心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

「よいことをするには時間がかかります」

(※ロジャーズ一番の代表作とのこと。未読だったので、今日をきっかけに読み始めたいと思っています。ちなみに今日の記事の講師の先生が翻訳されています。)


新年が明けて早一ヶ月。
昨年は結局、たった4度しか記事を書けません(書きません)でしたが、今年はもう少し、しっかりと整理していきたいと思っています。(あくまでも抱負です・・・)

さて、前回書いた老子や夏目漱石、無為、個性化については、まだまだ整理したいことがあるのですが、今日は全く違う内容にします。


昨年、ロジャーズ派の(某大学教授の)先生の講義を受ける機会がありました。

カール・ロジャーズ(Carl R.Rogers)といえば、今日のカウンセリングの3つの主要理論、精神分析療法(精神分析理論)、行動療法(学習理論)と並ぶ、「来談者中心理論(client-centered therapy)」の創始者として有名ですが、1940年当時のアメリカで、それまで主流であった指示的アプローチを批判し、非指示的方法を提唱したその背景には、「人は自分自身を発展・成長させる力を内在している」といった、技法よりも“人間中心”の人間観があり、また、カウンセラーとクライエントという2人の人の“心理的接触が人格変化の生起に必要な条件”とされている点、「潜在的な自己(potential self)を体験する」などの自己理論における体験を重視したその概念は、ユングの考え方に(かなり!と私は思います)通ずる点も感じられ、改めて、その共感できる興味深い理論に、受講中ワクワクしながら耳を傾け、ペンを走らせていました。

ロジャーズによる自己概念と生命体的体験の一致・不一致による人格の適応理論
「心理的適応とは、自己概念が、ある水準以上の象徴化において、生命体の知覚的・直感的な体験(sensory and visceral experience)の全体を自己概念と一致した関係の中に取り入れているか、あるいは取り入れることができるときに存在する。」(Rogers,1951)

やはり私たちの心の安定には、「適切な意識化」、「無意識と意識の適切な関係」が重要なのだと、つくづく考えさせられました。



たった1日の講義ではありましたが、ご存命のロジャーズの直弟子の談話についてなど、紙面ではなかなか伝わってこない、講義ならではの貴重な情報も得られて、もう、あれもこれもとこの場で取り上げたいことは沢山あるのですが、その中でもあえて今日は、カウンセリングに関するあるデータに的を絞って書いていきたいと思います。

下記は、そのデータです。

・カウンセリングに申し込んだだけで、セッションを一度も受けずに症状が消える人・・・14%
・セッションを2回目まで受ける人・・・3割超え
・ドロップアウト(カウンセリング中断)・・・46%(それ以外は長期継続となる傾向)
・一応の問題解決が出来たとクライエント本人が感じる・・・セッション60回前後(個人差あり)
                                  

上記データ分析が具体的にどのような統計を基にしているのかは、「ロジャーズ派のみならず、他のセラピー法でも大体共通しているデータ」としか聞かなかったので、私も詳細については分かりません。
しかし、流派を超えた“カウンセリング”におけるデータとして、このような数字が出ているのだということには、強い関心を持ちました。

まず、「申し込んだだけで」症状が消える人が1割もいることに、色々と考えさせられるところがありますし(本人がそう思っただけなのか、本当に問題症状が無くなったのか、その辺も詳しくは分かりませんし)、次のステップの2回目を受ける人が3割ほどというのも、ある意味、「なるほどな」と思いました。
(一度は受けたけれどそれっきり、の方のほうが多いという事ですね)

そして、数回受けたけれどドロップアウトする人は約半数。
このドロップアウトには、その後、またカウンセリングを再開する人は含まれていないのか、などについては不明ですし、厳密なことは確言できませんが、でも多分この半数とは上記の「3割」に係るものだと考えられるので、こうしてみると、「カウンセリングを続ける」ということだけでも、なかなか高いハードルなのだと、このデータは物語っているような気がしました。

なおかつ、「一応の問題解決が得られた」とクライエントさんご本人が感じるのは、「“セッションを60回前後”続けた時点において最も多い」というのですから、「カウンセリング」というものがいかに“お手軽”ではないか。
その事実だけは“分かりやすく”、数字が説明してくれているなと思いました。


多くの場合、「カウンセリングを受けよう」と実際にカウンセラーのところへ来られる方は、かなり切羽詰まった問題や辛い思いなどの早急な改善を求めておられると思います。

「今すぐに解決したい」
そう強く望まれているからこそ、手間やお金を使ってまでカウンセリングを受けてみようと思われるわけで、日常の中で多少感じているような問題であれば、あえて“そんなこと”をしなくても、何とかやり過ごしていけるはずですし、実際大抵みなさんそうしておられるのではないでしょうか。

「カウンセリングに行けばどうにかなるかもしれない」
そんな気持ちを抱えて相談に来られる方が多いにもかかわらず、でも残念ながら、“実際”はそう簡単ではないことを、先の「カウンセリングに関する統計データ」は明らかに示しています。
セッション60回となるとかなりの長期戦ですが、その時点においてやっと、「問題解決」に至ったと感じる方が一番多いわけですから、多くの方がカウンセリングに求めている(であろう)“早期解決”とのギャップは著しいものがあります。
これでは、「なんだ、こんなものなのか」と、多くの方が継続しなくなるのはある意味当然だとも思えますし、「カウンセリングなんてやっても意味ないよ」という意見が出てしまうのも致し方ないのでしょう。
でも私には、それはカウンセリングというものの「本当のスタート地点」にすら立ったことのない人の感想であるような気がするのです。
(ちなみに私が分析を受けている佳代先生に、「本当のスタートは(セッション)20回目ぐらいから」と、教えていただいたことがあります。)


河合隼雄先生も、「カウンセリングに対する批判」として、この「時間がかかりすぎる」点について解説されています。

カウンセリングに対する批判として、まず言われることは、「時間がかかりすぎる」ということです。
そんなのんきなことをしてはいられない。(略)すぐによくしたいのだ。
それに一週間に一時間会って・・・などとゆっくりしたことはしておられない。
(略)待ちきれない。もっと早く解決する方法はないかという批判です。

時間がかかりすぎるという批判に対して、もし正面から答えるとするならば、「よいことをするには時間がかかります」と言わねばなりません。よいことをするのに時間がかかったり、お金がかかったりするのは当たり前のことなのです。

われわれの第一のねらいとしている、クライエントの可能性に注目してゆこうとする仕事は、どうしても時間を必要とするのです。たしかに、時間がかかることは残念ですけれど、これはまったく仕方のないことなのです。
カウンセリングの実際問題
 
河合 隼雄
誠信書房
1970-08-10





なぜ、カウンセリングとは時間がかかるものなのか、「これはまったく仕方のないこと」なのか。
その点については、“こころ”についての深い意味合いが絡んでいますので、今日はとてもそこまでは触れられませんが、抱えている問題に取り組む際、“根っこからのホンモノ”の解決に至るためには、時間がかかるのはやはり「仕方がない」のです。

もちろん、「取りあえずの解決」という道もありますが、それでは、またいつか同じような問題に悩まされることになるとも限りません。

そのときは一見成功したように見えても、結局は発展させるべき可能性に目をつむることによって得た一時の安定にすぎないときもあるわけです。                    (河合隼雄)

“一時の安定”という早急な解決は往々にして、根本的には何も変わっていない、また同じような問題をくり返すことにもなりかねないのです。


「よいことをするには時間がかかる」カウンセリング。
進むスピードも様々ですし、時には休憩もOKなのだと、私は思います。
ゆっくりでも休みつつでも良い。
一度ドロップアウトして、環境や体調を整えて、また始めるのでも良い。
(カウンセリングを始めることによって、“状態が悪くなる”場合も十分あり得ます。しかしそれは、乗り越えなければならない道であることが多いのです。その点についても、またいつかこの場で書いてみたいと思っています。)
歩みを止めない限り、自らの秘められた可能性への扉は、ずっと開かれているはずです。

そしてゴールは、60回というデータが示すような、遠いものかもしれません。
でも、フィニッシュテープを切った者にしか分からないカウンセリングの醍醐味。
味わって後悔することはないと、個人的には強く、そう感じています。
そしてその味わいは、確実に新しい私の血肉となるものです。


※今日ご紹介したデータについては、根拠の出典はなにも明示できません。
あくまでも、私が講義のなかで聞いて書きとめたものを取り上げただけなので、その旨ご了解いただいて参考にしてくださればと思います。
(と言いつつ、個人的体験としては、私は“納得”しています)


無為を為す(夏目漱石の老子論)


Clouds./theaucitron
 

渦中では長く、過ぎれば短い、
ツインズの夏休みが終わって、あっという間に9月も半ば。

子供たちと、いつもより密着して過ごす40日の間、楽しくもありイライラもあり(笑)、そして、ココの記事の更新も頭の片隅では気になりつつ、でも結局は手つかずのまま、諸々の事柄の中で常にジレンマを感じながら過ごしたドタバタの暑い暑い夏でした。

そんなわけで、久しぶりにこうして腰を落ち着けてみると、「今年は季節にひとつの記事しか書いていないじゃないか」と、(書きたいのに書いていない)自分を鼻で笑ってやりたい気にもなりますが、久しぶりに思索とイメージに集中してみようと思います・・・。


前回記事で書いた、
「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること、自ら方向付けをしない、自然の流れに委ねる」

どれも(ココでは)同じ意味に捉えていただいていいわけですが、これらはすべて、過去の記事にも書きました“無為”と同義。
老子や荘子が説いた「無為自然」の生き方を表しています。

過去記事の「無為に過ごす」では、この無為が道教(タオ)、そしてユング心理学での「個性化」と深い関わりがあることを取り上げましたが、実は、哲学や禅の世界(もちろん「昔話やおとぎ話」、そして、ユングが自身の心理学の概念に相通ずるとして研究をした「錬金術」も然り)でも、切り口の違いや表現の差こそあれ、「根本の意味は同じ」であると捉えられる共通点を、それらの中に見出すことができるのです。


老子は、「人としての究極の生き方は“無為自然”な道のあり方である」と、説きました。

道家思想の祖と称される老子の教えは「道(タオ)」を説くところにありますが、この道(タオ)とは、「天地万物を生み出す造物主的な根拠、あるいは宇宙に一定の秩序をもたらす原理的な存在のこと」であり、この道の自然な展開に従う「無為を為す」ことによって、大成を期待できるとしています。

人は、「自分(→犲我″と読むと理解しやすくなります)の思いや考え」にそって多くを為すがばかりにかえって破滅し、功利を焦って失敗するのだから、無為であることこそ良い生き方である。
自らの行ないを無為自然に保つ“無為を為す”ことによってこそ、自然の霊妙たるはたらき、摂理による、あるがままの生き方を実現できるようになる。
と、説いたのです。


老子の思想は、一般的な処世法、政治の術のあり方、実践的な教訓として解されている向きもあるようですが、上記の老子の教えは、そのような“外的な実践術”ではなく、もっと深い、人のこころや魂の部分を基盤とする哲学的なものを指しているようです。

それは、前回記事の昔話の中の「怠けものが成功する」ことに通ずる、深い意味の共通点です。


(私の大好きな)日本を代表する文学者である夏目漱石が、『老子の哲学』という評論を発表しています。
そこでは、孟子を引き合いに出して、老子の教えと孟子のそれとは一見同じようでありながら、しかし根本的には違うものであると論じています。
漱石のこの論文を読むと、老子の思想の深い意味が結局のところ、自己実現、個性化の概念と共通することが理解(というか、その論への共感と解釈が)できますので、引用したいと思います。

この二子、時代に多少の差はあれども等しく争乱澆季(そうらんぎょうき)の世に生れ、民俗の日々功名利欲の末途に趨くを嘆じ、道の源頭より一隻眼を開いて人心の砥柱たるべき根本を教えんと企てたればこそその言もかく符合するなれ。
去れども孟子の本は老子の本にあらず。
老子の還また孟子の還と趣を異にす。
〔略〕
(孟子について↓)
その心には仁義より大なる道なく仁義より深き理なしと思ひ込みしなり。
なるほどこれは当り障りのなき議論にて、これを実行せば治国の上に利益あるは無論の事、まして周末汚濁の世には如何ばかり要用を有せしや知るべからず。
〔略〕
(老子について↓)
常識に適ふたる仁義の説だにかくの如くなるに、仁義以外に一歩を撇開(へいかい)して当時に迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。
これを誰かといふに周国苦県匐燭凌諭∪を李といひ名を耳と呼ぶ生れながらにして晧首の異人なり。
〔略〕
今に伝る所『老子道徳経』即ちこれなり。

さて老子の主義は如何に、儒教より一層高遠にして一層迂闊なりとは如何なる故ぞといふに、老子は相対を脱却して絶対の見識を立てたればなり。
捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道を以てその哲学の基としたればなり。
                                              (『第一篇 総論』)

漱石文芸論集 (岩波文庫)




漱石は、老子と孟子の、当時の世に対する嘆きや「言もかく符合」はするけれども、その教えは「趣を異にす」と述べています。
そして、孟子の教えについて、「深き理なし」「当り障りのなき議論」と評する一方、老子については、「迂遠なる儒教より一層迂遠の議論を唱道せんとせる者あり。」とその違いを指摘しています。
またそれは、「相対を脱却して絶対の見識を立てた」ものであり、「捕ふべからず見るべからざる恍惚幽玄なる道」という、明らかに“この世の”尺度では測り切れない「高遠にして」「迂闊」なものであると言っています。

私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、漱石の言うとおり、孟子の教えがあくまでも外的な事柄や生き方に即したものであるのなら、確かに老子の説かんとする内容とは、根底からその意味するところが違ってくると思います。

老子の教えが、人のこころや精神、魂についてなど、いわゆる以前の記事でも少し触れた philosophia (哲学)であること、ひいてはユング心理学の個性化に通ずるものであること。
夏目漱石が評した老子の哲学の意味について、私にはそのように理解ができるのです。


実は漱石は、同書で老子についての批判もしています。
それは、「個性化」がいかに険しい道のりであるか、パラドックスを生きねばならぬか、そしてそれを表現する難しさという、やはりユング思想との類似を思わせる内容なのですが、それはまたいつか別に、そのテーマで書きたいと思っています。


さて、ここで話を、夏目漱石自身に向けたいと思います。
漱石には『夢十夜』のような幻視作品があるのをご存じでしょうか。
そして、次のような興味深い感想も残しているそうです。

「霊ノ活動スル時、ワレ我ヲ知ル能ハズ。之ヲ secret ト云フ。此 secret ヲ捕ヘテ人ニ示スコトハ十年ニ一度ノ機会アリトモ百年ニ一度ノ機会アリトモ云ヒ難シ。之ヲ捕ヘ得ル人ハ万人ニ一人ナリ。文学者ノアルモノノ書キタル、アルモノノ価値アルハ之ガ為ナリ」(断片)。

どこで読んだか見たかは忘れてしまったので、出典は明示できないのすが、漱石は自身が「自動筆記」によって作品を書いたこともあると語っていたようです。

漱石自身が、「secret ヲ捕ヘ得ル」、「万人ニ一人」の人物だったからこそ、今日でも多くの人の胸を打つようなあれだけの作品を創造し(全くの個人的な想いなのですが、私の中の日本文学の最高傑作は漱石の『こころ』なのです。もう数十年前ですが、あの作品を初めて読んだ時のディープインパクトを超える作品に未だ出会ったことはありません。)、老子の無為についても、漱石自身の体験を通した深い視点を持ち得ていたのかもしれません。

(漱石の創造に至る苦しみが、それを更に、信憑性のあるものとして裏づけているような気もします)
『他人本位ではなく自己本位』


今日は、老子の「無為自然」を書く流れの中で、自然と夏目漱石の論評に手が伸びたため、それだけで、自分でも予想していなかったボリュームになってしまいました。
老子の道(タオ)についてなど、今日書ききれなかったことを、次回に引き続きたいなと考えています。

そして、「個性化」の“各分野”に表現されている共通点については、追々、取り上げていくつもりです。


【参考文献】   
竹内 昭 『哲学案内 梓出版社 (2004-04)
C.G.ユング 『創造する無意識―ユングの文芸論』 平凡社  (1996-03)


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自然な流れに委ねる

アリとキリギリス~ドレの寓話集~
アリとキリギリス~ドレの寓話集~ [単行本]

前回のブログ記事を書いたのが2月なので、もうすっかり季節も変わってしまいました。

この3カ月の間で、「書きたい」と思っていたテーマも私の中でドンドン変転していまい、その流れで、自然と今日の記事になりました。
昔の私なら、その都度頭に浮かんだ「書きたいテーマ」を逐一記録し、それらを一つずつ整理していくという、マメというか、バカげているとさえ思える面倒なことをやっていたんだろうな(笑)、などと、ふと考えつつ、でも今日は「今、自然に思い浮かぶこと」をそのまま綴っていこうと思ったのです。

別に今日の記事に限らず、それこそ“自然”に任せていいものは、以前よりずっと任せられる。
「こうしなければ」という枠組みから、色んな事を手放せるようになってきました。

そして、そんな状態をそのまま「良し」と思えるようになって結局どうなったかというと、私自身がとっても楽になったのです。


「こうしなければならない」
「こうであらねばならない」

以前は、今現在の「〜ならない」だけではなく、まだ実際にはどうなるか分からない未来のあれやこれやも心配して、「〜ならない」に、今よりもずっと多くのことが縛られていたように思います。

でも、実は“縛られていた”のではなく、私自身が「そうだ」と思い込んで“縛っていた”ことが沢山あったのだと、今はつくづくそう感じるのです。


もちろん、縛ること→「規制や管理」は大切です。

自我(意識)の合理的な働きをしっかりと保ちながら、確実に堅実に計画的に、事に当たらなければならない場面は、現実社会を生きている中でいくらでも出てきます。
実際の利益や他者との信頼関係、自分の(外的な)能力や評価にも結びついてくることですから、「〜ならない」を軸に事を進めていくことは、ある意味当然の成り行きなのかもしれません。
時間も仕事も勉強も、もうなんでもかんでも、どれだけ確実に計画的に効率よく事を進められるかが重視されるのも、ITの普及と発展の上に成り立っていて、昔よりずっと「管理」が幅を利かせている今の社会では、致し方ないのかもしれません。


余談ですが、先日あるTV番組で、受験勉強も部活も頑張る、多忙な高校3年生の勉強時間をいかに確保するかという内容を放送していました。

いわゆるタイムテーブルの再構築に取り組むわけですが、印象に残ったのは、日々の洗髪後の「ドライヤーの10分も、単語カードで勉強をして時間を無駄にしない!」と、紹介している場面でした。

その他、あらゆる“一日の隙間時間”をかき集めて、こうすれば「1日で何分、10日で何時間、1カ月で何十時間活用できる!」と提案していて、それを観て単純に「なるほどね〜」と感心した半面、「高校生って大変だな。この提案どおりに実践するとなると、じゃあ、一日のなかで”ホッ”とか、”ボーッ”ってする時間は皆無ってこと?・・・」と思うと、どこかうすら寒い“ゾクッ”とするような感覚が湧き上がってくるのを抑えられませんでした。

生身の人間が、そんなロボットのように「隙間なくきっちり」出来るものなのかと・・・。
確かに本当に実行できれば、部活で大活躍しながら目指す難関大学にも入れて、自他共に賞賛され栄光を勝ち取るかもしれないけれど、それを勝ち取るために代償として何を犠牲にするのだろう、影の存在は・・・と、多分そっちを咄嗟に想像してしまったみたいです。
“ゾクッ”と感じたのは・・・。


話が脱線してしまいましたが、受験生はもちろんのこと、どんな場面でも、「人一倍能力を磨き実力をつける」ためには、原則「人一倍努力する」ことが不可欠となってきますから、限られた時間のなかで、どれだけ多くの事を為していけるかがポイントになるわけで、“自然に任せて”なんて悠長なことは言ってられません。

セルフマネジメント、タイムマネジメント、リスクマネジメント、ライフマネジメント・・・。

昔より、ずっとずっと色んなことが「管理社会」になっている世界のなかで、今では「マネジメント能力」の高さが様々な場面で求められ、評価の対象にもなっているような気がします。

確かに、きっちり管理してきっちり計画的に無駄なく物事を進められれば、自ずと見えやすくて分かりやすい結果はついてくるでしょうから、満足や安心も手に入れられるようになると思います。

未来への不安を払しょくするため、未来の幸せを手にするために、「現在を管理」する。
それは決して間違ったことではないと思います。


しかし一方、未来の満足を手に入れるために、じゃあ、「今はどうなのか」ということ。
未来のために、「今」をおざなりにしてはいないか。

前記の高校生にしても、自身が明確な目標とやりがいを持ったうえで、勉強や部活を頑張るのであればまだしも、ただ何となく、「高い地位やお金など、安心の未来を手にするため←良い仕事に就くため←良い大学に入るため←“今はとりあえずイヤでも受験勉強を頑張る”」だったとしたら。

「本当は今、自分はこれがやりたいんだけど」、その「今、やりたいこと」を手放してまで、未来のためや周りのために“イヤな今”を生きてはいないか。

どうしても、「“今の”自分はどうなのか」は後回しにされて、「どうなるか分からない未来のために、今を生きてしまう」ことに、私たちはなりがちなのかもしれません。


もしかしたら、「今」、あれもこれも我慢して、自分に(だけではなく、もしかしたら大事な家族にも)ムチ打つようなことをして、本当は辛いし逃げ出したいし苦しいのに、それでも「未来の安心を手に入れるために」頑張り続けているのではないか。
どうなるか分からない未来のために、「今、できることを手放していないか」、「しなくても済むことをしているのではないか」。

自然に任せてしまっていいことですら、“管理”に縛られているのではないか。
今の自分が、本当に“自分にとって”どうなのか。


童話の『ウサギとカメ』や『アリとキリギリス』のお話を思い浮かべると、ほとんどの人は、「カメやアリ」の生き方を模範として実行しているでしょうし、逆にウサギやキリギリスのような生き方をして、実際、後になって窮地に立たされるということも十分起り得るわけですから、と言うよりそう想定するのが普通ですから、「未来のために、今、頑張るのは当然」となるのでしょう。

しかし、同じ昔話のなかには、「ウサギやキリギリス」のような“怠け者”が成功するお話も、実はたくさんあるようです。

昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫)
昔話の深層 ユング心理学とグリム童話 (講談社プラスアルファ文庫) [文庫]

河合隼雄先生が、怠け者の成功話が世界の昔話に散見されることの意味について、深層心理の観点からアプローチして昔話に秘められている「怠け」の多義性について論じておられます。

どうも、「カメやアリ」の生き方が必ずしも「善」とは限らないこと、隠された真理を、昔話は密かに我々に語り継いでくれているようです。

常識の世界に忙しく働いている人は、天の声を聞くことができない。

怠け者の耳は天啓に対して開かれている。

このように言うと、私の心には現代の多くの「仕事にむかって逃避」している人たちのことが思い浮かんでくる。
これらの人は仕事を熱心にし、忙しくするという口実のもとに、自分の内面の声を聞くことを拒否しているのである。

私たちが生きる上で何を「成功」とするのか、という点についてまでは今日は触れませんが、でも、「自分の内面の声」を聞くためには、「怠け」は欠かせないもののようです。


そして、「内面の声」を聞くためには、「怠けること」への徹底的な覚悟が必要であり、「ただの怠け者」ではやはり、「失敗」に終わってしまう危険が大きいようです。

無精のため命を棄てるほどの者のみが王位継承に値したのであろう。

また昔話のなかの怠けの意味の追求は、相当な怠け者礼賛に到ったが、私は何も怠けの否定的な面を忘れているわけではない。
危険に立ちむかって成功するもの、逃げて成功するものなど、必ず相反する場合を探しだすことができる。この点について、フォン・フランツは「おとぎ話のなかから唯一の方策をひきだすことは絶対にできない」と確言している。
怠け者の場合も同様で、怠け者が失敗し、転落する話もすぐに見出すことができる。


「計画しないこと、頑張らないこと、怠けること。」

一見すると低評価なこんな生き方が、もしかしたら大きな可能性を隠し持っているとしたら。
実は、実現すべき本当の生き方なのかもしれない「縛らず、管理せず、自然の流れに沿って生きる」ということに秘められるとても深い意味。

そんな生き方を、この管理社会の現代において実行することは、た易いことではないかもしれない。
だけどもし、それを目指すことができれば、私たちは自分の生に意味を感じることができるようになり、それが心の癒しや究極的な救いにも結びついてくるのかもしれない。


耐えたり努力したりするエネルギーを、管理のためではなく、管理を手放すことに向けることができれば、それまでとは全く違った道が開けてくることになるのかもしれません。

そこでは、「頑張るしんどさ」とは別の重圧を抱えなければなりませんから、決して完全に楽になるわけではないでしょうが、でも、偽りの?忍耐や努力からは解放されるはずで、それが「本当の安らぎ」を手に入れられることに繋がってくるのだと、私は思うのです。


今日の記事は後半、駆け足で書いてしまいました。

“計画的に(笑)”続きは次回。
もう少し詳しく考えてみたいと思っています。


□■□■□■□■□

Wikipediaで『アリとキリギリス』を参照したところ、いわゆる一般的に知られている内容とは違う解釈もあるのだという、面白い発見をしました。

まず、「二つ目の寓意」(目次の「教訓」)
せこせことためこんでいる“自分”は勿論のこと、餓死寸前の困窮者も“自分”だとすると、独善者のアリの勤勉さはやはり「独り善がり」であり、一方では本当の自分を見殺しにしているのかもしれない。
とても示唆的だと思います。

そして、「功利主義の観点からはキリギリスが善とされる」(目次の「教訓」)
“結果的にどうなるか”を委ねる、という意味で捉えると、「なるほど」と納得できる気がしました。「短絡的に」自らの快楽を追及し、というのではやはり“失敗”に終わりそうですが、「生を謳歌する」→自己実現を目指す覚悟を決めるのであれば、確かに「食料蓄積のみで生を終えたアリ」より、「キリギリスの方が善とされる」気がします。

『アリとキリギリス』も“深い”んですね・・・。

昔話は多くのパラドックスに満ちている。

昔話から常に勧善懲悪的な教訓を読みとろうとする人は、昔話のもつパラドックス性に、しばしば戸惑いを感じさせられるものである。  

                                              【河合隼雄】

               

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心理療法家の姿勢

ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)

まず、前回の記事について、言葉足らずの点がありました。
ユングの自伝の言葉を紹介しましたが、以下のとても重要な部分が抜け落ちていました。

「私は 患者たちを除いて 人々に対して辛抱強くはなかった。」

ザビーナとユングの出会いは、ザビーナが当時抱えていた重度の精神的疾患がきっかけですが、ユングの治療を受け始めたあと、その症状は劇的な回復をみせたそうです。
彼女は後に、自らが精神分析家となりますが、ユングとは、病院を退院した後も、学問的援助を受ける中でありつつ、恋愛関係にも発展したのです。

前回記事で引用したユング自伝の文面については、だからそれは、ユングの自身の“患者”
についての態度ではありませんし、また、自伝の中で、ザビーナの名前は一度も登場しませんので、ユングが誰を思いながらその文章を書いたのかも定かではありません。


どこまでが“患者”なのかも、心理的な分野ではその判断は大変難しいと思います。
余談ですが、ユングの著書の中には、ユングがある精神科医の夢を分析した際、(外的には)全く問題ないと主張していたその医師の内面(無意識の心理状態)は、破綻一歩寸前だったというある事例が紹介されています(内的現実はあとから外面に顕現してきます)。
自身も省みながら、心理的にみて「完全な健常者」などいるのかどうかさえ、私には疑問です。

ユングはこのように論じています。

精神病院にまで行くのは、いわゆる精神病質者のほんの一部にすぎない。
その圧倒的多数はいわゆる「正常」な人々の一部を成しているのである。
「正常」という概念は理想的な観念にすぎない。

正常の概念はある限界内で振れがあり、厳密な定義はできないのである。
その振れがある程度大きくなると、その心理的現象は異常の領域に入ったことになる。
こうした許容幅の逸脱は、きわめて頻繁に起るのだが、病的としか言えない現われ方をしない限り、気づかれずにすぎてしまう。

(精神病質の)軽いものは無数にあり、重症のものはまれである。
一時的であれ慢性的であれ、あれこれの面で正常の許容幅を、わずかながら踏み越える人間の数はきわめて多い。

(潜在的なケースは)なるほど発病に至ることは少ないが、その物の考え方や行ないは、いかに表面正常であっても、無意識の病的で倒錯的な影響に支配されている。
潜在的な精神病には、もちろん参考になるような医学的な統計などありはしない。


ユングとザビーナの関係に話を戻しますと、私の解釈では、2人の恋愛関係は破局に終わったものの、その後、それぞれが心理学者として自身の理論を構築していく際に、その「生きた体験」、「生々しい感情」を味わった“経験”が、大きな影響を与えたであろうと推察していたため、その部分を念頭に置き、前回の箇所を引用してしまいました。

ユングとザビーナの関係が、いつまで「医師と患者」だったのか、恋愛関係と並行していたのか、私には分かりませんが、ユングが同じ自伝のなかで先の一文を書いていることは、ここで改めてきちんと記しておきたいと思います。


ユングは偉大な心理学者であり精神科医でもありますが、例えどんな心理療法家であろうと、「こころのやりとり」をクライエントさんとしていくのであれば、その責任に重い軽いの差はないはずです。

どこまでの心の領域に踏み込んで行くのかという点で、浅い深いはあったとしても、それでも必然的に、面接を続けていくうちにどうしても無意識まで含めた2人の人間の人格のやりとりとなってくるはずですから、その関係性がどんなものであるか、外側から簡単に“優劣”がつけられるはずもありません。

だからこそ、「聴く側」に置かれている者は、クライエントとの関係を続ける間は、「相手にとって」一番ベストな態度を取り続けるべきですし、「カウンセリングをするということ」がどういうことであるのか、その意味のしっかりとした自覚が必要だと思います。

当たり前ですが、カウンセラーが、例えばクライエントに嫌われまいとして保身をはかったりしているようでは、適切なプロセスの妨げにはなっても、そこに目指すべき真の変容は臨めないはずです。

見えない「こころを癒す」、「こころのやりとり」をするということは、双方適度な距離を取りながらの、“当たり障りのない”人間関係とは、望む望まないにかかわらず、全く異なったものにならざるを得ません。
ペルソナという仮面を被った日常の他者とのやりとりとは、質が全く違ってくるのです。

そこにこそ、心理療法の価値が見いだされるはずで、そうでなければ、それを受ける意味自体がなくなってしまうのではないでしょうか。
そもそも、日常の人間関係だけで心の癒しや変革が起こり得るのであれば、カウンセリングなんて必要ないはずです。

表面だけではなく、心の深い部分でのやり取りも始まるわけですから、どうしても、心理療法家は自分自身を試されることになるのだと、ユングも語っています。

極端な話、クライエントの負の感情を呼び起こさせるようなことになっても、それが変容のプロセスとして必要なのであれば、そこから逃げずに一緒に居続けること。
そしてその強さを持っていることが、心理療法家の役目であり、ユング派で長時間にわたる“自身のこころのトレーニング”が重視されている理由でもあります。


長い間の苦痛に満ちた経験から学んだのですが、ある人をコンプレクスから救い出そうとすることは、その人の最良の資源を奪うことになるのです。

傍からできることは、本人がそのコンプレクスにはっきり気づき、彼の内部で意識的な葛藤が始まるように仕向けてやることくらいです。

そうするとコンプレクスは生の一つの焦点になります。              (C・G・ユング)



だいだいみんな(中略)しんどくて、脇道に行きたがるんです。その脇道のことを、みんな『何かよい方法はありませんか』と言われるんです。そのときにだいたいわれわれは『ありません』と非常にはっきり答えるわけです。つまり『この道を行きなさい』ということを言うわけです。

この道というのはいちばん苦しい道です。ただし、私も一緒に行きますからというのが、カウンセラーの仕事なんです。
                                                 (河合隼雄)


その苦しい道を一緒に行くカウンセラーが、「ただ話を聞いているだけ」では、きちんとした仕事ができていないことは明白です。
クライエントさんが苦しい思いをしているのに、自分はなにも感じない、カウンセラー側のこころが全然疲れないのであれば、同じ道を本当に歩けているかどうか疑わしい限りです。

そしてそれは、ただ共感するとか、同情するとかいった性質のものでもありません。
もっと深いところでの相互的関係によってもたらされる“感情”です。

河合隼雄さんほか、ユング派分析家の先生方が、転移・逆転移や布置、体験という言葉を使って、療法家のこころの動きについて説明されていますが、今日は次の一文だけを紹介しておきます。

自分のこころを通してしか、他人のこころを理解することはできないのである。  (織田尚生)
 

クライエントさんの苦しい道を一緒に進むカウンセラーが、自分のこころをきちんと道具として使えているのであれば、その道中で、“道具”にも少しずつ傷がついたりダメージを負ったりするのは、避けられないはずです。

だから、カウンセラー側は、自分の道具をメンテナンスする必要がありますし、道具の状態を常にチェックしておかなければならないのだと思います。
そしてそれは“見えない道具”だけに過信は禁物ですし、難しい作業でもあります。
カウンセラー側も、共に「自分の道」を歩んでくれる、他者の存在が必要となってくるのです。


今日は、自戒の記事となりました。
そして、最後に。

本当の自分の道を進み続けるか、脇道にそれてしまうのかを、最終的に選ぶのは「自分」しかありません。
そして、脇道はあくまでも脇道ですから、結局、元いた本道の場所からは一歩も進めていないことにもなりかねません。
苦しくても本当の道を少しずつ歩めば、それは確実な進歩となってくるはずです。


【参考文献】
C・G・ユング『現在と未来―ユングの文明論』平凡社(1996-11)
河合 隼雄『カウンセリングを語る(下)』講談社(1999-10-20)
河合隼雄編集『ユング派の心理療法 (こころの科学セレクション)』 日本評論社 (1998-06)


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『危険なメソッド』

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寒中お見舞い申し上げます。
今年は、クライエントさんへの年賀状・年賀メールが出せませんでしたので、
この場で、年始のご挨拶に代えさせていただきます。
今年もよろしくお願いします。

さて、年初めの記事。
当初は、前回記事の続きで、「ムスビの御神像」について取り上げようかと思っていたのですが、
変更して、ゆるりと映画の話題など。

それにしても、いつも、後から後から書きたい話題が出てきて、アウトプットが全然追いついていない。
バランスを取る難しさを今年も抱えながら、多分、このブログも相変わらずのスローペースで続けていくことになりそうです・・・。


戯言はいいとして、
昨年暮れの休日、主人に子守を任せて、ひとりである映画を鑑賞に行きました。

『危険なメソッド』

    

キーワードは「ユング」と「ヴィゴ」。
個人的には、はずせないこの2人が絡んでいる映画がつくられていると知った時から、
日本での公開を待ちに待っていたのです。

当時つぶやいたTwitter記事を探してみると、この映画の存在を初めて知ったのは、
もう2年も前のことでした。
    ↓



『危険なメソッド』については、鑑賞された方には言わずもがな。
観ていない方も、関連サイトを見ていただければ分かるとおり、「ユング」が主人公の映画です。

複数のサイトで、レビューも色々と書かれていますので、ご興味のある方はそれらを読めば参考になると思います。

私の個人的感想としては、意外にも!?、過剰な脚色もなく真面目に作られていたという印象を受けました。

『危険なメソッド』の前に観ていた、(監督の)クローネンバーグの作品、『イースタン・プロミス』が
なかなか強烈だっただけに、重度の神経症を患っていたザビーナや、そのザビーナとユングの恋愛、
ユングとフロイトの関係など、曰く付きな内容がどのように描かれているのか、実際に観るまで少し気がかりではありました。

でも、史実とそれほどかけ離れた作られ方はしていなかったように感じましたし(もちろん私の浅い知識による評価ですが)、「フロイトの書棚事件」と呼ばれる、一歩間違えれば、“ただの怪しいオカルト”になってしまいかねないような場面も、悪意なく自然に描かれているように感じました。

ユングがフロイトの家を訪れ会話をしていた際、オカルト現象を批判したフロイトに対して苛立ちを覚え、横隔膜が熱くなってきたかと思うと、突然書棚から激しい音が鳴り響いた。この現象は自分のこころのエネルギーが引き起こしたと確信したユングは、そのことを信じようとしないフロイトに向かって、「同じことがもう一度起るでしょう」と言ったところ、本当に同じ現象が再度起ったという出来事。このときばかりは、さしものフロイトも返す言葉がなく、唖然とするしかなかったと伝えられている。)

あえて挙げるとすれば、ザビーナ(キーラ・ナイトレイ)の狂気ぶりには、「実際のところはどうだったのだろう」と、疑問符が頭に浮かんできましたが、他の場面について不信感をさほど感じなかっただけに、ザビーナの病状についても、事実をきちんと調べた上での演出だったのかも知れません。


映画を観たことによる収穫は、まず、ユングの生きた時代背景を動画によるリアルさで擬似体験できたこと。付随してさらに膨らむイメージ。

そして何より心に残ったのは、私が知らなかった、ユングが日常のなかで体験したシンクロニシティの場面が、いくつか描かれていた点でした。

それは、映画には描かれていない、記録にすら残っていないシンクロニシティを、他にももっとユングは体験していたかもしれない、いや間違いなくあったであろうと、私に強く思わせる発見でした。

どちらにせよ、活字でしか知らなかった、そして全く知らなかったエピソードも含め、それらを映像を通して体験できたことはやっぱり感動でした。


この映画の「はずせない」もう一方、「ヴィゴ・モーテンセン」についても、書きたいことがいっぱいあるのですが、完全に“自分の世界”になりそうなので、今日は控えめにしておきます・・・。

近年、ヴィゴが主演した映画、『ザ・ロード』や前記した『イースタン・プロミス』、『善き人』など、これらのどの作品の人物とも全くカラーの違う、そして今回は実在の偉大な心理学者“フロイト”を、違和感なくしっかり溶け込みながら演じていると感じました。
(また、体重も調整した模様・・・)

十年来、密かに(ここで公言したから、もう密かにではなくなりましたが)ヴィゴのファンを自認している私としては、“ユングの映画”で、フロイトとして登場するヴィゴの姿が観れると知った時、興奮せずにはいられませんでした。

ヴィゴの出演作品には、ほぼ目を通してきましたが、下積みが長かったヴィゴが、『ロード・オブ・ザ・リング』のアラゴルン役で大ブレークし、こうして今、フロイト役で画面に登場してくれるなんて、端役時代のビデオを借りまくって観ていた頃を思い出すと、それだけでも『危険なメソッド』は、私にとって“ごちそう”でした。

Viggo Mortensen Translation Archive

(残念ながらもう更新されていませんがヴィゴファンにお薦めのサイトです。)


さて、映画のほうに話を戻すと、この若き日のユングの恋愛話に、眉をひそめる方もいるかもしれません。

山中康裕氏監修の『ユング心理学』では、このように書かれています。

ユングはザビーナを不幸にした責任を痛感していたことでしょう。

のちに彼は倫理的な意味から逆転移の意識化を強調するようになりますが、その根本には、ザビーナに対する痛恨と贖罪の念があったにちがいありません。


そして、ユングの自伝には、このような一節があります。

私は多くの人々の感情を損ねた。
というのも、彼らが私を理解しないと見るや否や、もう話はすんだとして私がとり合わなかったからである。
私は先を急がねばならなかった。

私は自分に課せられた内的な法則に常に従わねばならず、選択の自由が残されていなかった。
もちろん、私は常にそれに従ったわけではない。
いったい誰が矛盾なしに生き得られるだろうか。

ある人たちにとって、彼らが私の内的世界に関係あるかぎり、私は常に近い存在としてあった。しかし、私を彼らに結びつけるものがなくなってしまうと、私はもはや彼らとともにいないということも生じた。

多くの人々が、生きた人間性の感情を私の中にひきおこした。


ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)
ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)


確かにザビーナとの関係は悲劇だったかもしれませんが、ユングにとって彼女との出会いが、大きな意味をもっていたであろうことは間違いないはずです。

そしてユングが、自己(Self)からの要請と自我との狭間で、重圧を抱えていたことも、上記の自伝からは読み取れます。

そのような視点でこの映画を観ると、フロイトとの関係も含め、また違った捉え方ができそうです。


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