心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

物理は心理 (!?)

昨年最後に鑑賞した映画 『インターステラー』

過去に『ダークナイト』や『インセプション』といった作品を、世に送り出しているノーラン監督の最新作ですから、観に行かないわけにはいきません。
そして当日。
3時間近い長い上映時間が終わり、映画館を後にする興奮冷めやらぬ私にとって、『インターステラー』はノーラン作品のトップに輝く映画となっていました。


そしてその日の夜、書斎兼仕事場にしている部屋で平積みにされている未読本の中から、一冊の本を引っ張り出してきました。


アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]


アインシュタインの相対性理論。
この言葉自体はあまりにも有名ですし、私も過去に読んだアインシュタインの伝記(といっても児童向けの漫画。でも今考えるとこれがなかなか重厚な内容でしたが。)で何となくは触れたことがありました。
でももちろん、「結局は時間と空間のこと?」ぐらいの上澄みだけの理解(?)で、ただアインシュタインがおこなったとされる「思考実験(頭の中の空想で実験した)」というエピソードだけは強く印象に残っていました。

Eテレの『100分de名著 アインシュタイン 相対性理論』を観たときも、その理論は相当難解で、複雑な数式などを理解していなければ全貌を把握し切れるものではないことを改めて感じつつ、でも放送内容自体は一般向けに噛み砕いて解説されていたので、それにより少し"知った"ことで逆に頭に?マークがついた点も含めて非常に興味が湧きました。

そこで、少しでももっと理解を深めたいと上記のテキストを購入したのですが、結局その時は他に読んでいた本に時間を取られ、一度パラパラッとめくられた後はそのまま、「平積みグループ」に埋もれたままになっていたのです。



さて、私がどうして、『インターステラー』を観た日を境に、埋もれていたその本に手を伸ばしたか、同映画を既にご観になった方はお分かりだと思います。

上記『相対性理論』の中に書かれていた内容、世界は、『インターステラー』でまさに映像化されていました(もちろん映画には"まだ"ファンタジーとしての要素も含まれていますが)。
動画で得たそのリアルなイメージに、改めてきちんと手に取った本(理論)の内容が相乗効果となり、まさに未知の世界が自分の中に広がってくるようで、「スゴイなー」とワクワクが止まらなくなりました。

ノーラン監督は映画製作にあたり「科学的正確さを目指し」、「実際の可能性を検証したい」とし、理論物理学者のキップ・ソーン氏の協力を受け、ストーリーには「実際の科学がとても深く盛り込まれ」ているとのこと。
(映画『インターステラー』 オフィシャルサイト スペシャル映像 より)

自身の頭で「相対性理論」に少しでも触れてみると、確かに映画のあの世界観は、決して荒唐無稽なものではないことが腑に落ちるのではないかと思います。


 時間と空間は縮む。
 「時間」は絶対ではない。
 動いているものの時間は遅れる。
 「空間」も絶対ではない。
 重力による時間の遅れ。

これらは全て、相対性理論が示していることです。


 相対性理論の描き出す世界は、(略)日常生活の世界とは大きく異なり奇妙な世界です。
 しかし、この奇妙な世界が、実は私たちの住むこの世界の真実なのです。      
                                               【佐藤勝彦】
                                             
私たちが地球上で送っている日常、普段の"常識"で「当然」と思っている世界が、実は「絶対」ではないのだということが、物理学(科学)の世界ではすでに"常識"となっていたんですね。


一般相対性理論に示された、時空の曲がりと物質のエネルギーの関係を示す「アインシュタイン方程式」を解いていくと、ある場合には時間が「ループ」になっている答えが存在するのです。

未来へどんどん進んでいくと、いつの間にか過去につながり、さらに進むと現在に再び戻るという、ループ状の時間の流れが出現することが理論上はあるのです。

物理学者はこの世界は物理法則という論理だった法則によって動いているのだという信念を持っていますが、物理法則の中でも特に時間や空間の物理学である相対性理論が不条理なことが起こることを許してしまっているのです。                      
                                               【佐藤勝彦】




ここでユングが、ノーベル物理学賞を受賞したスイスの物理学者(ヴォルフガング・エルンスト・パウリ)との共著、『自然現象と心の構造』の中で「空間と時間」について記した内容を次に挙げます。

人間が元来持っている世界観では、未開人に見られるように、空間と時間は非常に不安定な存在である。それらは、主として測定の導入のお蔭で、精神発達の過程においてのみ、「固定」観念になったにすぎない。

それら自身においては、空間と時間は、無から成立している。それらは、意識的精神の分別の活動から生まれて実体化した概念であり、運動する物体の行動を記述するのに不可欠な座標をなしている。

もし空間と時間が運動する物体の単なる見かけ上の属性にすぎず、観察者の知的な欲求によって造られたものであるなら、心的条件によってそれらが相対化されることは、もはや驚くべきことではなく、可能性の範囲にもたらされることになる。

この可能性は、心が外的な物体とではなく、自己自身を観察するときに現われる。

                                               【C・G・ユング】


アインシュタインの相対性理論でも、時間や空間の認識を、光の速度を絶対的なものとして捉え、その動きやスピードと矛盾がでないよう再構築していくのが基本ですが、たとえば動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるのです。

「止まっている人から見ると、動いているものの長さは縮んで見える」
「空間(長さ)は、ものの動きや時間と同様に、唯一絶対のものではなく、相対的に捉えるべきもので、誰からも同じに見える唯一の尺度というものは存在しない」    

いかに、外的な事象を認知する上において、各々が置かれている条件(心的条件)が大きく関わっているか、心理学とは対極を為すともいえる物理学によって、ある意味認められているのだと私は思いました。

   
空間と時間は影響しあっているとはいうものの、これも「時間の遅れ」や「長さの縮み」と同様で、普段の私たちの生活の中ではその影響を感じることはありません。
(略)差は、あまりに小さすぎるために、普段は気づくことがないというわけです。
                                               【佐藤勝彦】    
私たちは「気づいていない」だけなんだと・・・。



西田幾多郎がその点について、簡潔にダイレクトに次のように言っています。

我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。
即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者(ユングの説に通じます)を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。

深く共感します。


今日はこのへんで。
『インターステラー』にも絡んでもう少し思ったことがあるのですが、それは近いうちに次の記事として必ず書いてみたいと思っています。


○●○●○●○●○

今日取り上げたEテレの「100分de名著」の新春SP、「100分de日本人論」がとても面白かったので、ちょっとご紹介です。
論者の一人である人類学者の中沢新一さんが「今日の話ずーっと(語り合っているのは)一貫してるんだけど、"無意識"なんですよ」と番組内でおっしゃられたように、まさに「無意識」について様々な角度から考えることができます。
このブログで前回取り上げた鈴木大拙の『日本的霊性』、そして河合隼雄先生の『中空構造 日本の深層』が、まさに名著として取り上げられています!

1/25に再放送があるようなので、まだ観られていない方で、「無意識」に興味のある方は是非。



もちろん『インターステラー』もおススメします。
あれは大画面で観るべきです!



【参考文献】
佐藤勝彦 『アインシュタイン『相対性理論』 2012年11月 (100分 de 名著) [ムック]』 
 NHK出版  (2012/10/25)
C・G・ユング W・パウリ 『 自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]
 海鳴社 (1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1979-10)



鈴木大拙

またしても前回記事から数か月が経ってしまい、「ぜひ、また続きを書きたいな」との思いにずっと変わりはなかったのですが、今日は、以前書いた記事に疑義が生じてしまったので、備忘録の意味でしたためます。


ここ数年、読みたい本があとからあとから出てくるので、私の読書スタイルは常に数冊併読なのですが、そんな中、ゆーっくりと読み進めていた著作があります。

無心ということ (角川ソフィア文庫)
鈴木 大拙
角川学芸出版
2007-09-22



鈴木大拙は、ユング同様、私が敬慕している哲学者の西田幾多郎とは ”加賀の三太郎” と称され、生涯の友であった偉大なる仏教者です。

(最近偶然見つけたのですが、こんな逸話もあったようです ↓ )


さて、この名著。
『無心ということ』を、じっくりと読み込んでいく中で、孟子について書かれた非常に興味深い内容が出てきました。

それは、「深き宗教的体験の閃めきが窺われる」心学の祖、石田梅厳の「都鄙問答 惟理問答の段」の引用で、孟子と告子の相違について論じられており、「これは
梅厳の哲学の中心をなすものである。」と鈴木大拙は評価しています。

 
 曰、孟子の性善と、告子が性に無善無不善と言は同じかるべし。
(中略)
孟子は是とし告子は非とするは如何なることぞ。

 答、是汝が不得の所なり。先告子が無善不善と云は、是思慮なり。(中略)
孟子の性善は直に天地なり。如何となれば人の寝入りたる時にても無心にして動くは呼吸の息なり。其呼吸は我息に非ず。天地の陰陽が我体に出入りし形の動くは天地浩然の気なり。我と天地と渾然たる一物なりと貫通する所より、人の性は善なりと説玉ふ。(中略)
其無心の陰陽が一たび動き一たび静なり、是を継者が善なりとの玉ふことなり。
此微妙の所と告子が云思慮と、一列にいはるべきや、大に異る所なり。
孟子の性善は生死を離れて天道なり、(中略)此は易(やすき)に似て難知(しりがたき)所なり。思慮を以て知らるる所にあらず。(中略)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(略)書は読めども、書の意味を知らず。*1
却て孟子の性善を非と見るなり。孟子の性善も天なり。(中略)


 人は全体一個の小天地なり。(中略)告子は是を不知。生滅にあづかる思慮を以て我性と思ふ。思ふ所は性に非ず。いかんとなれば思慮なき天理に異るゆへなり。(中略)

渾然たる一理の性に至れる孟子*2 には異る所なり。


これを読むと、このブログで前に紹介した、夏目漱石の孟子論とはその内容がまるで逆なのです。
無為を為す(夏目漱石の老子論)


大雑把にざっくり分類するとこんな感じです。
老子(夏目漱石評)=孟子(石田梅厳評)
孟子(   〃    )=告子(   〃    )


夏目漱石の「相対を脱却して絶対の見識を立てた」老子と、石田梅厳の「渾然たる一理の性に至れる」*2 孟子、それぞれの論評のその意味するところは、同義であると私には思われます。

そうだとすると、もしかしたら漱石が、少なくとも孟子に関しては、(石田梅厳の言うところの)
世の人書物を読ながら、此の性善を知らず。(中略)書は読めども、書の意味を知らず。」*1
ということになる可能性すらあります。
(・・・でも、私は夏目漱石も大好きです)


漱石は、実は老子についても、以下のような批判をしています。
「(無為への)その悟入したる点を挙げて人を導くべきに、去はなくして劈頭より無為を説き不言を重んず。(中略)ただ、その無為に至るの過程を明示せざるを惜むのみ。」

私はこの点については以前から、疑問を持っていました。
「無為に至るの過程を明示」なんて、「(
老子の)その悟入したる点を挙げて人(他者)を導く」なんて、果たしてできるのだろうかと・・・。
そして、こうつぶやきました。



話を戻すと、思いがけず触れた孟子についての(私にとっての)新たな説に、「
私は、孟子については全くの不勉強ですので何も言明できませんが、」と先述してはいたものの、ここに来て本当に分からなくなってしまいました・・・。

やはり何でも、「受け売り」はダメということでしょうか。
孟子についてもふりだしに戻って、「自らきちんと読む」ことから始めたいと思っています。



ここからは少し話題が変わって、「西田幾多郎と鈴木大拙」について。

以前、NHKで西田幾多郎の特集番組が放送された際、その中で西田幾多郎のたしかお孫さんにあたる方が出演されて、鈴木大拙について語っておられました。
西田幾多郎が亡くなった際、鈴木大拙が傍らで号泣していたそうです。両者の結び付きの深さが感じられて、とても印象深く心に響きました。
西田幾多郎も鈴木大拙も、 それぞれの著作の中で共に「宗教的体験」の重要性について語っていますが、互いにそのような稀有な体験の、全てではなくても根本的な何かを共有できる
、本当に希少で貴重な存在だったのかもしれないと、勝手に想像が膨らみました。

私が「鈴木大拙」を知ったのは、西田幾多郎の著作を読み始めてからだったのですが、その後、鈴木大拙はユングとも親交があったと知り、僅かな驚きとともに、どこか深く納得もできました。

それぞれの入り口は違えども、その「体験」には共通する点があること。
偉人3名の著書に目を通せば、その発見に心躍る感動が得られるのではないかと思います。



そして最後に。
『無心ということ』の中で、鈴木大拙は次のようにも述べています。

何といっても仏教の基礎は心理学にある。もとより世間でいう自然科学的心理学ではないが。
ちょっと見ると、哲学のようにも、認識論のようにも、また、いわゆる「神学」のようにも見えるかもしれぬが、仏教の本領は心理学にある、超絶的または形而上学的心理学とでもいうべきところにある。
無心の理論は、実に仏教思想の全体系を構成しているといってよい。
これが本当にわかると、仏教は神秘主義でもなく、知性主義でもなく、また汎神論的でもないことが認識せられる。世間では仏教の心理を、自然科学的に説明しようとするが、それでは鞭が短くて、馬腹に及ばぬ。


仏教者 鈴木大拙、哲学者 西田幾多郎、そして心理学者 ユング。
各々の分野で高い見識を持ちつつ、その根底には、言葉も要らぬような深い分かち合いで通じていた、本物の天才たちなのだと思います。


【参考文献】
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)

選ばれたノア

noah












鑑賞からあっという間に1か月ほどが経ち、記憶はかなり曖昧になってしまいましたが、前回からの続きです・・・。

映画の題材である『旧約聖書』の〔創世記〕に記されている「ノアの洪水物語」でノアは、
「正義の人と神に認められて」います。
そのノアは、「地上に人の悪がはびこっているのを見た神」から、『わたしは彼らを地もろとも破滅させ
る。しかし、あなたは家族と共に箱舟に入るがよい』と、箱舟の制作を命じられました。
ノアは “神に選ばれ、その命令に従った” のです。




聖書で、神に正義の人と認められているノア。
映画でも、冒頭からノアは「正義の人」として登場します。
観ている側は、善人であるノアだからこそ神に選ばれたのだと、ストーリーの流れを自然に受け入れられます。
箱舟が完成し、ノアたち家族とつがいの動物たち(だけ)が乗り込むことにも、それ自体が「神の命令」であり、何より聖書にそう記述されているのですから、そもそも疑問を抱くことではありません。

「旧約聖書」は「掟」である

きわめて重要なことを指摘しておきます。
(略)
(「旧約聖書」は)「法律」「掟」のように権威あるものとして存在しているので、無視したり否定したりすることはできません。とするならば、
物語が「法律」「掟」とされていることの意味を考えて対処する、ということになります。
                                                                                                  【加藤 隆】         


アロノフスキー監督は、聖書の「掟」を守りつつ、その意味を考えられたのでしょう。
そして、現代のスクリーンでは、その掟には記されていないノアの葛藤の物語が展開し始めます。


次男ハムの恋人をはじめ、洪水に飲み込まれ叫び声をあげている大勢の人たちにも背を向け、誰ひとり助けようとはしないノア。
「地上にはびこった人の悪」を破滅させるのが神の御業なのですから、その命に従うと決めたノアは逆らうわけにはいかないのです。
その行為が、としての自分の思いと相反するものであっても、ノアは頑なに、ただただ神の宣告に従おうとします。
そしてついに、強いきずなで結ばれていた家族をも敵にまわし、生まれ出ようとしている、血を分けた自身の孫にさえ刃を向けようとします。

箱舟に乗りこみ、洪水の中を漂っている40日間のノアの行動は、人の側から見ると、善どころか悪です。
ノアは、自分の家族以外の人間を見殺しにし、いずれ、残ったその血さえも絶やそうとするのですから。

イラ(エマ・ワトソン)を助けた時のような、温かくて優しかった「正義の人」とはまるで別人のような、徹底した非情さを、そこでノアは露わにします。


しかしノアは、決して何も感じていないわけではありませんでした。
神の命令だからと全てを割り切れていたのではなく、自分の取っている行動に葛藤や疑念を抱え、苦しんでいたのです。
夫の人柄を誰よりも知っている妻のナーマが、ノアに静かに語り掛けるシーンがきちんとそれを物語っていました。


絶対的存在の神からの使命と自身の人間的感情との、まさに両極の狭間で、舟に乗っている40日の間、ノアはひとりで苦しみぬいていたはずです。
終盤のクライマックスを除いて、ノアの苦悩の場面が劇的に描かれることはありませんでしたが、神の命に淡々と従おうとするそのノアの姿が逆に、家族とすら分かち合えない孤独な苦しみを、巧みに表現しているように感じました。

他の人を見殺しにしても何も感じない、愛しい家族を苦しめても罪悪感を持たない生粋の悪人(なんてそもそもいないはずですが)ではなく、ノアは元来「正義の人」なのですから、その葛藤の大きさはそのまま苦の大きさと比例していたはずです。


しかしノアは、その苦難の40日間を耐え抜き、最後には「自分を見失わなかった」からこそ、家族と共に"新世界”に一歩を踏み出し、芽生えた自分の血を継ぐ新しい命を絶やすことなく腕に抱くことができました。



ここで、ユングが自身の著書『転移の心理学』で引用している、イギリスの神学者で錬金術師であるポーディジが錬金術の《作業(オプス)》との関連で残している記述を取り上げます。

ここで術師は、彼の仕事がすべて水泡に帰したのではないかと思う。

誘惑の40日が過ぎ去るまで、あなたの忍耐の日々が終わるまで、忍耐と我慢と沈黙のうちに内部に留めておかなければならない。

し かしこの作業は、人間の意志がそうした態度(人間の意志が委ねられあるいは放棄されて)を取れるようになるまでは、すなわちその眼前に火という火が放たれ あらゆる誘惑が襲いかかってくるときも泰然として冷静でいられるようになるまでは、人間の意志にとってなんと難しく、苦しく、辛いことであろうか。

つ まりそれは大勢の悪魔や誘惑しようとする多数の元素にぐるりと取り囲まれ攻めたてられるからである。しかしチンキがこの火=試練と強い誘惑に耐えて持ちこたえることができるなら、そして勝利を収めるなら、そのときあなたは地獄、罪、死と死すべき者の墓場からそれが復活し始めるのを(略)見るであろう。

いまや石は形を与えられ、生の秘薬が準備され、愛らしい子供あるいは愛の結晶が生まれる。

こうして新たな誕生が実現され、作業はすべて申し分なく成就される。

転移の心理学
C.G. ユング
みすず書房
2000-10




また、錬金術の書である『哲学者の薔薇園』には、このような記述があります。

数知れぬ苦しみと大いなる殉難を経しのち
われは蘇りたり、聖化され、あらゆる汚れを洗い浄められ。
  
心理学と錬金術 (2)
C・G・ユング
人文書院
1976-10-01

                               


ノアの存在する世界は、大洪水ののち「汚れを洗い浄められ」蘇りました。
ノアが(新しい)大地に再び立つことができたのは、彼が「数知れぬ苦しみと大いなる艱難を経しのち」でした。

ノアは、全ての陸地が沈んでしまうほどの洪水に飲み込まれた40日間の、艱難辛苦の道を渡りきる強靭さを持っていたからこそ、神に選ばれたのではないでしょうか。
そして、最後の決断の時に人としての自分を見失わなかったからこそ・・・。


今日は、ユングの聖書に関する次の文章で終わりたいと思います。
好意的な読者へ(という前置きがあります)

「物理的に」ということは真理の唯一の基準ではない。というのも心的な真理というものもあるからであって、これについては物理的には説明も証明も反論もできないのである。
私は(略)、心理主義の嫌疑をかけられる危険を顧みず、聖書の記述をもこころの発言とみなす


ヨブへの答え
C.G. ユング
みすず書房
1988-03

(※、ユングは、「無意識と意識のドラマ」という心理学的な解釈によって、この著書を書き上げました)



私も"自分なり"に、そのような視点で映画を鑑賞し、感想を書きました。
「好意的な読者」の方々には、ご理解いただけるのではないかと思っております。


※映画では、「人はみな自分の中に悪を持っている」「(人殺しという悪を働いた次男セムに対して)これでお前も人になったな」というような、意味深いセリフもありました。
ぜひまた、続きを書きたいなと思っています。
(ただし我が家の、”熱い”40日の夏休みが終わった後になるかもしれません・・・)

『ノア 約束の舟』

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先日、公開中の映画『ノア 約束の舟』を鑑賞してきました。
旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語が映画として公開されると知ったとき、それだけでも内心ざわめき立ったのですが、それが、ナタリー・ポートマンがアカデミー主演女優賞に輝いた、あの『ブラック・スワン』のアロノフスキー監督がメガホンを取った作品だと分かって、私の「絶対に観る映画リスト」に即追加されました。

『ブラック・スワン』は、レビューなどで一部の人が指摘しているように、私も、ユング心理学の「影の統合」の問題に関連が深い作品だという感想を持っていました。
ですので、そのアロノフスキー監督が、『旧約聖書 創世記』のノアの物語をどのように描くのか、とても興味が湧いたのです。

そして観終わった感想は、「やっぱり」。
全くの個人的憶測ですが、私が気づいた部分だけでも(でもかなり細部にわたって)深意が含まれていました(と、私には感じられました)し、入念に練り上げて作られた作品だという印象でした。

『ブラック・スワン』のみならず『ノア』でも、どうにもユング心理学がチラついて、「深意」を漏らすまいと、集中して見入ってしまいました。


たとえば、作られた箱舟にまず最初に乗り込むのは「鳥たち」。
そして次にあらわれた大群は「蛇」でした。
まさに、天の象徴と地の象徴の両者(対立物)が、まず助けられるべき存在として、舟に乗り込んだわけです。

映画には登場しませんが、東西に古くから伝わる想像上の生き物である龍(Dragon)は、鳥と蛇の両方を兼ね備える対立物合一の象徴です。

龍はそれ自体としては一箇の怪物である。つまり蛇の地の原理と鳥の気の原理とが合体した一箇の象徴である。龍はしかし、(略)メルクリウス(対立物合一)の一変形である。
メルクリウスは原初の具有存在ヘルマプロディトスであり、一旦は二つに分れて(略)対の形を取るが、最後に「結合」において再び一つに結びつき、「新しい光 lumen novum」すなわち「賢者の石」という形態をとって光り輝く。
                                        (ユング)

堕落した人間を滅ぼし、新たな世界を創造するという神の意志に従うことを決めた、ノアが造った箱舟に、最初に乗り込む鳥。そして続く蛇。

ノア自身の結合、「新しい光」が輝くためには、当然の成り行きだったのかもしれません。


また、ノアの箱舟造りを手助けし、"神の裁き"が始まった混乱時に、ノアたち家族を守る役目を果たす者として岩の巨人「ウォッチャー(番人)」が登場しますが、彼らはもともと「光」だったものが、物質としての石に閉じ込められており、最期(物質としての石が崩壊した時)には「光」として天に帰っていきます。

ユングが、心的内容と深い関連があるとして研究した錬金術では、「石(ラピス)」が象徴的に重要な意味を含んでいます。

石(ラピス)には発端というものはなく、永遠そのものの内から出てきたところの「根源的本質」を持ち、それゆえまた決して終りを知らず、永遠に存在しつづけるということである。

この光は神がその太初において自然とわれわれの心とに点し給うたものなのだ。
                                          『賢者の水族館』

映画で岩の巨人の中に閉じ込められていた光。
実は「われわれ人間の中にも秘められている」ことを神話は密かに語り、(一部の)哲学者や錬金術師、そしてユングも、そのことに気づいていました。

哲学者たちの著作を研究することによって人間は秀れた術を身につけこの「賢者の石」を手に入れることができる。が、この「賢者の石」とはまたしても人間なのである。それゆえドルネウスは「汝らは死せる石から賢者の石に変身せよ」と叫び、この言葉によって、人間の内にひそむものと物質のうちにひそむものとの同一性を極めて明瞭に表現しているのである。 
                                                (ユング)
「(前略)これらの石こそ魂の真の火であり、賢者の光に他ならない。」
                        (ベルアルド・ドゥ・ヴェルヴィル 『暗号書写法選』)


「鳥と蛇」と同様、ノアが新しい世界にたどり着くためには、「ウォッチャー(番人)」との信頼関係と助けが必要でした。
巨人との関係が成り立っていなければ、箱舟を造ることも、箱舟を乗っ取ろうと襲ってくる暴徒たちを食い止めることもできなかったのですから・・・。
ノアの仕事は、(心理学的には)錬金術でいうところの「業(オプス)」であり、とてもひとりでやり遂げられるようなものではありません。

彼らの術は聖なるものにして神的なるものであるという点、そして彼らの作業(オプス)は神の助力によってのみ成就されるという点がそれである。
                                              (ユング)

そして、その後のノアの大業の結末を暗示するかのように、ノアを助けた岩の巨人たちは、自らも救済されて天に昇っていきます。
(グノーシス神話では、グノーシス(自己認識)に応えられた「光の粒子」「本来的自己」が、プレーローマ(上位世界)に帰還します。過去記事

人間は救済されるべき者であるとともに、また救済する者でもあるということを教えている。
                                              (ユング)

ノア(自我)と巨人との関係が同一だと仮定すると、発想がどんどん広がりました。


(引用はすべてこちらから)


とにかく随所に、寓意を感じる場面が散りばめられていて(そもそも聖書が題材なのですから当然とも言えますが)、長い上映時間があっという間に終わってしまいました。
この映画については、色々と書きたいことはまだあるのですが、自分でもイメージの収拾がつかなくなってきそうなので、今日はいったんここまで。
ノアのみならず次男ハムの存在など、ほかにも気になる点があったので、できれば後日続きを書きたいのですが・・・。


頭を一度リセットして、キャストについても少し。
ノアを「ラッセル・クロウ」が、その妻を「ジェニファー・コネリー」が演じています。
この配役を事前に知った時も、ちょっとした感慨でした。

二人は以前にも夫婦役を演じていますが、その作品は、私にとって忘れられない映画、『ビューティフル・マインド』です。
この映画を通して、初めて大事なことに気づきました・・・。

主人公は実在の天才数学者で、統合失調症を発症します。
本人にしかわからない幻覚や幻聴がどのようなものなのか、この映画を通して少なからず想像できますし、「無意識」についても、興味のある方は考えさせられることがあろうかと思います。

再び夫婦役を演じた、『ノア』の画面に映る二人の顔つきから感じられる年月と自分のそれが重なり、さらに二つの映画の内容も重なり、余計にしんみりとしてしまいました。


最後に。
アロノフスキー監督、シンクロニシティ?を体験されたみたいです。
「NOAH」についての"偶然"。しかも日本に関連しています。
ご自身も興味深く感じられたようで、わざわざtwitterでも紹介しておられますよ。
監督、やっぱりユング心理学に・・・・・?


※今日の記事は、映画『ノア 約束の舟』についての個人的感想です。

「よいことをするには時間がかかります」

(※ロジャーズ一番の代表作とのこと。未読だったので、今日をきっかけに読み始めたいと思っています。ちなみに今日の記事の講師の先生が翻訳されています。)


新年が明けて早一ヶ月。
昨年は結局、たった4度しか記事を書けません(書きません)でしたが、今年はもう少し、しっかりと整理していきたいと思っています。(あくまでも抱負です・・・)

さて、前回書いた老子や夏目漱石、無為、個性化については、まだまだ整理したいことがあるのですが、今日は全く違う内容にします。


昨年、ロジャーズ派の(某大学教授の)先生の講義を受ける機会がありました。

カール・ロジャーズ(Carl R.Rogers)といえば、今日のカウンセリングの3つの主要理論、精神分析療法(精神分析理論)、行動療法(学習理論)と並ぶ、「来談者中心理論(client-centered therapy)」の創始者として有名ですが、1940年当時のアメリカで、それまで主流であった指示的アプローチを批判し、非指示的方法を提唱したその背景には、「人は自分自身を発展・成長させる力を内在している」といった、技法よりも“人間中心”の人間観があり、また、カウンセラーとクライエントという2人の人の“心理的接触が人格変化の生起に必要な条件”とされている点、「潜在的な自己(potential self)を体験する」などの自己理論における体験を重視したその概念は、ユングの考え方に(かなり!と私は思います)通ずる点も感じられ、改めて、その共感できる興味深い理論に、受講中ワクワクしながら耳を傾け、ペンを走らせていました。

ロジャーズによる自己概念と生命体的体験の一致・不一致による人格の適応理論
「心理的適応とは、自己概念が、ある水準以上の象徴化において、生命体の知覚的・直感的な体験(sensory and visceral experience)の全体を自己概念と一致した関係の中に取り入れているか、あるいは取り入れることができるときに存在する。」(Rogers,1951)

やはり私たちの心の安定には、「適切な意識化」、「無意識と意識の適切な関係」が重要なのだと、つくづく考えさせられました。



たった1日の講義ではありましたが、ご存命のロジャーズの直弟子の談話についてなど、紙面ではなかなか伝わってこない、講義ならではの貴重な情報も得られて、もう、あれもこれもとこの場で取り上げたいことは沢山あるのですが、その中でもあえて今日は、カウンセリングに関するあるデータに的を絞って書いていきたいと思います。

下記は、そのデータです。

・カウンセリングに申し込んだだけで、セッションを一度も受けずに症状が消える人・・・14%
・セッションを2回目まで受ける人・・・3割超え
・ドロップアウト(カウンセリング中断)・・・46%(それ以外は長期継続となる傾向)
・一応の問題解決が出来たとクライエント本人が感じる・・・セッション60回前後(個人差あり)
                                  

上記データ分析が具体的にどのような統計を基にしているのかは、「ロジャーズ派のみならず、他のセラピー法でも大体共通しているデータ」としか聞かなかったので、私も詳細については分かりません。
しかし、流派を超えた“カウンセリング”におけるデータとして、このような数字が出ているのだということには、強い関心を持ちました。

まず、「申し込んだだけで」症状が消える人が1割もいることに、色々と考えさせられるところがありますし(本人がそう思っただけなのか、本当に問題症状が無くなったのか、その辺も詳しくは分かりませんし)、次のステップの2回目を受ける人が3割ほどというのも、ある意味、「なるほどな」と思いました。
(一度は受けたけれどそれっきり、の方のほうが多いという事ですね)

そして、数回受けたけれどドロップアウトする人は約半数。
このドロップアウトには、その後、またカウンセリングを再開する人は含まれていないのか、などについては不明ですし、厳密なことは確言できませんが、でも多分この半数とは上記の「3割」に係るものだと考えられるので、こうしてみると、「カウンセリングを続ける」ということだけでも、なかなか高いハードルなのだと、このデータは物語っているような気がしました。

なおかつ、「一応の問題解決が得られた」とクライエントさんご本人が感じるのは、「“セッションを60回前後”続けた時点において最も多い」というのですから、「カウンセリング」というものがいかに“お手軽”ではないか。
その事実だけは“分かりやすく”、数字が説明してくれているなと思いました。


多くの場合、「カウンセリングを受けよう」と実際にカウンセラーのところへ来られる方は、かなり切羽詰まった問題や辛い思いなどの早急な改善を求めておられると思います。

「今すぐに解決したい」
そう強く望まれているからこそ、手間やお金を使ってまでカウンセリングを受けてみようと思われるわけで、日常の中で多少感じているような問題であれば、あえて“そんなこと”をしなくても、何とかやり過ごしていけるはずですし、実際大抵みなさんそうしておられるのではないでしょうか。

「カウンセリングに行けばどうにかなるかもしれない」
そんな気持ちを抱えて相談に来られる方が多いにもかかわらず、でも残念ながら、“実際”はそう簡単ではないことを、先の「カウンセリングに関する統計データ」は明らかに示しています。
セッション60回となるとかなりの長期戦ですが、その時点においてやっと、「問題解決」に至ったと感じる方が一番多いわけですから、多くの方がカウンセリングに求めている(であろう)“早期解決”とのギャップは著しいものがあります。
これでは、「なんだ、こんなものなのか」と、多くの方が継続しなくなるのはある意味当然だとも思えますし、「カウンセリングなんてやっても意味ないよ」という意見が出てしまうのも致し方ないのでしょう。
でも私には、それはカウンセリングというものの「本当のスタート地点」にすら立ったことのない人の感想であるような気がするのです。
(ちなみに私が分析を受けている佳代先生に、「本当のスタートは(セッション)20回目ぐらいから」と、教えていただいたことがあります。)


河合隼雄先生も、「カウンセリングに対する批判」として、この「時間がかかりすぎる」点について解説されています。

カウンセリングに対する批判として、まず言われることは、「時間がかかりすぎる」ということです。
そんなのんきなことをしてはいられない。(略)すぐによくしたいのだ。
それに一週間に一時間会って・・・などとゆっくりしたことはしておられない。
(略)待ちきれない。もっと早く解決する方法はないかという批判です。

時間がかかりすぎるという批判に対して、もし正面から答えるとするならば、「よいことをするには時間がかかります」と言わねばなりません。よいことをするのに時間がかかったり、お金がかかったりするのは当たり前のことなのです。

われわれの第一のねらいとしている、クライエントの可能性に注目してゆこうとする仕事は、どうしても時間を必要とするのです。たしかに、時間がかかることは残念ですけれど、これはまったく仕方のないことなのです。
カウンセリングの実際問題
 
河合 隼雄
誠信書房
1970-08-10





なぜ、カウンセリングとは時間がかかるものなのか、「これはまったく仕方のないこと」なのか。
その点については、“こころ”についての深い意味合いが絡んでいますので、今日はとてもそこまでは触れられませんが、抱えている問題に取り組む際、“根っこからのホンモノ”の解決に至るためには、時間がかかるのはやはり「仕方がない」のです。

もちろん、「取りあえずの解決」という道もありますが、それでは、またいつか同じような問題に悩まされることになるとも限りません。

そのときは一見成功したように見えても、結局は発展させるべき可能性に目をつむることによって得た一時の安定にすぎないときもあるわけです。                    (河合隼雄)

“一時の安定”という早急な解決は往々にして、根本的には何も変わっていない、また同じような問題をくり返すことにもなりかねないのです。


「よいことをするには時間がかかる」カウンセリング。
進むスピードも様々ですし、時には休憩もOKなのだと、私は思います。
ゆっくりでも休みつつでも良い。
一度ドロップアウトして、環境や体調を整えて、また始めるのでも良い。
(カウンセリングを始めることによって、“状態が悪くなる”場合も十分あり得ます。しかしそれは、乗り越えなければならない道であることが多いのです。その点についても、またいつかこの場で書いてみたいと思っています。)
歩みを止めない限り、自らの秘められた可能性への扉は、ずっと開かれているはずです。

そしてゴールは、60回というデータが示すような、遠いものかもしれません。
でも、フィニッシュテープを切った者にしか分からないカウンセリングの醍醐味。
味わって後悔することはないと、個人的には強く、そう感じています。
そしてその味わいは、確実に新しい私の血肉となるものです。


※今日ご紹介したデータについては、根拠の出典はなにも明示できません。
あくまでも、私が講義のなかで聞いて書きとめたものを取り上げただけなので、その旨ご了解いただいて参考にしてくださればと思います。
(と言いつつ、個人的体験としては、私は“納得”しています)


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