先日、 shrink とのセッションの中で、こんな話をしました。

ユング研究所(スイス:チューリッヒ)には、世界各国からユング派分析家の資格を取るため、
様々な経歴や立場の人が訪れるようですが、その中には
「自宅を売り払うことまでして資金を作り、ユング派の資格を取りに(スイスまで)来た」
という西洋人もいるそうです。

このような人たちは、何年かかけてユング派の資格を取って自国へ帰っても、言ってみれば
住む家もないわけです。

個人差はあるでしょうが、中には一文無しのような人もいるのかもしれません。

しかも、決して年も若くない。
40〜50代を過ぎているような人たちです。

でも、自らの力で勝ち取ってきた、「ユング派分析家」という資格を携えて、
“そこから”人生の新たなスタートを切るわけです。


1からのスタート・・・、いえいえ、金銭的にはまさに0からのスタートです。


この話を聞いて私は、「そこまでする勇気は、正直なかなか持てないです・・・」と言いました。

やはり、未来への「安全や保障」がある程度確保されていないと、新しいことに踏みこむ勇気は
そうそう湧いてこないものです。


でもこの「安全」を重んじる傾向は、日本文化の一つの特徴でもあるようですね。

「家を売ってまでして資金を作り、0からのスタートを切る」という日本人は多分あまり多くはないでしょうが、西洋人では、意外とそれが出来てしまう人が少なくないそうです。


どちらが良いとか悪いとかではなくて、でもこの話を聞いて、
「自分の人生に誰が、何が、制限を加えているのだろう」
ということを、改めて考えさせられました。

安全は確かに大切なものです。

ましてや、家庭や職場で責任ある立場にあれば余計に、先の見えない大きなリスクを抱えることは、避けたいと思うのが普通だと思います。

でも、自分自身の人生を考えた時に、安全な道ばかりを選ぶことは、逆にその“安全”にがんじがらめに縛られ、自らを不自由にしている可能性も大きいのかもしれません。


「リスクを抱えても自分の人生を自由に生きるか」
「責任と安全を重んじて、現状維持に努めるか」

どちらも、やはり“自分”が選択することです。


私は少なくとも“やらない”と決めたときにも、
それを周りの人や環境のせいにするのは、
嫌だと思っています。


「○○だからできない」
「○○だからやらない」

○○でも、リスクを抱えることを受け入れられたら、何かを捨てることを覚悟できたら、「できる」し「やれる」かもしれません。

でもやっぱり「やらない」

最終的にそう決めたのは、やっぱり“自分”です。


でも、どちらにしても、一度きりの人生を、本当に自由に生き切るには、
リスクは避けて通れないような気がします。

そして、リスクを抱えながらも現状から抜け出し、新しい一歩を踏み出したことが、結果的に吉と出るか凶と出るかは、“今”いくら考えても分からないことです。

一方、“今”の選択が、確実に未来への道を方向付けていることも間違いありません。



「自分は本当はどうしたいのか」

たまに、ゆっくりと考えてみることはいいことだと思います。

それは、自分の内側のまだ見知らぬ声に耳を傾けることにもなります



               “ありがとうございます”
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