焼き鳥で乾杯!(実際の写真でありません)

1カ月ほど前、十何年ぶりに昔の仲間と再会しました。
その仲間とは、私がまだ若かった時分に勤めていた職場の同僚で、
当時はよく飲みに行ったり(ホント、よく行った・・・)遊んだりして、
今考えると本当に楽しい時間を一緒に過ごした、気の置けない友人たちです。

みんなでワイワイやっていた数年後には、それぞれが自分たちの道を進むことに
なりましたが、職場で会うことがなくなっても、お互いの結婚式に出席したり(もちろん私の式にも参列してくれました)と、何かの節目には顔を合わせていました。

しかし、それもだんだんとなくなり、一部の友人を除いては、
ここ何年かは年賀状のやりとりだけになっていたのですが、
急遽、「飲みに行こう!」という話が持ち上がり、
トントントンと事が進んで、この度の再会となったのでした。



久しぶりのご対面。
「みんな、どんな感じになっているのかな」と、会う前は内心、少しそわそわしていましたが、実際に顔を合わせてみると、長い時が瞬く間に遡りました。

「相変わらず!」
「みんな変わってない!」
その一言に尽きました。

そして気づくと、昔の感覚のままで、飲んで食べておしゃべりして、
楽しんでいる私がそこに居て、多分それは、みんなも同じだったと思います。


また、色々と話し込んでいくうちに、お互い、それぞれに大きな出来事を経験し、
この会わなかった長い時を、決して順風満帆に過ごしてきたわけでは
ないこともよく分かりました。


そのような濃密な数時間を過ごし、みんなと別れて家路につく私の胸には、
色んな思いが交錯していました。

何より強かったのは、「人って、何年たっても変わらないものだなー」
という実感でした。
話すテンポやその口調、相手への気遣い方、優しさやユーモア。話し役と聞き役。
そんないわゆる“外側の人格”は、みんな昔とちっとも変わってないような気がしました。

そして、河合隼雄先生が、
「人が変わるということ、人格が変化するということは、並大抵のことではない」
というようなことを、何かの著書で書かれていたことを思い出し、
「この世で一番生きている主人格の“私”」について、頭の中でぐるぐると渦巻くものがありました。

友人たちも、いわゆる外側から受ける印象は、昔と全く変わっていませんでしたが、長い年月の間には、様々な経験をし、置かれている立場も変わり、確実にそこに“変化”はあったわけです。
でも、それぞれのキャラクターはやっぱり、変わっていない感じがした・・・。

その各々の“私”(自我)は、確かに、簡単に変わってしまうような軟弱なものであってはならないし、だからこそ、その“私”が変化していくという意味とその困難さについて、自分のことも省みながら、改めて考えさせられました。

また、私が感じ取れなかっただけで、内面的には大きく変わっていた友人も実際にはいたのかもしれません。
自我という主人格の自分が変わるということも含めて、その見える人格と見えない内面(こころ)を持つ「人」の深遠さというものを、久しぶりに会った友人たちを通して、実感を伴った何かとして、突き付けられたような気さえしました。



この現実世界で“一番生きている”主人格の「私」。
この「私」に決定的な変化をもたらすことは、やはりとんでもなくスゴイことなのかもしれません。
けれど、夢に出てくる色々な私たちも、無意識内には確実に存在しているわけですから、その様々な自分を、「私」として出来得る限り生かすこと。
た易いことではありませんが、それに取り組むことは人生に大きな意味づけを与えるものであり、その意味を実感できるようになると、外的な苦難に負けない強さを確実に「私」にもたらしてくれるようになります。


何年ものあいだ、年賀状では「今年こそ会おうね!」とお互い記しつつ、正直なところ、それが社交辞令の挨拶と変わってしまっていたにも関わらず、今年、スイッチが入ったかのようにあっという間に実現化したこと。
この度の再会は、多分、私の色々な“場所”において意味あることだったように思われます。


それにしても、今の私はみんなにどんなふうに映って見えたのでしょう。
私も何も変わってないように見えたのかもしれません・・・(笑)



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分析を受け始めてこの数年の間、今日の記事の再会のほかに、もっと時間を遡る中学生時代の同級生たちとの再会もありました。そして、それに付随する新たな出来事も起こりました。
内的世界で色々と動き始めると、外的にも確実に動きが現われます。
ユング心理学で、布置であり共時性といわれるものを感じずにはいられません。


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