心とこころを響かせて

ユング派分析家の教育分析を受けるカウンセラーが、心理学(主にユング心理学)をベースに「こころ」について、そしてツインズママとしての日常についてなどを書き綴っています。

心理学にも“萌えキャラ”?

先日、ある紙面からこんな“タイトルと背景のイラスト”が目に飛び込んできました。


新版 精神分析入門 上 (角川ソフィア文庫)
新版 精神分析入門 下 (角川ソフィア文庫)
新版 精神分析入門 上 (角川ソフィア文庫)  
新版 精神分析入門 下 (角川ソフィア文庫)


別の出版社から出ている、同じ、フロイトの「精神分析入門(上下巻)」の
表紙はこちら。


精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)精神分析入門 下 (新潮文庫 フ 7-4)
精神分析入門 (上巻) (新潮文庫)
精神分析入門 下 (新潮文庫 フ 7-4)



ちなみに、私はどちらの著書も実際に手に取ったことはないので、
“中身”の訳文について書評を期待される方は、これ以上読まないでください(笑)。
(既に上記の本を読まれた方がおられましたら、逆にぜひレビューをお願いします)


あくまでも私が興味をひかれたのは、フロイトの「精神分析入門」という、
一般的には固いイメージのタイトル本の表紙には不釣り合い?とも思える、
いわゆる“萌えキャラ”的な、可愛くて美しい男女のイラストが描かれていた点です。

もちろんこれ、売り上げを伸ばすための戦略として、
出版社が意図的におこなっているわけですが、
確かに「おっ!?」と気を引かれますよね。

「“精神分析”だなんて、何だか固くて難しくて怪しそう・・・。」
というイメージを持っておられる方も、まずは本を手に取ってみようという気に
なるのではないでしょうか。

そして、その中のページをめくってみると、
「夢の顕在内容と潜在思想」などの言葉が並んでいるそうです。


夢やおとぎ話に出てくる、うっとりしてしまうほどの素敵な異性。
ユング心理学でいうところの、
男性であればアニマであり、女性であればアニムスという、
誰にでも存在する無意識内の重要な彼や彼女。

フロイトの本なのだけれど、表紙の“萌えキャラ”の二人が、
どうもそのお姫様や王子様像とも重なって見えてしまい、
上下本に対になって描かれている点にも、何かザワめいたものを
感じてしまうのは、私だけでしょうか・・・。


○●○●○●○●○

早速アマゾンで購入してみようかと検索したのですが、
こんな本も見つけてしまいました。

世界神話事典 創世神話と英雄伝説 (角川ソフィア文庫)
世界神話事典 創世神話と英雄伝説 (角川ソフィア文庫)
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気の多い私。
迷った挙句、結局この神話事典のほうを購入してしまいました。
楽しい内容がありましたら、またブログで綴りたいと思います。


最後に余談として。
今日ご紹介した「角川ソフィア文庫」からは、デカルトの「方法序説」や、
アランの「幸福論」といった哲学書も、“萌えキャラ”表紙で出版されているそうです。
心理学や哲学をはじめ、古典文学を扱っている文庫だそうですが、
その名称に使われている“ソフィア”とはギリシア語で「叡智」を意味し、
あの上智大学の「上智」もここから名づけられている、とても意味深い言葉です。
そして、ユングが大変興味を持ったといわれている、「グノーシス神話」に出てくる、
転落した女神の名前でもあります。
私たちのこころや精神というものに深いつながりのある“ソフィア”についても、
いつか書いてみたいと思っています。

                 
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「知らないこと」を知る


Underground /


5月に入りました。そしてGW。
ゆっくりと休暇を取っていらっしゃる方、「いやいや、仕事だよ」という方も
いらっしゃるでしょう。

記したいテーマはたくさんあるにも関わらず、更新が滞っているこのブログ。
「せめて1カ月に一度は」と思っていたのに、とうとう4月はひとつも記事を
書きませんでした。

実はツインズが今春から小学生になり、私も生活のペースが変わりました。
子どもの成長は、振り返ってみると本当に早いなと感じます。
彼らの成長、変化に合わせて、私も色んな刺激を受けながら、親としての成長も
促されているような気がしています。
河合隼雄さん、そして佳代先生も、
「(親が)子どもからもらうものは、どれほど深くて大きいか」というようなことを
述べられていましたが、本当にそうだなと思います。
深いレベルでの癒しを与えてくれる存在です・・・。

私は一時期、子供を授かることは無理なのかなと諦めかけていたことが
あるのですが、今となっては、産まれてきてくれるべき「時」に、
ちゃんと彼らと出会えたような気がしています。

ユングや河合隼雄さんは「時」についても述べられていますが、やはり私たちは、
「カイロス」という見えない時間においても、生かされているのだと感じます。



プライベートな話題はさておき、今日の本題です。

― ソクラテスの「無知の知」
― 孔子の「知るを知るとなし 知らざるを知らずとなす これ知るなり」

洋の東西に伝わる有名な格言です。

簡単に言うと、
「“知らないことを”知っている。」 という意味です。

でも、「自分にはまだまだ知らないことがあるなー」と謙遜することが大事。
というだけではない、これらの言葉にも奥深い意味が秘められているようです。
(格言とは、そもそも字義どおりに受け取るべきものではないような気がします)


賢者たちが述べたこれら「知る」の意味とは、
自我レベルでの知識や技術の習得度についてではなく、
自我の“私”では把握・説明しきれない何か大きなもの。
それをはっきりと認めるということを指しているのではないでしょうか。

深層心理学的にいえば、それは「自我と無意識」の関係性であり、
前回記事に書いた、「外界、内界における“地動説”をはっきりと認識する」
ということと、同じような意味なのではないかと、私には考えられます。


私たち人間が、全てを掌握しそれを意のままにコントロールできるとするのは、
やはり大変な傲慢であり、そのような考え方には危険な「落とし穴」が潜んでいると
思われます。
そして、それは見えにくい気づきにくい「落とし穴」だけに、
いつなんどき足を取られてしまうかは、非常に予測しにくいわけです。

見える景色にばかり目を取られていると、ある日突然、
隠されていた穴にストンと足を取られ、体ごと捉えられてしまうかもしれない。

「知っている」、見える空間にあるものだけが全てではない。
日頃は全く見えていない地下のような、「知らない」何かがあることを、
私たちは「知らなければならない」。

それをはっきりと自覚することこそ、
「無知の知」
「知るを知るとなし 知らざるを知らずとなす これ知るなり」
なのではないでしょうか。


もうひと月前になりますが、深夜たまたま目にしたテレビ番組がありました。
それは、3.11の大震災の約一年前に放送されていたらしい、
地震に関する番組の再放送でした。

その番組の終盤あたりで、
【メキシコ自治国立大学 シーナ・ロムニッツ名誉教授】が語られていた、
次の言葉が、とても印象に残りました。

「地震は毎回、姿かたちを変えて襲ってきます。
私たちは新たな震災に対して備えていかなければなりません。
大切なのは、自然の力に対して畏敬の念を抱き、
いつも謙虚さを忘れないことなのです
。」

『NHKスペシャル MEGAQUAKE 巨大地震 第三回「長周期地震動の脅威」』 
(NHK総合 4/1(日)AM0:30〜1:20)


地下や宇宙も含めた大自然という外側の世界にも、無意識という内側の世界にも、
我々には計り知れない未知の領域があるとまずは自覚し、
その自分より大きな何かに頭を垂れるような姿勢をどこかに持っておくことは、
やはりとても大切なことなのではないかと思います。

「無知の知」を常に意識しておくこと。
過去の東西の偉人たちが残した言葉に含まれるその深い意味に、
私たちは真正面から向き合わなければいけない時代に
来ているのかもしれません。


○●○●○●○●○

これは、河合隼雄さんがご自身の講義でも用いられておられたそうで、
お気に入りだったという絵本です。
私も子どもたちと一緒に読みました。

目の前を飛ぶチョウチョ取りに夢中で、背後から次々と迫り来る大きな存在に、
「ブタヤマさん」は全く気付いていません。
見えていないもの、意識できていないものを知ることは、
やはり簡単ではないのかもしれませんね・・・。

それにしても、「ブタヤマさん」のすぐ後ろに近づいている生き物たちは、
通常のそれと比べたらとてつもなく大きいのです。
「普通の生き物」ではない感じが、よく出ているなと思います。

ブタヤマさんたらブタヤマさん (えほんのもり 9)
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心と哲学も「太陽中心説」


solar_system /

今月始め、NHKのある番組を視聴しました。
それは
梅原猛さんがご出演され、「3.11」の東日本大震災について、
哲学者としてのお立場からお話になるというもので、
期待どおり、色々と考えさせられるとても深い内容でした。

ちなみに、梅原猛さんのお名前は、
河合隼雄さんの著作を読み進める中で知り得ていました。
生前の河合隼雄さんとは、哲学者と心理学者としての交流がおありなったようで、
それが、番組を見てみようと私が思った動機となりました。

さて、その内容については、あれもこれもと気になる点、
勉強になるお話がいくつもあったのですが、
その中でも私が一番興味をそそられたことはつぎのようなものでした。

梅原猛さんはこのように述べられていました。

□■□■□■□■□

「現代の科学技術の文明背後には、
自然を意のままに支配しようという人間中心の西洋哲学がある。」

とした上で、

「(過去、)自然科学において、天動説は誤りで地動説になった。
(でも)哲学においては、天動説じゃないかと。
自然科学は地動説を取ったけれど、
近代哲学は寧ろ天動説を唱えたのではないかと。
もう一度哲学においても、地動説に戻さなあかんという、
そういう太陽の恩恵を考える、そういう哲学になるべきだと思うんだけどね。」 

3.11の大震災を契機に、梅原猛さんは哲学者として、
「自然を意のままに支配しようという人間中心の」西洋哲学や合理主義の限界を、
改めて思い知らされたとのことでした。


『こころの時代〜宗教・人生〜 シリーズ 私にとっての「3.11」』 (NHK Eテレ 3/4(日))

□■□■□■□■□


「地動説」とはご存じのとおり、太陽の周りを地球が公転しているという、
現代では常識となっている天文学説です。
「太陽中心説」ともいいます。

自然科学においては、コペルニクスにおいて地動説が定説となっていきました。

しかし近代哲学においては「天動説」であり続け、人類は科学技術を発達させ、
「人間中心」の考え方により、自然すら支配下に置こうとしてきた。
しかしその自然とは、穏やかに恵みを与えてくれる存在であると同時に、
もう一方では、非常に恐ろしい面を隠し持っている。
そして、その脅威を見せつけられた時、
人は自らの存在の脆弱さを思い知らされる。

梅原猛さんは、そのような人類全体の自然に対する驕りの危険性と限界について語り、


「今まで、自然を支配する道具として、科学技術が使われていた。
今度(これから)は、自然と共存できる科学技術に変貌する、
というふうに私は思いますね。」

とも言われていました。


私はその放送内容を聞きながら、心に関するユングの説も思い出し、
胸に深く響くものを感じていました。

次に挙げるのはユングの言葉です。
 
「自己が何か不合理なもの、定義不可能なものであって、
自我はそれに敵対するわけでも隷属しているわけでもなく、
それに依存しつつ、ちょうど太陽のまわりをまわる地球のように、
そのまわりをまわっていると感じ取られたとき、
個体化の目標は達せられたことになる。
・・・個体化された自我は、自らが、上位に位置する知られざる主体の
客体であると感じるようになる。」

ユングにおける心と体験世界 (南山大学学術叢書)


私たちは、現実の生き方、思想、という外界においても、
こころという内界においても、
やはり「太陽中心説」であると認識すべきなのではないかと思いました。

外界においても、内界においても、「私」が中心で絶対的な存在ではないとする
思想は重要なのではないのか。
「哲学において、地動説に戻さなあかん」ように、
心理学においても、地動説が広く認知されるべきなのではないかと、
私はそう思います。


最後に・・・。
西田幾多郎は『善の研究』にこのように書いています。

「意識の範囲は決していわゆる個人の中に限られておらぬ、
個人とは意識の中の一小体系にすぎない。
我々は普通に肉体生存を核とせる小体系を中心としているが、
もし、更に大なる意識体系を中軸として考えて見れば、
この大なる体系が自己であり、その発展が自己の意思実現である。」

哲学者の中にも、地動説(太陽中心説)を唱えていた人物が
ちゃんといたんですよね。

また今度、続きを書きたいと思います・・・。


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無意識をコントロール・・・?


Storm Clouds /


「潜在意識をコントロールする」とか、「無意識を積極的に活用する」といった言葉を
たまに目にすることがあります。

私はそういった類いの“謳い文句”を見るたびに、どうしても違和感を覚えずにはいられません。

それは、私自身がユング派の分析を受ける中で、そしてそれ以前の体験も踏まえて、
われわれ人(自我)にできることはせいぜい、
「無意識に完全にコントロールされないようにするぐらいのこと」
だと、常に強く感じているからです。


そういえば、河合隼雄先生の『無意識の構造』という著書の中に、
ある男性の空想の中に現われた「無意識を象徴する像の図」が載っておりました。
(※興味のある方はぜひ、同書のP.41を直接ご覧になってみてください。)

このイメージ図は、自我と無意識の力関係が非常によく表現されているもので、
河合先生もこのように書かれていました。

「これ(無意識の像)を見ると、われわれもこの像のあまりにも偉大なことに圧倒されそうになる。」

「無意識界から顕現してきたこの像のとほうもない大きさは、彼(イメージを生み出した男性)に
畏怖の感情を体験させたに違いない。」

「彼がいかに意識的に合理的に生きることに大きい価値を見いだしてきたにしろ、
それは無意識の偉大さの前には、ただ怖れてひざまずくよりほかないのである。」

無意識の構造 (中公新書 (481))
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また、無意識という世界については、このように表現されています。

「(前略)ここにいう内界は、すなわち無意識界である。
それは内省可能な領域を指しているのではないことに注意しなくてはならない。
自己をみつめるとか、内界に目を向けるということで、自分の感情をあれこれ表現したり、
自分の心境をああでもない、こうでもないとひねくりまわすようなことをする人もあるが、
そのようなことを言っているのではない。
われわれが問題としている内界は、自我によってコントロールできない、あちらの世界なのである。
この世界の存在は自ら体験したものでないかぎり、おそらく解らないであろう。」  


無意識とは本当に、「畏怖(畏敬よりやはり“畏怖”という言葉がピッタリです)の念」を
持つべき存在であり、決して、軽んじたり侮ってはいけない相手だと思います。

ユング派では、無意識(特にSelf)は神的存在として位置づけられていますが、
この辺は一部の哲学者の思想とも通じています。
特に、過去にブログでも取り上げた西田幾多郎やヘーゲルのそれとユングの論には、
興味深い類似点が見出されます。


ここで、私が過去に見た夢の話に移りますが、
その内容は簡単に言うと、「黒くて巨大な蛇が出てきた」というものでした。
そして、分析の時に佳代先生との対話のなかで、どうもこの蛇はウロボロスで、
「無意識」の象徴として出てきたようだということが分かりました。

ちなみにその夢の中で、私は、
「特段大きな恐怖は感じなかったが、でもやはりそうすべきものとして、その大蛇から走って逃げて」
いました。
それはとても、「面と向かって対峙できるような相手」ではなかったのです。
前述した『無意識の構造』のあの無意識像のイメージと重なります。


私たちは、無意識というその存在と相手の偉大さをしっかりと意識して、
“あちらから”のメッセージにきちんと耳を傾け、せいぜい「自我をコントロール」することにより、
僅かながらに無意識にも影響を及ぼしていくことしかできないのではないでしょうか。

無意識は、私たち意識の「在り方」を見ていますから、その在り方によって、
あちらも態度を変えてくれるわけで、それが「意識から無意識への作用」となるわけです。

私たちが積極的に無意識に関われることはそれぐらいのことなのかもしれません・・・。
でも、「それぐらいのこと」でも、それを行う意義はとても大きいと思います。
確かユングが、
「無意識はその存在を認めてもらいたがっている。」と、どこかで書いていたと思います。

そして、そんな強大な無意識とやり取りをしていくとなると、
自我に一定の強さがないと危険さえ伴うわけです。
だから、佳代先生を始めとするユング派分析家の先生方は、その資格を得るためにまず、
ご自身が「300時間を超える分析を受ける」という、「無意識界を体験」しなければならないのです。
自分の他界を体験できていない人が、他人の無意識界への旅を安全にサポートすることは、
やはりできないのではないでしょうか。

前述した河合隼雄先生の言葉も、その点の重要さを表していると思います。
「この世界の存在は自ら体験したものでないかぎり、おそらく解らないであろう。」 


「無意識の偉大さを認め、それを敬う。」
まずはそれが大切だと思います。
それだけでも、無意識に不用意に飲み込まれる可能性は減ってくるはずです。

自我の思いどおりに無意識をコントロールできるぐらいなら、
様々な精神疾患でこれほどの人々が苦しむはずがない。
私はそう考えています。


□■□■□■□■□

母の体験を間近で見ていた私は、昔から、今では無意識と呼んでいる
“何か”をどこかで感じていたのかもしれません。
だから、誰に言われるまでもなく畏怖の念を抱かざるを得ないのも、
河合隼雄先生が書かれていることがすっと胸に入ってくるのも、
そして分析を受け始めるようになったことさえ、自然な流れのように思います。

     
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エナンティオドロミア(enantiodromia)


Green shoots(芽吹き) /


2012年の幕が開け、あっという間にひと月ほどが経ちました。
ブログを書くたびに思うのですが、日々が過ぎ去っていくのが本当に早い。
それだけ、やりたいこと、やらなければならないことがあるということは、有り難いことなのかもしれませんが・・・。

新年の挨拶には時期を逸してしまいましたが、改めまして、
超ゆっくりペースのこのブログに、いつもお越し下さっているみなさま。
感謝もこめて、今年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、では今日の本題です。
前回の記事で、「辛と幸」の漢字について書きましたが、
私は、この二文字の形が似ているというのは、「単なる」というだけではなく、
そこには、何か奥の深い「意味」も隠されているような気がしました。

ちなみに、私はこの二つの漢字の成り立ちについては全く知り得ていませんし、
そういった学術的な根拠については、(少なくともこの件については)正直あまり興味はありません。
(ので、調べてもいません・・・。)


とにかく、「辛と幸」の字が非常に似ているということを認識した時点で、
すぐに頭に浮かんできたのは、「エナンティオドロミア」という言葉でした。

「エナンティオドロミア」について、ユング派分析家で現大阪大学教授の老松克博先生は、
このように説明されておられます。

「『エナンティオドロミア』について説明しておく。
これは古代ギリシアの哲人、ヘラクレイトスの術語で、文字どおりには「逆転」「反転」を意味する。
万物の生々流転の原理を表わすもので、中国の陰陽思想に近い。
陰陽の言葉を用いて説明するならば、陰の極まるところおのずから陽が現われ、
陽の極まるところおのずから陰が現われる、ということである。
状況は極端になると反転する。
宇宙のいっさいは、そのようにして変転していく。
この原理は、心という宇宙で起こる諸現象にも当てはまる。
無意識は極端を嫌う。
意識のなかで偏りがひどくなってくると、反対のものが無意識からおのずと現われてきて補償しようとするのである。」

無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1
無意識と出会う ユング派のイメージ療法—アクティヴ・イマジネーションの理論と実践1



また、ユングがエナンティオドロミアの言葉を使って、このようなことも述べています。

「こころの無意識的な活動を組み立てている壮大な計画というものが、
われわれの理解をあまりにも超えているので、
どんな悪がエナンチオドロミアによって善に招くのに不要なのか、
そしてどんな善が悪にしばしばつながっていくのか、決して知りえないということである。
ヨハネが薦めた〈汝、霊を定めよ〉ということも、もっとも好意的にとったとしても、
事態が最終的にどうなるか、
注意深くそして根気よく待って見守るということにほかならない。」

エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学
エセンシャル・ユング―ユングが語るユング心理学


「どんな悪がエナンチオドロミアによって善に招くのに不要なのか
ということは、言い換えれば、
「どんな悪がエナンチオドロミアによって善に招くのに
必要なのか」
とも受け取れるのではないでしょうか。

そして、老松先生が説明されていた陰陽思想。
「陰の極まるところおのずから陽が現われ」。



辛い辛い状況の中では、人はなかなか未来の幸せを想像することはできません。
不安や絶望に苛まれて、一切の希望が打ち砕かれ、一筋の光すら見つけられないときもあるかもしれない。

でも、もしかしたら、その「陰が極ま」ったときにこそ、
「おのずから陽が現れて」くるのかもしれません。

「辛い」も、それが極まった時に、自然と「幸せ」につながっていく道が開けてくるのかもしれない。
だから二つの字が、意味は正反対なのにも関わらず、こんなに似ているのではないか。
そんな風に考えることができると、とても素敵だと思うのです。

星野富弘さんの、
「辛いという字がある。もう少しで、幸せになれそうな字である。」
という言葉が、真実味をおびてきませんか?

「辛い」渦中にいても、未来につながる望みが見出せそうですし、そうして望みを持つことができれば、
人は、力強く困難に立ち向かっていけるようになるのだと思います。

・・・未来のことはだれにも分かりません。
ユングが言うとおり、「善に招くのに不要な悪」もあるかもしれない。
辛いが必ず幸せにつながる保証はありませんが、でも投げ出さずに諦めずに、
「事態が最終的にどうなるか、注意深くそして根気よく待って見守る」
“エナンティオドロミア”が起るのを待つ価値は充分にあるのではないでしょうか。


今日は最後に、佳代先生が翻訳された『ミドル・パッセージ』から。
やっぱり“希望を持って”。

「激しい苦しみの中にある、たましいの暗闇にいる人にとって、(中略)
その痛みが自分にとってよいものであるなどというのは、非常に受け入れがたい真実である。
しかし、先へ向かう道は苦しみの中に見つけられるといってもよい。
人生は病ではないし、死は罰ではないのだから、そこには本来治療というものはない。
しかし、そこにはもっと意味のある、もっと豊かな人生へと向かう道があるのである。」

ミドル・パッセージ―生きる意味の再発見
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