前回の記事まで数回にわたり、「ゲゲゲの女房」を題材にしてきました。
他にも書きたい“材料”はあるし、そろそろ“ゲゲゲ”は卒業を・・・、と思っていたのですが、今日も援用させていただくことにしました。
やはり、私にとっては“引っかかる”点が多いようです。



3週間ほど前の「朝のテレビ小説」で、―無為に過ごす―と書かれた張り紙が、
(村井家の)家中の至る所で目についたのを、
ドラマをご覧になった方は気づかれたことと思います。

かなり「強調」されていましたよね。

そして、その後の放送でも、この言葉が、画面の隅にチラリと見えたことが幾度かありました。



さて、この「無為」ですが、その意味について、辞書を見るとこのように説明されています。

自然にまかせて、人為を加えないこと。また、そのさま。むい。

一方、中国の思想においては、非常に重要な概念であった、意味深い言葉でもあります。

中国思想における「無為」



ここで少し話は変わりますが、ユングは、中国哲学における“道(Tao)”について興味を示し、自身が打ち出した「個性化」の概念に通じるところがあると考えていました。


この“道(Tao)”に関して、『分析心理学(みすず書房)』の訳注で、
訳者の小川捷之氏がこのように書かれています。
道とは本来、人の通る路を表わすものであるが、転じて人の道とか芸の道などと、人の踏むおこなうべき道筋とか、人の拠るべき道理、教え、などを指すようになった。
この「道」の考え方は古来より中国思想の根本的なものをなしている。
特に道家の思想では、天地万物の根源を「道 Tao」と呼び、これが天地に先立って生じ、すべてのものをあらしめ成り立たせていると考えている。


また、“無為≒道”については、次のように注釈されています。

「道」は「常に無為にしてなさざるはなし」とあるように、人為的なことはせずに、自然のままにあるその「無為自然」な「道」のあり方が人間や社会のあるべき姿とされる(老子)。
荘子では、この立場がさらに徹底されて、現象や生死を超越して無為自然の道そのものと神秘的に合一することが理想とされた。



人としての究極の生き方は、「無為自然な道のあり方」であると老子は説き、
そして荘子は、その「無為自然の道そのものと合一すること」が理想であると説いています。


また、ユングは、荘子の言う“無為自然の道そのもの”について、次のように表現しています。

「正反対なものの完全な結合」
「物事が原初的な状態であると同時に、最も理想的に物事を達成すること」
「永遠に対立し続ける要素の結合」
「葛藤がおさまり、あらゆるものが静止し、もう一度、識別不能なまでの調和した原初的な状態」



「道(Tao)」は、よく陰陽の思想で説明され、それらがひとつになったものであるとされていますが、これは、ユング心理学でいう「自我と自己の統合」という、究極の目的である
「個性化」の概念に通じるところがあるのです。


  (陰陽対極図)



どちらにせよ、「道(Tao)」も「個性化」も、これは生き方の究極の目的であって、
そこに到達することは、まず無理のようです・・・。


でもユングは、「個性化へ向かっていく過程こそが何よりも大切なのだ」といっています。




ここで話を最初に戻して、水木しげるさんが実際に仕事場に貼られていたのであろう、
「無為に過ごす」の言葉。

仕事に追われ、時間に追われていた毎日の中で、忙しさに自分自身を見失わないために、
“あるがまま”の大切さを忘れないよう、その言葉を“目につくように”されていたのかもしれませんね。



今日は最後に、斎藤学先生 の“ツイート”をご紹介します。


「あるがまま」というと容易にわかったつもりになってしまいますが、これが本当に難しいのです。自分の欠点や時には「病気」までそのまま受け入れるということですから。難しい課題で、私もまだ修行中の身ですが、一緒にがんばりましょう。斎藤学


“あるがまま”
本当に難しいことですが、自身の「こころのワーク」を続けながら、
私も頑張っていきたいと思っています。



          
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