心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

こころの課外授業(出雲大社 2012)

記事upにタイムラグが生じてしまいましたが、今年も行ってきました。
我が家の恒例行事、出雲大社の神在祭参詣。

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神在祭にお参りするようになって、もうかれこれ5年ほど経つでしょうか。
始めの頃は、ツインズを双子用ベビーカーに乗せて、フーフー言いながら長い砂利の参道を
歩いたものですが、今では、とっとと足早に駆けていく彼らに、親が急かされるまでになりました。

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神在祭に行きはじめたのは、私や家族にとっての大きな転機につながった、ある個人的理由が
あったのですが、今では当初とは違った思いで通っています。


私は特定の宗教を信仰しているわけではありません。両親も無宗教でした。
でも、まだ小さかった時分、キリスト教会の日曜学校に近所のお友達と一緒に通ったり、
当時暮らしていた土地柄、神社やお寺が其処彼処に建っていた(今考えると恵まれた)環境もあって、
とにかく和洋、神仏の垣根を越えて、日常のなかで自然に「手を合わせる」ということは多かったように
思います。

日曜学校に通うようになった経緯については、全く記憶がないだけに今となっては私もよく分からない
のですが、でも多分母は、近所で親子共に仲良しだったお友達のお母さんと、「子ども会」に行かせる
ぐらいの感覚で、一緒に入れたのだと思います。
そして教会のシスターも、それぐらいの気持ちでも「来てくれることが良い」と、歓迎してくださっていた
のでしょう。
実際、私はその日曜学校で、みんなと一緒にご飯を食べたり遊んだりして楽しく過ごすことと並行
して、聖書を読んだり、イエス様やマリア様に関するお話を聞いたり、礼拝の仕方を学んだりという、
お勉強もしていたわけですから。


話が逸れてしまいましたが、私はそのような幼少期の体験があったからなのか、括りはないけれど、
自分より“大きな存在”というものを、どこかで自然と受けいれられるようになったような気がして
います。

そして、その「受けいれられる心」に、実は何度も守ってもらっていたのだと、今になってようやく
分かったような気もしているのです。



「こころと宗教」について、ユングや河合隼雄先生は「切り離せないもの」として述べています。
多くの哲学者も「宗教」の意味について、それぞれの時論を語っています。

心理学においても、哲学においても、避けることのできない「宗教」という命題。
どれも“根本”は同じなのでしょう。
もっと広義に解釈したら、一見宗教とは相反するように見える「科学」だって、根っこは同じはず
です。


だから私にとって、我が子への教育に「宗教心」の課外授業は欠かせないのです。
科学が進歩した現代だからこそ、それは欠かしてはいけないものだと考えています。

目に見えない何か大きな存在を感じられるように、自然に受け入れられるようになってもらいたい。
神さまでも仏さまでも妖怪(笑)でも、とにかくよく分からないし実体はつかみきれないけれど、
そういった不可視の存在を「非科学的」「馬鹿らしい」とばっさり切り捨ててしまうのではなく、
“どこかで”信じられるようなを持ってもらいたい。

長い長い人生を生きる中で、「自分の努力だけではどうにもならない」苦難にぶつかったときに、
そのはきっと、彼らを守ってくれる大きなになるに違いないと、私は信じているからです。
ずっとずっと先に、外の世界に見ていた盾を引き戻す日が来るとしても、まずはそれを
「持てるように」ならなければ話は始まりません。

こころの太陽中心説」をしっかりと感じ取れるように成長してくれれば、人生の荒波にもまれる
ようなことがあっても、すぐに絶望するのではなく、そこに「意味」を見出そうとする僅かな力が
湧いてくるはずです。
「意味」があれば、人は生きていくことができます。


ユングは、「宗教心」と「心の病」に深い関連があることも指摘しています。

重篤な心の病とについて、無視できないつながりがあることは、例えば、「神は死んだ」といった
ニヒリスト、天才ニーチェの悲劇的な末路が、そこに確かなものを物語っているように、私には
思われます。


だからやっぱり、「頭のお勉強」と同じくらいに、いえ、もしかしたらそれ以上に、「こころのお勉強」も
大事。

知力を鍛えることは、確かに、現実社会で「自由な環境」を得るための重要な武器にはなります。

でも、いくら頭が良くて学力が高くても、それだけが「人生を幸せに生き続けられる」条件ではないはずです。

知的レベルを上げ、外的な実力ばかりを身につけ、お金も地位も名誉もそろった、恵まれた環境を手に
入れることができたとしても、それで「苦」から完全に逃れられるわけでもないはずです。

心理学者マズロー(欲求段階説理論)が言っているとおり、外的欲求が完全に満たされたとしても、
人間はそれで、「めでたし、めでたし」とはならないのです。


また、外的基盤のほうが、一度何かのきっかけで崩れ始めたら、非常に脆いような気がします。
その時に何が底力になるかというと、やはり「こころ」の基盤なのではないでしょうか。

そしてその「こころ」の基盤が強く大きく成長していけば、外的不足はもはや、「幸福(感)」を妨げる
必要条件ですらなくなるのです。



さて、“神在祭”に話を戻しますと、子供たちに「今、ここに日本中の神さまが集まってるのよ」と
説明すると、「じゃあ、絶対に聞いてもらえるね!」と、深々と頭を下げて、真剣モードでクリスマス
プレゼントのお願いをしていました。
時期的に、去年も同じパターンだったような・・・。

そして私も、セルフを思いつつ、(見えないけれど)ずらりと鎮座されている日本の八百万の神さまに
手を合わせました。

周りの素晴らしい自然と相まって、その時、内側から感じられたなんとも言えない重みと清々しさは、
「確かなもの」だったような気がしました。


□■□■□■□■□

子どもたちが大きくなり、ゆとりを持って参詣できるようになったと実感できた今年、ふと、
「ここ数年素通りしていたけれど、久しぶりに手を合わせよう」と、銅鳥居手前、参道右手に
御座する「ムスビの御神像」に立ち寄ってみました。

そして、像の前にあった由来碑に書かれている文章に目を通してみると、私の心の中で小さな
感動が起こりました。

また、記事にしたいと思っています。


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地に足をつけて生きる


Sea Lion Cove at Point Lobos./Don DeBold


前回まで、グノーシスやソフィアなどについて書いた流れで、このまま続けようかとも思ったのですが、
ふと、自分の中でストップがかかってしまいました。

ということで今日は、神話や女神のお話からはちょっと離れて、主観的に“現実目線”で書いてみたい
と思います。


ユング心理学(深層心理学)では、意識の背景に広がる無意識というこころの領域の存在を
前提としていること。
このブログを以前から読んでくださっている方、そしてユング心理学に通じている方は
ご承知のとおりだと思います。

我々が認知できている“自分”や世界の基盤に、より大きな知らない世界(無意識)があることを
認めており、それは、心的な病はもちろんのこと、「生き方」という人の根本的課題についても、
決して無視することのできない重要な存在として位置づけられています。


さて、ここからは“イメージ”も取り入れながら、話を進めていきたいと思いますが、
「無意識と意識」の象徴として、「海と陸」が、多くの人の夢などに登場するようです。

今までのブログ記事でも何度も書きましたが、私の夢にも実際、「海」がよく出てきます。
夢分析を受けることにより、言ってみれば無意識が活発になるわけですから、
それを表す“海”が頻繁に夢に出てくることはある意味当然とも言えますが、
とにかく「夢の意味」だけに焦点を当てて考えてみても、海が無意識を表していることには
納得せざるを得ません。
(無意識の象徴は“海”だけではありませんが、今日は割愛します)

一方、「現実の海」は、よく“生命の源”とも言われます。
私たちヒトの遠い祖先は、始めは海でしか生きられませんでした。
そして、進化の過程で陸に上がってきて、ようやくそこで、文明を持ち得る人類になったわけです。

外的現実でも心理学的にも、海から陸、無意識から意識において、
“発展”を遂げてきた人間という存在。


哲学者の西田幾多郎やヘーゲルも述べていますが、我々は、「意識」という場においてしか、
精神を発展させることはできないのです。

「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。」

「意識においては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。」
                                         西田幾多郎 『善の研究』

「自然の精神は隠れた精神である。それは精神の形をとっては現われない。
  それは認識する精神にとってのみ存在する。」             ヘーゲル 『精神現象学』


ユングも、『旧約聖書のヨブ記』を、そのような心的(神的)発展という観点から読み解いています。

ヨブへの答え
ヨブへの答え



自覚のあるなしに関わらず、私たちは今日でも、内外の世界で海から多大な影響を受けていますが、
でもその我々が生きられる場所はやはり、「陸」しかあり得ません。

しっかりと地に足をつけて「現実を」生きること。

足の裏に大地の感覚を感じ取りながら立ちづづけることは、心理学的にみても、自分を見失わない
ために、とても大切なことだと思われます。


無意識は、断じて無視すべき存在ではありませんが(このテーマだけでも色々書けそうです・・・)、
だからといって、現実・意識という立脚点を失って、あちらの世界に軸を移すようなことになって
しまっては、それは「生」の意味を放棄することになると言っても過言ではありません。

そして同時に、本来果たすべき正しい個性化への歩みを、閉ざしてしまうことにもなるのです。

だから、ただの神秘主義に陥ってしまわないための、「現実的感覚」をきちんと持ち続けることが、
まず、必要とされるわけです。


ユングはもちろんのこと、河合隼雄先生を始めとするユング派の方々は、無意識を相手にすることを
論じる際に、「自我の強さ」の重要性と、脆い自我で無意識に向き合う危険性という点について、
それぞれの言葉で次のように言明しています。

「無意識の統合は自我が持ちこたえるときにのみ可能である。」

「無意識は、それが盛んに働きかけてくるのでなければ、そっとしておくのが一番よい。」
                                               【C.G.ユング】


「クライエントの状況によっては、夢分析を行わないときもある。
 クライエントの自我があまりにも弱く危険な場合や、むしろ日常的な実際生活を整えることに
 重点を置くべきだと考えられるときなどである。」

「まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
 自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。」
                                               【河合隼雄】

(アクティブ・イマジネーションを実践する条件として)
*アクティブ・イマジネーションとは日本語で「能動的想像法」と呼ばれる、夢分析に並ぶ無意識に向き合うための
   手法のひとつ。

「ユング自身の示した条件は、分析プロセスの後半にあること、あるいは人生後半の課題に
 取り組んでいることである。
 『分析プロセスの後半にあること』についてだが、これは裏を返せば、そのアナリザンド
には少なくとも分析プロセスの前半で遭遇する試練に耐えるだけの強さがある、
ということである。
 分析プロセスの前半では、内的にも外的にもさまざまなことが起こり、自我は以前から抱えて
きた諸問題への直面と対決を迫られる。
 曲がりなりにも日常生活をこなしながらこの重圧をくぐり抜けたのだとすれば、自我にある
程度の
強さが備わっていることはまちがいない。」

自我はアクティブな態度を保つ必要がある
(無意識から沸き起こってくるイメージに)容易に圧倒されないだけの備えが要求されるので
ある。
 さもないとイマジナーは、現実を見失うなどの症状を呈したり、何度も同じパターンで敗れ
去ったり、イメージの内容と一致した現実での危険に共時的に巻き込まれたりするかも
しれない。」
                                               【老松克博】

「無意識に足をすくわれる危険があることも忘れてはならない。」
                                                【豊田園子】




ここで話は変わりますが、私はユング心理学に出会うまで、昔話の「浦島太郎」について、ずっと
疑問に思っていたことがありました。
善行によって竜宮城にまで招かれた浦島太郎が、なぜ、お話の最後にあんな理不尽な目にあうのか。
何の責めも負うはずのない人の良い浦島太郎が、なぜ、ひとりぽっちで老人になってしまった場面で、
話が終わってしまうのか。
“その後”(数ある「浦島太郎伝説」の中には、玉手箱を開け老人になったばかりでなく、そこで死を
迎えて話が終わるものもあるそうです)の浦島太郎を考えるとあまりにも不憫で、どうしても納得できずに、どこかでひっかかっていました。

しかし、ユング心理学から解釈した昔話の心理学的意味を知り、浦島太郎の謎についても、私のなかでやっと霧が晴れました。
浦島太郎は、「陸」から離れすぎたのです。海(あちら)の世界に浸かりすぎてしまったのです。

(詳しく知りたい方はこちらを)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
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無意識の世界に分け入ることの難しさと厳しさを、善人だからこその浦島太郎が、身を持って(?)
教えてくれていたのかもしれませんね。



前回までに書いた、グノーシス神話のプレローマ(上位世界)やアイオーン(超越神)についても、
それらが“本当に実在するか”どうか、そんな、神の存在自体に関わるようなあまりにも大きなこと、
逆立ちしても立証不可能なことを、いくら頭で考えたからといって答えなんて出せるはずがありません。

あくまでも“心理学的に見て”、それらの話がとても意味深い心的内容を物語っていると、
ユングは自らの臨床経験に基づいて考察したわけであり、そこで、どっぷりと神話の世界に
入り込んでしまうのではなく(でも、実はそれが必要な時もあるわけで、だから難しいのですが)、
論理的立場を崩さないこと、そこで持ちこたえることがやはり必要とされるわけです。

前記した『昔話と日本人の心』の著書の冒頭に、筆者である河合隼雄氏が引用している一文が、
その“関わり方”を端的に表しています。


むかし語ってきかせえ!―
さることのありしかなかりしか知らねども、あった
として聞かねばならぬぞよ―
                                 ―鹿児島県黒島―



どちらにせよ、「無意識に向き合う」ことは、我々の生き方を豊かにすることに間違いはないと
私は信じています。

そしてその豊かさとは、現代社会で一般的に多くの人が求める豊かさとは少し質の違うものかも
しれません。

だけどその質の違いこそが、実は「ホンモノ」なのかもしれないのです。

だからやはり、それぞれが“自分の竜宮城”を見つけられるよう、海に潜る価値はあると思います。
ただし、浦島太郎の二の舞を踏まないように、という条件付きであることを、くれぐれも忘れないように
したいものです。


【参考文献】
河合隼雄『ユング心理学入門培風館 (1967-10)
老松 克博『無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1』 
                トランスビュー (2004-05-05)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


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ソフィア (sophia)


Aya Sophia Interior /
Alastair Rae

「万学の祖」といわれた偉大な哲学者アリストテレス。
この名を聞いたことのない人はまずいないでしょう。

このアリストテレスが第一哲学と称する『形而上学』という著述があります。
そこでは、いわゆる「存在」に関するさまざまな問題が扱われているわけですが、
「形而上学(metaphysics)」という言葉は、アリストテレスの数々の著作を編集する際、
「自然学関係の諸巻(physica)」の後に置かれた諸巻という意味で作られたとされる
“metaphysica” がもとになっているようです。

meta は超越を意味しますので、“metaphysica” とは自然を超越したもの、「超自然学」を意味します。
自然の背後にあるもの、いわゆる“あちら”の世界についての学問。
(自然と訳される physis は、そもそも「生まれ出たもののすべて」を意味します)

深層心理学的に、ちょっと大胆に言ってしまうと、
“無意識”にあるものの探究、と言い換えることもできるのではないでしょうか。

この『形而上学』について、アリストテレスはまた、「ソフィアをあつかう学」とも称していますが、
ソフィア sophia とは、ギリシア語で「知恵」を意味することを鑑みますと、
ソフィアをあつかう学(第一哲学)とは、われわれの 「存在根本についての知恵に関する学」 であり、
「万物を動かす原理である不動の動者、神(と呼ばれる存在)を探究する学問」であるといえます。


西洋世界において意味深い「ソフィア」の存在について、ユングはあくまでも心理学の観点から、
男性の無意識に存在する、“高次のアニマ”であると述べています。
* アニマとは男性の無意識の中に存在しているとされる、普遍的な女らしさの元型。ソフィアは第四段階の叡智のアニマ。
(ゲーテの『ファウスト』における)「永遠にして女性的なるもの」(ソフィア)は
錬金術の≪智慧≫を具現化したものとして登場する。

ソフィアは、(中略)「楽園の」あるいは「神的な」人間、すなわち「自己」である。


転移の心理学
転移の心理学
著者:C.G. ユング
販売元:みすず書房
(2000-10)








また、前回記事で書いたグノーシス主義では、『旧約聖書』で「最初の人間」とされている
アダムとイブに、2人が“無知の闇”に閉じこめられていることを知らせるため、
智慧の女神ソフィアがヘビを遣わしたとされています。

『旧約聖書』において、知識の木の実を食べるようそそのかした悪魔の使いとされるヘビを、
グノーシス主義では礼拝の対象としていたのです。

(正統派キリスト教、異端派グノーシス主義における、“ヘビ”のこのアンビバレンスな捉え方も、
今日は触れませんが、非常に意味のあることです。
ちなみにユングは、自分の心の深層に導いてくれる存在として、緑のヘビを描いています。)


私たち人間は、自我が芽生えてこそ、他者の存在のみならず、自分の“存在”をも
認知できるようになります。
“無知の闇”(無意識)を抜け出してこそ、「人」となるわけです。
(赤ん坊が幼児に成長する過程を見ていると、それがよく分かります。)

闇を完全に光で満たすことはもちろん不可能ですが、そこに何があるのか、
少しずつ明かりを灯していくことこそ、「ソフィアをあつかう学」につながるのだと、
私には思われます。


「人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』『本来的自己』『光の粒子』」
である、グノーシス主義における女神ソフィアを、ユングが解釈したように、
私たちのこころの深くにある「自己」と考えると(この場合はあくまでも男性心理からの視点で、
ユングは、アニマとセルフを同一視している部分があることが研究者によって指摘されている)、
やはり、わたしたち人間一人ひとりが、
自身の“無意識の声”を聞いていくこと、“認識(グノーシス)”すること。
そして、“無知の知(闇)”の自覚を出発点に、“ソフィア(叡智)の救済”へ努めることは、
たとえそれが終わりのない道であっても、とても意味のあることなのです。

それは、以前のブログで書いた「ホントの自己実現」の生き方と同義です。



西洋のおとぎ話では、王子様が「閉じこめられたお姫様を救出する」お話がよく出てきますが、
そのようなテーマが古くから多くの人の心を揺さぶり、言い伝えられてきたことも、
深層心理学的に解釈すると、納得できそうですね。
それは、私たちの生の「本来の課題」を表しているわけですから・・・。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
筒井 賢治 グノーシス (講談社選書メチエ)』 講談社 (2004-10-09)
山中康裕監修 ユング心理学 (雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)
 PHP研究所 (2007-02)
        

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グノーシス主義のソフィア


Goddess /

暦ではとうに秋ですが、まだまだ残暑が厳しいですね。
でも、朝晩はかなり過ごしやすくなってきたように思います。
秋は私が一番好きな季節。
今年も、秋を堪能できる自然に包まれに、どこかへ行ってみたいなと考えてます。


さて今日は、
5月のブログ記事の最後で触れた“ソフィア”について。

まず、ユング関連の著作の数々を読んでいますと、「グノーシス」という言葉を
目にすることが度々あります。

ユングは、中国思想のタオや易、占星術、タロットなど、様々な分野に興味を示し、
その心理学的意味について考察していますが、古代「グノーシス主義」についても
その内容に深層心理学的に有意味な関連を見出し、たいへんな感銘を受けたようです。
グノーシスの一派である「バシレイデース」の名で、本まで出版しているのですから、
その関心ぶりの高さがうかがえます。
また、「個性化の過程」を考案した際にも、グノーシス主義の思想に影響を受けた
ことが指摘されています。

さて、この「グノーシス」についてですが、講談社選書メチエから出版されている
『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』にはこのように説明されています。

紀元二世紀後半、誕生して間もないキリスト教会では、総称的に「グノーシス」とか
「グノーシス主義」と呼ばれるさまざまな異端的流派が広がりを見せていた。

「グノーシス」とは、ただの単語として見るなら、「認識』や「知識」を意味する
古代ギリシア語の普遍名詞である。
ならば、キリスト教グノーシスとは、「知る」ということに特に重きをおくキリスト教
流派であったのだろうと想像することができるだろう。
事実、そう考えても間違いではない。
ただし、いったい何を「知る」というのか、この点で一定の方向性があった。
多くの場合、キリスト教グノーシスにおける「認識」の対象は、(中略)
人間もまた創造神の作品であるが、その中に、ごく一部だけ、至高神に由来する
要素(=「本来的自己」)が含まれているということ、救済とは、その本来的自己が
この世界から解き放たれて至高神のもとに戻ることなのだということ、
といった事柄である。

キリスト教の異端とされたグノーシス主義。
でもユングは、その思想の中に、人の心的過程に通ずるものを見出したわけです。

「グノーシス主義は何を信奉するのか。
それはこの世界の外、あるいはその上にあるいわば『上位世界』、
そしてそこに位置している『至高神』である。
そして人間の霊魂も、もともとはこの上位世界、別名『プレローマ』の出身であり、
現在はこの世界に幽閉されている形になっている。
(中略)
そこで、霊魂が身体を含むこの世界から解放され、故郷である上位世界に
戻ること、それがグノーシス主義者にとっての『救済』となる。」

「人間にとっては、自分自身のこのような本質に目覚めること、
それを『認識』することが、救われるための必須条件になる。」

一見するとあまりにも現実離れした話で、まさに遠い昔の“神話”であり、
あくまでも宗教的な事柄のようにも受け取れます。
しかしその内容を、人の(無意識の)心的成長のプロセスという切り口で捉えた
場合、それは私たちにとって、重要な意味を秘めていると理解できるのです。

そんな“グノーシス”。
深く多様な意味を含んでいるようです。
「グノーシス主義を筋道立てて総合的に解説するという課題は、きわめて複雑で
困難なものとなる。
むしろ、すべての側面を完全にフォローするのは、実際問題として不可能だと
いうべきであろう。」
“無意識世界”の説明にも同じことが言えるような気がします。

では、ここからは話を“ソフィア”に移してみたいと思います。
と言っても、まだグノーシスの話は終わりません。
なぜかというと、“ソフィア”とは、このグノーシス主義に登場する、
重要な役割を負う女神の名前だからです。

グノーシス主義では、プトレマイオスという人物による宇宙創成神話が有名ですが、
その内容について簡単に触れてみたいと思います。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

まず最初に、至高神(プロパトール)とエンノイアという女性神のペアから、
順次男女ペアの神が流出し、合計30の神々、アイオーンが成立し、
そして、その神々による「上位世界」、“プレーローマ”が完成される。

しかし、至高神を見知ることができるのは、至高神から直接流出した
“ヌース(叡智)”のみであって、他のアイオーン達には許されていない。

にも関わらず、最下位のアイオーンであった“ソフィア”が、大胆にも至高神を
直接に知ろうと企てるが、勿論そんな無謀は失敗に終わり、絶望したソフィアは
プレーローマから転落しそうになる。

しかし、ホロスという存在によって転落は食い止められ、過ちを悟ったソフィアは
自らの「情念」を切り離してプレーローマの外に捨て、自身は救われる。

その後、ヌースという高次のアイオーンから流出した「キリスト」が、
投げ捨てられたソフィアの「情念」を哀れに思い、それに形を与える。
これこそが、この世の創造神(デミウルゴス)と人間を含む「この世界」の起源と
なる。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

グノーシス主義では、「創造神デミウルゴス(=旧約聖書のヤハウェ)」の上に、
上位世界と至高神がいるとされているわけです。

「プトレマイオスの理論によれば、創造神とこの世界はソフィアの向こう見ずな
好奇心から―文字どおり―『生まれ落ちた』産物なのである。」


そしてここからが肝心です。

「ソフィアの『情念』はあくまでソフィアというプレーローマ構成員から出たもので
あり、そのため、わずかとはいえ、プレーローマの要素が混入していたのである。
これが、今でも人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』
『本来的自己』『光の粒子』にほかならないということになる。
その後、プレーローマからキリストが派遣されて覚醒ないし自己認識(グノーシス)
を呼びかけ、それに応えた霊魂たちがプレーローマに次々に帰還する。」



今日は、グノーシス一色で、どっぷりと“非現実的”な感じになってしまいましたが、
“ソフィア”について、そして「自己」やこころについて、次回以降、続きを書いて
いきたいと思います。
そして、グノーシス主義を始めとする様々な思想と無意識について、
“非現実”と“現実”について、結び付けていければな、と考えています。


―締めくくりに少し。
「哲学」の語源は、 philosophia(愛知) であり、その意味は、
「ソフィアを愛し求めること」というものです。
「哲学」という言葉の意味とグノーシス思想との繋がりが感じられますし、
人が“哲学する”ということが何を意味するのか。
その深さも表している気がします。


(今日の引用文は全てこちらの文献から)
グノーシス (講談社選書メチエ)
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こころの土づくり

77 075
(植え替えの時にこぼれ落ちた花。玄関を彩ってくれました。)

春から少しずつ進めていた、
庭の植木鉢と花壇の花の植え替えがひと段落しました。

ガーデニングには以前から興味を持っていたものの、
今までなかなか“植物育て”にまでは手が回っていませんでしたし、
気分的にもそんなゆとりを持てずにいました。

「それより他にやるべきこと」が常にありました。
“庭いじりなんて”あくまでも余暇にすべきことだと、実質的なことだけではなく、
私自身が手放せていないもの、作り上げてしまっていたことによっても、
やるべきリストの優先順位の後ろに追いやってしまっていました。

今も気が向いたときに、思いたったように始める程度で、まだまだ知識も技術も
浅い初心者なのですが、でも、大分“手放せる”ようになったのか、
「土に触れたいな」と感じたときには、その気持ちを諸々の理由づけで抑える
のではなく、何だか自然に、帽子を被り軍手をはめて庭に出ている私がいます。


さて、そんなゆるーいガーデンニングなので、
いざやろうと思うと実際には、毎度、準備不足を痛感させられます。
生きている草花を相手に、こちらの都合だけで完璧に事を進められるわけもなく、
この春は、適切な時期に土づくりをしていなかったことを悔やむ羽目になりました。

今年は、“とりあえず”で何とか凌ぐことにしましたが、
来年は前もってきちんと準備しようと、土づくり専門のガイド本を購入しました。

よくわかる土・肥料・鉢 (別冊NHK趣味の園芸)
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さて、届いた本の表紙をあけてみると、
サブタイトルとして次の言葉が書かれてありました。

「植物が生き生きと育つための鍵、
それは、土・肥料・鉢をよく知ることにあります。」

また本文には、次の文章が続いていました。

「水を与えていても、肥料を施していても、それでも枯れたり、
花が咲かなかったり、思うように育たないことを、
やはり多くの方が経験していることと思います。

その原因はいろいろとありますが、(中略)
土・肥料・鉢に根本的な問題がある場合が多々あります。

また、土・肥料・鉢に関する知識の不足から、
管理・作業が適切さに欠けたことが原因となる場合も多いものです。

わたしたちが、とかく植物の見える部分ばかりに目がいき、
ふだん見えない土の中がどうなっているのか
意外に気にかけないことが多いせいでもあるでしょう。



まるで、私たち人間の「こころ」に、そのまま当てはめられるような気がして、
つぎのページをめくる手が止まってしまいました。

美しい花を咲かせたいと思い、土の外から色々とやってみても、
思うように育たないことが多い植物。
それは、「ふだん見えない土の中がどうなっているか」
気にかけていないことが原因かもしれない。

深層心理学的には、あまりにも象徴的な表現だと感じずにはいられませんでした。


以前の記事でもご紹介しましたが、夢やイメージに出てくる“地下”は、
“無意識世界”を表すものとしてしばしば登場します。

無意識の象徴として“水”が現われるのと同じくらい、“地下”もよく出てきます。
これは、多くの人に共通するイメージであることがユングによって指摘されて
いますし、私の夢にも色んな形で地下が出てきていて、その分析の流れからも、
ユングの説の妥当性は確信できます。



現実の庭でキレイで丈夫な花を咲かせるためには、
「土・肥料・鉢をよく知る」必要があります。

「水を与えていても、肥料を施していても、それでも枯れたり、
花が咲かなかったり、」するのは、
「土・肥料・鉢に根本的な問題がある場合が多々」あるからです。

人のこころの、見える世界(意識)と見えない世界(無意識)の関係にも、
これと同じことが言えるのではないでしょうか。

意識の私で、
「こうなりたい(育ちたい、咲きたい)」といくら望んでいても、
土の中(無意識)の状態を全く度外視しているようでは、
思うようにならなくてある意味当然なのかもしれません。


ユング心理学では、意識の基盤には無意識があるとされています。

見える草花の下には見えない土の世界が常に存在しているように、
私たちの知っている意識世界の下には、無意識の世界が広がっているのです。


植物が思うように育ってくれない原因が、
「とかく植物の見える部分ばかりに目がいき、ふだん見えない土の中が
どうなっているのか意外に気にかけないことが多いせいで」
あるように、
意識の“知っている私”だけでどれだけ色々とやってみようと、
「どうしても思うようにならない、変われない、良い状態にならない」
自分の状態があるとき、その原因は、無意識が握っている可能性が十分に
考えられるのではないでしょうか。


さて、庭仕事に話を戻しますと、ガーデニング初心者ながら、植物を健康に育て、
キレイな花を長く咲かせるためには、適切な時期にきちんと、地道な土づくりに
エネルギーを注がなければならないことが分かってきました。

土を掘り起こしてみると、日頃ほとんど目にすることのない虫たちにも出会います。
それらは大抵、ミミズや芋虫などの地味で気持ちの悪い生きもので(少なくとも
私にとっては・・・)、以前は何も考えず、脇に除けてしまっていたこともありました。

でも、土の状態を気にし始めたときからは、ミミズは良い土づくりには欠かせない
有り難い存在だし、様々な芋虫たちだって、いつかは外に出て自由に動き回れる
ようになるための大切な準備期間として、こうして暗い土の中で今は地味に
目立たずに生きているんだと思えるようになり、彼らをむやみに排除することは
なくなりました。
(でも、まだ触れませんが・・・)

そして、良い土づくりの適切な時期は「冬」だということも知りました。
寒い時期にしっかりと地味な作業にエネルギーを注いでおくことで、
春を迎えたとき、美しい花を長くたくさん咲かせることができるわけです。

一生懸命、良い土づくりをしても、冬に咲かせられる花の種類は限られています。
自然のサイクルを、人間が支配しコントロールすることなんてできませんから、
多くの花を愛でるには、春が来るのを待つしかありません。


こころの世界でも、いくら内面に目を向けたからといって、なかなか目に見える
変化は得られないかもしれない。
寒さに耐えながら、じっくりと土づくりをする時期は必要なのかもしれません。
でも明らかに、その見えない部分では培養が始まっているのですから、
外的に芽吹く時が来れば、自ずとその芽は見えてくるのではないでしょうか。

そう考えると、私たちを取り巻く自然とこころとは、やはりどこか繋がっている
気がしますね。


今日は「土」に焦点を当てて書きましたが、
本には「肥料・鉢」もよく知らなければならないと書かれていました。

このあたりも、“外的なこと”に置き換えて考えてみると、
なかなか示唆的な気もします。
 

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