心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

壁の向こう

今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価が
なされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、
いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)


私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だ
ストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこう
と思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む
機会はないままでした。

しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、
「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、
ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。

私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい
「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。


その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で
壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前
このブログでも取り上げた
、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。



しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、
ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、
文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが
味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。

壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。

壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」
おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)


そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、
「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います。



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"
自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、
「私」を保つことが出来ていたのでしょう。

一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、
あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。

そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、
改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた
未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、
あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、
その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。

もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。


「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や
 氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと
  思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                               『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。
                                               【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、
その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせて
くれようとしているように思われます。

そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。

現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると
感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせる
ことによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                              【河合隼雄】


『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、
多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。




さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。




心の有り様

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もう10月・・・。
中秋の名月も過ぎてしまい、日に日に秋の深まりを感じます。

今年の夏休みも、なかなか「静かに腰を据えて」とはなりませんでした。
ずっと、この場で書きたいことは色々と頭に浮かびつつも、結局は手つかず状態。
でも、今はそれで良し、と思うことにしています。


純粋にしたいことと、やっておかなければいけないと思うこと。

どちらも捨てがたい、それは決して強制ではなく自分自身の気持ちで、その自覚があってもなお、簡単に折り合いがつくものではありませんが、揺れた時には、「葛藤保持力」(河合隼雄先生が表現された深い意味の言葉です)の一言が、いつの頃からでしょうか、自然に頭に浮かんでくるようになりました。

そうすると、少し気持ちにゆとりが生まれてきて、多少なりとも"揺れていること自体"を受け入れられるようになります。
(おかげで記事の更新はさらに遅れますが・・・)



そもそも人間は、その根本的な存在原理として「矛盾を抱えた葛藤する生きもの」なのです。
そのことを理解できれば、「葛藤保持力」を実践する上での支えとなります。

人が「有る」こと自体が、大きな矛盾を抱えていることについては、河合隼雄先生はじめ、このブログでよく取り上げる賢者たちも、みな同様に指摘している哲学的な命題です。

生きている限り決して逃れることのできない矛盾の意味について知ることが出来れば、それは、
主観的な揺れを客観的に受け止める静かな力となり、沸き起こって来る情動を、無理に抑え込む
のではなく、かといって無暗に振り回されるのでもなく、「そのまま」にしておける、というコントロールが
(いくらかは)できるようになるのではないかと思います。

葛藤自体をすぐに、安易に、解消しようとせず、「そのまま」にして抱える。葛藤保持力。


 
人という存在がそもそも「矛盾」していることについては、「心の有り様」を熟慮することが不可欠と
なります。


意識というものがなければ実際上世界はない。

世界は心に意識され、反映され、表わされてはじめて存在する。
意識は存在の一条件なのである。                  
                                               
『人格の発展』

パラドキシカルな性質は、全体性が一部は人間の意識から、一部は無意識からなっていると
いう事実に照応している。                           
                                             『心理学と錬金術』
                                        
                                                【C・G・ユング】


明らかになることは、力の概念が二つの力のなかへ二重化されて、現実的になるということ、そしていかにしてそうなるかということである。
これら二つの力は、自分だけで存在するものとして、現に在る

悟性と物の内面という二つの極を結び合わせる媒介〔媒語〕は、力の展開された有であり、
この有は、これから後は、悟性自身にとり消え去るものである。
だから、この有がつまり現象なのである。

一般者は、物の内面をなすものであり、その内面は、二つの力のたわむれが自己自身に帰る
〔反照する〕ことである。
                                        
『精神現象学』 【ヘーゲル】


世界は絶対矛盾的自己同一
として、自己自身を超えたものにおいて自己同一を有ち、
我々は超越的一者に対することによって個物なる
が故に、我々は個物的なれ ばなるほど、
現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を超えて、反省的であり、思惟的で
あるのである。

                                 
『絶対矛盾的自己同一』  【西田幾多郎】


独坐大雄峯は根本的無分別の世界である。
絶対が相対にあるところがある。
が、無分別が分別になっただけではまだ十全でない。
ここに批判的なものがなくてはならぬ。
無分別と分別の世界の交加、相即ともいうべき、もう一つの働きが出なくては、
事の始末がつかぬ。
ここが丈すなわち打つ心であります。

(前略)
いわゆる阿轆轆地に転じなければならぬ。
そして一たび転ずれば必ず両頭に走るのです。   
転ずるというとき無分別が分別になる。
無分別が転ずれば両頭に走るようになるのだから、ここに是非善悪の世界が出て来る
有無の世界が出て来る。

                                     
 『無心ということ』 【鈴木大拙】
  
          
有名な哲学者、カントもこのように述べています。


私たちの認識がすべて経験をもってはじまるということについては、まったく疑いの余地は
ない。

私たちのうちに生じるいかなる認識も、時間的には経験に先立つものではなく、認識はすべて
経験をもってはじまるのである。
しかし私たちの認識がすべて経験をもってはじまるにしても、だからといって、私たちの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。

                                             『純粋理性批判』 


夏目漱石も、(作品を読めば疑う余地はありませんが)「無意識」はもちろんのこと、「心の有り様」を
知っていたことがよく分かります。


普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続
して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。

(中略)すると煎じ詰めたところが私もなければ貴所方(あなたがた)もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。

通俗の考えを離れて物我の世界を見た所では、物が自分から独立して現存しているという事も
いえず、自分が物を離れて生存しているという事も申されない。
換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、
いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。
(中略)だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に命というのであります。

甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときは既に甲は意識しておらん
訳です。
それにもかかわらず甲と乙とを区別する事が出来るならば、明瞭なる乙の意識の下には、
比較的不明瞭かは知らぬが、やはり甲の意識が存在している
と見做さなければ
なりません。

意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。
向後どこまで分化と統一が行われるか殆んど想像がつかない。
                                                    
                                           『文芸の哲学的基礎』


人間は、無意識から意識を区別することで、自他を含めた"世界"を認知できるようになります。
意識が有るからこそ、無意識を知る〔反照する〕
ことも可能となります。

そして、この「心の有り様」が矛盾(二律背反)なのです。


意識は自己自身に対している。

それは、区別されていないものを区別することである。
言いかえれば、自己意識である。
私は私を私自身から区別する。
そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している
〔無媒介に私にとってある〕。

一つの自己意識がもう一つの自己意識に対しているのである。
こうして初めて、自己意識は事実上存在していることになる。

自己意識に対しては別の自己意識が在る。
つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。

二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめると
いうふうに規定されている。

                                         『精神現象学』 【ヘーゲル】


表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、
知るものと知られるものとが一であるのである。

何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、
自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。


表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、
真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。

                                         『デカルト哲学について』


精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。

                                              
                                                『善の研究』

                                               【西田幾多郎】



カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、
人間というものがこういうものだから致し方ない
と思っています。

人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。
                            
                            
 『カウンセリングの実際問題』 【河合隼雄】

「心の有り様」を考えれば、 まさにそこに向き合うカウンセリングについても、一筋縄ではいかない
ことは「致し方ない」のだと納得できます。




日常の様々な場面で大小の葛藤が生じるのは人の世の常だと思いますが、その葛藤を
"とりあえず"ですぐに解消しようとするのではなく、「保持する意味」については、今回は下記の引用に留めることにして、次の記事で改めて触れていきたいと思います。



悩みや問題があるのが問題なのではなくて、問題があるのにちゃんと悩んだり迷ったりしない
ことが
問題なんです。
迷いを持ちこたえる力は大事です。                                  
                                   『こころの子育て』 【河合隼雄】


個性化プロセスによって私が意味するのは(中略)、二つの基本的な心的事実の間の
葛藤から
生まれてくる、発展の過程、ないしは経過である。

                                            【C・G・ユング】
                                              

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。

実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、
この衝突の際においてである。

分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる。


我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と
一致するに従って幸福となる
のである。


                                    『善の研究』 【西田幾多郎】



【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
C・G・ユング 『心理学と錬金術 (2) [単行本]』 人文書院(1976-10-01)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)
西田幾多郎 『絶対矛盾的自己同一 [Kindle版] 』(2012-10-01)
鈴木大拙 『無心ということ (角川ソフィア文庫) [文庫] 』  角川学芸出版(2007-09-22)
竹内 昭 『哲学案内 [単行本] 』 梓出版社(2004-04)   
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)
西田幾多郎 『デカルト哲学について [Kindle版]』(2012-10-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)
河合隼雄 『Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [文庫]』 朝日新聞社
 (2001-09)


人をつくる愛着

mother and child by gustav klimt
mother and child by gustav klimt./Kim+5

今日も『Dr.倫太郎』絡みです。
こころの病がテーマのドラマですから、当然ながら、あちらこちらに引っかかりどころ満載です。
(自分なりに咀嚼して)毎回、色んな意味で学べる点があります。


8話では、母親に「あんた、もう必要なくなった」と別れを告げられた明良が、「私を捨てないで」と激しく取り乱すシーンがありました。
そして感情のコントロールが利かなくなった夢乃(
明良)は、倫太郎の家に無断で入り込みお金を
探して荒らすという、常軌を逸した行動にまで及んでしまいました。

明良と夢乃という、分離した両方の人格が表に出てきてしまっている「解離性同一性障害」の根底に
あるものが、幼少期から何度となく繰り返された母親に置き去りにされる体験、大きな不安感に
あることが、はっきりと示された場面でした。



一方、そのひとつ前の7話は、明良親子とは対照的な、看護師の薫母子の心温まる物語でした。

息子の深也くんが、倫太郎の診察室で夢乃が散らかした箱庭アイテムの動物たちを並べるシーン。
どの動物も、親子対で一列に並べられていました。

そして、深也くんが外のベンチで、ピンクの象のおもちゃで遊んでいるところへ明良が来るシーン。
話しかけられた深也が指し示した草むらの先には、お母さん象が置かれていました。
小象が遊んでいる少し離れた場所から、ちゃんとお母さん象がその様子を見守っていて、そこには
「安心」がありました。


その他にも、倫太郎と薫の会話や、親子で倒れた自転車を起こすシーン、検査の申し出があったときの薫の(自身と)深也くんへの向き合い方など、全ての場面で、「明良親子」とはまさに相反する
母子関係が描かれていたように思います。

深也の検査が終わった後、倫太郎と薫が深也くんを見守りながら語り合っているシーン。
そこでも、深也くんはひとりで、倫太郎の診察室の外で動物のアイテムをベンチの上に並べていましたが、その親子の動物たちは全て、「きちんと向き合って」いました。

見えない心の部分での薫親子の関係性が、言語ではないところで(だからこそ)見事に表現されているその様子を見た倫太郎が、優しく微笑みながら「深也くんはしっかり成長しています」といった
言葉には、薫への敬意が含まれていたように私は感じました。



このドラマで、明良の解離性同一性障害の原因となったのが、母娘の関係性にあると設定されていることは誰の目にも明らかで、それはかなり「ドラマティック」な描かれ方をしていますし、明良の置かれた境遇は確かに“特殊”な例なのかもしれません。

しかし、根本の部分。
「親子の愛着の問題」として捉えた場合には、観ている側にとっても決して「他人事」ではない、
普遍的な意味を持ってくるのではないでしょうか。

従来、愛着の問題は、子どもの問題、それも特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かった。
しかし、近年は、一般の子どもにも当てはまるだけでなく、大人にも広くみられる問題だと
考えられるようになっている。

愛着の問題は、一部の人の特別な問題ではない。
ほとんどの人に広く当てはまる問題でもある。

愛着の安定性や様式は、対人関係のスタイルや親密さの求め方だけでなく、その人の生き方や関心、恋愛や子育ての仕方、ストレスに対する耐性や生涯の健康にまで関わっている。
意識しないところで、知らずしらずその人の心理と行動を支配しているのである。
                                        【岡田尊司】


「愛着障害」が人格形成に及ぼすマイナス面だけではなく「創造性」という部分、両義的な意味に
きちんと視点を充て、また克服のプロセスや人格成長についてなどにも触れられていて、
厳しさのみではなく希望も持てる内容なので、「自分や家族を振り返る」きっかけとしては
とても良い本だと思います。

(実際、よく売れているようです)


まさに、明良を思わせるこんな一文もありました。
どんな理不尽な仕打ちをされようと、子どもは親を愛し、求めようとする。
そのため、深く傷つきながらも、親を責めるのではなく、むしろ自分を責める方向に気持ちが
向かう。

自分がダメな子だから親は愛してくれないのだ―そう考えて納得しようとする。

「納得しようと」、頑張って自分の気持ちを抑えて抑えて、その挙句に出てきたのが、
夢乃という影の人格。
「私が明良を守っているのだ」と夢乃は言っていましたが、確かに、自分を守るためには致し方なかったのでしょう。

ひどく乖離してしまった二つの人格を統合していくことが、明良と夢乃の治療になってくるわけですが、実は私たちも、通常は無意識内に留まってくれている「もうひとり(いえ複数)の私」を、
自我の私に統合していくことで、こころの成長をはかることができます。




少し脱線してしまいましたが、もう一冊、こちらも同じく岡田尊司氏の著書です。


明良は解離性同一性障害ですが、近年では、この「境界性パーソナリティ障害」が、“時代の病”として急増しているようです。

ドラマの中でも、倫太郎に激しく執着する人物像として描かれて(登場して)いましたが、
このこころの病にも「愛着」の問題が強く絡んでいます。


子どもの数が減り、一人ひとりの子どもが、手厚く大切に育てられているはずの現代において、愛着の問題を抱えた子どもだけでなく、大人までも増えているという現実がある。

比較的マイルドな愛着の問題は、愛着スタイルが確立するとともに、自立への圧力が高まる
青年期以降にさまざまなトラブルとなって現れ始める。


大人にひそむ愛着障害の増加を間接的に示しているのは、たとえば、境界性パーソナリティ障害の増加であるし、依存症や過食症の増加である。
これらは、愛着不安の強いタイプの愛着障害が増えていることを示唆していると考えられる。
                                         『愛着障害』


『愛着障害』を読んで何か興味が湧いた方は、さらに『境界性パーソナリティ障害』に目を通されることで、更なる気づきや理解が得られる点があろうかと思います。

境界性パーソナリティ障害だけではなく他のパーソナリティ障害など、こころの病には併存する症状がみられる場合が少なくないので、その根底にあるものを知ることはもちろん、回復の過程についても、共通項として学べる内容が含まれていて理解が深まります。

境界性パーソナリティ障害は、一見、特殊で狭い問題のようでいて、実際は、さまざまな領域の幅広い問題に通じる普遍的なテーマを含んでいることに気づかれるだろう。

まさに、人が生きるとは何か、何によってそれが可能になるのかという、人間にとってのもっとも根本的な問題を突きつけてもいる。

                            『境界性パーソナリティ障害』




こちらは専門的にはなりますが、河合隼雄先生をはじめとする、錚々たる心理専門の先生方が執筆に加わっておられ非常に重厚な内容の著作です。






河合隼雄先生は境界性パーソナリティ障害という“時代の病”が、現代人の意識の拡大に関連して
いると、大きな視点から指摘されておられます。


(前略)必要なことは、片子の人間としての存在も、鬼としての存在も両方を許容すべきでは
ないだろうか。


近代自我を拒否するのではないが、それをよしとして、自我の強化のみを(中略)目標にするのではなく、近代自我とは異なる視点から−(中略)ものごとを見ようと試みることではないだろうか。

「現代に生きる」人間、あるいは、せめて生きようとしている人間であることを自覚すると、境界例の人たちが、そのためにわれわれに教えてくれる−教えるというよりは、きたえるというほうが
いいかもしれぬが−ことがわかるのである。


現代人は相当な意識の拡大を強いられており、それはそれ相当の苦しみを必要とするもので
ある。



半鬼半人という表現がどうしても気にいらない人に対しては、われわれは人間ではあるが、
鬼の世界との接触を保ち、それを切って棄ててしまわないように努力すべきだ、
と言い換えてもいいだろう。

そのような意識の拡大は現代人すべての課題であると思うのである。

                                           【河合隼雄】


「“時代の病”がわれわれに教えてくれる」こととは、
安易に片方に偏ってしまわないこと、「半鬼半人」のしんどさを抱え続けること、
「海と陸」の両方に立ち続けること、「自己も自我も」実現すること。


「中庸を生きる」意味を知り、それを自分のこととして自覚することにあるようです。

そしてそれは、「現代の子育て」の問題にも通じています。
親の生き方や子どもへの接し方が簡単に「偏ってしまうこと」によって、その影響を受けた子どもが、
否応なく境界に立たされる苦しみを抱えてしまうという、皮肉な結果につながる可能性があることが
示唆されています。




おわりに−愛着を軽視してきた合理主義社会の破綻
 
愛着障害は、多くの子どもだけでなく、大人にもひそんで、その行動を知らずしらず左右し、ときには自らを損なう危険な方向に、人生をゆがめている。
その人のもつ愛着スタイルは、対人関係だけでなく、生き方の根本の部分を含む、
さまざまな面に影響している。

それほど重要な問題であるにもかかわらず、一般の人だけでなく、専門家の認識も非常に
遅れており、むしろ、愛着の問題を軽視してきたとも言えるのである。


すなわち、なぜ、手厚く子どもを育ててきたはずの現代社会で愛着障害をベースとする問題が
増え続けるのか、ということにも関わってくる。


この数十年、社会環境が、愛着を守るよりも、それを軽視し、損なう方向に変化してきたということに尽きるのである。

愛着という要素は、効率主義に反するものとして、ないがしろにされ続けてきたのである。
合理的な考え方からすると、古臭く、本能的で、原始的とも言える仕組みは、もっと効率的で、
近代的な仕組みに取って代わられるべきものとみなされたのだ。



                                             『愛着障害』




女性の社会進出は、たいへんにけっこうです。それはどんどんやっていただいてかまいません。
それをやりながら、自分の子どもの本質的な幸福というものを考えてもらえたらいいわけです。
                                        【河合隼雄】




母性の機能を、今日は意識したうえで行わなければならない。すなわち、「母性の意識化」で
ある。

                                      【河合隼雄】




「自分自身を生きつつ、子どもとの愛着も固めていくこと」に、マニュアルも、合理的で効率的な方法もなく、道なき道を掻き分けてとにかくやっていくしかないようです。

その意味と大変さを自覚することがなにより大切で、迷いながらも真正面からそこにきちんと取り組む重要性を、実際の家庭問題に取り組んでこられた心理エキスパートの先生方が、もう何年も前から、
それぞれの言葉で伝えようとされているのだと、新しい表紙を開くたびに感じとれます。




倫太郎や明良がずっと向き合っている(引きずっている)のも、結局はその土台の部分ですが、
次回最終回では、ひとつのトンネルの出口が垣間見えるようなストーリーになっていればいいなと
思います。



こころの距離

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前回記事で触れた、『Dr.倫太郎』、続けて視聴しています。

TVドラマなのであくまでも“フィクション”として観ること、現実との相違があることは当たり前として、それでも、こういった内容の“物語”が今、多くの人の目に触れることはひとつの機会になるのではないかと、個人的にはそう感じながら毎回楽しみに観ています。

 

倫太郎の患者への関わり方など、たしかに色々と突っ込みどころはあるとしても、そういった見かけや設定という外枠のことではなく、本質的な部分で、観ている側の心に何か響いてくるものがあることが「良い物語」の条件であり、それは小説でも映画でもTVドラマでも、同じことなのだろうと思います。

(と言いつつ、一般的にはあまり気づかれないようなところで、実は緻密な作り方がされている場面も見受けられます。例えば、夢乃が一頭の馬を箱庭の中に置いたシーン。その解釈を倫太郎もドラマの中で語っていましたが、それがなぜ“馬”なのかという点にもきちんとした意味が含まれていると、私は思いました。

以前にこのサイトでご紹介した映画『危険なメソッド』の中でも、ユングが自分の夢に出てきた馬についてフロイトと語り合っているシーンがあります。余談ですが、私の夢にも馬が出てきたことがあります。

ユングは自身の論文、『夢分析の実践的使用』において、ある患者の夢の解釈をする上で、“馬”の象徴性について次のように論じています。

「馬」は神話や民話に広く流布する元型である。動物としての非・人間的なこころ、人間に近い動物的側面、つまり無意識を表象する。

これが、民話で馬がときどきヴィジョンを見たり、声を聞いたり、話をしたりする理由である。

家畜としては、馬は母親元型と近い関係にある。

人間よりも下等な動物として、それは身体のより本能的な領域とそこから生じる動物的衝動を表象する。
(後略)

(このドラマの監修に、専門的知識を持った先生方がきちんと携わっておられることが伝わってきます。)

 


上記のような点を読み解いたり再確認したりする面白さがあるのはもちろん、でも何より、このドラマを通じて、現実の臨床現場において新しく話題や議題が提起されたり、「こころの世界」を日頃全く意識していない人たちに、僅かでも何かの興味が生れるとしたら、“倫太郎の物語”はただのフィクションではなくなってくるのだろうと思います。


「こころの世界」は例外なく誰しもが自分の内に持っているものであり、そこを全く無視して生きるよりは、「興味を持つこと、知ること」により、生き方を根本から改善できる可能性が出てくるわけですが、でも実際には、「向き合わざるを得ない状況」に追い込まれてやっと、そこに目を向け始めるケースがほとんどではないでしょうか。

 

ユングや河合隼雄先生が言われている「時」のことを考えると、個々に自分の内に向き合う最適な「時」があって、それは確かに“自然にもたらされるもの”なのかもしれませんが、一方、のっぴきならない状態になって初めて自分の内側に目を向けたその時が、もう手遅れになっていることもあります。

若しくは、向き合うことすらないまま、最悪の結果を迎えることだって十分あり得ます。

追い込まれてから知るのでは、もう遅すぎる場合が実際にあるのです。

 

だから“今”、知っていこうとすることだって、それは、誰にとってもその人なりの意味が出てくるのだろうと思います。

“今”既に、「こころの世界」から大きな影響を知らず知らず受けていて、自分でも全く気付かないうちに、その影響によって何かしらの生きづらさを抱えている人も決して少なくはないはずです。

もっと言えば、無意識からの影響を全く受けずに生きている人なんて、この世には存在しないからです。


もちろん、闇雲に知ろうとする必要はないし、“面白半分”で続けられるようなものでもありませんから(倫太郎の言葉を借りるとすれば、遅かれ早かれ“覚悟”が必要になってくると思います。)、あえてそんなことをしなくても、平穏無事に毎日を送れているのであればそれに越したことはありません。

ただ、何かで行き詰っている場合、その原因が外側の世界ではなく、自分の内側にあるのかもしれないと気づくことによって、本当に「変わり始める」第一歩になる場合は少なくないのです。


 

ドラマを通して気になった点をもう一つ。

ここまでの放送で、夢乃にしろ、倫太郎にしろ、その他倫太郎の患者たちにしろ、良きにつけ悪しきにつけ、「母と子」の関わりが深く浅く、色んなパターンで描かれています。

人格が形成され、それが維持されるうえにおいて、母が子に与える(与えた)影響の大きさと深さが、暗喩的にドラマの中でも表現されています。


心理療法の世界では、「親子」の関係を無視して進むことはまず有り得ないわけですが、(来談した際の主訴が始めは全く違うことであっても、一定期間面接を続けていれば、どこかの時点で必ず“親”のことが出てきます。やはりそこが“ベース”なのです。)

ひとりの人が一生を生きていく上において、それほど、親(特に母親)から受けた影響は大きいのだと、学問的にはもちろん、自他の体験を通して、納得せずにはいられません。

そしてその影響の大きさと深さに、100%気づけている人はまずいないと思います。

河合隼雄先生曰く、「井戸掘り」をしなければ、それはなかなか気づけるようなものではないからです。

 


『Dr.倫太郎』を通じて、何か「こころの世界」に興味が湧いて、現実のケースなり心理学の知識なりを、個々が自分で色々と(是も非も含めて)探索していくきっかけになれば(心理学に関する良書も色々と出ていますから、その気になれば、自分の興味の度合に合わせて、いくらでも“知識”を取り入れていくことはできます。知識から、実際の「井戸掘り」に入っていく場合もあると思います。推薦図書については、改めて記事にしたいと思います。)、“日野先生”の功績は、フィクションの枠を超えたものになってくるのでしょう。



さて、倫太郎と夢乃の二人には、この先、さらに新たな展開が待っている感じですね。

転移は起こらない方がやりやすいと思います。起こってしまう場合にそれを取り扱うことは、なかなかむずかしいことです。よほどカウンセラーが体験と訓練をつんでいなければできないことです。


カウンセリングというのは厳しい関係です。クライエントは自分の力で立ち上がるといっていますが、自分の力で立ち上がることほど、人間にとって厳しいものはありません。


私は「あなたは他人の深い問題を聴いていながら、どうしてつきまとわれないのだ」と聞かれることがあります。(中略)強さがカウンセラーには必要です。

よほど自分を知っているつもりでも、転移と逆転移のなかに知らず知らずのうちに巻きこまれていくような事柄が起こるわけです。


いわば、素人の喜びそうな恋愛に似たような感情というものが、ほとんど愛と関係のないものだということを知れば知るほど、そういうこと(陽性転移)があまり嬉しくなくなります。端的にいって、深いけれど親しくない関係、親しくないが、それゆえにこそ深い関係に入りこめるという事実をよく知るべきです。


クライエントからの陽性の転移に喜んでしまって逆転移を起こし、そのために、そこから逃げ出るための無用の苦しみをクライエントに与えてしまうことは、カウンセラーとして厳しく自戒せねばならぬところです。


たしかに逆転移をあまりにも恐れていては、カウンセリングはできません。「傷つくことによって癒す」ことは治療の根本とさえいえます。しかし、カウンセラーとしても、自分を一人の生きた人間として、その弱さや力の限界を知るかぎり、限界を破ることの恐ろしさをあくまでも心にとめておくべきです。


われわれは限界を守ったためにうまくゆかないにしても、たかだかクライエントにしばらく恨まれる位がおちですが、限界を破ったために生じる誤ちはクライエントの命を奪うことにさえなりかねないのです。


クライエントとカウンセラーの深い関係が確立し、クライエントの力も強いときは、限界の問題に神経質になる必要はありません。少し位の限界を破っても、それによってクライエントが強い転移を起こすこともありませんから。


転移の問題は非常に複雑で困難なことです。カウンセリングにおいては、カウンセラー個人の人間としての限界があることは大切なことです。

カウンセラーは、(中略)自分の限界をよく心得ておくべきです。

                                             【河合隼雄】


「境界を超えても、自分は戻ってこれる」と言っていた倫太郎。

これからその実力の見せ場となるのか、自身への過信と無防備さを悔やむことになるのか。

学びにしつつ、見届けつつ。

これからの放送も楽しみです。


【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)

現代の寓話

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子どもの時、母によく映画館に連れて行ってもらったことが影響しているのか、
私は昔から映画が
大好きで、今でも気になる作品が出たときには、でき得る限り映画館に足を運んで鑑賞するように
しています。

特に心理の世界に飛び込んでからは、「ただの娯楽」ではなくなってしまい、時には映画鑑賞に
"義務感"すら持っているときがあります。

こんな話をすると、?と思われる方もいるかもしれませんが、実際ここ数年は、「観たい!」という
100%純粋な欲求よりも、「これは観ておくべきかな」と"感じて"、行くことのほうが多いのです。

そして事前に"感じた"ことがドンピシャで、鑑賞後には映画の内容を超えた、個人的にとても大きな
ものを得ることもままあります。
それは、シンクロニシティ、無意識への"確信"が、私の中で揺るぎない経験値となって積み重なって
いくことにつながっています。


また、映画館で映画を観るということ自体、私にとってはどこか、カウンセリングにも通じるような気が
しています。
その時間、その場所は、限定された「非日常」の別世界になるからです。



河合隼雄先生も、「いろんな体験をすることがカウンセラーとしての勉強となる」と、ご自身の著書の
中で語られています。
「心理学の勉強だけするのではなくて、小説や神話や児童文学を読んだり、映画を観たり、
そういうことがみんな関係してくる。」と。


また、晩年フロイトにも師事し、あのニーチェや詩人のリルケなど、著名な思想家たちに大きな影響を
与え、波乱万丈、まさに"個性"を生きた魅惑の女性、 ルー・アンドレアス・ザロメも、「映画」について
このように語っています。

たとえそれ(映画)が単に表面的な娯楽にすぎないとしても、それは映像やフォルムや印象の
富でわたしたちの感覚をゆたかにしてくれます。
上記著者のH・F・ペータースはこのことについて、「彼女は、しだいに単調になってゆく労働が内面的な疲弊の原因となって、もっと需要の多い芸術型式がもはや大衆の要求をみたしえなくなった世界に
おいて、映画は大きな未来をもつであろうと予言した。」と書いていますが、前記のルーの言葉といい、
私も
本当にそうだと思います。
少なくとも、私にとってはルーの「予言」は的中しています。

ルーが生きた時代とは比べ物にならないほど、現代の映像技術は革新を遂げ、今や架空の世界すら映画の中では違和感のない「現実」になっていますし、なにより映像に限らず、そこで展開される
物語は、観ている側に疑似体験として迫ってきて、ルーの言ったとおり、
「わたしたちの感覚をゆたかにしてくれ」るからです。


昇華の作用だけ取り上げてみても、それは、とても意味のあることではないでしょうか。
(たとえば、ホラーやサスペンスといった作品が決して廃れないことも、そういった作品が負っている
ものは大きいような気がします。)




さて、つい先日もある作品が、まさしく私の感覚を豊かにしてくれました。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』

(またなんと意味深なサブタイトルでしょうか!)

この作品だけでも、表現したいことが山ほど出てくるのですが大要だけ。

インタビュー映像の中で、アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督は、「観客にはこの作品を、主人公リーガンの目を通して体験してほしい」、そして「小さな"バードマン"は誰の中にも存在する」と語っています。

また主人公を演じた マイケル・キートンは、「彼は精神を病むと同時に、自己実現の機会を得たんだ。」とも語っています。(すごい!)

『バードマン』への評価は、この二人の言葉(の意味)に共感でき、映画を観ることで実際に自分の目を通して「体験」できるかによって、大きく分かれてしまうのかもしれません・・・。

ラストシーンについてのみ、私なりの解釈を。
私は、リーガンは新しい鼻をつけ(ペルソナを得て)、20年間くすぶり続けていた日々と"バードマン"に別れを告げ、新しい世界に羽ばたいていったんだと思います。
そしてその新たな道の途上で、更なる自己実現に向けて、別の"バードマン"に出会うこともあるのかもしれません。
リーガンの旅はまだ終わっていない、今から「新しい舞台に立つ」と信じたいと思いました。



最近気になった作品をもう一つ挙げます。
といってもこちらは映画ではなくTVドラマです。

先週から日テレで、『Dr.倫太郎』というドラマが始まりました。
観られた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私は、このドラマが始まることを直前にたまたま知り、「精神科医が主人公」、「脚本が中園ミホさん」という点にアンテナが立って、第一回放送を視聴しました。
中園ミホさんが過去に書かれたドラマ、『ドクターX』では、ちょっと面白いことがあって、実は自分の分析でも取り上げたことがありました。)

そして、久しぶりに"連続"ドラマを観ることに決めました。

第一回放送内容だけでも考えさせられる点があり、個人的にはストーリーに強い関心が湧いたので
少し調べてみたところ、原案となった著作があるようです。


セラピューティック・ラブ [単行本]

今のところ読む予定はありませんが、上記の内容紹介をチラ見したところ、どうも「転移と逆転移」
の話になっていくのかな、という感じです。


ドラマの中で、倫太郎は逆転移について、「自分にはあり得ない」という自信をチラつかせながら雄弁に語っている場面がありましたが、今後、自我(頭)ではコントロールできない強烈なこころの渦に
巻き込まれていくのかもしれません・・・!?


「倫太郎の物語」に沿って、私も色々と感じたり考えたり、勉強できればなと期待しています。


心理療法というのは、単なる人生相談ではなく、人間の心の深いところにまで入りこんで
いきますから、下手にやると、クライエントはおろか、治療者もおかしくなってしまうことにも
なりかねません。

それだけ危険をともないますので、そういうことを避けるためにも、現実的でセレモニー的な枠を
はめておく必要があります。        


自分なりの枠組みをもっていないと、心理療法家のほうがまいってしまいます。
しかも、人の役に立ちたいという思いが強い人ほど、このことに気をつけなければ
ならないでしょう。          

                                      【河合隼雄】





「倫太郎の物語」に沿って、精神分析やカウンセリング、こころの世界に関する認知が広がることも
期待しています。




現代の寓話は、決して色あせない文字の独特の世界とは別に、素晴らしい映画やドラマの中でも、
息づいているような気がします。




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