分のこころを通してしか、他人のこころを理解することはできないのである。  (織田尚生)
 

クライエントさんの苦しい道を一緒に進むカウンセラーが、自分のこころをきちんと道具として使えているのであれば、その道中で、“道具”にも少しずつ傷がついたりダメージを負ったりするのは、避けられないはずです。

だから、カウンセラー側は、自分の道具をメンテナンスする必要がありますし、道具の状態を常にチェックしておかなければならないのだと思います。
そしてそれは“見えない道具”だけに過信は禁物ですし、難しい作業でもあります。
カウンセラー側も、共に「自分の道」を歩んでくれる、他者の存在が必要となってくるのです。


今日は、自戒の記事となりました。
そして、最後に。

本当の自分の道を進み続けるか、脇道にそれてしまうのかを、最終的に選ぶのは「自分」しかありません。
そして、脇道はあくまでも脇道ですから、結局、元いた本道の場所からは一歩も進めていないことにもなりかねません。
苦しくても本当の道を少しずつ歩めば、それは確実な進歩となってくるはずです。


【参考文献】
C・G・ユング『現在と未来―ユングの文明論』平凡社(1996-11)
河合 隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社(1999-10-20)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


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