心とこころを響かせて

ユング派の教育分析を受けるカウンセラーが、ユング心理学などをベースに「こころ」や「自己実現」などについて、自分の考えや思いを書き綴っています。

「意識とは何か、どこから来て、どこへ行くのか」


Paul_Gauguin_-_D'ou_venons-nous








 D'ou venons-nous ? Que sommes-nous ? Ou allons-nous ?


先日、とても興味を掻き立てられる番組を見つけました。

即、録画予約をして、まとまった時間がとれたときにじっくりと視聴したその番組は、予想を超える、
ドキドキワクワクものの内容でした。
 
それは、いつも優先順位の後ろに追いやってしまっている、このブログの更新に、集中させてくれる
エネルギーを私に与えてくれました。




案内役が"モーガン・フリーマン"ってだけでもう、直観的に「これは!」などと思ってしまったのですが、
観た後には「まさに!」と、これまた一人で勝手に納得してしまったわけです。(その理由は後ほど)



後で知ったのですが、この「時空を超えて」シリーズは、以前既に放送されていたようですね。
その時には全く知らず見逃していた私ですが、この度、事前に情報をキャッチできて本当に
良かった、とつくづく・・・。
正直、「こんな番組が作られていたなんて」と、いろんな意味で感動でした。




NHK Eテレ モーガン・フリーマン 時空を超えて・選「死後の世界はあるのか?」

各学問の研究者が、自身の専門分野を切り口にして様々な観点から検証。
脳神経外科の権威、ハーバード大学のエベン・アレクサンダー博士の"臨死体験談"や、多くの臨死体験者達が語るそのような体験の共通点、ちなみに、ユングにも臨死体験にまつわる興味深いエピソードがあることは有名で、自伝にその詳細が残されています。そして、ユングの体験にも共通点が語られていることを確認できます。)、その他、意識や魂についてなど充実の内容でしたが、その中でも私が特に惹きつけられたのは「量子もつれ」の話でした。


以下、番組からの引用です。


アリゾナ大学 意識研究センタ―所長のスチュワート・ハメロフ博士は、麻酔科医として多くの患者を診るうちに、脳の活動と意識との関係性を知りたいと思い、イギリスの著名な物理学者  ロジャー・ペンローズと共同研究を始めた。


・脳細胞の中にある「マイクロチューブル」と呼ばれる構造
マイクロチューブルは、脳細胞の中にある管のような構造で、「細胞骨格」の一種であり、細胞の構造を決定づけている。
マイクロチューブルは、細胞を一種のコンピューターとして機能させる役割を果たし、分子レベルで情報を処理していると考えられる。
脳を「量子コンピューター」として機能させる役割を担っていると考えられるのである。

脳は一つのニューロンが活動すると、シナプスを通じて他のニューロンに、そして脳全体に信号が送られていく。
これが従来の考え方だが、量子コンピューターでは
「量子もつれ」という未知のプロセスを経て
  情報が伝達される。




ハメロフ博士はこのように述べます。

「量子もつれ」は意識と深い関係があると考えている。

ある場所でニューロンの活動が起きたとする。
すると空間的に離れた全く別の場所で、それに対応した反応が起きる。
直接、接触していないのに、瞬時に情報が伝わる。


量子論によれば 「何もない空間でも情報が伝わる」 というのです。


「量子情報」は全ての空間、宇宙にも存在している。
あらゆる方向に情報が伝わるため、ある場所で何かが起きると、影響がすぐに離れた場所にも及ぶ。

この説が正しければ、マイクロチューブル内の情報が、脳の外にある広大な空間と繋がる可能性がある。
脳内の意識が、「量子もつれ」によって、広く宇宙全体に存在する可能性もある。

人間の意識は脳を構成するニューロンよりも、もっと基本的な宇宙の構成成分のようなもので
出来ている。
                                          
   
                                 

さらに、ハメロフ博士が定義した「原意識(プロトコンシャスネス)」について、そしてその他の研究者の意見も含め、全編を通して、まさに番組内でモーガン・フリーマンが口にした問いかけ、「意識とは
何か
という問題です。意識とはどこから来て、死後、どこへ行くのでしょうか。」という知的好奇心を、
十二分に刺激してくれる話ばかりでした。



ハメロフ博士は、「生物学上の様々な現象が、量子論を応用することで説明可能だと(近年になって)分かってきている」とも、述べられていました。

「ユング心理学の"シンクロニシティ"の現象が、いつか、量子論によって説明できる日も来るのかも
しれない。」などと、量子論なんてまったく分からないけど、ただの門外漢としての一個人の夢は
膨らみました。



□■□■□■□■□

さて、ここからは少し話題を変えて、前述した(その理由は後ほど)について書きます。


2014年に公開された映画 『LUCY/ルーシー』


「10%しか使われていない人類の脳が徐々に覚醒し、100%使えるようになるとどうなってしまうのか!」というようなフレコミを見て咄嗟に、
「10%しか意識化できていない人類が、100%意識化できるとどうなってしまうのか!」
という置換を、私の頭の中のマイクロチューブルが勝手におこなってしまい、チラリと見た予告編と、
「主人公の名が"Lucy"」という点にも淡い期待を抱きつつ、映画館に足を運びました。

さてその(個人的)感想はというと、鑑賞前の"淡い期待"は脆くも崩れ落ち、近年見た映画の中でも
トップクラスの衝撃を与えてくれた、大傑作でした。
(よって、我が家の「DVDコレクション」にも当然仲間入りです)

今日の記事、ご紹介した番組の内容に関心が高い方であれば、多分、この作品を「トンデモ映画」
ではなく、とっても"面白く"観ていただけるのではないかと思います。


ちなみに、当時鑑賞後につぶやいた私の一言感想です。 ↓
意識化が極限になると「人」はどうなってしまうのか。
そのイメージが見事に表わされていたように思いました。

個体化の全過程は弁証法的であり、いわばその「終極」は、中心の「空虚さ」と自我が直面することです。
ここには、あらゆる経験の可能性の限界があります。
自我は認識の参照点として解消されるのです。
しかし、自我は中心と一致することはできません。
もし、一致したとすれば、われわれは無意識になってしまうでしょう。
つまり、自我の解消は、最善の場合でも無限の近似にすぎないのです。
自我がこの中心を簒奪すれば、自我は対象を失ってしまいます。
                                              【C・G・ユング】



前置きが長くなりましたが、この映画に、権威ある脳科学者役で、モーガン・フリーマンが出演して
います。

映画とドキュメンタリー番組と、どちらの出番が先だったのかは知りませんが、とにかく「LUCY」→
「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」と観た私は、「これは!」「まさに!」と、
モーガン・フリーマンが、2作品の共通の全体像への橋渡しをしてくれたような感覚を持ったのです。

上手く表現できませんが、モーガン・フリーマンが"案内役"でなかったら、タイトルにその名前が
なかったら、私は「時空を超えて」を、未だ知らずに見過ごしてしまっていたかもしれません。
そして、2つの作品の相乗効果が、(あくまでもイメージではありますが)理解の一歩を確実に
推し進めてくれたのは間違いありませんでした。


現在ではまだ仮説にすぎない意識や魂、こころについての理論も、これから少しずつさらに発展して
いくのだろうと、未知の世界の広がりや可能性を思い、心が解放されていくような気さえしました。



□■□■□■□■□




「時空を超えて・選 死後の世界はあるのか?」も「LUCY」も、"脳科学"の視点から人間を探求して
いますが、その視点を"こころ"に置き換えても、探求の道は同じ方向に向けて、交差しつつ、
繋がりあいながら、開けてくるのではないでしょうか。

エベン・アレクサンダー博士が自身の臨死体験を「神経生理学や神経解剖学の様々な知識を駆使して自分の体験について考えてみた。しかし、私の身に起きたことを神経科学によって説明することは不可能であるという結論に至った」という話や、ハメロフ博士が「脳死宣告を受けた患者の、血液が流れていない脳に、ニューロンが爆発的に活動している現象を確認した。驚くべきことだが、まさにこの目で見たのだ。」といった話など、やはり、 脳とこころは決して切り離せるものではなく、深いレベルで相当に影響しあっているのだと、今まで夢分析を受けてきた自分の体験も重ねて、強くそう思います。


というより、西田幾多郎が述べていることそのものだと、私はその考えに深く共感しています。

我々は意識現象と物体現象と二種の経験的事実があるように考えているが、
その実はただ一種あるのみである。


我々の世界は意識現象の事実より組み立てられてある。
種々の哲学も科学も皆この事実の説明にすぎない。
                                     『善の研究』




それでは、ユングの自伝からの言葉で、今日は終わりにします。


理性はわれわれにあまりにも狭い境界を設定している。そして、われわれに既知のこと―それに対しても限界をもって―のみを受けいれしめ、既知の枠組の中で生きてゆくようにせしめる。
それは、ちょうど、われわれが生命がどの程度の範囲までであるかを確信しているのと同様で
ある。
実際のところ、われわれは毎日毎日、意識の限界をこえて生きている。
つまり、それに気づいていないが、われわれの中で無意識の生命もまた、続いているのである。


心の一部は、時空の法則に従わないという徴候がある。

顕在的な世界の背後にある異なった体系をもつ世界の存在の可能性は、避けることのできない問題となり、われわれの世界は、その時間、空間、因果律と共に、その背後あるいは、下に存在する他の規範によるものと関係している事実に直面しなければならない。





奇人変人ノススメ




昭和から平成にかけての時代をつぶさに見、風刺してきた、こんな人生、送ろうと思ったって
なかなか送れない。
その結果水木さんが得たのが「人生におけるけたはずれの経験値」である。
                                              【大泉実成(編者)】



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前回記事を書いたのが秋ですから、年末年始どころか、季節をひとつ飛び越してしまった感じですが、
その間に、とてもとても残念なニュースが飛び込んできました。
昨年11月末の 水木しげるさん の訃報です。

「心の有り様」の記事の続きもずっと書きたいと思っていたのですが(必ず書きます)、
でもやはり、今日は私の尊敬する水木しげるさんについて、お悔やみの気持ちも込めて、
"私の勝手な考えと思い"を綴っていきたいと思います。



ご逝去の一報を目にして、胸に込み上げてきたのは、
「ああ、これでまた、自己(Self)の体験者である方がひとり、お亡くなりになった・・・。」
という、何とも言えない寂しい気持ちでした。

もちろん、面識などあろうはずもない水木しげるさんに、私が敬意を込めた関心を持つようになった経緯は、5年以上も前にこのブログで書いたとおりです。

「ゲゲゲの女房」
「妖怪とは人の心の中にいる」
目には見えないもの
無為に過ごす


「妖怪とは人の心の中にいる」の中で、
「ご自分の深いところとのパイプを、水木しげるさんも(もしかしたら)持っていらっしゃるのかも
しれません・・・。」
と、当時書いたのですが、その後、水木しげるさんが残された"名言"を知るうちに、その思いは、
私の中で確信になっていきました。

また、ある番組を通じて知った、
水木しげるさんが出征先の現地で「ぬりかべ」に"命を助けて"もらった体験、
幼少期にも"妖怪を見た"ことがあるというエピソードや、
(それらの幻視は、水木しげるさんにとっては"現実"だったはずです)

そして、以前の記事でも少し書きましたが、戦争の混乱時、死を強く意識せざるを得ない中で、
ゲーテを始めとする哲学書や聖書、仏教書をむさぼるように読み、「生死」について真剣に
"悩み、考えられた"こと。

何より、実際に戦地に赴かれ、想像を絶する凄惨な状況を生きぬかれたその"ご体験"。


水木しげるさんのこのような"けたはずれの人生経験"や、残された"名言"を知るたびに、
私にとっての水木しげるさん像は、ご自身がそうおっしゃられたとおり、
「漫画家」から、漫画という表現を用いられた「哲学者」に変わってしまったのです。


わたしゃ、あんた、ベビィのころから哲学者でしたよ。

マンガ家というふうに見ると、水木さんの正体はわからんです。
マンガは、生活の手段であり、表現の手段なんです。
                                            





漫画を描くことを通じて、自分が"何をしているのか"・・・。

目に見えないものが、神から妖怪にいたるまで、どのようにつながってるか、目に見える形で、
レンガのように積み重ねていかないとならんわけです。

目に見えないものを形にするのはアボリジニと水木さんです。
あとはあんまりがんばっとらんです。
せっかく精霊たちが自分の形を欲しがっとるのに。

私は漫画を描くときに、半ば無意識になるわけです。
だから、何か外側の力に描かされているという感じが半分以上あるんです。
ただ、それを描くことによって非常に充実感があります。

私はいつも、私の書いたものの中に、いわゆる"霊"がふくまれているわけなのだが、
誰もそれに気づいてくれないので、不思議に思っている。



"偶然"のことも・・・。

水木さんが考えているよりも、偶然のほうが賢かったです。
偶然のほうが賢いんですよ、人間が考えているより(笑)。



"夢"のことも・・・。

いや、我々は夢の世界(無意識)からやってきて夢の世界に還る存在にすぎない。
夢の世界が故郷であり実在なのだ。いまは人間の世界に生きまた故郷にかえっていく。

夢現っていうのがあるようですね。
夢のときに明快な判断が与えられたりする。
夢は三分の一ぐらい現実に入ってるんじゃないでしょうか。

セノイ族は"夢"について、かなりくわしい民族らしいが、なんとそこに、ものすごく妖怪が
いたのには驚いた。
夢や無意識の状態というのは、精霊を感じる力が、覚醒時の五倍もあるらしい。

(前略)霊的なもの、神との交流点だと私は考えています。
(中略)夢で伝授されるんですよ。



"無為"の意味も・・・。

努力は、人を裏切る。
少年よ がんばるなかれ。
あわてずにゆっくりやれ。
なまけ者になりなさい。

("自己"を信じきることができないかぎり本当の実践は不可能です。安易な真似事はもちろん、ただの怠け者では、その先に待ち受けているものは失敗や転落です。「自然な流れに委ねる」)


そして"無意識"についても・・・。

(前略)賢くなってきて、いろんなことに気づくようになってきた。
・・・・・・人間は、無意識から生まれてきて、気がついてみると、自分があるでしょう。
そしてまた無意識にかえっていくという感じでしょう。
無意識から生まれて・・・・・・また無意識に・・・・・・
そしてまた無意識から生まれて来るわけで・・・・・・
だから子供が無意識から気がついた時は、自分があるでしょう。
さらにまた無意識に帰って・・・・・・そして無意識からまた生まれる・・・・・・。



水木しげるさんは、すべて"知っておられた"のだとしか思えません。
だからやっぱり、そのご正体は哲学者。
しかも"実践"を伴って生き抜かれた、ホンモノの哲学者(philosopher)。


闇も光も体験されたであろうその人生は、まさに、
「神から妖怪にいたるまで、どのようにつながっているか」
をご自身で体得された、"自己実現"の歩みであったのだろうと、私にはそう思えるのです。




そして、体得者の水木しげるさんは、このような言葉も残していらっしゃいます。


(自分の幼年時を振り返って)
それにしても、ベビィのころから変人だった。

水木サンが長年にわたって古今東西の奇人変人を研究した結果、彼らには幸福な人が
多いことがわかりました。

さあ、あなたも、奇人変人になりましょう。ワッハッハ。



私は幸せのことしか考えないからよかったのです。
今の人々は、わざと幸せにならないよう努力している。



生きている以上、「幸福」を求めない人はまずいないと思いますが、だからこそ、水木さんの言葉が
意味していることは何なのか。

なにより、水木さんご自身の人生の軌跡そのものが、私たちに何を物語ってくれているのか。

大マジメに"変人"を目指してみるのも、充分価値があることだという気がします。



(仮面を買いながら)
同じものはいらない。
同じものはいらない。
他人と同じような仮面を被っていたら、安全だし、安心です。
でもそれでは、"奇人変人"にはなれません。



意識という「常識」の世界で、自覚して"奇人変人"を生きることは、
その覚悟や勇気を持つことを必然的に求められるようになるはずです。

「出る杭は打たれる」のは世の常ですし、"変わった人"には、色々と風当たりも強くなって
くるのかもしれません。




でも、水木さんは、様々な困難にも妥協することなく「自分だけの道」を切り開かれました。

「誰が何と言おうと」、"自己を生きる"ことを貫かれたのだと思います。


(奇人変人について)
こうした人たちには、好奇心の塊のような、わが道を狂信的なまでに追及している人が多い。
つまり、誰が何と言おうと、強い気持ちで、わがままに自分の楽しみを追い求めているのです。
だから幸せなのです。






西田幾多郎や夏目漱石も、同様の「幸福論」を語っています。


真理を知るというのは大なる自己に従うのである、大なる自己の実現である。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って幸福となるのである。                           
                                                【西田幾多郎】


我々は他が自己の幸福のために、己れの個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。
                                                 【夏目漱石】 
(夏目漱石のこの言葉は逆説的に、自己実現に伴う苦難を彷彿させます)



すべて、ユング派でいうところの「個性化」、「自己実現」の生き方です。






長い自我の旅を終えられ、ご自身がおっしゃられていたとおり、
「無意識から生まれてきて、そしてまた無意識にかえっていかれた」、水木しげるさん。

一ファンとして、たった一度でもいいからお会いしたかったです・・・。


心より、こころより、ご冥福をお祈り申し上げます。




【引用文献】
水木 しげる 『水木サンの迷言366日 (幻冬舎文庫) [文庫] 幻冬舎(2010-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
夏目漱石 『私の個人主義 (講談社学術文庫) [文庫] 』 講談社(1978-08-08)


壁の向こう

今日は全くの思いつきで書きはじめています。
(ので、前回記事に続く内容ではありません。それはまた後日きちんと書くつもりです。)

先日、今公開されている、『進撃の巨人(後編)』を観てきました。
前編も合わせてこの実写版の映画には、原作との相違点など、賛否両論、様々な評価が
なされているようですが、私見としては、少なくとも後編のシキシマ隊長のセリフには、
いくつかピピッと反応してしまうものがありました。
(映画の端々に"神話" が盛り込まれていた気がします・・・)


私は今春初めて、原作のコミックをレンタルで10巻ほど一気に借りて読んでいました。
(都合上、実はそこで読むのは止まってしまっていて、続きを読んでいないので未だ
ストーリー全体を把握しきれていないのですが・・・。でも、折を見て必ず読み進めていこう
と思っています。)

この作品の存在自体は、数年前にどこからか見聞きして知ってはいたものの、実際に手に取って読む
機会はないままでした。

しかし、今年に入ってある時期に、立て続けに『進撃の巨人』に関する"偶然"が重なって、
「これは・・・」と感じ、不明瞭だけど"明確な動機づけ" を持って読むことに決めました。
(コミックをショップでレンタルしたこと自体、初めての体験です。でも、そこまでしても「読もう」と思えました。)

そして、そのような経緯で読んだ『進撃の巨人』は、やはり色々と深く考えさせられる内容で、
ヒットしているのも何だかうなずける気がしました。

私も含めて、「多くの人の心の琴線に触れるものがあるのだろうな」と実感したのです。



・強固な壁が「人」を守ってくれている。

・壁の向こうには、まともに戦っても太刀打ちできない、本能のままに生きている恐ろしい
「巨人たち」がいる。

・巨人と人は実は「同一の存在」である。


その他、細かい点を挙げればまだまだありますが、とにかく、この漫画を読み、実写版の映画で
壁が壊され、巨人たちに攻め込まれたあのシーンを目の当たりにしたとき、私の頭には、以前
このブログでも取り上げた
、河合隼雄先生の著書の一節とイメージ像が浮かんできていました。

これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。

無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。

彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。



上記の偉大な無意識像と巨人との違いは、表現としての"高低差"のみのような気がします。



しっかりとした壁に守られていたからこそ、"日常"を生きることができていたエレンたち「人間」は、
ある日突然、強固な壁が壊されたことで、雪崩のように攻め込んできた「巨人たち」に、
文字通り"飲み込まれ"、混乱、混沌の世界に一気に突き落とされてしまいました。

その「エレンたちの世界」を、私たちの「こころの世界」に置き換えてみると、作中の人物たちが
味わった恐怖のイメージが、じわじわと体感を伴って実際に身体に感じとれる気すらします。



意識の壁が大きく損傷し、無意識が次々となだれ込むようなことになってしまうと、
私たちはどのようになってしまうのか。

壁が壊される時は来るのか。それはいつなんどき訪れるのか。
壁の中だけが"世界"だと思っている限り、決して予測できるものではない。
それどころか、その危険性にすら気づけない。

壁の外には、大きな未知の世界ととてつもない存在が居ることを、やはり私たちも「知って」
おかなればならないのだと思います。
「ブタヤマさん」で居続けるのではあまりに無防備です)


そして、エレンやシキシマのように、たとえ「巨人になっても」同一化することなく、
「私」を保つことができる強さを、持っていなければならないのだと思います。



映画の中で、知恵の木の果実、"林檎"をかじっていたシキシマは、"壁の外に出てしまった"
自分の宿命に気づいていたのだと、彼自身のセリフからも感じとれました。
でもだからこそ、巨人になっても完全に飲み込まれることも、同一化することもなく、
「私」を保つことが出来ていたのでしょう。

一方、まだ巨人と自分の関係に気づけていなかったエレンが、「自分を失わなかった」のは、
あくまでも「天性」の為せる業だったような気がします。

そして何より、一番恐ろしいのは、「自覚のないままに巨人になってしまうこと」なのだと、
改めて強く感じました。




壁の外には、ただただ恐ろしい巨人たちが存在しているだけではなく、エレンたちが憧れた
未知の世界が広がっています。

だから、何も知らないままで一方的に攻め込まれるのではなく、河合隼雄先生の言葉どおり、
あくまでもこちら側から、自らの手で、自覚をしつつ門を開けて一歩を踏み出すことができれば、
その未知の世界から得られる尊いものも必ずあるのだと思います。

もちろんそれは、「人」として、戻るべき壁の中にきちんと帰ってこられればの話ではありますが。


「僕たちはいつか・・・外の世界を探検するんだろ? この壁の外のずっと遠くには・・・炎の水や
 氷の大地 砂の雪原が広がっている。
  壁から一歩外に出ればそこは地獄の世界なのに どうしてエレンは外の世界に行きたいと
  思ったの?」

「どうしてだって・・・?そんなの・・・決まってんだろ・・・ オレが!!   この世に生まれたからだ !!」

                                               『進撃の巨人』



まず自我を相当に強化し、その強い自我が自ら門を無意識の世界に対して開き、
自己との相互的な対決と協同を通じてこそ、自己実現の道を歩むことができる。
                                               【河合隼雄】




私は、原作の漫画からも、実写の映画からも、"それぞれに"受け取れるものがありました。

やはり「こころの世界」と、映像や絵や文字で表現される「物語の世界」はとても深く結びついていて、
その生き生きとした豊かなイメージをもって大事な役目を果たし、いろんなことを私たちに気づかせて
くれようとしているように思われます。

そして現代においては、その役割を「漫画」もきちんと請け負ってくれているんですね。

現在のマンガには、ユングのいう内向的感覚機能に頼って描かれているものがあると
感じられる。
つまり、現在において理解されなかったり、認められなかったりする心の機能をはたらかせる
ことによって、現代人にひとつの衝撃を与えているのである。
                                              【河合隼雄】


『巨人』はまさに衝撃でした・・・。




私の夢にも何度か"巨人"が登場したことがありますが(もちろん『進撃の巨人』を読む前からです)、
多分、そのような夢の体験談を持っている人は、決して少なくはないはずです。

誰の心の中にも住んでいる存在、それが巨人なのだと、私はそう感じています。




さて、最後にこちらのユングの著作を。
「巨人の恐怖」について、心理学的な考察を深めることができる名著です。
とても重厚な内容です。




心の有り様

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もう10月・・・。
中秋の名月も過ぎてしまい、日に日に秋の深まりを感じます。

今年の夏休みも、なかなか「静かに腰を据えて」とはなりませんでした。
ずっと、この場で書きたいことは色々と頭に浮かびつつも、結局は手つかず状態。
でも、今はそれで良し、と思うことにしています。


純粋にしたいことと、やっておかなければいけないと思うこと。

どちらも捨てがたい、それは決して強制ではなく自分自身の気持ちで、その自覚があってもなお、簡単に折り合いがつくものではありませんが、揺れた時には、「葛藤保持力」(河合隼雄先生が表現された深い意味の言葉です)の一言が、いつの頃からでしょうか、自然に頭に浮かんでくるようになりました。

そうすると、少し気持ちにゆとりが生まれてきて、多少なりとも"揺れていること自体"を受け入れられるようになります。
(おかげで記事の更新はさらに遅れますが・・・)



そもそも人間は、その根本的な存在原理として「矛盾を抱えた葛藤する生きもの」なのです。
そのことを理解できれば、「葛藤保持力」を実践する上での支えとなります。

人が「有る」こと自体が、大きな矛盾を抱えていることについては、河合隼雄先生はじめ、このブログでよく取り上げる賢者たちも、みな同様に指摘している哲学的な命題です。

生きている限り決して逃れることのできない矛盾の意味について知ることが出来れば、それは、
主観的な揺れを客観的に受け止める静かな力となり、沸き起こって来る情動を、無理に抑え込む
のではなく、かといって無暗に振り回されるのでもなく、「そのまま」にしておける、というコントロールが
(いくらかは)できるようになるのではないかと思います。

葛藤自体をすぐに、安易に、解消しようとせず、「そのまま」にして抱える。葛藤保持力。


 
人という存在がそもそも「矛盾」していることについては、「心の有り様」を熟慮することが不可欠と
なります。


意識というものがなければ実際上世界はない。

世界は心に意識され、反映され、表わされてはじめて存在する。
意識は存在の一条件なのである。                  
                                               
『人格の発展』

パラドキシカルな性質は、全体性が一部は人間の意識から、一部は無意識からなっていると
いう事実に照応している。                           
                                             『心理学と錬金術』
                                        
                                                【C・G・ユング】


明らかになることは、力の概念が二つの力のなかへ二重化されて、現実的になるということ、そしていかにしてそうなるかということである。
これら二つの力は、自分だけで存在するものとして、現に在る

悟性と物の内面という二つの極を結び合わせる媒介〔媒語〕は、力の展開された有であり、
この有は、これから後は、悟性自身にとり消え去るものである。
だから、この有がつまり現象なのである。

一般者は、物の内面をなすものであり、その内面は、二つの力のたわむれが自己自身に帰る
〔反照する〕ことである。
                                        
『精神現象学』 【ヘーゲル】


世界は絶対矛盾的自己同一
として、自己自身を超えたものにおいて自己同一を有ち、
我々は超越的一者に対することによって個物なる
が故に、我々は個物的なれ ばなるほど、
現実から現実へと動き行きながら、いつもこの現実の世界を超えて、反省的であり、思惟的で
あるのである。

                                 
『絶対矛盾的自己同一』  【西田幾多郎】


独坐大雄峯は根本的無分別の世界である。
絶対が相対にあるところがある。
が、無分別が分別になっただけではまだ十全でない。
ここに批判的なものがなくてはならぬ。
無分別と分別の世界の交加、相即ともいうべき、もう一つの働きが出なくては、
事の始末がつかぬ。
ここが丈すなわち打つ心であります。

(前略)
いわゆる阿轆轆地に転じなければならぬ。
そして一たび転ずれば必ず両頭に走るのです。   
転ずるというとき無分別が分別になる。
無分別が転ずれば両頭に走るようになるのだから、ここに是非善悪の世界が出て来る
有無の世界が出て来る。

                                     
 『無心ということ』 【鈴木大拙】
  
          
有名な哲学者、カントもこのように述べています。


私たちの認識がすべて経験をもってはじまるということについては、まったく疑いの余地は
ない。

私たちのうちに生じるいかなる認識も、時間的には経験に先立つものではなく、認識はすべて
経験をもってはじまるのである。
しかし私たちの認識がすべて経験をもってはじまるにしても、だからといって、私たちの認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。

                                             『純粋理性批判』 


夏目漱石も、(作品を読めば疑う余地はありませんが)「無意識」はもちろんのこと、「心の有り様」を
知っていたことがよく分かります。


普通に私と称しているのは客観的に世の中に実在しているものではなくして、ただ意識の連続
して行くものに便宜上私という名を与えたのであります。

(中略)すると煎じ詰めたところが私もなければ貴所方(あなたがた)もない。
あるものは、真にあるものは、ただ意識ばかりである。

通俗の考えを離れて物我の世界を見た所では、物が自分から独立して現存しているという事も
いえず、自分が物を離れて生存しているという事も申されない。
換言して見ると己を離れて物はない、また物を離れて己はないはずとなりますから、
いわゆる物我なるものは契合一致しなければならん訳になります。
(中略)だからただ明かに存在しているのは意識であります。
そうしてこの意識の連続を称して俗に命というのであります。

甲が去った後で、乙を意識するのであるから、乙を意識しているときは既に甲は意識しておらん
訳です。
それにもかかわらず甲と乙とを区別する事が出来るならば、明瞭なる乙の意識の下には、
比較的不明瞭かは知らぬが、やはり甲の意識が存在している
と見做さなければ
なりません。

意識の分化と統一とはこの根本的傾向から自然と発展して参ります。
向後どこまで分化と統一が行われるか殆んど想像がつかない。
                                                    
                                           『文芸の哲学的基礎』


人間は、無意識から意識を区別することで、自他を含めた"世界"を認知できるようになります。
意識が有るからこそ、無意識を知る〔反照する〕
ことも可能となります。

そして、この「心の有り様」が矛盾(二律背反)なのです。


意識は自己自身に対している。

それは、区別されていないものを区別することである。
言いかえれば、自己意識である。
私は私を私自身から区別する。
そして、そうしながら、区別されたものが区別されていないということが、そのまま私に対している
〔無媒介に私にとってある〕。

一つの自己意識がもう一つの自己意識に対しているのである。
こうして初めて、自己意識は事実上存在していることになる。

自己意識に対しては別の自己意識が在る。
つまり自己意識は自分の外に出てきているのである。

二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの真を確かめると
いうふうに規定されている。

                                         『精神現象学』 【ヘーゲル】


表現するものが表現せられるものであるということが知るということであり、自覚においては、
知るものと知られるものとが一であるのである。

何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、
自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。


表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、
真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。

                                         『デカルト哲学について』


精神は実在の統一作用であるが、統一の裏面には必ず矛盾衝突を伴う。

                                              
                                                『善の研究』

                                               【西田幾多郎】



カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、
人間というものがこういうものだから致し方ない
と思っています。

人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。
                            
                            
 『カウンセリングの実際問題』 【河合隼雄】

「心の有り様」を考えれば、 まさにそこに向き合うカウンセリングについても、一筋縄ではいかない
ことは「致し方ない」のだと納得できます。




日常の様々な場面で大小の葛藤が生じるのは人の世の常だと思いますが、その葛藤を
"とりあえず"ですぐに解消しようとするのではなく、「保持する意味」については、今回は下記の引用に留めることにして、次の記事で改めて触れていきたいと思います。



悩みや問題があるのが問題なのではなくて、問題があるのにちゃんと悩んだり迷ったりしない
ことが
問題なんです。
迷いを持ちこたえる力は大事です。                                  
                                   『こころの子育て』 【河合隼雄】


個性化プロセスによって私が意味するのは(中略)、二つの基本的な心的事実の間の
葛藤から
生まれてくる、発展の過程、ないしは経過である。

                                            【C・G・ユング】
                                              

衝突矛盾のある処に精神あり、精神のある処には矛盾衝突がある。

実在の統一作用なる我々の精神が自分を意識するのは、その統一が活動し居る時ではなく、
この衝突の際においてである。

分裂や反省の背後には更に深遠なる統一の可能性を含んでいる。


我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、自己が大きくなり客観的自然と
一致するに従って幸福となる
のである。


                                    『善の研究』 【西田幾多郎】



【参考文献】
アンソニー ストー 『エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学 [単行本]』 創元社(1997-02)
C・G・ユング 『心理学と錬金術 (2) [単行本]』 人文書院(1976-10-01)
G.W.F.ヘーゲル 『 精神現象学 (上) (平凡社ライブラリー (200)) [新書]』 平凡社(1997-06)
西田幾多郎 『絶対矛盾的自己同一 [Kindle版] 』(2012-10-01)
鈴木大拙 『無心ということ (角川ソフィア文庫) [文庫] 』  角川学芸出版(2007-09-22)
竹内 昭 『哲学案内 [単行本] 』 梓出版社(2004-04)   
夏目漱石 『漱石文芸論集 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店 (1986-05-16)
西田幾多郎 『デカルト哲学について [Kindle版]』(2012-10-03)
西田幾多郎 『善の研究 (岩波文庫) [文庫]』 岩波書店(1979-10)
河合隼雄 『カウンセリングの実際問題 [単行本]』 誠信書房(1970-08-10)
河合隼雄 『Q&Aこころの子育て―誕生から思春期までの48章 (朝日文庫) [文庫]』 朝日新聞社
 (2001-09)


人をつくる愛着

mother and child by gustav klimt
mother and child by gustav klimt./Kim+5

今日も『Dr.倫太郎』絡みです。
こころの病がテーマのドラマですから、当然ながら、あちらこちらに引っかかりどころ満載です。
(自分なりに咀嚼して)毎回、色んな意味で学べる点があります。


8話では、母親に「あんた、もう必要なくなった」と別れを告げられた明良が、「私を捨てないで」と激しく取り乱すシーンがありました。
そして感情のコントロールが利かなくなった夢乃(
明良)は、倫太郎の家に無断で入り込みお金を
探して荒らすという、常軌を逸した行動にまで及んでしまいました。

明良と夢乃という、分離した両方の人格が表に出てきてしまっている「解離性同一性障害」の根底に
あるものが、幼少期から何度となく繰り返された母親に置き去りにされる体験、大きな不安感に
あることが、はっきりと示された場面でした。



一方、そのひとつ前の7話は、明良親子とは対照的な、看護師の薫母子の心温まる物語でした。

息子の深也くんが、倫太郎の診察室で夢乃が散らかした箱庭アイテムの動物たちを並べるシーン。
どの動物も、親子対で一列に並べられていました。

そして、深也くんが外のベンチで、ピンクの象のおもちゃで遊んでいるところへ明良が来るシーン。
話しかけられた深也が指し示した草むらの先には、お母さん象が置かれていました。
小象が遊んでいる少し離れた場所から、ちゃんとお母さん象がその様子を見守っていて、そこには
「安心」がありました。


その他にも、倫太郎と薫の会話や、親子で倒れた自転車を起こすシーン、検査の申し出があったときの薫の(自身と)深也くんへの向き合い方など、全ての場面で、「明良親子」とはまさに相反する
母子関係が描かれていたように思います。

深也の検査が終わった後、倫太郎と薫が深也くんを見守りながら語り合っているシーン。
そこでも、深也くんはひとりで、倫太郎の診察室の外で動物のアイテムをベンチの上に並べていましたが、その親子の動物たちは全て、「きちんと向き合って」いました。

見えない心の部分での薫親子の関係性が、言語ではないところで(だからこそ)見事に表現されているその様子を見た倫太郎が、優しく微笑みながら「深也くんはしっかり成長しています」といった
言葉には、薫への敬意が含まれていたように私は感じました。



このドラマで、明良の解離性同一性障害の原因となったのが、母娘の関係性にあると設定されていることは誰の目にも明らかで、それはかなり「ドラマティック」な描かれ方をしていますし、明良の置かれた境遇は確かに“特殊”な例なのかもしれません。

しかし、根本の部分。
「親子の愛着の問題」として捉えた場合には、観ている側にとっても決して「他人事」ではない、
普遍的な意味を持ってくるのではないでしょうか。

従来、愛着の問題は、子どもの問題、それも特殊で悲惨な家庭環境で育った子どもの問題として扱われることが多かった。
しかし、近年は、一般の子どもにも当てはまるだけでなく、大人にも広くみられる問題だと
考えられるようになっている。

愛着の問題は、一部の人の特別な問題ではない。
ほとんどの人に広く当てはまる問題でもある。

愛着の安定性や様式は、対人関係のスタイルや親密さの求め方だけでなく、その人の生き方や関心、恋愛や子育ての仕方、ストレスに対する耐性や生涯の健康にまで関わっている。
意識しないところで、知らずしらずその人の心理と行動を支配しているのである。
                                        【岡田尊司】


「愛着障害」が人格形成に及ぼすマイナス面だけではなく「創造性」という部分、両義的な意味に
きちんと視点を充て、また克服のプロセスや人格成長についてなどにも触れられていて、
厳しさのみではなく希望も持てる内容なので、「自分や家族を振り返る」きっかけとしては
とても良い本だと思います。

(実際、よく売れているようです)


まさに、明良を思わせるこんな一文もありました。
どんな理不尽な仕打ちをされようと、子どもは親を愛し、求めようとする。
そのため、深く傷つきながらも、親を責めるのではなく、むしろ自分を責める方向に気持ちが
向かう。

自分がダメな子だから親は愛してくれないのだ―そう考えて納得しようとする。

「納得しようと」、頑張って自分の気持ちを抑えて抑えて、その挙句に出てきたのが、
夢乃という影の人格。
「私が明良を守っているのだ」と夢乃は言っていましたが、確かに、自分を守るためには致し方なかったのでしょう。

ひどく乖離してしまった二つの人格を統合していくことが、明良と夢乃の治療になってくるわけですが、実は私たちも、通常は無意識内に留まってくれている「もうひとり(いえ複数)の私」を、
自我の私に統合していくことで、こころの成長をはかることができます。




少し脱線してしまいましたが、もう一冊、こちらも同じく岡田尊司氏の著書です。


明良は解離性同一性障害ですが、近年では、この「境界性パーソナリティ障害」が、“時代の病”として急増しているようです。

ドラマの中でも、倫太郎に激しく執着する人物像として描かれて(登場して)いましたが、
このこころの病にも「愛着」の問題が強く絡んでいます。


子どもの数が減り、一人ひとりの子どもが、手厚く大切に育てられているはずの現代において、愛着の問題を抱えた子どもだけでなく、大人までも増えているという現実がある。

比較的マイルドな愛着の問題は、愛着スタイルが確立するとともに、自立への圧力が高まる
青年期以降にさまざまなトラブルとなって現れ始める。


大人にひそむ愛着障害の増加を間接的に示しているのは、たとえば、境界性パーソナリティ障害の増加であるし、依存症や過食症の増加である。
これらは、愛着不安の強いタイプの愛着障害が増えていることを示唆していると考えられる。
                                         『愛着障害』


『愛着障害』を読んで何か興味が湧いた方は、さらに『境界性パーソナリティ障害』に目を通されることで、更なる気づきや理解が得られる点があろうかと思います。

境界性パーソナリティ障害だけではなく他のパーソナリティ障害など、こころの病には併存する症状がみられる場合が少なくないので、その根底にあるものを知ることはもちろん、回復の過程についても、共通項として学べる内容が含まれていて理解が深まります。

境界性パーソナリティ障害は、一見、特殊で狭い問題のようでいて、実際は、さまざまな領域の幅広い問題に通じる普遍的なテーマを含んでいることに気づかれるだろう。

まさに、人が生きるとは何か、何によってそれが可能になるのかという、人間にとってのもっとも根本的な問題を突きつけてもいる。

                            『境界性パーソナリティ障害』




こちらは専門的にはなりますが、河合隼雄先生をはじめとする、錚々たる心理専門の先生方が執筆に加わっておられ非常に重厚な内容の著作です。






河合隼雄先生は境界性パーソナリティ障害という“時代の病”が、現代人の意識の拡大に関連して
いると、大きな視点から指摘されておられます。


(前略)必要なことは、片子の人間としての存在も、鬼としての存在も両方を許容すべきでは
ないだろうか。


近代自我を拒否するのではないが、それをよしとして、自我の強化のみを(中略)目標にするのではなく、近代自我とは異なる視点から−(中略)ものごとを見ようと試みることではないだろうか。

「現代に生きる」人間、あるいは、せめて生きようとしている人間であることを自覚すると、境界例の人たちが、そのためにわれわれに教えてくれる−教えるというよりは、きたえるというほうが
いいかもしれぬが−ことがわかるのである。


現代人は相当な意識の拡大を強いられており、それはそれ相当の苦しみを必要とするもので
ある。



半鬼半人という表現がどうしても気にいらない人に対しては、われわれは人間ではあるが、
鬼の世界との接触を保ち、それを切って棄ててしまわないように努力すべきだ、
と言い換えてもいいだろう。

そのような意識の拡大は現代人すべての課題であると思うのである。

                                           【河合隼雄】


「“時代の病”がわれわれに教えてくれる」こととは、
安易に片方に偏ってしまわないこと、「半鬼半人」のしんどさを抱え続けること、
「海と陸」の両方に立ち続けること、「自己も自我も」実現すること。


「中庸を生きる」意味を知り、それを自分のこととして自覚することにあるようです。

そしてそれは、「現代の子育て」の問題にも通じています。
親の生き方や子どもへの接し方が簡単に「偏ってしまうこと」によって、その影響を受けた子どもが、
否応なく境界に立たされる苦しみを抱えてしまうという、皮肉な結果につながる可能性があることが
示唆されています。




おわりに−愛着を軽視してきた合理主義社会の破綻
 
愛着障害は、多くの子どもだけでなく、大人にもひそんで、その行動を知らずしらず左右し、ときには自らを損なう危険な方向に、人生をゆがめている。
その人のもつ愛着スタイルは、対人関係だけでなく、生き方の根本の部分を含む、
さまざまな面に影響している。

それほど重要な問題であるにもかかわらず、一般の人だけでなく、専門家の認識も非常に
遅れており、むしろ、愛着の問題を軽視してきたとも言えるのである。


すなわち、なぜ、手厚く子どもを育ててきたはずの現代社会で愛着障害をベースとする問題が
増え続けるのか、ということにも関わってくる。


この数十年、社会環境が、愛着を守るよりも、それを軽視し、損なう方向に変化してきたということに尽きるのである。

愛着という要素は、効率主義に反するものとして、ないがしろにされ続けてきたのである。
合理的な考え方からすると、古臭く、本能的で、原始的とも言える仕組みは、もっと効率的で、
近代的な仕組みに取って代わられるべきものとみなされたのだ。



                                             『愛着障害』




女性の社会進出は、たいへんにけっこうです。それはどんどんやっていただいてかまいません。
それをやりながら、自分の子どもの本質的な幸福というものを考えてもらえたらいいわけです。
                                        【河合隼雄】




母性の機能を、今日は意識したうえで行わなければならない。すなわち、「母性の意識化」で
ある。

                                      【河合隼雄】




「自分自身を生きつつ、子どもとの愛着も固めていくこと」に、マニュアルも、合理的で効率的な方法もなく、道なき道を掻き分けてとにかくやっていくしかないようです。

その意味と大変さを自覚することがなにより大切で、迷いながらも真正面からそこにきちんと取り組む重要性を、実際の家庭問題に取り組んでこられた心理エキスパートの先生方が、もう何年も前から、
それぞれの言葉で伝えようとされているのだと、新しい表紙を開くたびに感じとれます。




倫太郎や明良がずっと向き合っている(引きずっている)のも、結局はその土台の部分ですが、
次回最終回では、ひとつのトンネルの出口が垣間見えるようなストーリーになっていればいいなと
思います。



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