心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

「ただ一つのもの una res 」

Cartesian Theater illustration published in a book!
 Cartesian Theater illustration published in a book!/Jen Garcia

前回記事の最後で、敢えて自分への課題として書いた一文も、
案の定・・・果たせないまま年を越し、(やはり無謀だったと反省)
早く本題に取り掛かりたいと思いながら日々を過ごしてきましたが、
そんな中、大変興味深い記事を見つけてしまいました。

よって、予定変更で今日は別の話題を取り上げます。


まずは、ぜひ以下のwebサイト記事をご一読ください。



脳が意識を生み出しているわけではない」


「死後の世界」が本当に在るかどうかについては、そもそも「‟現世”という世界をどう解釈するのか」という問題になってくると思いますし、「脳は意識の受け皿にすぎない」という表現にも、若干のズレを感じるので、個人的には、タイトルの言葉
100%同意ではないのですが、記事内の、
「脳が意識を生み出しているわけではない」 というランザ博士の言葉には、
‟激しく同意” でした。


上の記事では、量子力学の「二重スリット実験」において、「観察者がいる場合といない場合で、物質の性質に変化が現われるという‟非科学的な”事態が生じる」ことを、「物理的世界に直接の影響力を持ちそうもない『観察』という‟意識的な”行為が、どういうわけか量子レベルでは大きな影響力を持ってしまっている」として、ランザ博士の「意識が物質世界よりも根源的だ」という考えを紹介しています。

また、ランザ博士より以前に、同様の考えを示していたとされる、物理学者についても触れられています。


量子論の生みの親であるマックス・プランクは、「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学賞を受賞した理論物理学者ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の法則を定式化することは不可能だった」と語っている。

                                【上記webサイトより】
(ユング心理学的には、上記内容の「意識」を「無意識」という言葉に変換した方が理解しやすいかもしれません。)



以前にこのブログ「物理は心理(!?)」において、動いている人と動いていない人の時間と空間の関係を考えたとき、「自分を基準に相手の速度を見るという『相対的な捉え方』をすれば、矛盾点」がなくなるという、アインシュタインの相対性理論と、ユングの「観察者の心的条件によって時空や物体が相対化される」という内容を取り上げました。



外的な事象、物質の動きや性質を捉える上において、その物質の動きや性質、時空などは「それ自体が絶対的」なのではなく、その事象を観察する側、観察者の(有無も含めた)状態が、物質を含めた外的世界を特定する大きな要因になっている、という論理。

これが真実
(と私も思っていますが) であれば、 れを体験(主観)しているのも、同時にその体験を通して世界の諸々を知ること(客観)ができるのも、「‟意識”を持った人」ということになり、その存在がなくなれば、世界もなくなるということになるはずです。


だからこそユングは、
「こころ」の価値を、そしてそれを持つ「個人」とその体験の価値を説いています。



ユングは心理学者として、「こころ」というものが、「無意識」というものが、いかに私たちの存在の‟根源”であるかをさまざまな論点から主張していますが、ユングの高弟であるフォン・フランツの以下の文が、ランザ博士等の論理に沿う形で、ユングの考えを端的に表わしていると思います。

物質はユングが推測したように心(psyche)の具体的な相(アスペクト)である。

それも個人的な心のそれではなく、集合的無意識のそれであり、諸元型はその場合、単に集合的無意識の構造特徴であるばかりでなく、宇宙形成要因そのものであるということである。

いずれにしても、共時性現象はこの方向を指し示している。
                                     『結合の神秘』



「脳が意識を生みだす」、「意識が脳を生みだす」という、‟どちらかが最初にあってもう片方が後から派生する”という因果関係ではなく、物質と心は相対的、共時的なものであると、ユングはそう考えていました。

そして、その両方の‟根源”が「無意識(自己 ゼルプスト)」であり、それはマクロコスモスもミクロコスモスもすべてを含む、「ただ一つのもの 
una res 」 だということなのです。




私たち人間は、ひとりの個体としても、心身(意識と物体)様々な ‟区別” のレベルで、同時に ‟同調”しており、またその構造は、もっともっと大きな宇宙を含めた、時空をも超える‟全体”としても同様である。

このような考え方は、ユングをはじめ、古今東西の哲学者や神秘主義者、宗教家、そして科学者にも多くの支持者がいる、神話の時代から受け継がれてきた「世界の原理」です。



われわれが自然をより高度な意味で、現象してくる一切のものの相対概念と考えるなら、その一つの側面は 物質的(physisch)であるが、もう一つの側面は霊〔精神〕的(pneumatisch)である。

                                     【C・G・ユング】                                             



あまりにも有名な老子の「道 Tao」も、ユングも注目していたとおり、‟同様の考え”を示しています。

物有り混成し、天地に先だちて生ず。寂たり寞たり、独立して改まらず、周行して殆まず。
以て天下の母と為す可し。
吾れ、其の名を知らず、之に字してと曰い、強いて之が名を為してと曰う。
大なれば曰に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反る。
道は大なり、天は大なり、地は大なり、王(人)も亦た大なり。
域中に四大有り、而して王(人)は其の一に居る。
人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。
                                        『道徳経』


‟医学の父”と呼ばれるヒポクラテスも、次のように述べています。

そこにひとつの共通の流れ、共通の息吹きがあって、すべての事物が共感し合っている。
その有機体全体とその部分のおのおのが協同して、同一の目的のために働いている。

その偉大な原理が末端の部分にまで延長しており、そしてその末端の部分からそれは偉大な原理へ、ひとつの自然へ、存在と無へ向かって帰ってゆく。


関連して、ユングの言葉です。


「自分の必要とする一切」omne quo indiget を自分でそなえていること、自らを孕ませ、産み、殺し、呑み込むあの龍のように完全に自立的存在であることこそ、まさに変容物質の特徴なのである。       
                                     【C・G・ユング】 

ユングが研究した錬金術書物の一文。


いくつかの自然が存在するというわけでもなく、
存在するのは、神の自然物を凌駕するもろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である。

                                       『賢者の群』
 


日々、実際に私たちの体内で繰り広げられている 細胞レベルの活動、自らの身体でありながら ‟意識することなく”自律的に営まれているその驚異の現実を考えると、ひとりの人間も「変容物質の特徴」を備えた「もろもろの力を内にそなえたただ一つの(una)自然である」 という認識は、 (表現のイメージのみに観念的に惑わされないのであるとしても)最も理性的判断に適っていると私には思われます。





さてここで、過去記事の「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」 で引用したハメロフ博士の言葉をもう一度取り上げます。

「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。  
  

脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

量子コンピューターでは 「量子もつれ」という未知のプロセスを経て  情報が伝達される。

空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。



今日、始めの方で引用した「量子論の生み の親であるマックス・プランク」は「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と語ったとされていますが、「量子論の育て の親」と称されている ニールス・ボーアの「対応性の理論」に関連して、ユングが60年以上も前に既にこのように述べています。


宇宙的原理が最も小さな分子の中にさえも見出され、その分子はしたがって全体性に対応しているのである。


ちょうどある生命体のなかで、その異った諸器官が調和して働き、相互に意味深く適合し合っているように、この世界のなかの出来事は意味深い関係*1 の中にあり、この関係はどのような内在する因果性からも推論され得ないものである。
その理由は、いずれの場合においても、各部分の行動がそれらを超越的に秩序づける中心的制御に依存しているからである。            
                                   
 【C・G・ユング】 
(*1 この部分は、前述のヒポクラテスの論とも重なります)

ユングは、因果律では説明のできない現象があるとして「共時性」の概念を唱えました。

また、なぜ因果的な相関を見出せない中で、共時的な「同列の現象」、「対応した現象」が起こるのかということについて、経験的土台を軸にして、深層心理学の見地から考察、研究を重ねた上、「自己(ゼルプスト)」を定義しました。

そしてその過程において、異なる切り口、異なる立場、異なる分野の中に、同じ観念が語られていることを発見していたのです。



量子という最も小さな分子が、宇宙という最も広大な空間にも対応している。


今後、量子力学の解明が進んでいけばいくほど、物理学は否が応でも心理的現象への接近を迫られ、同時に、深層心理学の研究が進めば、その名のとおり
物理学を取り込んだ「超」心理学への理解が深まっていくのかもしれません。


荘子はこのように述べています。


(古代の賢者たちは)、事物が存在し始めない状態を彼等の出発点とした。
これはまさに極度の限界で、誰もそれを越えることはできない。

次の仮定は、事物は存在しているが、それらはまだ分離され始めていなかった。
次は、事物はある意味では分離されているが、肯定と否定が未だ始まっていなかった。

肯定と否定が存在し始めると、道は衰えた。
道の衰えの後に、一面的な執着心が生じた。

外部から聞こえることは、耳に届くだけでそれ以上浸透することはない。
知性は分離された存在を導こうとしない。
かくて、魂は空となり、全世界を吸収する。
この空をみたすものこそ道である。

その内なる目と内なる耳を用いて、事物の核心を貫ぬくこと。
すると知的な知識は不必要となる。


ユングも、自然科学的な‟知性だけ”では事象を説明しきれないと考えていました。


人間はその肉体と精神において「この世界の小さき神」であり、小宇宙である。

従って人間は神の如く事象の中心であり、すべての事象は人間を中心としてまわりをめぐっている。

このような思想は、現代人の精神にとってはまったく奇妙なものであるが、自然科学が人間の自然への従属性とその原因への極度の依存性を証明するまでの二、三世紀以前までは、人間の世界観を支配していたのである。

事象と意味(これは今ではまったく人間だけに帰着している)との間の相関関係というこの概念は、非常に遠い暗黒の領域に追放されたので、知識人たちはその足跡をまったく見失ってしまった。

ライブニッツ(G.W.Leibnitz)の科学的説明の中で、そのことが主要な項目のひとつを形作っていたが、その後、いささかおくればせながらショーペンハウエルがそれを思い起こしたのである。


近・現代の理性には、物質的なものを過大評価するあまり、精神的方向づけ、すなわち霊(pneuma)による方向づけが欠けている。


物質と心。物理学と心理学。

それぞれが個別の立場だけに執着してしまうと、どこかでその発展は頭打ちにならざるを得ないのかもしれません。




締めくくりに、過去のブログでも何度か引用した、
哲学者の西田幾多郎の、私が大好きな言葉をまた取り上げます。


我々に最も直接である原始的事実は意識現象であって、物体現象ではない。
我々の身体もやはり自己の意識現象の一部にすぎない。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。

即ち意識現象あるのみである。
物体現象というのはその中で各人に共通で不変的関係を有する者を抽象したのにすぎない。

我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                    


 ‟すべての道は自己(無意識)に通ず”





さて、最後は映画の話題です。

このブログの書き始めとちょうど時を同じくして観た映画  『ドクター・ストレンジ』

狙ったわけではなかったのですが、奇しくも、今日の記事と重なる「意識と物質の相対性」や「精神世界と物質世界」のおはなしで、私にとっては、ただのアメコミ原作ぶっ飛び魔術師映画ではなく、本当に現実にも通じている深遠なテーマを扱っている作品だと、映像はもちろん、内容的にもとても楽しめました。(一方、テーマが深遠すぎて、まとまり切れていない感も拭えませんでしたが、どちらにせよ制作陣には興味が湧きました。そもそも原作を知らないので、映画のそれがどちらから生まれたのかも私には全く分からないのですが・・・。)

特に、エンシェント・ワンの(最期を含む)いくつかのセリフには、個人的にはとても感じ入るものがありました。

あと、エンドロールに美しい曼荼羅の映像が次々と流れてくる場面があります。
自分のこころから自然に湧き出てくる曼荼羅と意味合いは少し異なるとしても、「ただ見ているだけ」でも、個人的には心落ち着くなにかを感じずにはいられませんでした。
これから映画に行かれる方はぜひ、最後まで席を立たずに、大画面でその映像美を楽しんでみてはいかがでしょうか。

‟それ”は、今日のブログのタイトルである「ただ一つのもの」の象徴です。

見逃すのはもったいないなと思います。



【参考文献】
C・G・ユング『結合の神秘 1 ユング・コレクション (5) [単行本]』 人文書院(1995-08)
『老子』 2013年8月 (100分 de 名著) [ムック] NHK出版(2013-07-25)
C・G・ユング『自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 [単行本]』 海鳴社(1976-01)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)


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葛藤の中に身を置く

fork in the road, loring park
fork in the road, loring park/Connie

「"葛藤保持力"の続きは改めて」と締めくくってから、なんと1年以上も経ってしまいました・・・。
(そして前回更新からは早5か月・・・

今年度は何かと重なってしまい、ブログの更新も例年よりさらに後回しになっている中、でも、その後の記事でも、続きを「きちんと書くつもり」「必ず書きます」と記した気持ちにウソはなく、ずーっとその思いを"保持"し続けていたのですが、さすがに我ながらその抱えている感に堪え難くなってきたので、やっと重い腰を上げることにしました。


今回は「心の有り様」続きを書きます。



さて、もう何年も前になりますが、(私の分析家の)藤南佳代先生に、「第三の道」について教えていただいたことがあります。

AとBの道がある。でもどちらも選べない。
だがその葛藤に堪えていると、Cという「第三の道」が自然に開けてくる。



AとB、という二つの道について、ここからは私の感覚で書き進めたいと思います。

目の前に、今まで歩んできたAという道とは違う、もう一本のBという道が見え始めたとします。
「私」はその分岐点に立っていて、前に進むためには、二つのうちどちらかの道を選ばなければならない。

ここで、迷わずAの道をそのまま進んで行けるのであれば、何の問題もありません。
でも、Bという新しい道を見つけてしまった時点で、その人は既に、Aの道を 何も感じずに そのまま進んで行くことができなくなっているはずです。

だからといって、そう簡単にBに進むわけにもいかない。

だって、どちらかの道を選んでしまったことで、何かを失うかもしれない。
でも、どちらかの道を諦めてしまったことで、自分の大事な本当の思いを殺してしまうことになるかもしれない。


どちらも簡単には選び取れない、どちらも簡単には棄て去れない。
二つの道のどちらに進んでも、自分にとって何かしらのダメージが想定される場合、私たちは分岐点に立ち尽くしたまま、身動きが取れなくなってしまうことがあります。

葛藤のはじまりです。



そもそも現状に(少なくとも自我が)満足しているのであれば、分岐点には立っていないはずです。
何の迷いも戸惑いもなく、今まで歩んできた「一本道」をそのまま進めばいいだけなのですから・・・。

でも、自分の現状に疑問や不満を抱いている人、自分の変化の必要性に気づいてしまった人には、 今日まで歩んできた道とは違う、「別の道」が見え始めることがあります。


だけど、別の道に進路を変えるには、それ相当の覚悟と痛みを伴うことが容易に想像される場合、 やはり、今まで歩んできた(そしてそれは往々にして、無難・安定だと本人が感じているであろう)道を 簡単に棄て去ることは、なかなかできないはずです。

ですが、その人にはもう「別の道」が見えてしまっているのですから、一度見えて(気づいて)しまった その道を、簡単に"なかったこと"にすることも、もうできない。




このようなどちらも簡単には選択できない、相容れない自分の欲求を感じる「葛藤」の状態について、心理学では次のように定義されています。

「人がもつ複数の欲求が対立して、一方の欲求を満たすと、他方の欲求が満たされないという状態」
だとして、レヴィン(心理学者)が葛藤(conflict)を3つの型に区別しています。

 \楸-接近型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに正の誘発性をもち、両方ないしはすべてを満足させたいが、同時にそれをかなえることができないような場合。

◆_麋-回避型の葛藤
2つまたはそれ以上の欲求の対象が、ともに負の誘発性をもち、どれをも避けがたいが、それが出来ないという場合。

 接近-回避型の葛藤
欲求の対象が同時に正と負の誘発性を有する場合。
また、負の領域を通過しなければ、正の領域に到達できない場合。


どのパターンにせよ、結局は、折り合いのつかない欲求の板挟みになるわけですが、その欲求を引き起こしているのはなにかというと、当然ながらそれは「自分のこころ」であり、しかも「自分自身で簡単にコントロールできないもの」(無意識から沸き起こって来た欲求であることが多い)であるからこそ、苦しみを伴うものとなります。



人はよく、「環境のせいで葛藤が生じている」と感じる場合がありますが、例えば、傍から見て恵まれた素晴らしい環境に置かれている人がいたとしても、その個人に葛藤が起らないとは限りません。
また、逆のパターンもあり得ます。

絶望的な環境に置かれても、
「ほんのひとにぎりではあるにせよ、内面的に深まる人びともいた。」
と、受難の体験者である心理学者フランクルは、あの有名な著作『夜と霧』の中でその事実を明らかにしています。

収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。
けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房
2002-11-06



『夜と霧』での環境は、厳しい制約の中での生命の維持という究極的な問題であり、たしかに極端な例ではありますが、でもそんな中ですら、フランクルは「内なる自由」を得ることができるとしています。

結局、どのような環境下であっても、自分の心が適合できている場合は心理的な不自由は生じませんし、それを無理にでも変化させようとする欲求も起きません。

逆に言えば、「欲求が満たされていない」と感じるのも、変化という「新たな欲求を呼び起こす」のも、あくまでも「自分のこころ」であり、それはとても主観的なものだということです。



ただし、葛藤を"感じられている"ということは苦しくはあっても、決して「悪いこと」ではなく、自分のこころの状態に何かしら"気づけているのだ"とも言えます。

自覚されない(ほぼ意識化されていない、言葉通り"無意識的な")欲求というものもあり、その場合は、神経症や行動の混乱、性格障害などで現われることも多いからです。
葛藤という、引き裂かれそうな感情に晒される代わりに、別の苦しみを背負わされることになるわけです。
(その事実を知らない当の本人に、気づきを促す、意識化していく作業が"心理療法"のひとつです。 前記の『夜と霧』に書かれている、「苦悩があってこそ可能な価値」を実現し、「完全な内なる自由」の状態を得るとは、その先にあるものです。)



河合隼雄先生は「葛藤」について次のように説明されています。

葛藤の存在は意識化の前提である。
葛藤を解決しようとして、われわれは無意識的な内容に直面し、それを意識化することになる。
葛藤を経過しない解決は、意識・無意識の区別があいまいなままで、全体として調和した状態にあることを示している。
                                          【河合隼雄】 




意識と無意識の状態に、まだ際立った摩擦が表面化していない場合は、「調和」という、自我にとっては楽な状態に置かれているのかもしれません。

でも、「自分」という存在は、常に一定ではいられません。
外的にも内的にも変わっていくし、自我と自己(意識と無意識)の関係性も変わっていかなければならないし、変わらざるを得ないものでもあります。




夏目漱石の小説、『それから』の中で、主人公の代助が、「昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべき筈である」のに、それを自認していない父について、このように表現しています。

もし双方をそのままに存在させようとすれば、これを敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。
もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。
夏目 漱石
新潮社
1985-09-15



矛盾に気づき、それを自認し、さらにその"分別"がついている代助は、この作品の中でさまざまな葛藤の苦悩を味わっています。

『それから』は、意識と無意識の対決、自己実現の苦しみの物語であると解釈すると、私にはとても納得、共感できる部分が多いのです。
(物語のその深い意味に気づいたのは、やっと、ここ数年のことです。気づけるたびに、漱石への敬意は高まります。)




どちらにせよ、「自分の気持ち」であっても、相反するものが存在し、自分でもどうにもならない状態に陥る「葛藤」は、大小の差はあっても、誰しもが経験することだと思います。

やろうと思っていることができなかったり、止めようと思ったことが止められなかったり、どうにもならない感情に苛まれて「頭では分かっていても」、気持ちは全然抑えられなかったり・・・。

いかに、「自分」という存在が、簡単にコントロールしきれるようなものでないか。
そのことを、一人ひとりがしっかりと掘り下げて考えてみるだけでも、自分や他者に対する考え方や感じ方が、少しは変わってくるのではないかと思います。




実際に誰しもが、こころの内側に自分の知らない大いなる己が存在していて、 決して逃れることのできない「心の有り様」を抱えて生きていますが、だからこそ、自覚してその己にきちんと向き合い、何とか折り合いをつけていくことができてこそ、「第三の道」が開けてくるのです。


そしてその「第三の道」とは、自我という小さな私が小手先で拵える様な「とりあえず」のものではなく、もっと決定的なものなのでしょう。

忍耐と不屈の精神を伴う葛藤のなかから、予想もしなかった運命的とも言える解決が 当事者の内に現われてくる。                                
                                        【C・G・ユング】



「第三の道」について書くつもりが、イントロダクションが長くなりすぎました。
本題は、今年中には更新できればと思っています。



「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」


Paul_Gauguin_-_D'ou_venons-nous








 D'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?


先日、とても興味を掻き立てられる番組を見つけました。

即、録画予約をして、まとまった時間がとれたときにじっくりと視聴したその番組は、予想を超える、
ドキドキワクワクものの内容でした。
 
それは、いつも優先順位の後ろに追いやってしまっている、このブログの更新に、集中させてくれる
エネルギーを私に与えてくれました。




案内役が"モーガン・フリーマン"ってだけでもう、直観的に「これは!」などと思ってしまったのですが、
観た後には「まさに!」と、これまた一人で勝手に納得してしまったわけです。(その理由は後ほど)



後で知ったのですが、この「時空を超えて」シリーズは、以前既に放送されていたようですね。
その時には全く知らず見逃していた私ですが、この度、事前に情報をキャッチできて本当に
良かった、とつくづく・・・。
正直、「こんな番組が作られていたなんて」と、いろんな意味で感動でした。




NHK Eテレ モーガン・フリーマン 時空を超えて・選「死後の世界はあるのか?」

各学問の研究者が、自身の専門分野を切り口にして様々な観点から検証。
脳神経外科の権威、ハーバード大学のエベン・アレクサンダー博士の"臨死体験談"や、多くの臨死体験者達が語るそのような体験の共通点、ちなみに、ユングにも臨死体験にまつわる興味深いエピソードがあることは有名で、自伝にその詳細が残されています。そして、ユングの体験にも共通点が語られていることを確認できます。)、その他、意識や魂についてなど充実の内容でしたが、その中でも私が特に惹きつけられたのは「量子もつれ」の話でした。


以下、番組からの引用です。


アリゾナ大学 意識研究センタ―所長のスチュワート・ハメロフ博士は、麻酔科医として多くの患者を診るうちに、脳の活動と意識との関係性を知りたいと思い、イギリスの著名な物理学者  ロジャー・ペンローズと共同研究を始めた。


・脳細胞の中にある「マイクロチューブル」と呼ばれる構造
マイクロチューブルは、脳細胞の中にある管のような構造で、「細胞骨格」の一種であり、細胞の構造を決定づけている。
マイクロチューブルは、細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられる。
脳を「量子コンピューター」として機能させる役割を担っていると考えられるのである。

脳は一つのニューロンが活動すると、シナプスを通じて他のニューロンに、そして脳全体に信号が送られていく。
これが従来の考え方だが、量子コンピューターでは
「量子もつれ」という未知のプロセスを経て
  情報が伝達される。




ハメロフ博士はこのように述べます。

「量子もつれ」は意識と深い関係があると考えている。

ある場所でニューロンの活動が起きたとする。
すると空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。


量子論によれば 「何もない空間でも情報が伝わる」 というのです。


「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。
あらゆる方向に情報が伝わるため、ある場所で何かが起きると、影響がすぐに離れた場所にも及ぶ。

この説が正しければ、マイクロチューブル内の情報が、脳の外にある広大な空間と繋がる可能性がある。
脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

人間の意識は脳を構成するニューロンよりも、もっと基本的な宇宙の構成成分のようなもので
出来ている。
                                          
   
                                 

さらに、ハメロフ博士が定義した「原意識(プロトコンシャスネス)」について、そしてその他の研究者の意見も含め、全編を通して、まさに番組内でモーガン・フリーマンが口にした問いかけ、「意識とは
何か
という問題です。意識とはどこから来て、死後、どこへ行くのでしょうか。」という知的好奇心を、
十二分に刺激してくれる話ばかりでした。



ハメロフ博士は、「生物学上の様々な現象が、量子論を応用することで説明可能だと(近年になって)分かってきている」とも、述べられていました。

「ユング心理学の"シンクロニシティ"の現象が、いつか、量子論によって説明できる日も来るのかも
しれない。」などと、量子論なんてまったく分からないけど、ただの門外漢としての一個人の夢は
膨らみました。



□■□■□■□■□

さて、ここからは少し話題を変えて、前述した(その理由は後ほど)について書きます。


2014年に公開された映画 『LUCY/ルーシー』


「10%しか使われていない人類の脳が徐々に覚醒し、100%使えるようになるとどうなってしまうのか!」というようなフレコミを見て咄嗟に、
「10%しか意識化できていない人類が、100%意識化できるとどうなってしまうのか!」
という置換を、私の頭の中のマイクロチューブルが勝手におこなってしまい、チラリと見た予告編と、
「主人公の名が"Lucy"」という点にも淡い期待を抱きつつ、映画館に足を運びました。

さてその(個人的)感想はというと、鑑賞前の"淡い期待"は脆くも崩れ落ち、近年見た映画の中でも
トップクラスの衝撃を与えてくれた、大傑作でした。
(よって、我が家の「DVDコレクション」にも当然仲間入りです)

今日の記事、ご紹介した番組の内容に関心が高い方であれば、多分、この作品を「トンデモ映画」
ではなく、とっても"面白く"観ていただけるのではないかと思います。


ちなみに、当時鑑賞後につぶやいた私の一言感想です。 ↓
意識化が極限になると「人」はどうなってしまうのか。
そのイメージが見事に表わされていたように思いました。

個体化の全過程は弁証法的であり、いわばその「終極」は、中心の「空虚さ」と自我が直面することです。
ここには、あらゆる経験の可能性の限界があります。
自我は認識の参照点として解消されるのです。
しかし、自我は中心と一致することはできません。
もし、一致したとすれば、われわれは無意識になってしまうでしょう。
つまり、自我の解消は、最善の場合でも無限の近似にすぎないのです。
自我がこの中心を簒奪すれば、自我は対象を失ってしまいます。
                                              【C・G・ユング】



前置きが長くなりましたが、この映画に、権威ある脳科学者役で、モーガン・フリーマンが出演して
います。

映画とドキュメンタリー番組と、どちらの出番が先だったのかは知りませんが、とにかく「LUCY」→
「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」と観た私は、「これは!」「まさに!」と、
モーガン・フリーマンが、2作品の共通の全体像への橋渡しをしてくれたような感覚を持ったのです。

上手く表現できませんが、モーガン・フリーマンが"案内役"でなかったら、タイトルにその名前が
なかったら、私は「時空を超えて」を、未だ知らずに見過ごしてしまっていたかもしれません。
そして、2つの作品の相乗効果が、(あくまでもイメージではありますが)理解の一歩を確実に
推し進めてくれたのは間違いありませんでした。


現在ではまだ仮説にすぎない意識や魂、こころについての理論も、これから少しずつさらに発展して
いくのだろうと、未知の世界の広がりや可能性を思い、心が解放されていくような気さえしました。



□■□■□■□■□




「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」も「LUCY」も、"脳科学"の視点から人間を探求して
いますが、その視点を"こころ"に置き換えても、探求の道は同じ方向に向けて、交差しつつ、
繋がりあいながら、開けてくるのではないでしょうか。

エベン・アレクサンダー博士が自身の臨死体験を「神経生理学や神経解剖学の様々な知識を駆使して自分の体験について考えてみた。しかし、私の身に起きたことを神経科学によって説明することは不可能であるという結論に至った」という話や、ハメロフ博士が「脳死宣告を受けた患者の、血液が流れていない脳に、ニューロンが爆発的に活動している現象を確認した。驚くべきことだが、まさにこの目で見たのだ。」といった話など、やはり、 脳とこころは決して切り離せるものではなく、深いレベルで相当に影響しあっているのだと、今まで夢分析を受けてきた自分の体験も重ねて、強くそう思います。


というより、西田幾多郎が述べていることそのものだと、私はその考えに深く共感しています。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。


我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                     『善の研究』




それでは、ユングの自伝からの言葉で、今日は終わりにします。


理性はわれわれにあまりにも狭い境界を設定している。そして、われわれに既知のこと―それに対しても限界をもって―のみを受けいれしめ、既知の枠組の中で生きてゆくようにせしめる。
それは、ちょうど、われわれが生命がどの程度の範囲までであるかを確信しているのと同様で
ある。
実際のところ、われわれは毎日毎日、意識の限界をこえて生きている。
つまり、それに気づいていないが、われわれの中で無意識の生命もまた、続いているのである。


心の一部は、時空の法則に従わないという徴候がある。

顕在的な世界の背後にある異なった体系をもつ世界の存在の可能性は、避けることのできない問題となり、われわれの世界は、その時間、空間、因果律と共に、その背後あるいは、下に存在する他の規範によるものと関係している事実に直面しなければならない。





奇人変人ノススメ




昭和から平成にかけての時代をつぶさに見、風刺してきた、こんな人生、送ろうと思ったって
なかなか送れない。
その結果水木さんが得たのが「人生におけるけたはずれの経験値」である。
                                              【大泉実成(編者)】



━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─

前回記事を書いたのが秋ですから、年末年始どころか、季節をひとつ飛び越してしまった感じですが、
その間に、とてもとても残念なニュースが飛び込んできました。
昨年11月末の 水木しげるさん の訃報です。

「心の有り様」の記事の続きもずっと書きたいと思っていたのですが(必ず書きます)、
でもやはり、今日は私の尊敬する水木しげるさんについて、お悔やみの気持ちも込めて、
"私の勝手な考えと思い"を綴っていきたいと思います。



ご逝去の一報を目にして、胸に込み上げてきたのは、
「ああ、これでまた、自己(Self)の体験者である方がひとり、お亡くなりになった・・・。」
という、何とも言えない寂しい気持ちでした。

もちろん、面識などあろうはずもない水木しげるさんに、私が敬意を込めた関心を持つようになった経緯は、5年以上も前にこのブログで書いたとおりです。

「ゲゲゲの女房」
「妖怪とは人の心の中にいる」
目には見えないもの
無為に過ごす


「妖怪とは人の心の中にいる」の中で、
「ご自分の深いところとのパイプを、水木しげるさんも(もしかしたら)持っていらっしゃるのかも
しれません・・・。」
と、当時書いたのですが、その後、水木しげるさんが残された"名言"を知るうちに、その思いは、
私の中で確信になっていきました。

また、ある番組を通じて知った、
水木しげるさんが出征先の現地で「ぬりかべ」に"命を助けて"もらった体験、
幼少期にも"妖怪を見た"ことがあるというエピソードや、
(それらの幻視は、水木しげるさんにとっては"現実"だったはずです)

そして、以前の記事でも少し書きましたが、戦争の混乱時、死を強く意識せざるを得ない中で、
ゲーテを始めとする哲学書や聖書、仏教書をむさぼるように読み、「生死」について真剣に
"悩み、考えられた"こと。

何より、実際に戦地に赴かれ、想像を絶する凄惨な状況を生きぬかれたその"ご体験"。


水木しげるさんのこのような"けたはずれの人生経験"や、残された"名言"を知るたびに、
私にとっての水木しげるさん像は、ご自身がそうおっしゃられたとおり、
「漫画家」から、漫画という表現を用いられた「哲学者」に変わってしまったのです。


わたしゃ、あんた、ベビィのころから哲学者でしたよ。

マンガ家というふうに見ると、水木さんの正体はわからんです。
マンガは、生活の手段であり、表現の手段なんです。
                                            





漫画を描くことを通じて、自分が"何をしているのか"・・・。

目に見えないものが、神から妖怪にいたるまで、どのようにつながってるか、目に見える形で、
レンガのように積み重ねていかないとならんわけです。

目に見えないものを形にするのはアボリジニと水木さんです。
あとはあんまりがんばっとらんです。
せっかく精霊たちが自分の形を欲しがっとるのに。

私は漫画を描くときに、半ば無意識になるわけです。
だから、何か外側の力に描かされているという感じが半分以上あるんです。
ただ、それを描くことによって非常に充実感があります。

私はいつも、私の書いたものの中に、いわゆる"霊"がふくまれているわけなのだが、
誰もそれに気づいてくれないので、不思議に思っている。



"偶然"のことも・・・。

水木さんが考えているよりも、偶然のほうが賢かったです。
偶然のほうが賢いんですよ、人間が考えているより(笑)。



"夢"のことも・・・。

いや、我々は夢の世界(無意識)からやってきて夢の世界に還る存在にすぎない。
夢の世界が故郷であり実在なのだ。いまは人間の世界に生きまた故郷にかえっていく。

夢現っていうのがあるようですね。
夢のときに明快な判断が与えられたりする。
夢は三分の一ぐらい現実に入ってるんじゃないでしょうか。

セノイ族は"夢"について、かなりくわしい民族らしいが、なんとそこに、ものすごく妖怪が
いたのには驚いた。
夢や無意識の状態というのは、精霊を感じる力が、覚醒時の五倍もあるらしい。

(前略)霊的なもの、神との交流点だと私は考えています。
(中略)夢で伝授されるんですよ。



"無為"の意味も・・・。

努力は、人を裏切る。
少年よ がんばるなかれ。
あわてずにゆっくりやれ。
なまけ者になりなさい。

("自己"を信じきることができないかぎり本当の実践は不可能です。安易な真似事はもちろん、ただの怠け者では、その先に待ち受けているものは失敗や転落です。「自然な流れに委ねる」)


そして"無意識"についても・・・。

(前略)賢くなってきて、いろんなことに気づくようになってきた。
・・・・・・人間は、無意識から生まれてきて、気がついてみると、自分があるでしょう。
そしてまた無意識にかえっていくという感じでしょう。
無意識から生まれて・・・・・・また無意識に・・・・・・
そしてまた無意識から生まれて来るわけで・・・・・・
だから子供が無意識から気がついた時は、自分があるでしょう。
さらにまた無意識に帰って・・・・・・そして無意識からまた生まれる・・・・・・。



水木しげるさんは、すべて"知っておられた"のだとしか思えません。
だからやっぱり、そのご正体は哲学者。
しかも"実践"を伴って生き抜かれた、ホンモノの哲学者(philosopher)。


闇も光も体験されたであろうその人生は、まさに、
「神から妖怪にいたるまで、どのようにつながっているか」
をご自身で体得された、"自己実現"の歩みであったのだろうと、私にはそう思えるのです。




そして、体得者の水木しげるさんは、このような言葉も残していらっしゃいます。


(自分の幼年時を振り返って)
それにしても、ベビィのころから変人だった。

水木サンが長年にわたって古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が
多いことがわかりました。

さあ、あなたも、奇人変人になりましょう。ワッハッハ。



私は幸せのことしか考えないからよかったのです。
今の人々は、わざと幸せにならないよう努力している。



生きている以上、「幸福」を求めない人はまずいないと思いますが、だからこそ、水木さんの言葉が
意味していることは何なのか。

なにより、水木さんご自身の人生の軌跡そのものが、私たちに何を物語ってくれているのか。

大マジメに"変人"を目指してみるのも、充分価値があることだという気がします。



(仮面を買いながら)
同じものはいらない。
同じものはいらない。
他人と同じような仮面を被っていたら、安全だし、安心です。
でもそれでは、"奇人変人"にはなれません。



意識という「常識」の世界で、自覚して"奇人変人"を生きることは、
その覚悟や勇気を持つことを必然的に求められるようになるはずです。

「出る杭は打たれる」のは世の常ですし、"変わった人"には、色々と風当たりも強くなって
くるのかもしれません。




でも、水木さんは、様々な困難にも妥協することなく「自分だけの道」を切り開かれました。

「誰が何と言おうと」、"自己を生きる"ことを貫かれたのだと思います。


(奇人変人について)
こうした人たちには、好奇心の塊のような、わが道を狂信的なまでに追及している人が多い。
つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、わがままに自分の楽しみを追い求めているのです。
だから幸せなのです。






西田幾多郎や夏目漱石も、同様の「幸福論」を語っています。


真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。                           
                                                【西田幾多郎】


我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
                                                 【夏目漱石】 
(夏目漱石のこの言葉は逆説的に、自己実現に伴う苦難を彷彿させます)



すべて、ユング派でいうところの「個性化」、「自己実現」の生き方です。






長い自我の旅を終えられ、ご自身がおっしゃられていたとおり、
「無意識から生まれてきて、そしてまた無意識にかえっていかれた」、水木しげるさん。

一ファンとして、たった一度でもいいからお会いしたかったです・・・。


心より、こころより、ご冥福をお祈り申し上げます。




【引用文献】
水木 しげる 『水木サンの迷言366日 (幻冬舎文庫) [文庫] 幻冬舎(2010-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
夏目漱石 『私の個人主義 (講談社学術文庫) [文庫] 』 講談社(1978-08-08)


壁の向こう

今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価が
なされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、
いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)


私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だ
ストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこう
と思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む
機会はないままでした。

しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、
「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、
ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。

私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい
「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。


その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で
壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前
このブログでも取り上げた
、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。



しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、
ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、
文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが
味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。

壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。

壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」
おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)


そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、
「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います。



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"
自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、
「私」を保つことが出来ていたのでしょう。

一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、
あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。

そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、
改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた
未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、
あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、
その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。

もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。


「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や
 氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと
  思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                               『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。
                                               【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、
その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせて
くれようとしているように思われます。

そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。

現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると
感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせる
ことによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                              【河合隼雄】


『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、
多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。




さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。




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