Lotus / Nelumbo / 蓮(ハス) /
TANAKA Juuyoh (田中十洋)


「泥のなかから 蓮が咲く。  それをするのは 蓮じゃない。

 卵のなかから 鶏が出る。 それをするのは 鶏じゃない。

 それに私は 気がついた。 それも私の せいじゃない。」

                                (金子みすゞ 『蓮と鶏』)



金子みすゞのこの詩。

つい最近、新聞に掲載されていたのを見て、初めて知りました。

そして、その記事には、

「目には見えないが、私たちに働き掛ける大きな力の存在を

(金子みすゞが)確信している様子がうかがえる」

と書かれてありました。



ユング心理学では、その「大きな力」というものを、いわゆる「Self」と呼び、

西田幾多郎は、「統一的自己」とか、「実在の無限なる統一力」、「神秘的或者」、「真の自己」と

いくつかの呼び方で表しています。


いわゆる表現の差はあれ、何か不可視の、そういった我々の意識を司る根本的存在を、

ユングも、西田幾多郎も、金子みすゞも、感じ取っていたと思われます。

そして、そのような大きな力を確信せざるを得ないような、揺るがし難い神秘的体験をした人は、

過去から現在に至るまで、決して少なくはないのだと、私は思います。



ユングが晩年に出演したテレビ番組で、インタビュアーに、

「あなたは神を信じますか?」 と問われ、暫し沈黙した後、「I know」 と答えた話は有名です。

ユングがこのように答えたのは、決して、神そのものを知っていたと言いたかったのではなく、

そういった存在を信じざるを得ないような現象を、数多くユングが経験していたことから出た言葉です。

しかし、このユングの発言には当時批判も多く寄せられたようですね・・・。

ちなみにユングは、

「神そのものを知り得ることは不可能で、近接することさえほとんど望みのないことである。」

と、言っています。

「神を知っているなんて傲慢だ!」と、ユングに対して向けられた非難が誤解、無理解であったことが、

よく分かります。



また西田幾多郎は、

「厳然として動かすべからざる一事実として現われるのである。」

「分析理解すべき者ではなく、直覚自得すべき者である。」

直接経験の事実として感ぜられるのである。」

「善を求め善に遷るというのは、つまり自己の真を知ることとなる。
(中略)しかし抽象的知識と善とは必ずしも一致しない。
この場合における知るとはいわゆる体得の意味でなければならぬ。」

というように、そのような存在は、「事実」として感じられるものであり、

決して、ただただ信ずるというような「頭での理解」ではなく、

逆に「体得の意味」でなければならないと述べています。


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金子みすゞも、「(気がついたのは)それも私のせいじゃない。」と書いています。

自我という“小さな私”の頭の理解ではなく、

もしかしたら、決定的な“何か”を経験していたのかもしれませんね・・・。



今日はかなり?、スピリチュアルな内容になりましたが、

そもそも私たちは、“そういったもの”と完全に切り離して生きてはいけない

存在なのではないでしょうか。

先進国では科学がどんどん発達して、一昔前に比べて暮らしは格段に便利になったはずなのに、

一方ではメンタルの問題で苦しむ人が増えている現実が何を物語っているのか、

ユングや河合隼雄先生が述べておられることに、私は深く共感しています。



最後に。

でも、ユングも西田幾多郎も決して「唯心論者」ではありません。

こころも肉体(物)も、両方があってこそなのだと、そう言っています。

精神性も科学もどちらも必要。

やっぱり何事も「中庸」なのかもしれませんね。



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