心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

地に足をつけて生きる


Sea Lion Cove at Point Lobos./Don DeBold


前回まで、グノーシスやソフィアなどについて書いた流れで、このまま続けようかとも思ったのですが、
ふと、自分の中でストップがかかってしまいました。

ということで今日は、神話や女神のお話からはちょっと離れて、主観的に“現実目線”で書いてみたい
と思います。


ユング心理学(深層心理学)では、意識の背景に広がる無意識というこころの領域の存在を
前提としていること。
このブログを以前から読んでくださっている方、そしてユング心理学に通じている方は
ご承知のとおりだと思います。

我々が認知できている“自分”や世界の基盤に、より大きな知らない世界(無意識)があることを
認めており、それは、心的な病はもちろんのこと、「生き方」という人の根本的課題についても、
決して無視することのできない重要な存在として位置づけられています。


さて、ここからは“イメージ”も取り入れながら、話を進めていきたいと思いますが、
「無意識と意識」の象徴として、「海と陸」が、多くの人の夢などに登場するようです。

今までのブログ記事でも何度も書きましたが、私の夢にも実際、「海」がよく出てきます。
夢分析を受けることにより、言ってみれば無意識が活発になるわけですから、
それを表す“海”が頻繁に夢に出てくることはある意味当然とも言えますが、
とにかく「夢の意味」だけに焦点を当てて考えてみても、海が無意識を表していることには
納得せざるを得ません。
(無意識の象徴は“海”だけではありませんが、今日は割愛します)

一方、「現実の海」は、よく“生命の源”とも言われます。
私たちヒトの遠い祖先は、始めは海でしか生きられませんでした。
そして、進化の過程で陸に上がってきて、ようやくそこで、文明を持ち得る人類になったわけです。

外的現実でも心理学的にも、海から陸、無意識から意識において、
“発展”を遂げてきた人間という存在。


哲学者の西田幾多郎やヘーゲルも述べていますが、我々は、「意識」という場においてしか、
精神を発展させることはできないのです。

「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。」

「意識においては凡てが性質的であって、潜勢的一者が己自身を発展するのである。」
                                         西田幾多郎 『善の研究』

「自然の精神は隠れた精神である。それは精神の形をとっては現われない。
  それは認識する精神にとってのみ存在する。」             ヘーゲル 『精神現象学』


ユングも、『旧約聖書のヨブ記』を、そのような心的(神的)発展という観点から読み解いています。

ヨブへの答え
ヨブへの答え



自覚のあるなしに関わらず、私たちは今日でも、内外の世界で海から多大な影響を受けていますが、
でもその我々が生きられる場所はやはり、「陸」しかあり得ません。

しっかりと地に足をつけて「現実を」生きること。

足の裏に大地の感覚を感じ取りながら立ちづづけることは、心理学的にみても、自分を見失わない
ために、とても大切なことだと思われます。


無意識は、断じて無視すべき存在ではありませんが(このテーマだけでも色々書けそうです・・・)、
だからといって、現実・意識という立脚点を失って、あちらの世界に軸を移すようなことになって
しまっては、それは「生」の意味を放棄することになると言っても過言ではありません。

そして同時に、本来果たすべき正しい個性化への歩みを、閉ざしてしまうことにもなるのです。

だから、ただの神秘主義に陥ってしまわないための、「現実的感覚」をきちんと持ち続けることが、
まず、必要とされるわけです。


ユングはもちろんのこと、河合隼雄先生を始めとするユング派の方々は、無意識を相手にすることを
論じる際に、「自我の強さ」の重要性と、脆い自我で無意識に向き合う危険性という点について、
それぞれの言葉で次のように言明しています。

「無意識の統合は自我が持ちこたえるときにのみ可能である。」

「無意識は、それが盛んに働きかけてくるのでなければ、そっとしておくのが一番よい。」
                                               【C.G.ユング】


「クライエントの状況によっては、夢分析を行わないときもある。
 クライエントの自我があまりにも弱く危険な場合や、むしろ日常的な実際生活を整えることに
 重点を置くべきだと考えられるときなどである。」

「まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
 自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。」
                                               【河合隼雄】

(アクティブ・イマジネーションを実践する条件として)
*アクティブ・イマジネーションとは日本語で「能動的想像法」と呼ばれる、夢分析に並ぶ無意識に向き合うための
   手法のひとつ。

「ユング自身の示した条件は、分析プロセスの後半にあること、あるいは人生後半の課題に
 取り組んでいることである。
 『分析プロセスの後半にあること』についてだが、これは裏を返せば、そのアナリザンド
には少なくとも分析プロセスの前半で遭遇する試練に耐えるだけの強さがある、
ということである。
 分析プロセスの前半では、内的にも外的にもさまざまなことが起こり、自我は以前から抱えて
きた諸問題への直面と対決を迫られる。
 曲がりなりにも日常生活をこなしながらこの重圧をくぐり抜けたのだとすれば、自我にある
程度の
強さが備わっていることはまちがいない。」

自我はアクティブな態度を保つ必要がある
(無意識から沸き起こってくるイメージに)容易に圧倒されないだけの備えが要求されるので
ある。
 さもないとイマジナーは、現実を見失うなどの症状を呈したり、何度も同じパターンで敗れ
去ったり、イメージの内容と一致した現実での危険に共時的に巻き込まれたりするかも
しれない。」
                                               【老松克博】

「無意識に足をすくわれる危険があることも忘れてはならない。」
                                                【豊田園子】




ここで話は変わりますが、私はユング心理学に出会うまで、昔話の「浦島太郎」について、ずっと
疑問に思っていたことがありました。
善行によって竜宮城にまで招かれた浦島太郎が、なぜ、お話の最後にあんな理不尽な目にあうのか。
何の責めも負うはずのない人の良い浦島太郎が、なぜ、ひとりぽっちで老人になってしまった場面で、
話が終わってしまうのか。
“その後”(数ある「浦島太郎伝説」の中には、玉手箱を開け老人になったばかりでなく、そこで死を
迎えて話が終わるものもあるそうです)の浦島太郎を考えるとあまりにも不憫で、どうしても納得できずに、どこかでひっかかっていました。

しかし、ユング心理学から解釈した昔話の心理学的意味を知り、浦島太郎の謎についても、私のなかでやっと霧が晴れました。
浦島太郎は、「陸」から離れすぎたのです。海(あちら)の世界に浸かりすぎてしまったのです。

(詳しく知りたい方はこちらを)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術)
クチコミを見る

無意識の世界に分け入ることの難しさと厳しさを、善人だからこその浦島太郎が、身を持って(?)
教えてくれていたのかもしれませんね。



前回までに書いた、グノーシス神話のプレローマ(上位世界)やアイオーン(超越神)についても、
それらが“本当に実在するか”どうか、そんな、神の存在自体に関わるようなあまりにも大きなこと、
逆立ちしても立証不可能なことを、いくら頭で考えたからといって答えなんて出せるはずがありません。

あくまでも“心理学的に見て”、それらの話がとても意味深い心的内容を物語っていると、
ユングは自らの臨床経験に基づいて考察したわけであり、そこで、どっぷりと神話の世界に
入り込んでしまうのではなく(でも、実はそれが必要な時もあるわけで、だから難しいのですが)、
論理的立場を崩さないこと、そこで持ちこたえることがやはり必要とされるわけです。

前記した『昔話と日本人の心』の著書の冒頭に、筆者である河合隼雄氏が引用している一文が、
その“関わり方”を端的に表しています。


むかし語ってきかせえ!―
さることのありしかなかりしか知らねども、あった
として聞かねばならぬぞよ―
                                 ―鹿児島県黒島―



どちらにせよ、「無意識に向き合う」ことは、我々の生き方を豊かにすることに間違いはないと
私は信じています。

そしてその豊かさとは、現代社会で一般的に多くの人が求める豊かさとは少し質の違うものかも
しれません。

だけどその質の違いこそが、実は「ホンモノ」なのかもしれないのです。

だからやはり、それぞれが“自分の竜宮城”を見つけられるよう、海に潜る価値はあると思います。
ただし、浦島太郎の二の舞を踏まないように、という条件付きであることを、くれぐれも忘れないように
したいものです。


【参考文献】
河合隼雄『ユング心理学入門培風館 (1967-10)
老松 克博『無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1』 
                トランスビュー (2004-05-05)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


                                         にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ

ソフィア (sophia)


Aya Sophia Interior /
Alastair Rae

「万学の祖」といわれた偉大な哲学者アリストテレス。
この名を聞いたことのない人はまずいないでしょう。

このアリストテレスが第一哲学と称する『形而上学』という著述があります。
そこでは、いわゆる「存在」に関するさまざまな問題が扱われているわけですが、
「形而上学(metaphysics)」という言葉は、アリストテレスの数々の著作を編集する際、
「自然学関係の諸巻(physica)」の後に置かれた諸巻という意味で作られたとされる
“metaphysica” がもとになっているようです。

meta は超越を意味しますので、“metaphysica” とは自然を超越したもの、「超自然学」を意味します。
自然の背後にあるもの、いわゆる“あちら”の世界についての学問。
(自然と訳される physis は、そもそも「生まれ出たもののすべて」を意味します)

深層心理学的に、ちょっと大胆に言ってしまうと、
“無意識”にあるものの探究、と言い換えることもできるのではないでしょうか。

この『形而上学』について、アリストテレスはまた、「ソフィアをあつかう学」とも称していますが、
ソフィア sophia とは、ギリシア語で「知恵」を意味することを鑑みますと、
ソフィアをあつかう学(第一哲学)とは、われわれの 「存在根本についての知恵に関する学」 であり、
「万物を動かす原理である不動の動者、神(と呼ばれる存在)を探究する学問」であるといえます。


西洋世界において意味深い「ソフィア」の存在について、ユングはあくまでも心理学の観点から、
男性の無意識に存在する、“高次のアニマ”であると述べています。
* アニマとは男性の無意識の中に存在しているとされる、普遍的な女らしさの元型。ソフィアは第四段階の叡智のアニマ。
(ゲーテの『ファウスト』における)「永遠にして女性的なるもの」(ソフィア)は
錬金術の≪智慧≫を具現化したものとして登場する。

ソフィアは、(中略)「楽園の」あるいは「神的な」人間、すなわち「自己」である。


転移の心理学
転移の心理学
著者:C.G. ユング
販売元:みすず書房
(2000-10)








また、前回記事で書いたグノーシス主義では、『旧約聖書』で「最初の人間」とされている
アダムとイブに、2人が“無知の闇”に閉じこめられていることを知らせるため、
智慧の女神ソフィアがヘビを遣わしたとされています。

『旧約聖書』において、知識の木の実を食べるようそそのかした悪魔の使いとされるヘビを、
グノーシス主義では礼拝の対象としていたのです。

(正統派キリスト教、異端派グノーシス主義における、“ヘビ”のこのアンビバレンスな捉え方も、
今日は触れませんが、非常に意味のあることです。
ちなみにユングは、自分の心の深層に導いてくれる存在として、緑のヘビを描いています。)


私たち人間は、自我が芽生えてこそ、他者の存在のみならず、自分の“存在”をも
認知できるようになります。
“無知の闇”(無意識)を抜け出してこそ、「人」となるわけです。
(赤ん坊が幼児に成長する過程を見ていると、それがよく分かります。)

闇を完全に光で満たすことはもちろん不可能ですが、そこに何があるのか、
少しずつ明かりを灯していくことこそ、「ソフィアをあつかう学」につながるのだと、
私には思われます。


「人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』『本来的自己』『光の粒子』」
である、グノーシス主義における女神ソフィアを、ユングが解釈したように、
私たちのこころの深くにある「自己」と考えると(この場合はあくまでも男性心理からの視点で、
ユングは、アニマとセルフを同一視している部分があることが研究者によって指摘されている)、
やはり、わたしたち人間一人ひとりが、
自身の“無意識の声”を聞いていくこと、“認識(グノーシス)”すること。
そして、“無知の知(闇)”の自覚を出発点に、“ソフィア(叡智)の救済”へ努めることは、
たとえそれが終わりのない道であっても、とても意味のあることなのです。

それは、以前のブログで書いた「ホントの自己実現」の生き方と同義です。



西洋のおとぎ話では、王子様が「閉じこめられたお姫様を救出する」お話がよく出てきますが、
そのようなテーマが古くから多くの人の心を揺さぶり、言い伝えられてきたことも、
深層心理学的に解釈すると、納得できそうですね。
それは、私たちの生の「本来の課題」を表しているわけですから・・・。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
筒井 賢治 グノーシス (講談社選書メチエ)』 講談社 (2004-10-09)
山中康裕監修 ユング心理学 (雑学3分間ビジュアル図解シリーズ)
 PHP研究所 (2007-02)
        

                  にほんブログ村 ライフスタイルブログ 生き方へ


グノーシス主義のソフィア


Goddess /

暦ではとうに秋ですが、まだまだ残暑が厳しいですね。
でも、朝晩はかなり過ごしやすくなってきたように思います。
秋は私が一番好きな季節。
今年も、秋を堪能できる自然に包まれに、どこかへ行ってみたいなと考えてます。


さて今日は、
5月のブログ記事の最後で触れた“ソフィア”について。

まず、ユング関連の著作の数々を読んでいますと、「グノーシス」という言葉を
目にすることが度々あります。

ユングは、中国思想のタオや易、占星術、タロットなど、様々な分野に興味を示し、
その心理学的意味について考察していますが、古代「グノーシス主義」についても
その内容に深層心理学的に有意味な関連を見出し、たいへんな感銘を受けたようです。
グノーシスの一派である「バシレイデース」の名で、本まで出版しているのですから、
その関心ぶりの高さがうかがえます。
また、「個性化の過程」を考案した際にも、グノーシス主義の思想に影響を受けた
ことが指摘されています。

さて、この「グノーシス」についてですが、講談社選書メチエから出版されている
『グノーシス 古代キリスト教の〈異端思想〉』にはこのように説明されています。

紀元二世紀後半、誕生して間もないキリスト教会では、総称的に「グノーシス」とか
「グノーシス主義」と呼ばれるさまざまな異端的流派が広がりを見せていた。

「グノーシス」とは、ただの単語として見るなら、「認識』や「知識」を意味する
古代ギリシア語の普遍名詞である。
ならば、キリスト教グノーシスとは、「知る」ということに特に重きをおくキリスト教
流派であったのだろうと想像することができるだろう。
事実、そう考えても間違いではない。
ただし、いったい何を「知る」というのか、この点で一定の方向性があった。
多くの場合、キリスト教グノーシスにおける「認識」の対象は、(中略)
人間もまた創造神の作品であるが、その中に、ごく一部だけ、至高神に由来する
要素(=「本来的自己」)が含まれているということ、救済とは、その本来的自己が
この世界から解き放たれて至高神のもとに戻ることなのだということ、
といった事柄である。

キリスト教の異端とされたグノーシス主義。
でもユングは、その思想の中に、人の心的過程に通ずるものを見出したわけです。

「グノーシス主義は何を信奉するのか。
それはこの世界の外、あるいはその上にあるいわば『上位世界』、
そしてそこに位置している『至高神』である。
そして人間の霊魂も、もともとはこの上位世界、別名『プレローマ』の出身であり、
現在はこの世界に幽閉されている形になっている。
(中略)
そこで、霊魂が身体を含むこの世界から解放され、故郷である上位世界に
戻ること、それがグノーシス主義者にとっての『救済』となる。」

「人間にとっては、自分自身のこのような本質に目覚めること、
それを『認識』することが、救われるための必須条件になる。」

一見するとあまりにも現実離れした話で、まさに遠い昔の“神話”であり、
あくまでも宗教的な事柄のようにも受け取れます。
しかしその内容を、人の(無意識の)心的成長のプロセスという切り口で捉えた
場合、それは私たちにとって、重要な意味を秘めていると理解できるのです。

そんな“グノーシス”。
深く多様な意味を含んでいるようです。
「グノーシス主義を筋道立てて総合的に解説するという課題は、きわめて複雑で
困難なものとなる。
むしろ、すべての側面を完全にフォローするのは、実際問題として不可能だと
いうべきであろう。」
“無意識世界”の説明にも同じことが言えるような気がします。

では、ここからは話を“ソフィア”に移してみたいと思います。
と言っても、まだグノーシスの話は終わりません。
なぜかというと、“ソフィア”とは、このグノーシス主義に登場する、
重要な役割を負う女神の名前だからです。

グノーシス主義では、プトレマイオスという人物による宇宙創成神話が有名ですが、
その内容について簡単に触れてみたいと思います。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

まず最初に、至高神(プロパトール)とエンノイアという女性神のペアから、
順次男女ペアの神が流出し、合計30の神々、アイオーンが成立し、
そして、その神々による「上位世界」、“プレーローマ”が完成される。

しかし、至高神を見知ることができるのは、至高神から直接流出した
“ヌース(叡智)”のみであって、他のアイオーン達には許されていない。

にも関わらず、最下位のアイオーンであった“ソフィア”が、大胆にも至高神を
直接に知ろうと企てるが、勿論そんな無謀は失敗に終わり、絶望したソフィアは
プレーローマから転落しそうになる。

しかし、ホロスという存在によって転落は食い止められ、過ちを悟ったソフィアは
自らの「情念」を切り離してプレーローマの外に捨て、自身は救われる。

その後、ヌースという高次のアイオーンから流出した「キリスト」が、
投げ捨てられたソフィアの「情念」を哀れに思い、それに形を与える。
これこそが、この世の創造神(デミウルゴス)と人間を含む「この世界」の起源と
なる。

*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

グノーシス主義では、「創造神デミウルゴス(=旧約聖書のヤハウェ)」の上に、
上位世界と至高神がいるとされているわけです。

「プトレマイオスの理論によれば、創造神とこの世界はソフィアの向こう見ずな
好奇心から―文字どおり―『生まれ落ちた』産物なのである。」


そしてここからが肝心です。

「ソフィアの『情念』はあくまでソフィアというプレーローマ構成員から出たもので
あり、そのため、わずかとはいえ、プレーローマの要素が混入していたのである。
これが、今でも人間の肉体に閉じこめられて解放をまっている『霊魂』
『本来的自己』『光の粒子』にほかならないということになる。
その後、プレーローマからキリストが派遣されて覚醒ないし自己認識(グノーシス)
を呼びかけ、それに応えた霊魂たちがプレーローマに次々に帰還する。」



今日は、グノーシス一色で、どっぷりと“非現実的”な感じになってしまいましたが、
“ソフィア”について、そして「自己」やこころについて、次回以降、続きを書いて
いきたいと思います。
そして、グノーシス主義を始めとする様々な思想と無意識について、
“非現実”と“現実”について、結び付けていければな、と考えています。


―締めくくりに少し。
「哲学」の語源は、 philosophia(愛知) であり、その意味は、
「ソフィアを愛し求めること」というものです。
「哲学」という言葉の意味とグノーシス思想との繋がりが感じられますし、
人が“哲学する”ということが何を意味するのか。
その深さも表している気がします。


(今日の引用文は全てこちらの文献から)
グノーシス (講談社選書メチエ)
グノーシス (講談社選書メチエ)
クチコミを見る

                                          にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 癒し・ヒーリングへ

こころの土づくり

77 075
(植え替えの時にこぼれ落ちた花。玄関を彩ってくれました。)

春から少しずつ進めていた、
庭の植木鉢と花壇の花の植え替えがひと段落しました。

ガーデニングには以前から興味を持っていたものの、
今までなかなか“植物育て”にまでは手が回っていませんでしたし、
気分的にもそんなゆとりを持てずにいました。

「それより他にやるべきこと」が常にありました。
“庭いじりなんて”あくまでも余暇にすべきことだと、実質的なことだけではなく、
私自身が手放せていないもの、作り上げてしまっていたことによっても、
やるべきリストの優先順位の後ろに追いやってしまっていました。

今も気が向いたときに、思いたったように始める程度で、まだまだ知識も技術も
浅い初心者なのですが、でも、大分“手放せる”ようになったのか、
「土に触れたいな」と感じたときには、その気持ちを諸々の理由づけで抑える
のではなく、何だか自然に、帽子を被り軍手をはめて庭に出ている私がいます。


さて、そんなゆるーいガーデンニングなので、
いざやろうと思うと実際には、毎度、準備不足を痛感させられます。
生きている草花を相手に、こちらの都合だけで完璧に事を進められるわけもなく、
この春は、適切な時期に土づくりをしていなかったことを悔やむ羽目になりました。

今年は、“とりあえず”で何とか凌ぐことにしましたが、
来年は前もってきちんと準備しようと、土づくり専門のガイド本を購入しました。

よくわかる土・肥料・鉢 (別冊NHK趣味の園芸)
よくわかる土・肥料・鉢 (別冊NHK趣味の園芸)
クチコミを見る


さて、届いた本の表紙をあけてみると、
サブタイトルとして次の言葉が書かれてありました。

「植物が生き生きと育つための鍵、
それは、土・肥料・鉢をよく知ることにあります。」

また本文には、次の文章が続いていました。

「水を与えていても、肥料を施していても、それでも枯れたり、
花が咲かなかったり、思うように育たないことを、
やはり多くの方が経験していることと思います。

その原因はいろいろとありますが、(中略)
土・肥料・鉢に根本的な問題がある場合が多々あります。

また、土・肥料・鉢に関する知識の不足から、
管理・作業が適切さに欠けたことが原因となる場合も多いものです。

わたしたちが、とかく植物の見える部分ばかりに目がいき、
ふだん見えない土の中がどうなっているのか
意外に気にかけないことが多いせいでもあるでしょう。



まるで、私たち人間の「こころ」に、そのまま当てはめられるような気がして、
つぎのページをめくる手が止まってしまいました。

美しい花を咲かせたいと思い、土の外から色々とやってみても、
思うように育たないことが多い植物。
それは、「ふだん見えない土の中がどうなっているか」
気にかけていないことが原因かもしれない。

深層心理学的には、あまりにも象徴的な表現だと感じずにはいられませんでした。


以前の記事でもご紹介しましたが、夢やイメージに出てくる“地下”は、
“無意識世界”を表すものとしてしばしば登場します。

無意識の象徴として“水”が現われるのと同じくらい、“地下”もよく出てきます。
これは、多くの人に共通するイメージであることがユングによって指摘されて
いますし、私の夢にも色んな形で地下が出てきていて、その分析の流れからも、
ユングの説の妥当性は確信できます。



現実の庭でキレイで丈夫な花を咲かせるためには、
「土・肥料・鉢をよく知る」必要があります。

「水を与えていても、肥料を施していても、それでも枯れたり、
花が咲かなかったり、」するのは、
「土・肥料・鉢に根本的な問題がある場合が多々」あるからです。

人のこころの、見える世界(意識)と見えない世界(無意識)の関係にも、
これと同じことが言えるのではないでしょうか。

意識の私で、
「こうなりたい(育ちたい、咲きたい)」といくら望んでいても、
土の中(無意識)の状態を全く度外視しているようでは、
思うようにならなくてある意味当然なのかもしれません。


ユング心理学では、意識の基盤には無意識があるとされています。

見える草花の下には見えない土の世界が常に存在しているように、
私たちの知っている意識世界の下には、無意識の世界が広がっているのです。


植物が思うように育ってくれない原因が、
「とかく植物の見える部分ばかりに目がいき、ふだん見えない土の中が
どうなっているのか意外に気にかけないことが多いせいで」
あるように、
意識の“知っている私”だけでどれだけ色々とやってみようと、
「どうしても思うようにならない、変われない、良い状態にならない」
自分の状態があるとき、その原因は、無意識が握っている可能性が十分に
考えられるのではないでしょうか。


さて、庭仕事に話を戻しますと、ガーデニング初心者ながら、植物を健康に育て、
キレイな花を長く咲かせるためには、適切な時期にきちんと、地道な土づくりに
エネルギーを注がなければならないことが分かってきました。

土を掘り起こしてみると、日頃ほとんど目にすることのない虫たちにも出会います。
それらは大抵、ミミズや芋虫などの地味で気持ちの悪い生きもので(少なくとも
私にとっては・・・)、以前は何も考えず、脇に除けてしまっていたこともありました。

でも、土の状態を気にし始めたときからは、ミミズは良い土づくりには欠かせない
有り難い存在だし、様々な芋虫たちだって、いつかは外に出て自由に動き回れる
ようになるための大切な準備期間として、こうして暗い土の中で今は地味に
目立たずに生きているんだと思えるようになり、彼らをむやみに排除することは
なくなりました。
(でも、まだ触れませんが・・・)

そして、良い土づくりの適切な時期は「冬」だということも知りました。
寒い時期にしっかりと地味な作業にエネルギーを注いでおくことで、
春を迎えたとき、美しい花を長くたくさん咲かせることができるわけです。

一生懸命、良い土づくりをしても、冬に咲かせられる花の種類は限られています。
自然のサイクルを、人間が支配しコントロールすることなんてできませんから、
多くの花を愛でるには、春が来るのを待つしかありません。


こころの世界でも、いくら内面に目を向けたからといって、なかなか目に見える
変化は得られないかもしれない。
寒さに耐えながら、じっくりと土づくりをする時期は必要なのかもしれません。
でも明らかに、その見えない部分では培養が始まっているのですから、
外的に芽吹く時が来れば、自ずとその芽は見えてくるのではないでしょうか。

そう考えると、私たちを取り巻く自然とこころとは、やはりどこか繋がっている
気がしますね。


今日は「土」に焦点を当てて書きましたが、
本には「肥料・鉢」もよく知らなければならないと書かれていました。

このあたりも、“外的なこと”に置き換えて考えてみると、
なかなか示唆的な気もします。
 

           にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ

一番生きている「私」


焼き鳥で乾杯!(実際の写真でありません)


1カ月ほど前、十何年ぶりに昔の仲間と再会しました。
その仲間とは、私がまだ若かった時分に勤めていた職場の同僚で、
当時はよく飲みに行ったり(ホント、よく行った・・・)遊んだりして、
今考えると本当に楽しい時間を一緒に過ごした、気の置けない友人たちです。

みんなでワイワイやっていた数年後には、それぞれが自分たちの道を進むことに
なりましたが、職場で会うことがなくなっても、お互いの結婚式に出席したり(もちろん私の式にも参列してくれました)と、何かの節目には顔を合わせていました。

しかし、それもだんだんとなくなり、一部の友人を除いては、
ここ何年かは年賀状のやりとりだけになっていたのですが、
急遽、「飲みに行こう!」という話が持ち上がり、
トントントンと事が進んで、この度の再会となったのでした。


久しぶりのご対面。
「みんな、どんな感じになっているのかな」と、会う前は内心、少しそわそわしていましたが、実際に顔を合わせてみると、長い時が瞬く間に遡りました。

「相変わらず!」
「みんな変わってない!」
その一言に尽きました。

そして気づくと、昔の感覚のままで、飲んで食べておしゃべりして、
楽しんでいる私がそこに居て、多分それは、みんなも同じだったと思います。

また、色々と話し込んでいくうちに、お互い、それぞれに大きな出来事を経験し、
この会わなかった長い時を、決して順風満帆に過ごしてきたわけでは
ないこともよく分かりました。


そのような濃密な数時間を過ごし、みんなと別れて家路につく私の胸には、
色んな思いが交錯していました。

何より強かったのは、「人って、何年たっても変わらないものだなー」
という実感でした。
話すテンポやその口調、相手への気遣い方、優しさやユーモア。話し役と聞き役。
そんないわゆる“外側の人格”は、みんな昔とちっとも変わってないような気がしました。

そして、河合隼雄先生が、
「人が変わるということ、人格が変化するということは、並大抵のことではない」
というようなことを、何かの著書で書かれていたことを思い出し、
「この世で一番生きている主人格の“私”」について、頭の中でぐるぐると渦巻くものがありました。

友人たちも、いわゆる外側から受ける印象は、昔と全く変わっていませんでしたが、長い年月の間には、様々な経験をし、置かれている立場も変わり、確実にそこに“変化”はあったわけです。
でも、それぞれのキャラクターはやっぱり、変わっていない感じがした・・・。

その各々の“私”(自我)は、確かに、簡単に変わってしまうような軟弱なものであってはならないし、だからこそ、その“私”が変化していくという意味とその困難さについて、自分のことも省みながら、改めて考えさせられました。

また、私が感じ取れなかっただけで、内面的には大きく変わっていた友人も実際にはいたのかもしれません。
自我という主人格の自分が変わるということも含めて、その見える人格と見えない内面(こころ)を持つ「人」の深遠さというものを、久しぶりに会った友人たちを通して、実感を伴った何かとして、突き付けられたような気さえしました。


この現実世界で“一番生きている”主人格の「私」。
この「私」に決定的な変化をもたらすことは、やはりとんでもなくスゴイことなのかもしれません。
けれど、夢に出てくる色々な私たちも、無意識内には確実に存在しているわけですから、その様々な自分を、「私」として出来得る限り生かすこと。
た易いことではありませんが、それに取り組むことは人生に大きな意味づけを与えるものであり、その意味を実感できるようになると、外的な苦難に負けない強さを確実に「私」にもたらしてくれるようになります。


何年ものあいだ、年賀状では「今年こそ会おうね!」とお互い記しつつ、正直なところ、それが社交辞令の挨拶と変わってしまっていたにも関わらず、今年、スイッチが入ったかのようにあっという間に実現化したこと。
この度の再会は、多分、私の色々な“場所”において意味あることだったように思われます。

それにしても、今の私はみんなにどんなふうに映って見えたのでしょう。
私も何も変わってないように見えたのかもしれません・・・(笑)


○●○●○●○●○
分析を受け始めてこの数年の間、今日の記事の再会のほかに、もっと時間を遡る中学生時代の同級生たちとの再会もありました。そして、それに付随する新たな出来事も起こりました。
内的世界で色々と動き始めると、外的にも確実に動きが現われます。
ユング心理学で、布置であり共時性といわれるものを感じずにはいられません。


                             にほんブログ村 ライフスタイルブログへ


Archives
記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

メッセージ

名前
メール
本文
My library
お勧め本と映画の紹介です

ブクログ
livedoor プロフィール
Ranking
ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ