このブログを以前から読んでいただいている方は、

私がユング派の教育分析を受けていることをご承知いただいていると思いますが、

ここで改めて簡単に説明しますと、ユング派でいうところの教育分析とは、

いわゆる「夢分析」で、ひたすら自分の夢を記録し、その分析を受けることを意味しています。


「夢の分析?」と、初めて目に(耳に)する方にとっては、

若干(いえ、かなり?)いかがわしく感じる部分があるかもしれません。

実際のところ、私自身も自分が「夢分析」を受けているということを、

公言する機会はほとんどありません。

いくらかでも、それが何たるかを知っている方に、話の流れで少し語ることがあったとしても、

自らそのことについて触れることはまずありません。

このブログで僅かに表現しているぐらいです・・・。


さて、“夢”に話を戻しますと、

私たちは睡眠中、いわゆる意識(自我)の働きが弱まる時にそれを見るわけですが、

これを無意識の心像として、心理的に非常に重要であることを、

最初に明確に示したのはあのフロイトです。

そして、ユングもその考えに深く共鳴しました。

その後、二人は袂を分かつことにはなりましたが、ユングは自身の心理学的研究において、

一貫して夢を重要視し、臨床における様々な実例をもとに、独自に夢分析の研究を発展させました。

ですのでユング派では、無意識から生みだされる夢を分析し続けることで、

自身のこころの未知の領域に意識を向け、

そこにあるものを意識化、統合することを重視しています。


プロローグが長くなりましたが、前述したものが「夢分析というものです」と、

その枠組みについては言える半面、そこから実質的なところに踏み込むとなると、

これは正直、ほとんど“説明”(ある事柄についてよく分かるように延べること)

は不可能ではないかとも感じています。

このような普遍化しにくいという特性が、ユング理論や夢分析について、

社会の認知がなかなか進まない(?)、要因の一つなのかもしれません。

(あの河合隼雄先生でさえ、ご自身が初めて夢を分析してもらう立場になった時、

“そんな非科学的なもの”と、かなり懐疑的だったそうです)



「夢分析」というものを簡単に体系化できない理由について、ユングは次のように説明しています。


「主観的に心的なもの(つまり「意識」の表出)のうち前もって予測できるのはごく僅かの部分であって、

いわゆる因果関係の必然性を否応なく納得させるような理論的論証は全然存在しない。

それどころか逆に、意識の作用と反作用は複雑に入り組んでおり、それらはほぼ百パーセント恣意と

『偶然』の産物であると覚悟してかからなければならない。

同じことは無意識の表出に関してもあてはまるのであって、

そうではないと仮定しうるような経験的根拠は、いわんや理論的根拠は存在しない。

無意識の表出(夢)は意識の表出と同じように多様であり、予測不可能であり、恣意的であり、

それゆえこれに対するには意識の表出に対する場合とまったく同様に

種々さまざまの観察方法によらねばならない。

(中略)

『無意識』の表出の場合は、普通の意味で一定の方向に向けられている言語、

普通の意味で意図や状況に副った言語というものは存在せず、意識内容に対して見たところ

極めてゆるやかな関係しか持たない心的な現象のみが、そこにあるというにすぎない。

(中略)

客観的に心的なもの(無意識的なもの)は、それが自らを表現する場である意識にとってさえ

手のとどかない未知なものなのである。



長々とご紹介しましたが、要は“無意識”(夢)というものは非常に理論化しにくいということです。


まず、我々の3%の意識で97%の無意識を捉えようということ自体、

アリが大海を泳ぐようなもので、手の届く範囲があまりにも限られています。

そして、自分が浮かんでいる下に広がる海の状態やそこにいる生き物については、

海面近くにいる若干のものを把握できるだけで、

例え偶然(でも意味のある?)何かが出てきたとしても、

それが何であるか表現できる共通言語をアリは持っていない。

また、Aのアリ、Bのアリ、Cのアリ・・・、

それぞれが自分の見える範囲のほんのわずかな景色や周りの波の形を、

全体で共有するのは難しい、ということになるのではないのでしょうか。

(個人的イメージによる文章で分かりにくいかもしれませんが。・・・アリも少し小さすぎたかな?

ちなみに、無限に広がる海のイメージは、ユング心理学では無意識の象徴で、

私の夢にも、色んな海が登場しています。みなさんの夢にも出てきませんか?)


また何より、「夢分析」は、とても個人的要素の強いものであり、

だからこそ普遍化することが非常に難しいといえます。

夢の内容自体が、その個人の背景に由来するものが多く、万人で共有できるものではないからです。

そして、一つの夢だけを取り上げても、それが何を意味しているか、

分析を受けていても、その時点ではわからないことがあるのも事実です。

しかし、時を経て、いくつもの夢の流れを後から振り返ってみると、

「多くを、未来を、真実を」語っていたのだと、動かしがたい事実に驚かされることがあるわけです。

だから、夢は決して「ただの脳内現象」などではないと、私も分析を受けた体験から確信しています。



さて、ここからは「一方で」の話に入ります。

夢は個人的要素が強いと前述しましたが、個人の背景を越えた「共通」するイメージも

実は多く出てきます。

先程書いた、「海」などもその一つです。

他にも、数字とか、左右とか、人物像とか・・・。

ユングは多くの臨床経験から、それら共通している意味(象徴)を発見、研究し、論文で発表しました。

その理論をもとにして、「今」の夢が何を語っているのかを探っていくことも可能なわけで、

夢によっては、「かなり分かる」ときもあります。



夢分析について色々と書きましたが、でも結局のところ「何より」なのは、

私であれば、分析家の佳代先生との対話であると感じています。

いわゆる弁証法的対話によって、何が導き出されるか、何が出てくるか。

やってみなくちゃ分からないという、それは、いわゆる「生モノ」であって、

決して理論だけの型どおりのものではなく、でもだからこそ本当の意味で、

自分の無意識に向き合うことに繋がっていっているのではないかと感じています。

「分析とは個と個の対決である」と、たしかユングか河合隼雄先生が言われていたと思いますが、

結局はそれに尽きるのではないのでしょうか。


やっぱり、うまく言語化できませんが、無意識に向き合うのには、

あまり「頭でっかち」は有効ではないような気がしています。

というより、頭でっかちだけではとてもやっていけないんですが・・・。



表現しづらいけれど、「面白いな〜」と感じた私の夢分析体験話。

伝えられそうなものについては、このブログで書いていきたいなと思っています。


         
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